ピアノ方丈記

音楽の彼岸にて【指の健康寿命を気遣いながら!】シニアのピアノ一人遊びの日々

ピアノ演奏の身体操作&メンタル面で参考になると思うサイト(20200917アップデート)

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過去にアップデートを続けてきた記事(下記リンク)の、最新版です。

身体操作&メンタル面で参考になると思うサイト(20190309アップデート) - おんがくの彼岸(ひがん)

前回の記事からの主な追加内容は、この文字色になっています。

 

2020年9月現在:

私が健康のために身体をほぐし始めて、丸3年が経ちました。 3年経った今、様々な良い効果を感じています。 現時点での私が悟ったことを3つの金言にしました:

 ① 左の問題は、右の問題。右の問題は、左の問題。(←政治のことじゃないよ、でも、政治もたぶんそうだろうね)

 ② 上の問題は、下の問題。下の問題は、上の問題。(←企業経営ではないよ、でも、会社もそうだね)

 ③ 前の問題は、後ろの問題。後ろの問題は、前の問題。(←時間のことじゃないよ、でも、人生も、今までも、これから先も、因果がつながりあっているね)

①②③をぜんぶ合わせて回すと、身体操作のみならず、この世のすべての問題の解決へのカギになる。 だって、私たちが生きているこの世は三次元だから。 物理学だね。 地球は丸くて、ちょっぴり傾いていて、今日も回りながら丸い軌道を進んでいる。

身体ほぐしの日々から、上記の金言①②③を合わせて回すコンセプトが頭に浮かびました。 これに、「良いことも、悪いことも、すべての物事には、加速度がついている」という、私が中学時代から40年ほど痛感している人生訓と合わせたものが、身体操作&メンタルに関する現時点での私の悟りです。

だから、「鍵盤を弾く手の形はこう」とか「小指はどうしろ親指はこうしろ」とか「腕の力を抜いて」とか「なんとか筋を意識してどうするこうする」などの、パーツに関する指示は、私にとっては意味がなくなりました。 というのは、上記のような悟りに入って心身ともに三昧(ざんまい。ゾーン、天国とも言う)の境地にある人が演奏すると、自然にそのようになるからです。 三昧や天国や極楽浄土は、フワフワと、柔らか~く、な~んにも考えていない、身も心も安らかに流れ動いている状態です。 身と心がそういう状態ではない人が、いくら指示どおりに悲愴に一生けん命やっても、うまくいかない、と思います。 なぜなら、悲愴に一生けん命になると、心ばかりか身まで凝り固まってしまうからです。 そしてその悲しくも滑稽なプロセスは:うまくいかない⇒先生からいつも同じ注意⇒落胆⇒家で悲愴に練習⇒それでもできなくて焦る⇒レッスンで先生の前で緊張しまくって演奏してやっぱりできない⇒先生からまた同じ注意⇒さらに落胆⇒また家で狂ったように練習してもできなくて焦る⇒...⇒レッスンで先生の目が「あなたには無理」って言ってる⇒自信喪失...のネガティブ無限ループへ...。地獄へようこそ! 

っていうサイクルは大切な人生の時間の無意味な無駄なので、はやいとこ天国への道筋の目途をつけて、音楽語の習得にウェートを置いていきたい。

 

身体をほぐし始めた3年前は、立位体前屈でマイナス30cmぐらいの、絶望的な身体の固さでしたが、今年にはいってから、指先が床まであと5cmになり、今は、指先が床に着くようになりました(うれし~!)。

左の股関節の中に小石のようなものがつまっている感覚も、ほぼ消えました。左の腰と左の肩甲骨の内側にあった慢性的な凝りも、だいぶ消えて、凝りが強まったらリセットするやり方がだんだんわかってきました。

とくに、今年の4月末から、昨今の家ごもりの風潮に乗じて、自重をつかった整体を、DVDを見ながら始めました。いまも、ほぼ毎日、続けていますが、この習慣が良かったと思います。 もともと2年以上、毎日身体をほぐす習慣をつけていて、少しずつ身体がほぐれて姿勢が良くなってきていたところに、自重をつかった整体を始めたもんだから、ダメを押したようなかたちで、股関節が少しずつ動くようになって、反り腰もいくぶん緩和されてきました。

整体を続けることによって、全身にほどよく筋肉ができてきたみたいで、腕や脚が太くなり体重が増えましたが、同時に、ピアノが弾きやすくなり、打鍵に弾力がでてきて音に芯が出て音量の調節もしやすくなり、小指に力がみなぎってきました。 電子キーボードを使って、慣れないコードを覚えたり、いろいろなキーで弾くときは、脳がいっぱいいっぱいなので、姿勢も悪くなり、身体の左側がこわばりますが、これも、リセットの仕方がわかってきました(音楽語のブレインマッスル(脳の筋肉)を鍛えるのに電子キーボードを使うのは、間違いまくるので音量を小さくしてショックを軽減するため、鍵盤が軽いのでたくさん弾いても疲れにくいから、パソコン作業をしながらでもちょっと弾くのにとても便利な場所にあるからです)。 

このような状態まできたので、今後はより一層、ピアノ演奏の身体運動的な向上について気にすることをやめて、音楽語のブレインマッスル(脳の筋肉)を鍛えるほうに、より重点を置いて、できる範囲で楽しんでいこうと思います。  

整体やヨガなどの自分で行う身体ほぐしは、健康のために、あと2年は続けるつもりです。 というのは、3年前に、「姿勢が良くなるのに5年かかった」と、ATを続けている若い人が書いているサイトを見たからです。 若い人でも5年。 私は何年かかるかわからないけど、とりあえず5年は続けてみよう、と思ったのです。

私が20代や30代だったら、身体操作は置いといて音楽語のブレインマッスルの強化だけに集中したと思いますが、もう若くなく、老化によるフレイル化や股関節の不具合による歩行困難の怖れを感じていたので、身体操作を同時並行してやっていました。 結果として、音楽語のブレインマッスル強化のための鍵盤練習でも、変に肩が凝ることなく続けていけるめどが立ちました。 20世紀以降の音楽語を使って、心のままに即興演奏して、音楽で楽しく自己表現したい、という中学生の頃の夢に、ちょっとずつ近づいていこう、と思います。 とはいえ、

 

 

青い鳥は、追い求めているうちは、逃げていく。 追い求めるのをやめて、ふと気がつくと、肩にとまっているものなんだね。 

 

 

具体的には、上記の悟りのもとに、身体の捻じれを戻して全身を柔らかくしていく。 それにともなって、日常の動作もピアノもスポーツもダンスも何でもかんでも、身体操作に関するあらゆる動作が上手くいき始めます。 そうなっていないのに末端でいくら頑張っても、おおもとのイシューに全く対処できていないので、焼け石に水です。 

おおもとのイシューとは、自分の身体の中を地球の重力にすんなりお通りいただいて、さっさと地面にお引き取りいただく、という、陸上生物が生きている限り続けていく運命的な試行錯誤のことです。 重力は、地上生物の運命というか、宿命です。

 

前置きが長くなりましたが、前回の記事からの主な追加内容は、この文字色になっています:

 ==== ↓ 記事本文(20200917アップデート)=====

ピアノや楽器演奏を超越した、普段の生活~人生そのものの質を高めるために参考になるサイトや本を、自分のためにリストアップしてまとめました。

 

身体と心は切り離せないので、フィジカル&メンタルの両方の著作物をとり混ぜてリストアップしています。

 

リストアップの順序は:

① 日本の古典的名著 日本人(日本国籍を持っている人で、心が日本人の人(←人種・出自を問わず))だったら、是非読んでおきたい、戦後(20世紀後半)の日本の古典的名著

② 現代の日本の名著 主にプロ向けの本

③ 現代の著作物&サイト(物心ついた時から身体が「固まっている」運動オンチ(私)が、最も有益と感じるものから順にリストアップしています。 生まれながらのダンサーやスポーツが得意な人にとっては、リストの後半のほうが有益になるのではないかと想像します)

④ メンタルトレーニング関係の本 

 

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①★日本の古典としてぜひ読んでおきたい本:

 

★ 竹内敏晴 『ことばが劈(ひら)かれるとき』『思想する「からだ」』

「表現すること」の本質を鋭く突く。 「体育座り」に象徴される、戦後の子ども教育の罪が明らかになる著作。 音楽教育やピアノ教育も同じだ。 「子どものため」と唱えながら、実際には子どもの才能の芽をつむ教育が行われてきたことに、絶望と無力感を覚える(が、社会が機能するために、社会の歯車となって規格化された仕事を忠実に遂行する労働人口を確保&維持するためには仕方のないことではある)。 

子どもの頃に聴覚に障害があった著者が、聴覚の回復のために習ったピアノが役に立たなかったという記述は、とても興味深い(楽譜という視覚情報を鍵盤を押して聴覚情報に変換する行為は、聴覚の訓練にはならないということだ)。 

昭和のころ、「引っ込み思案な子だったから、親が自分を子ども劇団に入れたら、積極的な性格になって、そのまま役者になりました」というような俳優さんたちがけっこういたのは、この竹内氏の影響だったのかなと思う。

 

★ 橋本敬三 『からだの設計にミスはない』『誰にもわかる操体法の医学』『万病を治せる妙療法』

日本に古くからある民間療法(整体や鍼灸)に基づいた、「気持ちよく」を第一にした施術。 私の身体の左右のゆがみの症状が、ドンピシャリ説明されていた! 「鍋を頭にかぶったよう」な頭痛のことも! もっとはやくこの本に出会いたかったよ! 

