音楽の彼岸のピアノ遊び

大人のピアノ道楽を満喫するピアノ一人遊びの日々

ピアノ教育における脅し(インティミデイション)

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古いブログに書いた記事です:

 

===20171228===

あんまり書きたくなかったのですが、やっぱりどうしてもそう感じるので、ピアノ教育におけるインティミデイション(intimidation)について書こうと思います。 

 

インティミデイション(intimidation)とは、「脅し」のことです。

 

「脅し」と書くと、なんか物騒な感じがするかもしれませんが、日常でもふつうにあることです。また、イギリスのような階級社会ではよくあることです。

 

たとえば、イギリスに生まれてこのかたずっと住んでいるのにスキーが達者であることは、階級的な「脅し」を効かせる武器になります。

 

なぜなら、イギリスでは、スキーが滑れることが、特定の社会的階級を示唆するからです。

 

ブリテン島は、雪は降っても豪雪地帯やアルプスみたいなところがないので、スキー場がほとんどありません。ですから、白銀にシュプールを描くようなスキーをするためには、基本的に外国に行かなければなりません。

 

近場であればスイスでしょうが、スイスは高GDP&高物価の高級リゾート国です。イギリス王室の人たちが冬にスキーに行く、高級デスティネーションです。

 

夏に、マイカーの後ろにキャラバン(トレーラーハウス)を牽引してフェリーでドーバー海峡を渡って、EUの物価の安い国で過ごす節約サマーホリデーとはわけが違います(でもこっちのほうが楽しそうだね)。

 

ですから、スキーをすることは、ある一定の社会的階層に属することを暗に誇示することになり、スキーをするお金のない階層の人たちに劣等感を抱かせて委縮させる効果があるわけです(日本人にはあまり通用しませんが)。

 

一方、アメリカ人は伝統的に、ワインに対して萎縮していたようです。たぶん、ワインというか、フランスに対する新興国の劣等感から、フランスのものに対して伝統的に萎縮するんだと思います。

 

そのため、オーストラリアのワイン会社が、アメリカ(のたぶん西海岸)でワインを売ろうとしたときに、ラベルをカンガルーの絵にするなどして「ワインは怖くないんですよ」というふうにして売り出したら売れたと、ビジネスケーススタディで読みました。アメリカ人はフランスに対しては劣等感を抱くけど、オーストラリアに対する劣等感はないかもしれませんしね。

 

こういったものがインティミデイション(intimidation)です。さいしょのスキーの例のように、インティミデイションを利用して、「私(たち)はあなた(がた)より優れている」というメッセージを間接的に伝えることで、相手を萎縮させ、場合によっては、相手を無力化して、こちらの意のままに操作したり搾取したりできます。 

 

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このようなインティミデイションが、ピアノ教育の伝統の中にあって、ピアノを習う生徒たちに少なからぬ影響を与えているのではと思うことがあります。

 

たとえば、ピアノ再開後に習った先生のところで、私がピアノを中断する前に某音楽教室でとったそんなに高くもないグレードの級を伝えたら、「音大に入れた自分の生徒たちには、少なくとも3級を取るように言っている、最悪でもその教室チェーンの教師の仕事ができるように」と返されました。

 

どうして先生がそう返したのかはわかりませんが、先生の言外のメッセージは、「あなた(の級)はぜんぜん大したことありませんよ」と読み取れます。素人だからべつにいいんだけど、誰でもそう返されたらあまり気分の良いものではありません。なぜなら、人は誰でも、「自分は素晴らしい」と思っていたいからです。

 

人間なんてそんなものです。人類は、進化の過程で複雑な言語コミュニケーションを発達させましたが、会話の装飾や暗喩を取り払うと、言っていることはとどのつまり、「自分は素晴らしい」、「私はあなたより優れている」、「あなたは私よりも劣っている(から降参して小さくなってろ)」、「おっしゃる通りです、降参して小さくなっています。。」ぐらいで、お猿さんだった頃からあまり変わっていません。

 

ところで「3級」と言われても私はあまり萎縮しませんでした。というのは、ずいぶん昔のことですが、当時40歳を超えていた叔母が、ピアノ科卒じゃないのに、競争率数十倍のそのチェーンの郊外の教室の先生にただ1人採用されたのを知っていたからです。ピアノはそこそこ弾いていましたが、ピアノ科卒でもなく、ましてやグレードも持っていない「トウ」のたちすぎた叔母が、優秀に違いない若いお嬢さん方を差し置いて、どうして採用されたんでしょうか?社会に出ると個人の演奏技能以上に必要な要素があるということでしょう。

