ピアノ方丈記

音楽の彼岸にて【指の健康寿命を気遣いながら!】シニアのピアノ一人遊びの日々

「ピアノが下手」なことのスゴみ

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古いブログに書いた記事です:

 

===20171210===

 

ピアノ素人はだれでも、ピアノを上手に弾きたいと思って仕事や家事の合間に時間をみつけて練習するものですが、技術的に上手くなくても、それはそれで、というか、むしろそのほうがスゴみがあるのではないかという気がします。

 

というのは、以前ピアノ会でJポップの曲を弾いた時、「(演奏が)慣れた感じで弾きますね」というようなことを言われたからです。また、一時期習っていた作曲の先生から「(あなたの演奏は)どこかのラウンジで軽い感じで弾いた風ですね、あ、それはそれで別にいいんですよ」みたいなことも言われました。

 

これらのコメントは、あんまり良い意味で言われたんじゃないんだろうなぁ、たぶん、「演奏がスレている」という意味で言われたんだろうなぁと思いました。下手な割には「プロずれ」した音ですね、ということでしょうか。 

 

ラウンジピアノのどこがいけないのかよくわかりませんが、もしかすると、と思うことがあります。

 

たぶん、ピアノ演奏には①素人芸と②プロの芸と2種類あるんじゃないかと思います。

 

①素人芸とは、人前で演奏してお金をもらう必要のない芸です。そういう仕事につくことがないので、芸が「プロずれ」しないんだと思います。プロは、「また聴きたい(=チケットを買いたい)」とお客さんに思わせるように、お客さんを魅了する演奏(など)を提供しなければ赤字になりますから、そういう演奏(など)をするうちに、いい意味で芸や雰囲気がプロっぽく、つまり艶(つや)っぽくなっていくんだと思います。 

 

これに対して①素人芸は、純心素朴な芸です。

 

そういえば、音大の女子学生の最高の就職先は、第一種国家公務員またはそれに類する人への永久就職なんじゃないかと思ったことがあります(今もそうかわかりませんが)。

 

今までそのような人に3人出会いましたが、うち2人はピアノ科卒で霞が関官僚の奥さんでした。もう1人も国家機関の方の奥さんで、音大出というので「ピアノですか?」と聞いたら、もはやピアノ(なんていう、つぶしの効く楽器)ではなくて、つぶしの効かなそうな古い鍵盤楽器が専門というので、「へぇ上には上があるもんだなぁ」と思いました(普通のコンサートホールやスタジオに置いてないから、披露する場所があまりないもんね)。

 

そういう、つぶしの効かなそうな(って楽器の)人に限って、染めてない真っ黒な髪に、お母さんの世代が着るような保守的な服装をして、愛想が無く、女子力(っていうの?)が感じられなかったのですが、それが本物のお嬢様の証なんでしょう、いままで愛想笑いをしなければならない立場に置かれたことがなく、また女子力(って何?)を磨かなくてもエリートとの縁談話を親が持ってきてくれるからですね、たぶん。それに、本物のご令嬢は、人前で演奏することがあっても、肌の露出度が女性皇族の方々のイブニングドレスよりも大きくなることはないだろうと想像しますし、だいいち、身元の知れない不特定多数の客の前で芸を披露してお金をいただくような仕事は親が絶対に許さないでしょう。

 

ちなみに、西洋では身分の高い女性がどうして胸もとや背中があらわになったドレスを着るんだろう?と以前から思っているのですが、ウィキペディアでしらべたら、その目的以外にないよね。娘を箱に入れる慣習は西洋にはなかったのかな?それともポンパドール婦人みたいな人たちだけがそういう恰好をしたのかな?よくわかりません。ただ、ダイアナさんは結婚前は幼稚園の先生でしたから、西洋でも、ご令嬢は基本的には結婚までは「おんな子こどもの世界」でやれる仕事をやるのかなぁと思います(悪い虫がついたら大変だもんね)。今はどうかわかりませんが。(あ、そうか、舞踏会には良い虫しか来ないから、女子力全開になるんだね)