右利きの人で、ピアノで左手が動かしづらい人は、読むと原因がわかると思う(身体の左右の歪みの説明は、まさにその通りだと思った)。 

明治以降、「進んだもの」として日本で崇められた西洋医学では治らなかった患者たちが、東洋医学の民間療法で治っていくのは何故なのか。 

医学と同じことが、音楽でも言えるのではないか。「劣ったもの」とみなされる日本の音曲(おんぎょく)の、西洋音楽にはない複雑性を理解&称賛できるに足る文化と洗練性を、私たちは失ってしまったのではないか。 読みながら、そういう気持ちになった。  

Webテキスト操体のサイトを見ると、操体法の概要がわかる(橋本敬三氏が考案した操体法のサイト人間はなにをするにも60点でよい、という考えはとても深い(←素人は1000点中600点、プロは1000点中960点、ということでしょう(TOEICとおなじだね...)。

 

★ 野口三千三 『原初生命体としての人間』 『野口体操・からだに貞く』 『野口体操・おもさに貞く』

身体操作のヴィジョナリ―。 身体の概念や、言葉の呪詛的な力(言霊)についての造詣に敬服する。 日本ならではの深淵さや繊細さの慧眼(けいがん)にあふれた本なので、この人の本を、英語などの他の言語に翻訳するのは、不可能だろう。

「芸大にサーカス学科やチンドン学科を作るべき」と唱えた野口三千三先生は、芸術の本質をご存知だった。 それに耳を貸さなかった文化機関に、文化はあるのか? つまりは、ハコではなく、コンテンツ(人間)なのだ。 坂本龍一は、さいしょから坂本龍一だったわけで、芸大に入った人がみんな坂本龍一のようになるわけではないのだ。

「芸術家」を名乗る日本人なら、「日本には、アメノウズメという芸術の開祖がいる」ことを肝に銘じて、芸術に一命を賭して欲しい(アメノウズメと同じ覚悟を持って、自分の存在を、恥ずかしくて隠しておきたい部分も含めて、何かのために放り投げられないんだったら、本物の芸術家であるとは言えない。芸術とは、かくも厳しく激しく、人の命を削るものなのだ。 西洋であれば、この世で道化(fool)として生きる覚悟があるか?ということだ)。

 

上記の三人(竹内敏晴、橋本敬三野口三千三)は、「戦後日本の身体操作・表現の三大ヴィジョナリ―」だと思う。 ただし、この人たちがヴィジョナリ―だったわけで、彼らの死後、それらを現在受け継いで教えている人たちがヴィジョナリ―であるかはわからない。 むしろ、精神も含めてまるまるそのまんま教えている人たちは、少ないと思われる。 なぜなら、ヴィジョナリ―とは、先人のノウハウや知見を自分のものにしたうえで、新たに自分のオリジナルな知見(付加価値)を加えて、同世代の社会のニーズに合って、しかも先進性のあるコンテンツを、社会に対して提示した人だからだ。 

この三人は、それぞれ、身体的な障害や、明治以降の「負け組(幕府側)」のバックグラウンドや、経済的困窮という生来のハンデを背負いながら、生きるために脳と身体を120%回転し、戦前・戦中・戦後の日本を必死に生き、深く傷つき、一生懸命考えて苦闘した人たちだと思う。 だからこそ、ヴィジョナリ―になったのだ(苦労知らずの坊ちゃん嬢ちゃんには、わかるまい)。 この人たちの著作物は、日本の財産だ。

 

★ 岡本太郎 『今日の芸術』『神秘日本』『自分の中に毒を持て』『美の呪力』ほか 

芸術好きの日本人なら読んで損はない。誰でも若いころに岡本太郎さんの本を一冊二冊読んだと思うが、何度でも読み返す価値があり過ぎる! 岡本太郎さんと同じような考え方や芸術レベルを持ってこの世に生まれた人が、過去にも今もたくさんいるにちがいない。ただ、岡本太郎さんのような裕福な家に生まれなかったために、彼らの才能は、日本の社会の底に埋もれて沈んでしまっているだろう。これらの本は、彼らの埋もれた才能を供養する役割もある、と思う。 岡本太郎さんは、芸術のパワーの源泉が、呪力であることを見抜いていた。 呪力は、人間の生命力の根源、つまり、生まれて殖やすことから、発せられる。 「芸術は爆発だ」は、芸術は命の爆発なのだ。 命の爆発的なパワー。これが、日本の芸術の源だ。 それを、石の棒や石の臼をお社の中に封じ鎮めてしまった、その結果が、猫背や、腰痛や、女性に圧倒的に多い反り腰であると、私は思う。 西洋においては、猫背や腰痛や反り腰の原因は、ヘビにそそのかされたイヴが善悪を知る木の実を食べてしまって、人間がエデンの園から追放されたことに、端を発する。 だから、反り腰が女性に多いのだ。 なぜ女性は、反り腰になるのか? お尻を後ろに引っ込めることで、無意識に何を隠そうとしているのか? そして、どうして、イヴをそそのかしたのが、ヘビだったのか? ヘビが象徴するものは何なのか? どうして、古代ギリシャ(キリスト教以前)の医学の神は、どうしてヘビがからまった杖を携えているのか? ヨガのクンダリーニの蛇は何を意味するのか? Louise Hayさん(後述)の本にあるように、近現代の西洋社会は、ヴィクトリア時代の価値観の呪縛の下にある。 そして、明治維新以降の日本社会も、その呪縛の下にある。 「気をつけ!前へならえ!」が、人間から奪い続けるものの、計り知れない価値の損失。 人間は、宇宙の中の、地球に生まれた、単細胞生物から進化してきた。 その細胞の中で、いまも激し振動する力の源を、岡本太郎氏は見ていたのだろう。 人間は、どこへ向かって行くのか? 

 

★ 三木成夫 『胎児の世界』 

たいへんな事実を立証するために、たいへんな実験をした人なんだなぁ、と思う。三木氏と、墨汁に染まったたくさんの胎児たちが、どこかの世界で安らかに過ごしていることを、祈ってやまない。 個人的には、人間の脾臓の位置が、身体操作の鍵なのではないか?と、この本を読んで直観した。 右利きの人が多いのは、人間の脾臓の位置に関係しているのではないか? そして、右利きが多いのも、脾臓の位置も、地球の自転によるものなのではないか? これらは私の直観だが、直観は正しいことが多いので、私は自分の直観を信じる。 

それから、地球上の最も根源的な動きは「らせん回転」である、ということの確信も新たにした(恐竜のフンの化石がもうすでにらせん状態。子どもが描くウ●チもトグロを巻いている、ん? トグロ? そう、蛇だ。 そして、人間の遺伝子のDNAも、らせん構造をしている)。 日本の武道を始め各種ボディーワークが「らせんの動き」を強調するのも当然だ。

ちなみに、この記事の冒頭に書いた「私の金言①②③を合わせて回す」は、それぞれのチャクラの場所で回す、と私は直観している。「チャクラ」とは、「円」とか「輪」の意味で、チベット語では「コルロ」というそうだ(日本語の「コロコロ」や「転がる」の語源にちがいない)。 私はチャクラは「球」だと思う。 現代で言えば、「ボールベアリング」のことだ。 チャクラは、別に、オカルトや怪しげな新興宗教的なものではない。 単に、背骨に沿って並んでいる力学的な回転ポイントだと、私は思う。 人間の遠い祖先が、まだ海の中にいたときは、水中の生活に適したチャクラを自由に回して背骨を動かして泳いでいた。 陸上生物になって地上の重力の影響を受けるようになってから、地上の生活に適したチャクラを回して背骨を動かす必要が生まれて、それにともなって、地上で最も効率的な動きと骨格が進化してきたのだと、私は思う。 三木成夫先生が、サメの仲間やふだん水中に住む両生類を水槽から出して観察したところ、急に陸地に上げられて突然重力の支配下に置かれたサメや両生類は、しばらくの期間、のたうちまわって苦しんだが、だんだん身体の形が変化して、陸上生活に適応した。 この、「のたうちまわって苦んだ」プロセスは、背骨に沿って並んでいるチャクラが、水中仕様の場所から陸上仕様の場所に移っていったプロセスであろう。 陸上の重力に最も効率的に対応できる背骨の各ポイントに、チャクラ(背骨の運動の要所)が移動したのだ。 人間の赤ちゃんが、ハイハイから立ち上がって歩くようになるプロセスも、チャクラが羊水の中の仕様から陸上仕様に位置を変えていくプロセスを表しているに違いない。 生まれたばかりの赤ん坊は、赤くてブヨブヨしている。水中仕様の身体なのだ。 お母さんから生まれて陸上の環境に置かれると、ブヨブヨした身体はだんだんと「人間らしく」なっていく。 その過程で、チャクラも水中仕様の位置から陸上仕様の位置に移動していって、赤ちゃんはやがて立ち上がれるようになるのだ。

