ピアノ方丈記

音楽の彼岸にて【指の健康寿命を気遣いながら!】シニアのピアノ一人遊びの日々

人生は複式簿記だ

 

ピアノ教師をはじめ自営業の人たちは、そろそろ確定申告の準備を始める頃だろう。 白色申告ではそうでもないが、青色申告する場合は複式簿記の知識が欠かせない。

 

人生は複式簿記だ、というのが、私の人生訓のひとつだ。 私が今まで生きてきて悟った人生訓は: 

①あらゆる物事には加速度がついている

②人生は複式簿記

である。 

 

① あらゆる物事には加速度がついている: 

中学生の時に、そう悟った。 病気で学校を1日休むと、その分だけ授業についていけなくなる。 ついていけない部分を取り返そうとするうちに、日々授業が進んでしまって、どんどん遅れていく。 そして、ついていけない状態が定着してしまい、テストの点数が落ち、劣等生の身分が確定してしまい、どんどん劣等生になっていき、ますますその身分が定着してしまい...。 という、負の連鎖になる。 だから、学校を一日休んだら、授業の遅れ幅が小さいうちに、死に物狂いで追いつかなければ、負の連鎖にどんどん加速度がついてどんどん遅れていってしまう。 ところが、病み上がりで死に物狂いは、それだけですでに負の状況だ。 つまり、最初から病気にならないようにして、学校を休まないようにする。 これが、正の連鎖への死活的なレシピなのだ。 

中学時代にもうひとつ思ったのは、体が不調の日についてだ。 頭痛がしたり熱があったりする朝は、まずいつも通りの時間に起床できない。 でも学校がはじまる時間は同じだから、体調が悪くて起きるのが遅くなってしまっても、健康な日よりも少ない時間で急いで支度をしなければならない。 そして、本来ならば、体調が悪くて歩くペースが遅くなって通学時間に時間がかかるから、いつもより早く家を出る必要がある。 それなのに、体調が悪くて起床できず、支度の時間も少なくて、それでも調子が悪いから支度のスピードが遅くなって、いつもより遅い時間に家を出て、遅刻をしないようにと、健康な日よりも早いスピードで歩かなければならなくなる。 つまり、「指数関数的な泣きっ面に蜂」状態に陥(おちい)るのだ。 体調が悪い⇒起床時間が遅れる⇒短い支度の時間なのに体調が悪いから支度に長く時間がかかる⇒家を出る時間が遅れる⇒いつもより短い通学時間で体調がすぐれないのにいつもより早いスピードで歩かなければならない⇒そんなこと無理!⇒遅刻が確定! マイナスがどんどん雪だるま式に重なっていくのだ。 そのようにならない方法は、一つしかない。つまり、さいしょから体調が悪くならないようにすればよいのだ。 いつも体調が良ければ、早く起床できるし、動作が機敏だから支度も手早くできるし、歩くスピードも速いから、遅刻しないで楽々と学校にたどり着ける。 正の連鎖はますます正の連鎖を生み、負の連鎖はますます負の連鎖を生む。 だから、「あ、いま自分は、負の連鎖に巻き込まれようとしているな」と感じたら、すぐさまアクセルを思いっきり踏み込んで、すぐさま正の連鎖に戻す必要がある。 さもないと、どんどん負の連鎖が加速して、どんどん落ちていってしまう。 落ちるところまで落ちると、負の引力がすざまじくて、もはや挽回することが不可能になる。 そして、永遠に落ちていく、その落下スピードには刻々と加速度がついて、ものすごい勢いで永遠に落ちていってしまう。 このような状態を、昔の人は「地獄」と呼んだのだ、と私は思う。 だから、自分の運命の車輪が少しでも後ろに回り始めたと感じた瞬間に、全身全霊をかけて全力で車輪を前に回すようにすることが死活的に必要だ。 