 

一方で、音大出ではないけどラウンジピアニストをしていた親戚の女性がいます。夜に出勤して、お酒を出すお店などで弾いていたようです。どんなドレスを着て弾いていたのかは知りませんが、そういうお店でお酒を飲むお客さんを視覚的にも楽しませるような衣装で弾いていたと想像します。ところが、30歳前後からジャズを必死に勉強しはじめたので、「トウ」が立ってきて仕事がなくなりはじめたのかなぁと思いました。その後、ピアノの先生などしていたみたいですが、最終的には音楽と関係ない事務の仕事をするようになりました。一般に、仕事着の華やかさと花の命の短さには相関関係があるようです(たとえば、年齢でクビになることのない女医さんは白衣にズックだもんね)。

 

ラウンジピアニストであってもコンサートピアニストであっても、

身元の知れない不特定多数の人の前で演奏して、

どこの誰ともしれない人たちから贔屓(ひいき)にしてもらって、

彼らからお金を頂戴して生活しているのがプロの音楽家ですから、

それをしていない人は素人ということになります。

 

芸事の興味深い点はそこで、①素人芸と②玄人芸の二種類が存在することです。養老孟司氏と甲野善紀氏の対談本で、甲野氏が、「江戸時代、ある武家の奥さんがいろいろ習い事をして、筋が良いのでどれもぐんぐん上達するのだが、玄人(くろうと)のレベルになりそうになると必ずお姑さんが出てきてやめさせてしまう」と語っていました。

 

①素人芸の究極は、お殿様のおたしなみ芸と、ご令嬢のお手習い芸ではないかと思います。当然のことながら、技術的には➁玄人芸の比ではありませんし、だいいち芸が玄人ずれしていません。しかしながら、①素人芸ではあるものの、社会的なステイタスからくる特有の威風というか威圧感があることでしょう。

つまり、下手な素人芸であることのスゴみです。

 

ということは、芸事に関して、素人が玄人はだしになることが、果たしてよいことなのかどうか。ピアノを下手に弾くほうが、そういったスゴみがあって、そういったバリューが高いという見方もあるなぁと思います。お茶にお花に日舞にゴルフと習い事を掛け持ちしているお嬢さんの下手っぴなピアノ演奏は、ある意味スゴみがあって、本物感があるかもしれない(ピアノの練習に割く時間が少ない一方で、習い事にかける全体費用の金額がはるかに大きい)。また、バリバリの総合職で僅かな休みの気晴らしにピアノを弾いて楽しんでいます、みたいな演奏(練習時間がほとんど取れないだろうから上手くないはず)は、職業ステイタスの輝かしい裏返しです。じゃなければ、本業のほう大丈夫かな?ですから。ピアノが上手くないことが、その人の社会的価値の高さを物語る場合が大いにあると思います。 「ピアノ(趣味道楽)がプロはだしに上手いということは、それだけ仕事(本業)に割り当てる時間と熱意が少ない」ことを連想させるからです。  芸能分野に限らず、一般企業でも、スポーツ界でも、どの道に進んでも、その道(仕事)のバカ(鬼)だけが出世するように、世の中はできています。 本業(仕事)にバカ(鬼)のように人生を打ち込まなければ、本業(仕事)で成功することは絶対にできないからです。