人間と寸分たがわぬ動きができるヒト型ロボットの開発が難しいのは、人間の物理構造(骨格や筋肉など)がいかに複雑高度であるかを示している。 人間の背骨に沿って並ぶ複数のチャクラを、いちばん下のチャクラから次々に回すことによって(いちばん上からかもしれないけどね)、ヘリカルな(らせんの)動き(helical movement)を生じさせ、生じた動力を、各関節を仲介して指先や足先まで伝達して、力を行使する。 ヘリカルな(らせんの)動きは、地上生物にとって、最小のエネルギーで最大の仕事を可能にする、最も効率的で力強い動きなのだ。 だから、う●ちの絵も、DNAの構造も、らせん構造(helical structure)をしているし、武道や各種ボディーワークが「らせんの動き」を強調するのだ。 植物が重力に押しつぶされずに太陽に向かって上に伸びていけるのは、植物の細胞壁セルロース(繊維)が、ヘリカルな(らせん)構造になっているからだ。 そして、植物の芽も太陽の動きに合わせて、ゆっくりとグルグル回って上に伸びてゆく(グルグルと上へ = ヘリカルな(らせんの)動きだ)。 太陽の動きとは、すなわち、地球の自転の動きだ。 つまり、ヘリカルな(らせんの)動きは、地球上の生物にとって運命的に定められた動きであり、地上で重力に押しつぶされずに生きるために最も効率的に最大の力を出せる動きなのだ。 だから、古代ギリシャの医学の神さまは、ヘビがからまった杖を持っているのだ。 

ところが、サルがヒトに進化した際に、脳の中に「人間脳」が生まれた。 この「人間脳」の誕生を示す寓話が、旧約聖書の創世記の冒頭の、蛇にそそのかされて善悪の木の実を食べたイヴがすっぽんぽんでいることが急に恥ずかしくなった、というエピソードなのだ。 そしてその瞬間に、人間にとって最も効率的に最大の力を出せる、ヘリカルな(らせんの)動き(helical movement)は、「原罪」とされてタブーになってしまった。 インドのヨガでは、一番下のチャクラに女神(蛇)が封じ込められているというが、これも、聖書と同じことを言っているのだ。 一番下のチャクラは、排泄器官と生殖器官の近くにある。 排泄と生殖:う●ちの絵とDNAのことだ。 食べて出すことと、遺伝子情報のことだ。  両方とも、ホモ・サピエンスの種の保存のために最も必要なものなのに、人間社会では汚いもの・はしたないものとして封じ込められ、タブー視され続けている(だから私も「う●ち」と書くのだ)。 ところが、その封じ込められている場所の封印を解いて、ヘリカル(らせん)に動かさなければ、人間にとって最も自然で効率的な動きは不可能なのだ。 だから私たちは、肩こりや腰痛に苦しみ、そして「ピアノが上手く弾けない」と悩むのだ。 

もともと、踊りや演劇や音楽は、祭礼行為だった。 祭礼とは、人間が神々とつながってトランス状態になる行為だ。 人間が神々とつながるとき、チャクラは「原罪」から解き放たれて、人間は解き放たれたチャクラを自由奔放に回して、本来の存在になる:遺伝子(DNA)のベクター(次の世代へ運ぶ役割)、つまり、役者になる。 そして、心身の底(DNA)のらせん構造(helical structure)から湧き上がる生命の喜びを、背骨を使ってそのままヘリカルな(らせんの)動き(helical movement)に変えて、踊り歌う。 恥も体裁も無くなったアメノウズメのように、踊り歌う。 アメノウズメ:つまり、ダンサーや音楽家になる。 自意識を放り投げたアメノウズメのパフォーマンスと、岩戸の中から出てきたアマテラス、という古事記の話は、生命の根源の寓話なのだ。 太陽の光は、植物プランクトンや地上植物の光合成のエネルギー源。 植物プランクトンや植物は、食べ物ピラミッド(food pyramid)の土台を構成し、それを食べる草食動物から肉食動物まで、全ての生き物の命と繁栄を支えている。 太陽の光は、地球上の全ての命の源だ。 

アメノウズメは、イヴが持つようになった「原罪」、つまり人間の自意識から解き放たれて、歌い踊った。 生まれたばかりの赤ん坊には、自意識はまだ無い。 自意識は、人が自分の周りの社会を意識し始めた時に、生まれる。 だから、自意識が生まれると、赤ん坊のようにどこでも泣きわめくことをしなくなり、外をすっぽんぽんで歩くこともできなくなるのだ。 自制心。 自制心が制しているのは、自分の中に住む蛇だ。 生きる力と創る力の原動力だ。  

アメノウズメ(祭祀の巫女=役者・ダンサー・音楽家)の役割は、時代と共に、日本では「河原者(かわらもの)」に、西洋では「道化(fool)」に、そして、現代のエンターテイナー(芸能人)になった。 役者やダンサーや音楽家などのエンターテイナーは、現代の巫女だ。 だからこそ、彼らは、一般社会では許されない素行や発言をしても大目に見てもらえて、「自由奔放でエキセントリックな変わり者」として生きることが許される。 しかし、社会の中で「原罪」から解き放たれて「クンダリーニ」を野放しにして生きることを選んだ代償として、彼らは社会における大きな何かを捨てたのだ。 大きな何かを捨て去って退路を断ったからこそ、彼らの芸に神々(本能)が宿るのだ。 カタギがどんなに芸を磨いても、決してプロの芸の域に達しないのは、プロのようにはケツをまくって生きられない身に、自分を置いているからだ。 ルノワールが油絵に描いたピアノを弾く中産階級のお嬢さんたちは、間違いなくカタギであり、彼女たちのピアノ演奏は、間違いなく素人芸だ。 素人芸とは、お稽古ごとのお手習い芸のことだ。 玄人芸ではない、お稽古ごとの下手なお手習い芸であることが、素人芸の真骨頂なのだ。⇒ピアノが下手なことのスゴみ - おんがくの彼岸(ひがん)

 

役者やダンサーや音楽家などのエンターテイナーには、スポーツ選手も含まれる。 相撲は神事だ。 スポーツは、もともと神事祭礼だった。 古代ローマでは、森と狩猟の女神ダイアナ(地母神)の神殿に仕える司祭は、奴隷身分の若者が勤めていた。 どうして奴隷が司祭を務めたのか? 司祭職の任期が来ると、現職の司祭と、新任の司祭候補が殺し合いの戦いをして、生き残った方が新たな任期の司祭に就任した。 司祭職は、一般人がやる仕事ではなかったのだ。 相撲、格闘技、野球、サッカー、テニス、すべてのオリンピック種目。 これらには、すべて、勝敗がつく。 かつては、勝負に負けることは、死を意味した。 生と死。 身体を使った勝負事は、人間の生と死を表現する神事だった。 その名残が、現在のプロスポーツだ。 スポーツ競技が行われる土俵、リング、グラウンド、ピッチ、コート、リンク、トラックは、現代の神殿だ。 そこで身体を極限まで使って組み合い、投げ、打ち、走り、蹴り、跳び、回転する彼らには、生と死が、神が憑依する。 それを観客席から応援し彼らのパフォーマンスに酔いしれる観客は、生死をかけた命のダンスに陶酔しているのだ。 芸術が「生と性」の表現であるのに対して、スポーツは「生と死」の表現だ。 どちらも、「文化教養」の革をかぶった人間の本性を暴き出す、神事なのだ。 神事のある所に、音楽あり。 音楽の「楽」の漢字の「白」は、人間の頭蓋骨の意味だそうだ。 漢字の原型を生み出した「商(殷)」の人たちの認識では、音楽は、シャレコウベを叩く音だった。 音楽とは、地球上に生命が誕生してからずっと、そして、これからもずっと続いていく、生と性と死のダンスのお囃子(はやし)のことだ。 だから、音楽は、さらけ出す。 神が降りてゾーン状態に入った巫女たちも、それを観てトランス状態で陶酔する一般人も、人間が単なる生き物に過ぎないことを、遺伝子の単なるベクター(運び屋)に過ぎないことを、むきだしにさらけ出す。 芸術やスポーツの起源を、さらけ出す。 神事は究極の聖なる者が執り行う。 究極の聖と、究極の俗は、向こう側でつながっている。 究極の聖と、究極の俗の間に、ケツをまくる必要がない、ケツをまくりたくてもまくれない、大多数の一般人が生きている。 