バブル時代に『金魂巻(きんこんかん)』というベストセラー本があった。 買ってから30年以上経った今も本棚にある、私の聖書というべき本だ。 この本に、次のような内容が書いてある:「この本を作るに当たり、さまざまな職業の「マル金(お金持ち)さん」と「マルビ(貧乏)さん」を取材しました。その結果わかったことは、お金持ちにはますますお金が集まってますますお金持ちになり、貧乏人からはますますお金が無くなってますます貧乏になっていくということでした」という趣旨の文に、当時私は衝撃を受けたのだ。 これも「あらゆる物事には加速度がついている」と私が中学時代に悟ったことを裏付けてくれた。 

仕事もそうだ。 仕事の能力が高い人にはいつも仕事が入っていつも忙しい。 そして、そういう人に限って、絶え間なくいつも仕事をしているから、ますます仕事の経験値が上がって、ますます仕事の能力が高くなるから、さらにますます仕事が入って、稼いだお金を使う暇もないほどますます忙しいから、お金がますます貯まっていく。 反対に、能力が低い人には仕事があまり来ないから、仕事の経験を積むことができないので、仕事の能力がなかなか上がらず、ますます仕事が来なくなってますます暇になってますますお金が無くなっていく。 一点だけ注意すべきは、仕事で忙しいことは結構なのだが、健康を害さない程度に仕事量を調節することが肝要だ。どんなに仕事が出来て仕事で毎日忙しい人でも、ひとたび健康を損ねると、仕事を減らさなければならなくなり、「仕事が無い⇒暇⇒おカネが無い」の負の連鎖が始まってしまうからだ。 今まで生きてきて、自分や自分が一緒に働いた人たちを見て、そう思った。 仕事がデキる人ほど、周りから頼りにされていつも忙しく、忙しいから銀行口座に振り込まれた給料を使う暇が無いので、お金がどんどん貯まっていく。 そういう人たちや、その反対の人たちを、私を含めて、今まで見てきた。

 

② 人生は複式簿記だ: 

社会人になって複式簿記の知識を得て以来、つくづく思うのは、人生は複式簿記である、ということだ。 複式簿記のコンセプトは、「ひとつのおカネの動きには、鏡のこちら側と向こう側のように、【①こちら側の動き】と【②向こう側の反対の動き】が必ずセットで起こり、①と②は必ず相殺し合ってバランス(均衡)する」という考え方だ。「バランス(均衡)する」というのは「釣り合う」ことだ。 たとえば、自分の銀行口座に10万円振り込まれた場合。 「自分の口座のお金が10万円増えてラッキー!」と思えるかどうかは、その10万円がどのように手に入ったかによるのは明らかだ。 その10万円をカードローンで借りたのであれば、【①銀行口座のおカネが10万円増えた】ことは【②10万円の借金を背負った】ことと釣り合う(=バランスする)。 借金を背負ったのだから、ラッキー!どころではない。 あるいは、その10万円が、自分が仕事をした報酬として会社やクライアントから振り込まれたのであれば、【①銀行口座のおカネが10万円増えた】ことは【②自分の収入が増えた】ことと釣り合う(=バランスする)。 自分が汗して働いて会社やお客様(つまり世間様=社会)にお届けした価値がお金に姿を変えて、世間様(社会)から返していただいた、まさに自分の稼ぎだから、社会人として仕事を成し遂げて報酬を得た達成感と充実感で嬉しい気持ちになるだろう。 これらの場合、複式簿記では、「バランスシート(貸借対照表)」という表の左側の欄に【①銀行口座のおカネが10万円増えた】ことを記録して、【②】については、カードローンで借りたお金であれば右側の欄つまり「鏡の向こう側」にある【借金】の項目に【借金が10万円増えた】ことを記録するか、あるいは、仕事をして稼いだ収入の場合は同じく右側の「鏡の向こう側」にある【収入】の項目に【収入が10万円増えた】ことを記録して、左【①】と右【②】の金額が鏡のこちら側と向こう側で釣り合う(=バランスする)ように記録する。