 

話は戻って、さっきの先生に習う時にレッスンの謝礼の金額を聞いたら、申し訳ないほど良心的な金額だったのですが、「音大受験でもないし、この金額でいいですよ」と言われました。先生は、そう言って気をつかってくれたのかもしれませんが、とりようによっては、「私はあなたには本気で教えませんよ」とも受け取れます。まぁ大人のチーチーパッパだからいいんだけどさ。。。

 

私は、つねづね、ピアノ教師たちは大人ピアノの生徒を、少子化による子ども生徒の減少の穴を埋めるために都合よく利用する対象としか見ていないのではと、不愉快な気持ちになることがあります。どうせ音大を目指すわけでもないし、年とってるからそんなに上達もしないだろうし、ボケ防止の脳トレ気分で習う人もいるだろうし、子どもと同じ教材も使えるしラクショー、みたいな感じ?だとしたら、

 

大人を何だとおもってるんでしょうか?限りある人生の時間を削ってスキル磨きに投資&勉強して下げたくもない頭を下げながら頑張って働いて稼いだ私の貴重なお金を払えるか!こんなふうだから、子どもしか相手にしたことのない主婦の片手間ピアノ教師はさぁ。。。って思われてしまいます。

 

「音が良くなるには3年はかかる」と言われましたが、そのロジカルな根拠は一体どこにあるんでしょうか?まさか思いつきや勘で言ったんじゃないだろうから、大人にもわかるようにちゃんと論理的に説明してほしい。(←2020年5月追記:骨格がねじれて反り腰の人は、いくら練習しても音はあまり良くならないと思います。また、運動能力は老化とともに衰えます。クラシックピアノの教え方は、偉大な大作曲家の大変に有難い楽譜を(その音楽を理解している/いないに関わらず)書かれたとおりにミスなく完璧に弾くことを目的としていますから、運動能力の無さを弾く人の頭脳(音楽文法の理解や即興能力やオリジナリティ)にヘッジすることが不可能です)

 

また、先生の方針に反して私が家で密かにハノンを続けていたら、想像以上のペースで上手くなっていったみたいで、あるレッスンで、「(どんどん上達して)恐いわ」と言われました。先生の言うとおりにしなかったら上達した。。。って一体なんなんだよ?

 

ジャズでよく「language(言語)」という言葉が使われるようですが、たしかに音楽と外国語は似ています。E●●ジュニアの先生の能力と教材で企業の英語研修ができないように、音楽教育にも大人用のコンテンツがあってしかるべきだし、すでにあるんでしょうが、教える側の深層心理(と能力っていうか大人を満足させる知識)がそれに追いついていないのではと、いぶかしく思うこともあります(大人に向かって子供用の話をされても困るよ。。。っていうか、そういう先生を選んだ私がいけなかったんだね)。

 

私を含めて中高年の日本人は、儒教の影響がまだ抜けてなくて、「先生」と名のつくものに萎縮する傾向があるように思いますが、考えてみると、ピアノの「先生」ってそんなにエライのか?大人の生徒は、日々の仕事でもっとエラい人たちと仕事をしたり、生徒のほうが往々にして社会的にもっとエラい人だったりするんじゃないのか?大人の生徒は、ピアノ教育業界の(世間が広くなさそうな)権威にヘーコラしたり、何か言われて一喜一憂する必要はないんじゃないかと思います。

 

それに、教わるコンテンツもそんなに有難い奥儀秘伝のようなものなのか?そして、そのコンテンツは正しいものなのか?脱力だとか手の形をどうするとかいうけど、そうやって教わって手を壊す生徒が多いのは何故なのか?また、楽譜の指示どおりに弾くことで頭がいっぱいの演奏になってしまって、ミスタッチへの恐れで演奏に楽しさが感じられない「音学」になってしまったり、音ガクガクブルブル((((;゚Д゚))))。。。になっちゃっている人が多すぎなんじゃないのか?レッスンにお金を払って恐怖を植え付けられる意味ってあるんでしょうか?