 

一流のスポーツ選手も、背骨のヘリカル(らせん)運動を味方につけている。 あるクラシックピアノ雑誌に、工藤公康氏と、日本でトップクラスのクラシックピアニストの対談記事が載っていた。 記事の中で、工藤氏が、自分が現役投手時代のピッチングでの背骨の使い方について触れていたが、スポーツでもピアノでも、あらゆる身体操作の要諦は、その工藤氏の言葉に尽きるだろう。 雑誌を読むクラシックピアノ愛好家たちに向けて、工藤氏は、たいへんな奥義を明かしてくれたのだが、それが心に刺さった読者は何人いるだろうか? 見ていても、見えない。聞いても、聞こえない。読んでいても、わからない。 昔の人は、これを、目の上にあるウロコに例えた。 商(殷)の人々が作った漢字の「民」の真ん中の横棒は、目を潰されている意味だそうだ。 虚飾や虚栄に目がくらんで自分で自分の目をつぶしている人が、この世になんと多いことか。 対談相手のクラシックピアニストの心に、工藤氏の奥義が刺さったかどうかは、わからない。 しかし、少なくともそのピアニストが、ピアノ演奏の身体操作を武道やスポーツに模索していることは、明らかだ。「クラシックでも、一流のピアニストはわかっている」と、私は思った。 ケツをまくっているエンターテイナーは、わかっている。    

 

  ★ 森田正馬 『神経質の本体と療法』  メンタルが身体に及ぼす影響について参考になった。楽器演奏・声楽関係の患者さんの例もちょこっと出ていた。

 

★ 池見酉次郎 『心療内科  同じく。メンタルが身体に及ぼす影響について参考になった。楽器演奏・声楽関係の患者さんの例もちょこっと出ていた。

 

★ 植芝盛平  

合気道の開祖。 まだ読んでいないが、この人もヴィジョナリ―だろう。 私がこの人の語録の本を読んだとしても、理解できないだろう。 理解できる人は、100人に0.5人もいないのではなかろうか。 そういう場合は、佐々木合気道研究所さんのサイトが参考になる(理念や原理にいちいち納得する)。

合気道がいまも組織的に存続しているのは、ヴィジョナリ―な開祖の死後に、弟子たちの中に、ある程度ヴィジョナリ―な人や優秀な実務家が何人かいて、開祖の後を上手に引き継いだからだと思う。 企業や文化や宗教を問わず、ヴィジョナリ―な創始者の死後、それをどう引き継いでいくかが、存続の鍵だ。 じゃないと、次々と現れる新しいヴィジョナリ―たちのコンテンツと競合できなくっていく。

 

ここまで、「ヴィジョナリ―」っていう言葉を多用しすぎて自分でも笑えるが、創始者とか開祖とかいう人にはヴィジョナリ―な人が多いから、仕方がないというか当然といえます。

 

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②★現代の日本の名著:

白井一幸『メンタル・コーチング』

北海道日本ハムファイターズのコーチとして、2006年のチーム優勝に貢献した白井氏の、選手の実力をひきだすコーチング方法(←「ティーチング」ではないところが重要!)。 自らの選手時代のスランプとそこからの復活も語る。 

私の思い出&所感: 2006年の日本シリーズ。 札幌ドームの大歓声の応援のなかで伸び伸びと躍動する日ハム選手たちとは対照的に、表情はこわばり、動作も鈍くなり、ほとんど固まってしまった中日ナイン。 「実力は上」といわれていた中日の選手たちが、石のように固まってしまい、実力を出せずに敗れてしまったのをテレビで見ながら、私は、メンタルの恐ろしさを感じていた。 プロ野球の一軍のレギュラー選手は、どのチームでも、実力はさほど変わらないはずだ。 では、日ハムの選手たちが、その実力を如何なく発揮できたのは何故なのか?  白井氏の本は、それを可能にしたコーチングを説明する。  

 

★白石豊・脇本幸一 『スポーツ選手のための心身調律プログラム』

プロのスポーツ選手のための本。

白石豊氏は、白井一幸氏(上記)が選手時代に陥ったスランプの脱出を助けたトレーナー。 この本は、国内外のメンタルトレーニングの代表的な書籍も紹介しているので、参考になった。 白石氏の著述部分(メンタル編)は、膨大な練習によって完璧なパフォーマンスを実現した一流のプロ選手が、大舞台で実力を出すためのメンタル強化のノウハウを紹介していて、プロと比べたら練習量が実質ゼロのお気楽なアマチュアには猫に小判だと思う(プロ級の練習量をこなしてこそ、役に立つ内容だ)が、読むだけでも参考になる。 『弓と禅』、『ゴルフのメンタルトレーニング』、『インナーゲーム』といった、三昧(ざんまい)=ゾーンの境地の著名な本のレファレンスとしても有益な本。

脇本氏によるフィジカル編も、選手生命を賭けたプロ選手のための内容だが、骨盤~背骨が人間の動作でいかに大切かや、患部の周辺部のケアが患部の治癒を促すこと、心理ストレス面がスポーツリハビリに及ぼす影響などを論じていて、とても興味深い。

英語の「educate」の本来の意味の説明もあったと思う。 英語圏のことは知らないが、少なくとも戦後の日本の「教育」が、「education」とは似ても似つかないものだったことを、思い知らされた。 身体が固まってしまった子どもたちは、その犠牲者であり、彼らを救済する具体的な策は、事実上まだ無い(「ゆる体操」ぐらいではないか)。

 

★ イチロー工藤公康などの、野球選手の著作  

3年ぐらい前に、良く読んでいました。 イチロー氏の著作は、メンタルトレーニングで参考になる感じがしました。 工藤公康氏の本も何冊か読みましたが、図書館の検索でヒットした、クラシックピアノ雑誌に掲載された対談記事が興味深かった(前述のとおり)。 日本のトップクラスのクラシックピアニストと工藤氏が、身体操作について対談する記事だった。 その記事の中で、工藤氏が、自分が現役投手時代のピッチングでの背骨の使い方について触れていたが、スポーツでもピアノでも、あらゆる身体操作の要諦は、その工藤氏の言葉に尽きるだろう。 一流のクラシックピアニストになると、ピアノの演奏技術の向上を、武道をはじめ野球などのスポーツに求めることも、よくわかった。 年をとるにつれて、若いころの柔軟で強力な筋力が落ちてゆき、何もしなければ自分の身体運動的な機能は低下するばかりだ。 現役のプロのピアニスト、とりわけ、楽譜の正確な再現だけのクラシックのピアニストにとって身体の老化が脅威なのは、当然だ。

 

  

③★現代の著作物&サイト:

 『物心ついた時から身体が「固まっている」運動オンチ(私)が、最も有益と感じるものから順にリストアップしています。 生まれながらのダンサーやスポーツが得意な人にとっては、リストの後半のほうが有益になるのではないかと想像します

 

高岡英夫  『「ゆるめる」身体学』

身体がガチガチに「固まっている」人は、この人の「ゆる体操」ぐらいしか、とりつくしまがないだろう、と思うので、筆頭に挙げます(他には、橋本敬三氏(上記)の「操体法」ぐらいか)。

上記の「三大ヴィジョナリ―(竹内敏晴、橋本敬三野口三千三)」や、伊藤昇(下記)らが提唱した、20世紀の日本の身体操作の思想とノウハウを統合して、現代社会のニーズに合うように再構成し、自らのオリジナルな内容も加えて、「ゆる体操」などを提唱している、とても頭の良い人だと思う。 

野口三千三に代表されるように、従来の身体操作法は、ダンサーや役者などのプロの表現者や武道家といった、身体能力がとても高い、一握りの人たちのためのものだった。

これに対して、高岡英夫は、年齢や身体能力や柔軟性に関係なく、誰でも楽しく続けられる体操法を提唱した。 さらにこれを、収益力の高い「検定ビジネスモデル」によって提供している点が、この人の頭の良いところだ。

「身体が固い」という「断定的な表現」ではなく、「身体が(今は)固まっている(けど、ほんとうは柔らかいんだよ)」と表現したことも大きい。 言葉の呪詛的なパワーを知っている。

「身体が固い子どもは、小さい頃から何らかの原因で身体を固め続けて、固まってしまっていて、緩めることも締めることもできない」という考察は、極めて的を得ている。 「肩の力を抜いて!」と何度言われても、できないのだ。 そのことが解からない先生やインストラクターが多すぎる。 だから、最も身体をゆるめる必要がある人たちは、いつまでたってもゆるむことができなくて、グループレッスンなどで絶望し落ちこぼれて、ますます足が遠のいてしまうのだ。