このような複式簿記の考え方は、個人の確定申告や企業決算に限らない。 人生において、自分が労すること無く誰かから価値の有る何かをもらっちゃった瞬間に、鏡の向こう側では、いつか必ず何らかの形でその分の価値をお返ししなければならない義務が生まれているのだ。 ローンでおカネを借りた時とまったく同じだ。 働かずしてまとまったお金を得たら、必ず全額、しかも利息をつけて返済しなければならない。 これを言い換えれば、「自分が努力すること無く誰かからもらっちゃった」価値に見合う分だけ、実は「自分は借金(負債)を背負い込んだことになる」のだ!  つまり、棚ボタのように「前払い」でもらっちゃった価値の分だけ、いつか必ず、返済しなければならなくなる羽目になる。 ローンばかりではない。 この世では、労働サービスなり商品を相手方にお納めしてから、その対価としておカネを頂戴するのが普通だが、まだ労働サービスを提供したり商品を納めていないのに既に「前金」でその代金を受け取っちゃった賃金や商品代金などの「価値」は、「人生のバランスシート(貸借対照表)」の左側の【①前金でもらっちゃった価値】が増えると同時に、鏡の向こう側では、それと釣り合う(=バランスする)【②「前受け収益(unearned revenue)」という名の借金】として記録されてしまうのだ! 「前受け収益(unearned revenue)」とは、「まだ、労働なり商品を納品するなどして稼いで(earn)いないのに(unearned)、前金(先払い)でおカネを頂いちゃった(revenue)から、いつか必ず労働や商品でキッチリ返済致します」という意味だ。 つまり、ローンと同じことなのだ。 【①前金(先払い)でもらっちゃった価値】つまり「前借りした価値」が増えた分だけ、【②いつか必ず返済すべき義務】つまり「借金」も増えて、両者が釣り合う(=バランスする)のだ。 「前受け収益(unearned revenue)」と呼ばれるこの借金を背負ったからには、将来、いつか必ず、労働サービスや商品をお納めしてキッチリ返済しなければならない。 つまり、自分で汗すること無く何らかの価値を「前払いで」貰(もら)っちゃったことは、ローンとまったく同じで、もらっちゃったというか「前借り」した瞬間に、それに見合った将来の返済義務(借金=負債)を背負い込んだことになるのだ。 たとえば、子供の時にたくさんお金をかけて育ててもらったり、大きなものを買ってもらっちゃった人は、その人の「人生のバランスシート(貸借対照表)」の左側の、「現金」項目といった「資産の部」の額が増えるが、複式簿記の世界では、その増えた額の分だけ、バランスシートのどこかに、それを打ち消して相殺する金額が生じている。 その相殺金額が生じる場所によっては、その子供は大きな借金(負債)を背負わされたことになるかもしれない。 たとえば、子供時代に親にさんざんおカネをかけてもらった末に、自分が老境に達してから後期高齢者になった親の介護に日々忙殺されている場合は、親にかけてもらったおカネが「資産の部」に積みあがっていたのと同時に、鏡の向こう側の「負債の部」の「前受け収益(unearned revenue)」つまり「将来いつか必ず、労働奉仕なり物品なりで返済しなければならない借金」も積みあがっていたのだ! つまり、人生の最初の段階で「前払いで」親からもらっちゃった恩恵の価値は、実は、もらっちゃったのではなく、親から前借りしたローンだったのだ! だから、もらっちゃった時点で、自分の人生の後半になったときに、自らが親専属の介護ヘルパーになって労働奉仕して親に返済しなければならない義務を背負っていたことになるのだ!  別のケースもある。 親から投資してもらって「資産の部」に積みあがっていたおカネの価値が、結果的に「費用」として泡(あぶく)のごとく消失してしまったケースも、プラスの価値が「費用」というマイナスに相殺されてバランス(均衡)する。 「費用」とは「使って無くなっちゃいました!」ってことである。 この場合は、「養育費や義務教育に加えて、小さい頃からの習い事⇒大学受験費用⇒大学の学費⇒海外留学費用と、親にあんなにたくさん投資してもらったおカネが、生き金となる資産に定着することができずに、単なる「使って無くなっちゃいました!」な「費用」として泡のごとく消えました。はいおしまい!」ということである。 この場合、親が子供のために費やしたおカネは、親の単なる趣味道楽に「使って無くなっちゃいました!」なおカネだったのだ。 この場合の親の趣味道楽とは、わが子の人生のことだ。 