 

もっとも、当の先生がたは、大人の生徒を見下しているとは思っていないでしょうし、ゆめゆめ失礼なことを言っているとも思っていないでしょう。つまりは、そう思わないほど、無意識にそういう体制文化にどっぷりつかっているのではないかと思います。

 

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じつは、ピアノを習うことで最もインティミデイトされてきたのは、当のピアノの先生たちなのかもしれません。子供の時から検定やコンクールで査定評価されつづけ、ミスタッチを怖れながら受験してようやく入った音大でも、とてもかなわないような同級生たちに出会って落ち込んだり、それによって受ける教育で差をつけられて劣等感を持ったり、親の経済力がなくて海外留学ができなかったり、コンサートピアニストになる夢が叶わずに挫折したりと、インティミデイションと敗北感にさらされて過ごすうちに、自分が受けたインティミデイションや敗北感を無意識に生徒に受け渡しているかもしれません。

 

ある本で、楽器関係のアレキサンダーテクニック(AT)のトレーナーさんが、ピアノの先生たちにATのレッスンをした印象として、ピアノの指導者たちには敗北感がある、ピアノの指導者や演奏者の多くが、子どもの頃からピアノを習ってきた過程で「恐怖のモゥティヴェイション」にさらされてきた結果、心に傷を負っていて、自分の演奏に自信を持っていない、と語っていました。

 

また、音大受験の過程で先生から、「あなたはこの大学は無理」とか「ピアノ科は無理だから●●科にしなさい」と言われて見切られてきたかもしれませんし、音大に入ったら入ったで、自分より優れた人たちを目の当たりにして、自分で自分を見切らざるを得なかったりしたので、いざ自分が先生になったときに、自分がそうされたように生徒の可能性を見切るようになるのかもしれません。

もっとも、人生に見切りはある程度必要ですから、生徒の可能性を正確に見切ってあげれば、生徒が人生で無駄に失敗するのを避けられるかもしれないし、先生にとっては音大合格率の実績を上げることにもなるでしょう。ただ、人を評価したり見切ったりできる権限や権力の行使は、人間の根源的な欲望(支配欲)を満足できるので、知らず知らずに、見切る行為に酔ってしまっている場合もあるかもしれません。 つまり、パワハラ行為になっているかもしれません。

 

もうひとつ留意すべきは、先生たちのなかには、見切ったりダメ出しすることによって、相手の自信を吸い取って自分の失われた自信を補てんしている人がいる、という可能性です。 見切られること、誰かよりも劣っていることを、自ら認めざるをえないのは、辛いことです。 そして、見切られるたびに、誰かよりも劣っていることを思い知るたびに、心から自信が失われていくものです。 「人はパンだけで生きているのではない」と、イエス・キリストは言ったそうですが、まったくもってそのとおりで、自信は、人生のエネルギー源です。 自信がなければ、何をやっても、上手くいくはずがない。 自分に自信がないために、「うまくいった!」と自分で思うことができないからです。 だから、失われた自信を、誰かを見切ったりダメ出しすることで、補てんしているかもしれません。 それは、相手の自信を吸い取っていることなのです。 生徒にダメ出しすることで、生徒の自信を吸い取って、自分の心の失われた自信を補てんしている先生がいるとしたら? 

 

だからといって、生徒のほうは、お金を払って恐怖や敗北感を受け渡されたり、見切りを入れられて自信を吸い取られる道理は、まったくもってありません。

だから、ピアノの先生にダメ出しされても、インティミデイトされても、見切られても、先生のそうした心理を推察して、自分の自尊心が悪い影響を受けたり自信を吸い取られるのを、未然に防ぐようにするべきかもしれません。それにだいいち、恐怖のなかで査定評価されるために磨いてきた演奏は、弾く人が楽しんで弾ける演奏ではなく、当然、聴く人が楽しんで聴ける演奏ではないはずです。私も含めてミスタッチへの異常な恐怖や、トリルがうまくできなかったなど技巧的な不完全さへの病的な執着は、こういった先生に教わるうちに植え付けられたものかもしれません。だから、「自分の弾いた音はすべて正しい」という大きな自信をもって、「正しい間違った音」や「正しいかすれた音」を堂々と弾きはなって、試験でもないんだから楽しんで弾こうよと、私たちが自発的に思ってピアノ演奏を楽しんでいくのが、心の天国(=幸せな人生)へのいちばんの近道です。

 