高岡英夫の「ゆる体操」は、そういった身体が固まっている人や、高齢者といった、今まで無視されていた層の大きな潜在需要を掘り起こした。 

言葉を「言霊」と認識して、身体の動きにリンクさせる方法は、野口三千三がやっていたことだが、野口三千三があまりにもヴィジョナリ―すぎて、一般的ではなかったし、ヴィジョナリ―の死後、その内容がどれだけ伝わっているか疑わしい。 高岡英夫は、ヴィジョナリ―たちのコンセプトを、「納得できたような気がする」ような気持ちになるような理論的なものを使って説明して、ブルーオーシャン向けに広く訴求しつつ「検定ビジネス」フォーマットで収益を上げている点が、まことに巧妙秀逸だ。 が、ペテンとは言えない。 もしこれをペテンと呼ぶんだったら、ピアノ(検定)や音大や華道や絵画などの芸術だって、広告業界だって出版業界だって健康産業だって、ぶっちゃけ、「〇〇症候群」や「〇〇障害」を次々と量産する医療製薬業界だって、とどのつまり宗教だって、何でもかんでもペテンになってしまう。 

ちなみに高岡英夫氏は自らを「科学者」と呼んでいるが、この肩書きも間違ってはいない。 東大文学部→東大大学院卒業ということなら、「人文科学」の学者と自称することに差しさわりはないだろう。 人文科学には、哲学も文学も音楽学も美術学も含まれる。 つまり、物理学や化学などの自然科学の「科学者」ではない。 ここにも、この人の言語やレトリック使いの巧妙さが見て取れる。 もっとも、人文科学者だったら、言葉やレトリックの駆使はお手のものだろう(理系アタマの人は、この人の著作を読むと散文的に感じるかもしれないし、理論のためのソリッドな根拠づけについて「?」と感じるかもしれない。 個人的には、この人はとても高度なレトリックの技を持っていると思う。 人文科学者の真骨頂だ)。

背景の根拠づけや事業フォーマットがどうであれ、「心を緩めて身体が揺れ動いていれば、おおよその身体の不調は軽減される」というのは、この世の物理学にのっとった真実だと思う。 でも、それをそのまま商品として売るのは、ミもフタも無いから、いろんな理論的なもので根拠づけして、バリュー(有り難み)を持たせなければビジネスにならない。 それは社会が求めていることだから仕方がない、というか、しごく当然のことだ。 「食べなければ痩せる」ではミもフタも無いし、ビジネスにならないから、「パイナップルダイエット」や「ロウカーブダイエット」などが次々と世に出され、その度に人々が飛びついてゆくことで、この世の経済は回っているのだから。 高岡英夫氏は優秀な事業家だと思うし、そのことについて批判を受ける理由はないと思う。

 

吉田篤司 『首からユルめる!』

ゆる体操」や「操体法」のほかに、身体がガチガチな人でもどうにかやれるし、効果もあると感じたので、二番目に挙げます。

東洋のヨガと、西洋のアレクサンダーテクニック(AT)やクラニオセイクラルセラピーを統合した身体操作法が、地味ながらジワジワ効いてくる。 統合したところが、この人のオリジナルな点だろう。 いろいろな体操法をやりながら、この人のサイトの内容を試しにやってみると、突破口になったので、個人的には合っていると思う。 オカルト的な用語にカモフラージュされて、けっこう真理があると思う。とくに、股関節を動かす方法や、古代エジプト壁画に見る支配階級と奴隷階級の姿勢の違いなどは、インスピレーションになった。 社会的階層と姿勢の違いは、日本の伝統絵画でも描かれていた! 何年か前に、円山応挙派の画家たちの作品展を見に行ったら、ある画家が描いた偉い人と小作農民たちの絵が、まさにそうだった! 偉い人は背筋がスッとして優雅に座っているが、小作農民たちの姿勢は、頭を前に突き出して背中や腰が曲がった姿で描かれていた! 

身体がやわからい、固まっている、運動神経があるなしに関係なく効果があると思う。

ATなどの西洋発祥のボディワークは、ともすれば、もったいぶって権威的に教える人もけっこういるかと思うが、吉田氏の文章には、そういうところが全然ないどころか、ところどころオカルトチックで良い意味であやし~雰囲気すら醸し出されているところが、かえってホンモノ感があって好印象だ。 

(西洋では伝統的に、ATもフェルデンクライスも指圧もオステオパシーも、ニューエイジ的なオルタナティブメディスンにカテゴライズされるから、ある程度の「あやし~」感じは、かえってホンモノチックだ。 逆にそういう要素を隠して、おちょぼ口(ぐち)で、何も知らない演奏家向けに訴求・誘導するほうが、ある意味あやし~よ。)

やはりインドのヨガは強力だと思う。ヨガは、自重を使って行うボディーワークの元祖と言えるだろう。若いころ勤めていた会社の職場に、やっかいな病気を患っている当時30代半ばの先輩女性社員がいた。普段の生活や仕事には全く支障がないのだが、「いつその病気が暴れはじめるか」と恐れていた。暴れはじめると身体の細胞が壊死していく病気だそうで、指なのか、顔なのか、内臓なのか、身体のどこが壊死するかも病気のご都合しだい、という病気だそうで、食事療法などを試していた。彼女の体形は、胴体も手足も細々として、猫背で、30代ですでに髪の毛が真っ白で髪を染めていた。会社のブランドを背負って顧客に対応する、高度な対人スキルが必要な職種で、イベントや出張も多く、はたから見ていてもストレスがすごそうだった。だから、やっかいな病気にかかってしまったのかもしれない。ところが、私がその会社を辞めて数年後に彼女と再会したら、彼女の体形が変わっていたので、私は驚いた。姿勢がシャン!と良くなって、胸板と背中の上部が分厚くなって、上腕が太くなっていた。背が高い人なので、一見ダンサーみたいに見えた。そのことを言ったら、何年か前にヨガを始めて、今も続けている。体調もすこぶる良い、とのことだ。「そうか、ヨガをやると健康になるんだ!」とすぐに私もインスパイアされて、身体が異常に固いくせにヨガのDVDをはじめたら、3か月ぐらいで姿勢が良くなるし身体は柔らかくなり始めるしで、調子に乗ってガンガンやったら腰の筋肉が痛くなってやめてしまった。あのとき、恐がらずに良い意味でダマシダマシ続けていたら、もっと効果がでていたかもしれない、と思う。やはり、やりすぎは良くない。ほどほどになんとなく続けるのが良いようだ。そして、私のように身体がものすごく固い人は、ヨガのポーズをとりながらゆらゆら揺れると効果的ではないか、と思う。 ひと昔ふた昔前は、ヨガは怪しげな宗教やスピリチュアリズムと関連づけられて、悪い印象があったが、ヨガが発祥した当時のインドに、もし現代の物理学があったら、「ヨガは物理学」と考えられただろう。 物理学とは、地球を含めた宇宙の中における力のやりとりのことだ。 ヨガは、地上生物の運命である重力と上手に付き合って健康に生きることの探求だと、私は思う(整体や他のボディーワークも同様)。 そして、一見あやし~雰囲気のボディーワークよりも、実はもっとあやし~、科学的でロジカルな革をかぶったウサン臭いものが、世の中にあふれている。

 

 ☆あべこべ体操(北洞誠一さん)の動画やサイト。

フェルデンクライスも、身体の柔軟性や身体能力にあまり関係なくできて、効果が感じられるものだと思う。 フェルデンクライスさんは柔道をやっていたので、個人的にはATよりも興味がある。 

「あべこべ体操」は、フェルデンクライスなどをベースにした体操。 前身のニューストレッチプログラムの動画も効果があると思う。 誰でも無理なくできる体操を提唱している。身体の各部分をいろいろな方向に動かしながら、自分の身体を観察するスタンスが、効果的なんだと、私は思う。 フェルデンクライスは、柔道由来だけあって、床の上を転がる動作も多いのではないか。転がる動作はとても効果があると、個人的に感じる。

 

★ 佐々木繁光・橋本馨 『新生体法入門』  

誰にでもできる、身体の歪みをとっていく方法を紹介。そのとおりだと思う。

 

★ 矢上裕 『DVDで覚える 自力整体』  

この人の整体のナビゲーター(トレーナー)になっている人と、以前お話したときに、彼女のゆるやかな人柄と、深くリラックスした声が、とても印象に残った(その人は、ナビゲーターをやめたようだが)。 自重を使って、身体をゆっくり揺らしながら行う整体。ヨガや操体法の影響がみられる。 

 

チンパンのブログ(←古久澤靖夫氏のブリージングストレッチを紹介するブログ。 こちらも、自重を使って身体を揺らしながら行う。 ブリージングの体操を紹介するブログだが、読みものとしても面白い。) 

 