逆に、親にかけてもらったおカネが、自分の「固定資産」勘定にしっかりと定着して、鏡の向こう側の「資本金」とバランスしながら、着実に積みあがっていれば、将来、その「固定資産」を元手にお金を稼ぐことができる。 「資」とは、「それを使ってさらにお金を稼げる財つまり新たにお金をめる財」のことだ。 こういう場合は、親のおカネが「生き金(がね)」になったことになる。 これを親孝行という。 サラリーマンの場合がこれにあてはまる。 親にお金を出してもらって高校や専門学校や一般大学を卒業した後、その学歴を「ブランド(無形固定資産)」に使って一般企業に就職すれば、親が自分にかけてくれたおカネを数年で回収できるし、それ以後も働き続ける限り、働いて稼いだおカネがどんどんプラスに積みあがっていく。 こういう子供は、人生の早い時点で親から経済的に独立するので、親も子供に富(とみ)を食われ続けることが無いから親自身が蓄財できて、老後に自分で介護ヘルパーを雇うなどの経済的な余裕ができる。 代々開業医を営んでいるなど商売人の家系もそうだろう。 自分も国家試験に合格して医師の免許を取得して親の医院を継げば、親の事業用固定資産(医院の土地)や、家系に代々受け継がれる医療ビジネスのノウハウや顧客基盤(=患者)などの無形資産を生かすことができるし、それらを生かして自分が医者になるまで親が払ってくれた学費を回収することは難しくないだろう。  反対に、大学卒業まで多額のお金を出してもらった上に留学までさせてもらったのに、家業も継がずに社会に出てからも低賃金の不安定な仕事を続けたり続けなかったりしながら自分の夢を追い続けて、いつまでたっても経済的に親に頼ってばかりの人生を歩んでいると、親の富(とみ)を食いつぶした分だけ、その分の価値をいつか自分が労働してお返ししなければならない「未来の返済義務」が、負債の部の「前受け収益(unearned revenue)」という名の借金として積みあがっていき、最後には、子供である自分のために富(とみ)を使い果たした親を、その親が死ぬまで介護するという労役義務が待っているか、あるいは、親の身代を食いつぶすばかりの「石(ごく)つぶし」として一族の間ですっかり信用を失って皆から疎まれ嘲笑される厄介者の身分になる。 「石(ごく)つぶし」になった場合、親があなたにかけてくれたおカネのプラスの価値は、あなたの社会的信用が失われたマイナス分と、バランス(均衡)してトントンに終わったのだ! 

人生は複式簿記だ。 私の場合は、大学卒業後に企業で働いて親から経済的に独立して、それがある意味、私のこの世の「人生のバランスシート(=貸借対照表)」の【資産の部】の「前払い費用」つまり「この世で私が果たすべき務めを前もって果たしたので、あとは将来その分の価値を受け取るだけです」という資産として積みあがっていたようで、おかげさまで今は、自分が親の介護ヘルパーになるような「未来の労役義務」という借金は背負わなかったようだ。 学生時代に塾や習い事や海外留学にお金をかけてもらっていた同級生が、今は親の介護で日々実家通いをしているという話を聞いて、ふとそう思った。 逆に、人生の早いうちに自分がこの世でなすべき労役義務を、前もって繰り上げ納入しておけば、その分だけ、人生の後半になってから、前払いで納入した労役義務の分だけ積みあがったプラスの価値を少しずつ切り崩しながら、子供の頃に追い求めたかった趣味の音楽を細々ながらも続けられる平穏な日々を過ごせるみたいなのだ。  