 (「ピアノが上手い=優秀」という宣伝がされるようになりましたが、「ショパンやリストのようにピアノをバラバラ弾いたら女子にモテるようになるかもしれない」と思う男性は、ピアノよりもまず、自分の本業の仕事で結果を出すことです。 仕事が出来て収入が良い男性は、ルックスの良し悪しに関係無く、女性にモテます(明朗で真っ直ぐな性格の好人物であれば、なおさらモテます)。 逆に、趣味道楽ばかりに長じていて本業の仕事が?な男性には、基本的に女性は近づきません。 リスクが大き過ぎるからです。 この世に生きとし生けるものの摂理として、女性は、自分のDNAを次世代に残すために、強い男性との結婚を望みます。 現代の世の中で「強さ」とは、「経済力の持続性」。「プラスのキャッシュフローを恒久的に生み出し続けられるかどうか」です。 もっとも、強い男性を探して結婚する必要の無い「家付き娘」や「最高学歴&高収入のキャリアウーマン」を狙って、「髪結い屋の亭主」になるほうが適している男性もいます。 女性も男性も、自分の持って生まれた資質や境遇を必死に見定めながら、この世を必死に生きています。)

 

そういうことを無意識にわかっている大人たちが集まるピアノ会では、ピアノの演奏技術ではなく、芸術の真の目的である「弾く人の自己表現」を楽しむ度量を持った人たちばかりなので、各自のピアノの経験に関係なく和気あいあいとして、変な比較をしたりされたり心理的な優劣を感じたりすることがありません(それに、どう転がろうが、しょせん素人はプロの比ではない)。

もっとも、社会で揉まれてそこそこ人間が枯れてこないと、こういった境地に達することは難しいかもしれません。

 

ところで、西洋には、道化(クラウン、フール)という伝統的なエンターテイナーがありますが、昔、王様の側近の大臣たちが、都合の悪い真実を王様にご注進すれば、王様は機嫌をそこねて、その大臣の首をはねてしまうかもしれないので、なかなかご注進できません。でも、道化師が本当のことを王様に言っても、首をはねられることはありませんでした(黒澤明監督の『乱』で、ピーターさんが演じていた役どころのことです)。

 

そういった伝統は今も残っているように思います。レオナルド・ディカプリオが当時プリウスでレッドカーペットに乗りつけたのも、教授が原発反対や環境保護の活動をするのも、シェールガスがブームのときにオノ・ヨーコさんがフラッキング(採掘のための地層破壊)に環境保護の観点から反対したのも、西洋にある、エンターテイナーの役割の伝統が息づいているのかなぁと思って見ています。

 

一流のエンターテイナーは、不特定多数の人の前で芸を披露する職業人としての覚悟と矜持を持って、命のかぎり芸を磨いて生きているんだと思います。だからこそ、素晴らしい至芸を披露することで、みんなから愛され尊敬され、究極的には人間国宝になったり、いろいろな栄誉を受けたり、人々の記憶にいつまでも残る存在になるんだろうなと思います。

 

明治維新のあと、家が落ちぶれた旗本の御曹司やご令嬢が花街で太鼓持ちになったり左づまをとったりしたと、何かの本で読んだことがあります。遊びの中で粋な振る舞いを覚えたり、いろいろなお手習いをさせてもらっていたことが生きて、まさに「芸は身を助ける」ですね。実のところは、芸の①素人と②玄人はコインの両面、紙一重なのかもしれません。

 

2020年9月に追記:

下手な素人ピアノの典型的な例が、この絵です:

ピアノを弾く二人の少女 ルノワール

ルノワールが、19世紀の後半に描いた、典型的な中産階級のお嬢さんのピアノのお手習い風景を描いた油絵。 フランス革命の後、貧しい平民階級の中から成り上がったのが成金平民のブルジョア階級。 さらに、海外の植民地から吸い上げた富によって、ヨーロッパに「中流階級」というボリューム消費層が生まれた。 「中流階級」の人たちが下層庶民だった頃、貴族やブルジョア階級しか買うことができなかった文化芸術体験。 豊かさを急に手にした「中流」の人たちは、憧れの文化芸術体験に消費をつぎ込んだ。 そして、彼らの、さして大きくもないお財布を当て込んで、ヨーロッパ中にピアノメーカーがタケノコのようにできていった。 上流富裕層の生活に憧れる「中流」たちのピアノ趣味に応えたのが、ツェルニーやブルグミュラーなどの練習曲集だ。 お稽古事にいそしむ子女たちの、ピアニストになりたい夢に応えるように、音楽大学が作られて、音楽の大衆教育が始まった。 それまでは一部の音楽職人という芸人階級の中で伝承されていた音楽理論や作曲法や楽器演奏法が、「芸術教育商品」として大衆に売られ始めた。 芸術への支払いは、ほとんどの場合、一時的な出費(費用)として蒸発し、資産として残らない。 歴史的に、芸術は、「富を奪うための道具」として使われてきたからだ。 ヴェルサイユ宮殿で夜な夜な開かれた舞踏会は、施政者が自分の家臣たち(貴族階級)が富を蓄えて謀反を起こすのを防ぐために、彼らの富を無駄に使わせて、彼らの経済力を奪うための仕掛けだった。 彼らの富は、豪華なドレスや、すっとんきょうな髪型や、音楽会や絵画に形を変えて、蒸発していった。 江戸時代の参勤交代も、大名諸侯に不要な旅をさせて彼らの経済力を奪うための仕掛けだ。 かつて富裕層から富を奪うための道具だった芸術・ファッション・旅行などの、文化エンタメ/観光レジャー産業は、中流層の富を奪うためにも使われるようになっていった。

 

2020年6月に追記:

本業以外のものがプロ級ということは、その分本業への人生の投資が少ないことを意味しますが(自分が若いころ鬼になって大成功したか、あるいは、親が若いころ鬼になって大成功して、その「年金」で悠々自適の生活を送っている人を除いて)、楽器や演奏フォーマットが本業への適性へのヒントになることもあるかもしれません。 

スポーツでもなんでもそうですが、男子学生が楽器を手にするのは、根源的にはズバリ、モテたいからだと思いますが、学園祭で演奏するバンドがカッコよく見えるのは、バンドという形態が象徴する意味合いにあると思います。 バンドが、「自然発生的なチームワーク」を象徴しているからです。 社会に出れば、ほとんどの仕事は、「自然発生的なチームワーク」です。 仕事とは、社会の潜在ニーズを先読みした起業家がチームを作って立ち上げた事業を、みんなで分担してチームワークでやっている、そのひとつひとつです。 もちろん、一人で黙々と行う飾り職人的な仕事もありますが、たいがいは、たった一人では鉛筆1本だって作れません。 この世である程度の規模の仕事をするためには、チームで動くことが必要です。 バンド演奏は、チームワークでひとつのことを成し遂げるプロジェクトを象徴します。 チームワークが象徴するものは、コミュニケーション能力と、チーム全体としての成果に貢献できるコントリビューション(貢献)能力です。 人間も動物ですから、バンド演奏を眺める女子学生たちは、「彼らは社会に出てからチームワークでうまく仕事をしていける人たちの可能性が高い」と無意識にDNAレベルで判断するから、カッコよく見えるのかもしれません。 

自然発生的なチームワーク」としたのは、成熟した社会では、仕事の集合体である企業は、社会のニーズを受けて民間から自然発生的に生まれるからです。 お上が音頭を取って手取り足取り指導して仕立て上げられるものではありません。 学生時代のバンド活動も然りです。 クラス内の音楽好きの仲間が、なんとなく集まって、「やってみようか」みたいな感じで始まる。 無から自然発生的に、つまり、自発的に生まれる。 「無から自発的に」が、「モテポイント」です。 クラスの先生が「君と君と君と君、いまからバンドを組んで学園祭に出なさい」なんていうバンドは無い、または、万が一あったとしても、女子にモテるわけがありません。 上の者(先生)が作ったインストラクション(指示)どおりに行動する男子は、社会に出てから成功するとは思われ難く、後世に自分の遺伝子を残すためのパートナーとしては、頼りなさ過ぎるからです。  