ここまでは、身体が固まっていて運動オンチの人にとって、取り組みやすい人たちだと思います。 個人的には、持って生まれた脳の特徴や、生まれ育った家庭や社会の環境が原因で、身体がガチガチに固まっている(けど本来なら柔らかいし絶対に柔らかくなる)人は、自重を使って無理なくできるボディーワークを、なんとな~くず~っと続けていく習慣をつけると、少しずつ効果が出てくると思います。ここまで挙げた各種体操やボディーワークは、身体が固い人でも始めやすい、と思います。とにかく、毎日、無理のない範囲で、何年もず~っと、たぶん生きている限り続けていくと、いつか、マルコム・グラッドウェル氏の著作にある the tipping point に到達して、そこから加速度的に効果が上がっていくと思います。 

 

また、個人的には、下記の方たちのサイトから勇気をもらいました:

◆孤高のヨギ―さんの柔軟性に関する記事(の内容は、まったくもって、そのとおりだと思う)、そして、

MIYUのストレッチ奮戦記:孤高のヨギ―さんの記事にリンクがある、クラシックバレエを習っている方のサイト

◆大和部屋(やまとべや)さんのサイト(水泳をやっている方で、腰痛改善のために股関節の柔軟性を上げた方)

 ↑上記の◆の方たちは、リアルな体験記を掲載されている。インストラクターやボディワーク施術者や医師の考えを鵜のみにせず、自分の頭でいろいろ考えて突破口を開いた人たちだと思う。 整体やボディーワークのセッションに通っているだけで、自分の脳で何も考えなければ、時間とお金を無駄にしているだけだ。 自分の身体をよく観察し、自分の脳で考えて試行錯誤していかなければ、これらの方々のように壁を突破することは、不可能に近い。

 

上記の◆の方たちの体験記にインスパイアされ、最近では、とくに操体法(&新正体法)・ゆる体操・『首からユルめる!』・フェルデンクライス系の体操から、毎日できる範囲でやっています。 操体や整体で歪みを取りながら、全体的にゆるめて、固くなっている部分をある意味で「崩落」させて、重力でだら~んとさせる戦略です。 身体をほぐしはじめて1年半。 ちょっとずつですが、左の股関節の動きが良くなってきています。  

  

★伊藤昇 『スーパーボディを読む』 

武道系やスポーツ系ブログの人の多くが勧めている。 例にとり上げられた人たちの顔ぶれがすごいが、マイケル・ジョーダンタイガー・ウッズ坂東玉三郎が主な考察の対象だ。 沖ヨガや野口整体の影響を受けているらしい。 若くして他界されたのが残念だ。 『スーパーボディを読む』と同じフォーマットを使用して、高岡英夫氏が『究極の身体』を書いたと思われる。 伊藤昇氏が提唱した胴体力については、「北京原人のブログ」さんなどにも、役に立つ内容がある。

   

オーガニックマイムJIDAIさんサイト(←4WD車のたとえは、私が直感したパワートレインの動きを強く裏付けてくた。この方も肝心かなめの動きを知っている人だと思う。) ダンサーなどの身体表現者は、とくに参考になると感じる。そして、楽器の演奏家は、ダンサーや役者や歌手の身体表現を大いに参考にするべきだ、と思う。 楽器は、自分の心と身の延長だ。 楽器を人前で演奏することは、自分の心と身で表現することだ。 ダンサーのように人前で脚を開いたり、役者のように時には裸同然で演技をしたり、歌手のように人前で大きな口をあけて喉の奥まで見せて歌ったりすることと、楽器の演奏は、なんら変わりはない。 ダンサーや役者や歌手は、舞台やスクリーンやステージの上で、芸術のために何でもやる。 何でもやれるのは、その時の彼らに神々が憑依しているからだ。 彼らが、自らの身も心も無色透明になって、神々のご神託を伝達するメディア(媒体)になりきっている、その瞬間が、芸術表現だ。 人間の無意識の底にある芸術の源は、DNAの振動。つまり、生であり、性である。食餌であり、生殖である。 そのことを認識しているかどうかが、楽器演奏家にプロ意識があるかないかのリトマステストだ。 素人の楽器演奏を最も解りやすく表しているのが、ルノワールが、ピアノを弾く中産階級のお嬢さんたちを描いた、油絵だ。 ルノワールの絵は、彼女たちのピアノを弾く表情やピアノを弾く姿勢の描写によって、素人芸の本質を鋭く描き出している。 中産階級のお嬢さんには、人前で作曲者(神様)を受け入れて恍惚とした表情で身体を揺らしながらピアノを弾くことは、できないのだ。 彼女たちが属する社会の規範で「はしたない」とされていることだからだ。 彼女たちが属する社会を捨てて、現代の巫女さんにならなければ、できない。 市井(しせい)のピアノの先生がたの演奏が一皮むけない理由は、これである。 岡本太郎氏の項目(前述)にも書いたが、石の棒や石の臼をお社の中に封じ鎮めた結果が、猫背や、腰痛や、女性に圧倒的に多い反り腰だ、と私は思う。 

 

日野武道研究所さんのサイト(←この方も肝心かなめの動きを知っていると思う。もとフリージャズのドラマーの方で、ダンサーやスポーツ選手など広く教えている) 武道・ダンスなどの身体表現・介護などのワークショップをされている。腰ではなく、胸骨を意識して動くことによって結果的に腰の位置が決まって身体全体も動くようになる、という考え方は、とても的を得ていると思う。「ここを動かしたい!」と思うと、「ここ」は動かなくなってしまう。人間の心は不思議だ。「腕の力を抜いて!」と言われて、腕の力を抜こうとすると、逆に緊張してこわばってしまうのだ。 ダンサーや役者や歌手や楽器演奏家が、心身をメディアにして生と性を表現するのに対して、武道では心身を使って生と死に対峙する。 芸術と武道は、 --- 生 - 性 - 死 - 生 - 性 - 死 --- という、何十億年か前に始まった命のサイクルにおいて、つながっている。 舞踏家などヨーロッパ人の芸術家たちが、芸術を更に極めようと、日本の武道家に教えを請いにやってくる。日本人の西洋芸術家はどうか? 「日本の武道は私が夢見て憧れるヨーロッパの雰囲気にまったくそぐわない」と感じるその気持ちはわからなくもないが、もう21世紀も20年も経ったんだから、いい加減そろそろ盲目的な西洋カブレから卒業する時ではないか。自分の国の文化を見ないようにすることは、自分を否定することだ。そんな自己否定の病んだ精神では、何をしても背骨の無いものしかできない。日本人が西洋音楽をやれば「日本化した西洋音楽」になることは、避けられないが、だからこそ、日本オリジナルの強力な音楽が生まれるのだ(そういう日本発の強力な音楽の代表が、シティポップやゲーム音楽だ。とくに、今の世界中の40歳前後の人たちの心の音楽は、子どもの頃に聞いて育った「スーパーマリオブラザーズ」や「ファイナルファンタジー」だ)。正統派の西洋クラシック音楽については、ご本家の人々にお任せするのが最も自然で無理がない。行ったことも住んだこともほとんどない日本の、伝統芸能の歌舞伎を、ヨーロッパで一生懸命に学んで、片言の日本語しかできないけど、2,3年だけど日本に留学したりもして、なんとか習得したので、私は正統派の歌舞伎を伝承しているのです!ってヨーロッパ人に言われたら「はぁ~?」ってなるでしょ? 日本人が西洋クラシック音楽にこだわるんだったら、日本人ならではの「武道の精神と身体操作に基づく日本流西洋クラシック音楽」を追求すれば、正統派には絶対にならないが、キャラ立ちがスゴい音楽になる、というか、それ自体がもうひとつの流派になる。日本の舞踏のように。 

 

★こんにゃく体操 (←もともと芸大のオペラの生徒たち向けの体操らしい。俳優やダンサーや歌手などの身体表現のプロ向けの印象があるが、素人も参加できる。) 芸大で教えられていたので、野口三千三氏による野口体操と関係があるのかもしれない。 かなり以前に、この体操のレッスンに参加したことがあるが、その日の先生がオペラ歌手の方で、話し声からすでにオペラだったのでビックリした。 その人の体格や骨格の柔軟性や筋肉量が声に表れると思った瞬間だった。 床に寝そべって前後や左右に転がったり、身体をグニャグニャ動かしたりと、レッスン中は常に身体を動かしていた。 役者やダンサー向けのレッスンで、レッスンが終わって私はグッタリ疲れたが、これだけ動くレッスンを続ければ、かなりの効果があるだろう、と思った。 

 

各種ボディーワークのレッスンはいろいろあるが、やはり、運動着などに着替えて始終自分が動く内容のレッスンが効果的だと思う。 とある身体操作のレッスンで、着替える必要もなく、参加者の中から何人か選んで、彼らの身体操作の悩みを先生が解決し(そんなにすぐに解決できるものなのかな?)、残りの参加者たちは動かずにそれをずっと見ている、みたいな進め方のレッスンに参加したことがあるが、それでは費用対効果が小さいし、だいいち、自分と同じ参加者たちのお粗末な動きばかりが自分の脳に転写されて、むしろ逆効果だと思う。 ちゃんと運動着に着替えて、レッスン中は良いお手本の先生の動きを見ながら自分の身体を動かし続ける、という内容のレッスンを受けるのが良いと思う。