 

ここまで書いて記事をアップした後に、もうひとつ、私の人生訓があったことに気が付いた。 それは: 

 

③ 身代(しんだい)はタダではもらえない

これは、実家から嫁や婿に出された人にとって「嫁ぎ先や婿入り先の家の身代(しんだい)はタダではもらえない」という意味、だけではない。 実の親の身代もタダではもらえない、と私は思う。 理由は、②の「人生は複式簿記だ」からである。 世の中は自らを助ける者が自らを助けるようにできていると、私はしみじみ思う。  

 

もうひとつ私の人生訓があった!それは:

④ 夢は買うもの。仕事は稼ぐもの

やればやるほどおカネが無くなる活動は、夢。素人の趣味道楽だ。 おカネが稼げないばかりでなく、稼ぎが少なくて、自分がその活動のために投資した(または誰かに投資してもらった)投資金額を何年たっても回収できずに、今までの人生におけるその活動の最終的な収支が「持ち出し(損失)」であり続けている活動は、「これが私の仕事です!」と思い込んで続けている場合は、今すぐやめたほうが、自分(または誰か)のおカネをこれ以上ドブに捨てることがなくなる。 いつまでたっても収支が「持ち出し(損失)」の活動とは、やればやるほどお金が無くなっていくんだから、それは「夢を買い続けている状態」つまり言い換えれば趣味道楽なのであって、仕事でも事業でも何でもない。 だから、赤字を垂れ流し続ける企業を清算して消滅させるのだ。 赤字続きの企業を清算して消滅させると、株主(投資家)の持っている株券が紙切れになってしまうけれど、企業活動を今すぐやめさせればこれ以上は損が増えることがないから、企業の息の根を止めるのだ。 苦渋の決断だが、将来の出血(おカネの損失)を抑えられるから、企業を清算して終わらせるのだ。 

反対に、その活動をすればするほどおカネが入ってくる活動は、現実。 これが、プロの仕事だ。 仕事は稼ぐもの。 仕事とは、活動の収支がプラス(利益)になる活動のことだ。 そのように考えれば、今自分が続けている活動が、夢(素人の趣味道楽)なのか、現実(プロの仕事)なのかが、はっきりするだろう。 現実の世における「仕事」とは、自分にお金を払って下さる会社やクライアント(つまり世間様=社会)の利益や便益や幸せや快楽のために、自分の限り有る人生の時間を削って、彼らが望む労働やサービスを献上することによって、その対価としてお金を頂戴する活動のことである。 そのことが、骨身に染みるだろう。 

仕事とは到底言えない、自分の夢(素人の趣味道楽)を叶えるためだけに行う自分本位の活動にいそしむのなら、他人様を巻き込んだ挙句に他人様の貴重な人生の時間や労力やおカネを強奪することのないように、自分が浪費できるおカネの範囲内で自己満足で楽しむのが、他人様つまりは世間様のためだ。 世間様はね、仕事で忙しいんだよ! それなのに、プロ気取りの自分の実質趣味道楽の「リサイタル」を週末に企画して肉親や親せきといった身内はまだしも、学生時代の友人や同級生に声をかけまくってしかもチケット代まで要求したりして、世間様を巻き込んで彼らの貴重な休日の時間やお金を奪い続けると、いつか必ず、奪った分だけ、奪われることになるぞ!

 

以上、まとめると、私の人生訓は:

① あらゆる物事には加速度がついている

② 人生は複式簿記

③ 身代(しんだい)はタダではもらえない

④ 夢は買うもの。仕事は稼ぐもの

である。 

 

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