ソロアーティストであっても、存在の形態によっては、社会性を意味する場合があります。 矢沢永吉が男性ファンに支持されているのは、コンサートの内容のみならず、サポートバンドのミュージシャンから事務方まで、たくさんの多様な人たちで構成される組織を動かして興業を行う「矢沢永吉」という会社の経営者だからでしょう。 人間も動物ですから、オオカミやサルなどの集団生活を送る動物の「α male(アルファ メイル)」の人間型を、矢沢永吉に見るのでしょう。 「α male(アルファ メイル)」は、男性にとって理想のロールモデルでしょうから、永ちゃんみたいになりたいなぁと憧れたり、すでに職場や自分の会社で「α male(アルファ メイル)」として機能している人たちは、永ちゃんがエネルギッシュに歌う姿に自分を重ね合わせて、明日への活力をもらえることでしょう。  何年か前に、福山雅治のコンサート会場に向かう人の流れと逆行したことがあります。 逆方向に歩いていた私は、福山ファンの群衆の顔や風貌を観察しながら、福山雅治矢沢永吉のようになったかもしれない、と思いました。 ファンの男女比率で、男性比率がかなり高い(女性:男性が6:4ぐらい)。 カップルで会場に向かう人たちもかなりいる。 ファンの年齢層も団塊世代から学生まで幅広い。 福山雅治も「α male(アルファ メイル)」的です。 「α male(アルファ メイル)」になる、そして、その地位を守り続けるには、大変なエネルギーが要ることでしょう。 カリスマ的なソロアーティストは、ファンへのサービス精神がズバ抜けている上に、現場で強力なリーダーシップを持ち、同時に、たくさんのスタッフへの気配り力(りょく)も大変なものでしょう。 

 

2020年2月に追記:

「芸術家はメインストリームの外でアブナイことをやっているからこそ価値がある」という矜持を持った芸術家が、多いのではないかと思います。 アラーキーが写真集のことでよく逮捕されたのも、田中泯が舞台パフォーマンスで逮捕されそうになったのも、ある意味、芸術家であることの証明です。 バンクシーだって、勝手にいろんなところに絵を描き逃げする、公共物汚損のヴァンダリズム野郎ですが、本人は逮捕も辞さない覚悟で活動しているに違いありません。 ボブ・ディランが、さいしょのうちノーベル文学賞を固辞していたのは、賞をもらうことがアーティストとしてカッコワルイという、矜持があったからでしょう。