 

★八田永子さんのサイト(←体操・バレエなど、指導者も含めて指導。ピアノでもバレエでも体操でも、この方のような身体操作のプロにダブルで習わないといけないんだろうなぁと思った(つまり、ピアノやバレエや体操などの指導者は、人間の動作の基本である身体操作のノウハウを知らないで教えていることが、多くの悲劇を生むモトになっていると思う。)) 身体がねじ曲がって骨格が歪んだ状態で、特にクラシックピアノなどの楽器の演奏技術中心のレッスンを受けても、上達しないうえに、末端の動きに関する注意を何度もされることになり、進歩がないばかりか精神的に悪い。 そんな状態で狂ったようにハノンを練習するくらいなら、おおもとの骨格の捻じれを解消したほうが、はるかに上達への近道だ。

 

★体玄塾さんのサイト(←同上。バレエでもちゃんと立てない人がいる、つまり、バレエ教室では立ち方をちゃんと指導されないんだと知った。)

  

きだみのる鍼灸整骨院さんのサイト(←武道出身の方。ストリートダンスの身体操作を指導。一般の人向けのワークショップもある。武道系出身の方は身体操作への意識が鋭いと思う)

 

上記の方々の注目ポイントや表現や言葉はそれぞれだが、根本的には同じことを言っていると思う(おなじヒトの身体のことなので)。

 

 

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④♡メンタルトレーニング、メンタル関係の書籍:

 

♡ J.E.サーノ: 「サーノ博士のヒーリング・バックペイン」 「心はなぜ腰痛を選ぶのか」 メンタルが身体に及ぼす影響について参考になったた。楽器演奏・声楽関係の患者さんの例もちょこっと出ていた。 社会的なプレッシャーや同調圧力による心の病理は日本特有のものと思われがちだが、そうではない。 アメリカ人も日本人も、同じストレスで苦しんでいて、それが身体の痛みとなって表れるのだ。

 

♡ Kenny Werner  Effortless Mastery - Liberating the Master Musician Within 

著者はジャズピアニスト。 膨大な練習量をこなし、普段はミスタッチもしないようなプロが、ここ一番でどうして崩れてしまったり、ひどい場合は、メンタルを蝕まれてピアノ自体が弾けなくなってしまうのか。 プロの音楽家がメンタルの重圧に対処するための本。 メンタルトレーニングで「ゾーン」等と呼ばれている「三昧(ざんまい)」の境地を、著者は「space」と呼んでいる。

私の所感: アマチュアは、この本に書いてあることを実行しても、間違えるところは間違える。だって、基本的にアマチュアは、絶対的に練習不足だから。 とはいえ、アマチュアでも、読むと参考になると思う。

 

♡ William Westney  The Perfect Wrong Note - Learning to Trust Your Musical Self

日本語の翻訳本のタイトルは『ミスタッチを恐れるな』だが、原文の英語では、そのような上から目線で脅しつけるような題名ではない。 だから私は英語の原書で読んだ。 クラシックピアノをやる人向けだが、メンタル面で参考になる内容も多い。 この本で引用されていた、アマチュアのチェロ奏者の方のコメントは、アマチュアにとって、とても参考になる(この、チェロ奏者の方の本も出版されているが名前を忘れました。日本語訳も出ていると思う)。『ミスタッチを恐れるな』という日本語版のタイトルは、外国の文化を日本語に翻訳した際に起きる文化的なすり替えの典型的な例です。このように、日本向けにローカライズ(ジャパナイズ)されたタイトルでは、読む人はますますミスタッチを恐れるようになってしまいます。なぜなら、このタイトルを見た人の心に刻まれるのは『ミスタッチ恐れる』だからです(とくに、漢字の「」の強烈な負のインパクトが心に刻まれてしまう。漢民族に「殷」と差別的な名称で呼ばれた「商」の人たちが作った表意文字(後に漢字と呼ばれるようになった)には、「商」の人たちが行っていた呪術の力(呪力)が込められている)。西洋音楽を日本の偉い人達が日本向けにローカライズ(ジャパナイズ)した際に起きたことについては、次の記事で触れました:大人のピアノは、レッスンを受けるべきか?独学か?_003 - おんがくの彼岸(ひがん)

 

♡ Louise Hay You Can Heal Your Life,  The Power Is Within You

アメリカの自己啓発で最も名の知られた一人。 日本語訳も出ていると思う。 自己重要感が低くて何をするにも自信がない人にとって、励みになる著作が多い。  

平易で、強いメッセージ力がある英語の文章や語り口が、英語コミュニケーション力のためにも、役立つと思う。 日本語でも英語でも、シンプルでわかりやすい言葉づかいが、最も強力に人に伝わるのだ。

私はこの人のオーディオブックを何冊か持っています。本人が朗読していて、言葉に力があります。 オーディオブックと、英語の原書と、日本語訳の本を入手して、聞いたり読み比べたり何度も音読やシャドウイングをしているうちに、英語が上達すると同時にポジティブな心持ちになっていって、一石二鳥ではないかと、私は思います。 英語の原文がシンプルでパワフルなので、できれば英語の原文で読むととても効果的だと思います。 

運転者(所有者)のメンタルがクルマ(やパソコン)の不具合に表れる、という視点は興味深い。私も、演奏者のメンタルは演奏の巧拙や音に表れる、と思っています。自分の演奏に自信がある人の演奏は上手く聞こえる、というか、本人の本当の実力が如何なく出ます。自信があれば、身も心もリラックスして伸び伸びと弾けるからです。

前述のJ.E.サーノさんの著作と同様に、HayさんのYou Can Heal Your Lifeからは、1980年代のアメリカ社会の心の病理がうかがえる。「日本社会の病理」と呼ばれるものは、日本特有のものではない。アメリカは、同じ社会的な病理において、日本の20~30年ほど先を走っている。アメリカ社会における同調圧力(peer pressure)や社会的圧力(social pressure)、男性や女性の各ジェンダーへの社会規範の縛り、親から子へ受け継がれる負の連鎖、子どもへの虐待、がんなどの病気や身体の不調、女性の社会進出にともなう女性特有の病気の増加、社会全体の自信の喪失、伝統的な宗教への失望とニューエイジ・ムーヴメント。ちょうど、エイズが世界的な脅威となっていた頃だ。今ではほとんど忘れられているエイズ。2020年現在のコロナと符合する何かがあるのではないか。ヴィクトリア時代の価値観や世界恐慌が、当時のアメリカ人のトラウマになっていたことを、この本で知った。強い国アメリカの、人々の弱い心。どの国の人であっても、人の心は、同じように弱く、傷つきやすい。だからこそ、今の自分を前向きに認めることが、生きるうえで死活的に大切だ。Hayさんの「All is well.」は、人の弱い心を占領しようとする悪魔(ネガティブ思考)を霧散霧消させる、強力なお祓いの言葉だ。そして、日本にも、非常に強力で、たいへんにめでたい、寿ぎ(ことほぎ)の祓い言葉がある。赤塚不二夫先生の「これでいいのだ。」なのだ!

 

★ 内田樹 『修業論』 

武道でもスポーツでもピアノなどの芸事でもなんでも、何かの道を探求する場合は、読むと損はない本。 「師弟関係のダークサイド」の内容は、まさにそのとおりだ!と思った。 

私の経験では、芸事を先生に習う場合は、先生の向いている方向に着目すると、良い先生を選べると思う。 背中をこちらに向けている先生が、良い先生だ。 今も芸の道を現役で追求しているからこそ、後に続く生徒に背中を向けて、前を歩いている。 背中で教える、背中で引っ張っていってくれる先生。 先生の一挙手一投足、つまり芸が、生徒を教えてくれる。 これに対して、身体が生徒の方に向いている先生は、もう現役で芸の道を歩いていない。 むしろ、教授法の道を歩いている。 このような先生は、生徒に対して、技術の一般論や注意といった、言葉による指導が多くなる。 言葉は、実際の芸ではない。 実際の芸は嘘をつかないが、言葉は先生の脳の前頭葉から発せられるので、先生の脳内に有るかもしれない虚栄や脅し(intimidation)が入り込む可能性がある。

 

★ 渡辺和博とタラコプロダクション 『金魂巻(きんこんかん)』 

バブル時代に一世を風靡した言葉「マル金マルビ」の出どころがこの本。 「すべての物事には良い事にも悪い事にも加速度がついている」という10代の頃からの私の人生訓に、ダメを押してくれた本であり、私にとっての聖書です。 「聖書といっしょにするとは、不謹慎な!」 いえいえ、この本のテーマと同じ内容が、新約聖書の誰かによる福音書(マタイかマルコかルカかヨハネか忘れた)に書かれていたと思います。 それは、現代バージョンにするとこんな内容です: ある社長さんが数年間の長期出張に出発する前に、3人の社員(A,B,C)に対して、「自分の不在中に増やすように」と、それぞれの能力に見合ったお金を託した。 社長の不在中、100億円を託された社員Aは、それを元手に新規事業を立ち上げたら大成功して、100億円をまるまる回収したうえに、さらに100億円の利益が出て、トータルで200億円に増やした。 1億円を託された社員Bは、「自分はAさんのようなビジネスセンスは持ってないけれど、投資ができる!」と、そのお金を金融市場に投資して、1億1,000万円に増やした。 100万円を託された社員Cは、「AさんやBさんみたいなことは、自分にはとてもできない。自分は無能だから、できるはずがない、無理なんだ!それよりも、泥棒にお金を盗まれるかもしれない、困った困ったどうしよう!?」と、お金をカメの中に入れて土の中に埋めておいたから、100万円から1円も増えなかった(が実際には、時間価値の分だけ100万円の価値が目減りしてしまった)。 社員A,B,Cのうち、誰が天国に入れて、誰が地獄に行くでしょうか? と、イエス・キリストは弟子たちに尋ねた。

金魂巻』は、いろいろな職業における「マル金」さんと「マルビ」さんの人生を、淡々と比較していきます。 アナウンサー、会社員、医者、専業主婦、女子大生、ホステス、不良学生...、そして、ミュージシャンの「マル金」「マルビ」比較も。 今では古本でしか手に入らないかもしれませんが、この世の冷徹な摂理をあぶり出すこの本のテーマは、実は、人の心についての永遠のテーマです。 イエス・キリストは言いました:「天国は、あなたがたの心の中に有るのです」。 

 

以下は、①の日本の古典の項目で既に記載した方々です:

♡★ 森田正馬 『神経質の本体と療法』  メンタルが身体に及ぼす影響について参考になった。楽器演奏・声楽関係の患者さんの例もちょこっと出ていた。

 

♡★ 池見酉次郎 『心療内科  同じく。メンタルが身体に及ぼす影響について参考になった。楽器演奏・声楽関係の患者さんの例もちょこっと出ていた。

 

 

以上です。 

私は、もはやピアノがどうこうよりも、将来、人工股関節を入れなければならないのではないか? という大きな危惧のもと、少しでも身体をほぐそうと、一年半やってきました。

現時点で、だいぶ身体の左右差がなくなってきたと感じています。

 

この世で生きていくことは、人間を固めていくことだと思います。 大多数の人たちは、幼い時から、自由な個性や才能の芽を摘まれて、社会の規格の型にはまるように訓練&教育されていきます。 じゃないと、職場で協調して仕事ができないからです。 仕事ができなければ、お金を稼げませんから、生きていけません。 継ぐ稼業も資産もなければ、自分がコマネズミのように働きまくってお金を稼ぐしかありません。 だからほとんどの人たちが、自分の夢を殺して、息を止めて(「生きる」を止めて)、毎日毎日、決まった仕事をする歯車として働いています。 フニャフニャの歯車では、仕事になりません。 心も身体も固めて、業務遂行のために緊張状態を保持して、みんなカチカチの歯車になって、それが互いにかみ合いながら、おおきな社会をまわしているのです。 歯車ひとつひとつは、社会がまわっていくために、とてもとても重要なのです。 だから、そのように生きてきて、身体がコチコチに固まってしまっても、恥じることはありません。 むしろ、誇りに思うべきです。 身体が固まってしまったのと引き換えに、良いこともたくさんあったはずです。 ただ、歳をとっていくと、医療費がかさんでゆくし、健康を損なうと、やりたいこともできなくなって、幸せが遠のきますから、そのためにも、できる範囲で身体をほぐしていったほうがよいと感じています。  

 

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以下は、ほぼ今までの記事のままです:

 

よく言われることですが、「できない、できない」と思っている限り、または、「あなたは、できない」という内容の言霊を受け続けている限りは、いくら必死に練習しても、できるようにならないと思います。まずは、否定的な言霊の発生源を徹底的に排除して、「できる」という心理になる環境を整備することです。

 

それから、やっぱりよく言われることですが、何についても、自分の頭で考えながら練習することが、とても大切だと思います(ダルビッシュ投手もそう言っていた)。ある方法で練習して成果が出なかったら、自分の内部感覚を研ぎ澄ませて、いろいろな本やサイトを読んだり、興味のある身体操作のレッスンに通ったりして、それらの知識を自分にカスタマイズするべく、いろいろ自分で考えて試行錯誤してみることが大切だと感じます。

 

 身体操作については、まずは生きていくための肝心かなめの動きを自分で会得しようと、いろいろ試行錯誤することによって、楽器の演奏のための身体的な技術も大きく向上すると、実感しています。 なぜなら、手先の動きだけ一生けんめい矯正しても、モトがひん曲がっていれば、モトからの力のほうが圧倒的に大きいので、ねじったゴムひもを離したときのように、すぐに戻ってしまうと思うからです。

 

それから、最も基本的なことですが、幸せに、肯定的に生きていけるように心がけることが、姿勢のためにも、身体操作のためにも、趣味のためにも、そして何より人生のために、とても大切だと思います。

 

 

以下は、2018年3月24日にアップした元の記事です:

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楽器の演奏というか、それ以前の、生きるための自然な身体の動かし方を模索していますが、

 

生きるための基本的な姿勢や動きができていることが、楽器演奏でもスポーツでもダンスでも、すべての基本なんだと実感しています。

 

たとえばピアノで、いわゆる「指がよく回り」、音量や音色の調節ができる人は、スポーツやダンスもある程度できて、しかも声が良いはずです(肩まわりが柔らかい証拠)。だって、運動オンチの人がピアノを弾く時だけ身体が素晴らしく動くはずがないからです。体格や指の長さのない小柄な人はなおさら、運動神経で身体的なハンデを補わなければなりません

(↑ただし、「メカニカルに上手い」ことと、聴く人の心を芸術的に感動させる演奏の間に、相関関係は全くないと思います (技術的に「感心」させることはできると思います)。)

 

身体が硬いと股関節も硬いと思うので、まずはそれを柔軟にしないと、楽器はおろか、何も始まらないと感じています。

 

 股関節が硬かったり、左右の股関節の開きが具合が全然違う場合は、楽器の演奏以前の問題として、まずは健康のために股関節を柔らかくするのが先決だと思います。それによって、動きの質が良くなり、生活の質も良くなって、それに比例して楽器でもダンスでも、その人の身体能力に見合って楽しくできるようになると信じています。

 

身体が硬くて運動オンチの人は、だいたい真っ直ぐ立つことも座ることもできないので、身体の芯の動きも悪く、末端の動きや見た目の形だけ細かく指導されてもうまくいかないと思います(逆に、先生は身体が柔らかいから、生徒ができない理由が想像できないんでしょう)。でも、いろいろなサイトを見ると、プロのミュージシャンでも、身体が柔軟なスポーツ選手やダンサーでも、ヒト本来の身体の動きができている人は少ないようです。

 

おそらく、日本の武道を下敷きにした身体操作による楽器の演奏法が、日本以外の場所で開発されて世界的に広まる時が、いつか来るんじゃないかと思います。そして、『弓と禅』など禅を下敷きにしたメンタルトレーニングを本家本元の日本人が有難がって逆輸入しているのと同じような情けない現象が、楽器演奏の分野でも起きるのではないかと感じます。この予感が是非とも外れてほしいと、強く思います。

 

(こんなブログでも、どこかで見ている方がいるみたいで、ほかのピアノブログでこの一連の記事にインスパイアされたような記事のタイトルを見かけるなぁと思ったことがありました(内容がかぶらないように、たまに見ていました)。それから、たとえば絵画などの趣味ではそんなことはないように思うのですが、クラシックピアノをやっている人で、練習に悲壮感がただよっている人が多い気がするんですが、どうしてなんでしょうね? 何がそうさせるんでしょうか?それとも、そういう傾向のある人がやりがちなんでしょうか(悩んでいる状態が好きな人もいますからね)? 「クラシックピアノは肉体系のスポーツだ」と思うことで突破口が開ける(または、いい意味であきらめがつく)ような気がしますし、楽譜の正確な再現ばかりを気にするのではなくて、その曲について音楽理論的な解釈を楽しんでみるとか、いろいろな楽しみ方があると思います。そうすれば、頭脳系の活動も入ってきます(ちなみに、即興演奏で音楽理論が必要なジャズや、理論に加えて音色合成などが必要なポップスは、頭脳系の要素が大いに入っています)。 どんな趣味でも、楽しくやっていけるといいですね。)

 

 

関連記事:

2019年3月9にアップした記事:

身体操作&メンタル面で参考になると思うサイト(20190309アップデート) - おんがくの彼岸(ひがん)

2018年8月18日にアップした記事:

身体操作&メンタル面で参考になると思うサイト(20180818アップデート) - おんがくの彼岸(ひがん)

2018年3月24日にアップした記事:

身体操作で参考になると思うサイト - おんがくの彼岸(ひがん)

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