芸術活動は、夜の活動です。 素人にとってはヤバイ類の活動ですから、何にも知らない良家の子女がプロ気分で足を突っ込むと火傷をします。 プロのピアニストやバレリーナは、王宮でドレスを着てすましているお姫様ではありません。 むしろ、お姫様やご令嬢たちの対極にある存在(=日本の芸者に相当する)なのですが、アメリカや日本では、どういうわけかお姫様のイメージがくっつけられてしまったようです(きれいなオベベを着ますからね、でも、お姫様やご令嬢は、ステージ上の踊り子みたいに人前で大股をおっぴろげるようなことは決してしません)。 音楽のプロは夜の仕事であるということを、よく知らないのか、お金をかけて大切に育てた娘さんが嫁入り前の背中や胸元をあらわに出した衣装を着て盛り場で玄人(くろうと)仕事に手を染めても平気でいる親御さんが多い気がします。 シンディ・ローパーは、売れなかった頃、所属するバンドのPAを買うお金を稼ぐために、ポールダンシング(ストリップ)のバイトをしたと、自伝に書いてありました。  文字通りケツをまくる覚悟があった人だから、彼女は世界的な大ヒットアルバムを世に出して、今や地元NYの至宝です。 浮き沈みが激しい芸術のプロの世界では、ほんの一握りの、神業の作曲や演奏を行う芸鬼になれなければ、音楽以外のものを売ることも辞さないような玄人しか生き残りません。 芸鬼(トップの中のトップ)は、ほぼ例外なく、子どもの頃からその道のバカ(寝食や身なり風貌を忘れてそれに入れあげて夢中になって24時間そればかりやっている人)で、だいたい20歳前後で、芸鬼とわかる兆候を見せ始め、「スゴイ奴がいる」とプロの業界(その道のバカ(=芸鬼)たちの世界)の中で知られ始めます。 これが出世コースですが、それにあぶれると、大変に厳しい世界が待っています。  芸能の世界は、芸鬼(トップの中のトップ)になれない人にとっては、昔も今も、苦界(くがい)なのです。 稼ぐお金よりも出ていくお金の方が多く、芸を続けるために芸以外の物を売ることもあるかもしれず、かといって辞めたくても、お歯黒ドブの向こうにある外の世界へのとっかかりも既に無い、だからお金のある素直な素人(とその親)の夢で喰うために蟻地獄を掘って底で待ち構え(じぶんもかつてはそんな素人だった...)、獲物がかかったら、内田樹氏が言うところの「師弟関係のダークサイド」などの手練手管を使って、タガメのように獲物が干からびるまで吸い取る。 箱に入れて大切に育てた子どもが泥水を飲むようなことにならないようにしたいなら、自分の子どもより長生きして、生活力の無いその子が死ぬまでその子のパトロンになって養い続ける。 親にその覚悟というか経済力が無いのであれば、お手習い程度にとどめさせておいて、実学を学ばせて一般企業に就職させるか、そうでなければ全力でお見合い相手を探すべきです。 しかしながら、あなたのお嬢さんには、強力な競争相手がたくさんいます。 よく「結婚したいと思った相手はみんな既婚者」なんて言われますが、そうなんです、優良な人物は、会社内ですぐに売れてしまうんです。 社内には、実学を学んで就職したお嬢さんたちがたくさん働いています。 会社で仕事を通じて社会人としての常識(一般社会での行儀見習い)を仕込まれて、気が回り、電話の応対もきちんとして、仕事ができて、しかも仕事が速い、加えて、社会で信用される身なりや振る舞いや気配りのノウハウも持っている。 企業社会の文化の中で育っていますから、価値観がかけ離れていないわけで、結婚相手として暮らしやすいわけです。 このような強力なライバルたちが五万といるからこそ、その子の市場価値が高いうちに(=子どもを産める若いうちに)どこかに片付くように、全力でお見合いをするべきです。 修道士(アカデミアの人)や尼さん(昔の時代のキャリアウーマン)を除いて、人間の最終的な価値は下半身(生殖能力)です。とくに女性であれば、世俗の世界では、今も昔も、それが現実です。 このように書くと女性蔑視と言われるかもしれませんが、日本で普通の家庭の娘さんの社会的な地位が上がったのは、出生率が2を割り込んで「家付き娘」が増えたからだと思います(一人っ子で教育にお金をかけてもらった高学歴のキャリアウーマンの彼女に、更に彼女の実家(の土地)や親の金融資産が付いているからです)。 出生率が2を超えていた頃は、「一姫二太郎」が良いとされ、庶民の家では「太郎」がその家を継ぐべく育てられ、「姫」は家から出されて「嫁」に行きました(名古屋の嫁入りがトラック3台分というのは、嫁ぎ先で娘が肩身の狭い辛い思いをすることがないように、親が財を付けて送り出す、親心の表れなのです)。 バブルあたりまでは、若い女性は「クリスマスケーキ(25になれば価値がゼロ)」と言われ、その後「大晦日(31まで)」と言われました。今では考えられないことですが、当時、女性の価値は生物学的な若さ(生殖能力)だけだったのです。 多くの企業で短大卒の(その後四大卒も含めて)女子新入社員を大量に採用していたのは、同じく大量に採用する男性社員たちのお嫁さん候補としてなのです。だから、女子社員が結婚もせずに3年以上働いていると、普通に「肩たたき」が行われていたのです。 私も含めて今50代後半以上の女性は、そういう時代を生きてきました)。 普通の家の娘に限ったことではありません。 例外的に存在する独身のお姫さまたちの栄耀栄華も、守ってくれている親が死ねば、あっという間に終わるのです)。 

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