それから、先生にあまり責任を押しつけるのも気の毒です。ピアノも野球も小学校の成績も、できる子は最初からできるし、できない子は最初からできないしいつまでたってもあんまりできない、という悲しい現実があるような気がします。つまり、先生が教えるのは最大公約数的な一般論で、各自の上達のための肝心かなめのことは、生徒自身の資質と興味と熱中(と保護者の支援)によるんじゃないかということです。 そして、できる子は、もともとできるので、人前で先生に褒められる、人前で褒められるのはとても嬉しいことだから、自信を深めてますます熱中して、ますますできるようになる、そしてまた人前で褒められてますます嬉しくなってどんどん自信をつけていく...。というのが、この世の天国です。(この時に、どんどんできる子は、人前で褒められることによって、周りにいる褒められなかった子たちが持っている自信を、どんどん吸い取っているのです。 褒められなかった子たちは、心から自信がどんどん吸い取られて、自信が減っていき、どんどん下手になっていく。これが、この世の地獄です。この世とは、死ななくても天国と地獄が既に存在する、残酷な場所です。 ピアノで最も残酷なケースは、ピアノを習っているのに、その先生が主催するピアノの発表会で演奏させてもらえないことです。 発表会で演奏できない子どもたちの心から、自信がごっそり、発表会で演奏できる子どもたちの心へ、持っていかれます。 こうすることで、発表会へ出られる子どもたちの心に自信が積みあがってゆき、こんどは、彼らの間で自信のやりとりが行われ、その度に、勝者と脱落者が生まれていく。 英才教育の方法の基本は、ここにあります。) 

 

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上記の内容と重なるかもしれませんが、ピアノにおける、もうひとつのインティミデイションは、「競技ピアノ」の側面です。

 

ピアノの楽譜に「難易度」がつけられていますが、メカニカルな演奏技術だけに基づくのであれば、スポーツの技の難易度と一緒です。

 

楽譜という決められたトラックを指示通りにミスなく奏破することが評価の基準なら、ピアノはスポーツ競技です。即興やアレンジのセンスが入るジャズとはちがって、楽譜どおり正確に弾くことが求められるクラシックピアノのほうが、スポーツ競技です。弾く人の体格や運動能力や年齢によって、パフォーマンスに差が出て、優劣になって表れます。

 

優劣がつくものですから、勝ち負けや順番がつきます。優位・劣位をつけやすいので、インティミデイションが入りこむスキがあります。

 

技のメカニカルな難易度が「上手/下手」の基準とされるなかで弾くクラシックピアノの超絶技巧演奏に送られる拍手は、軽業師の曲芸への拍手と同質のものです。玉乗りや宙返りなどの曲芸は、軽業師の人並み外れた身体能力を披露するもので、うまく行った時は、ハラハラして見ていた観客から「上手い上手い!」と大きな拍手が起こります。たいへん過酷な見世物です。

 

難易度の高い曲芸は、当然、身体能力が高い軽業師しか成功しませんし、身体能力が低い人は大けがをしてしまうので、まず挑戦しません。一方、ミスタッチで骨折をしないピアノは「文化系」の活動にカテゴライズされているから、体格が貧弱で身体能力が低い文化部系の人たちがピアノをやる場合が多い。つまり、もともと身体能力的に無理なのにエクストリームスポーツのような曲に挑戦して、ちっぽけで動かない身体でやるもんだから当然弾けなくて、十分なフィジカルも運動センスも無いうえに間違ったやり方で必死に練習して手を壊す、というケースがたくさんあるんじゃないかと思います。私は、ピアノがメカニカルに上手な人は、ダンスもそれなりにできるような筋力と柔軟性と運動センスを持っているんじゃないかと勘ぐっています(が、さきほどの先生に、ピアノの演奏と身体の柔軟性の関係について意見を求めたら、唖然とされてしまったので、それ以上尋ねるのをやめました)。

 

ところで、競技ピアノの優劣づけに一役買っているのが、検定やコンクールです。検定システムは世の中にいろいろありますが、なかにはお金集めだけのものもあるような気がします。いわゆる、検定ビジネスです。

 

検定やコンクールは、その業界に就職するなら、日商簿記や英検といっしょで、級が高ければ履歴書に書く価値を持つと思いますが、そうじゃなければ、検定ビジネスとそのお客さんです。 なんとかコンクールとか、かんとかコンクールとか、お菓子のイチゴ風味、バナナ風味とおなじように、ひとつの製造ラインを使って香料を変えるだけで手軽に種類を増やせます。そして受験者が支払った審査料は、主催団体の会員たちの懐に入っていきます。職業ピアニストを夢見る子どもとその親は真剣でしょうし、いつかそっち側に行って、払ったお金を回収できる望みもありますが、そうじゃなければ、TDLUSJに行ってアトラクションに乗って一日ハラハラドキドキして帰ってきたと思えばそれはそうです。 

 

素人にとってはレジャー的な意味合いの検定やコンクールであっても、等級が付きますから、それによって競技的な優劣がつけられることになり、ピアノ会でそういった話題が出たとたんに、何らかの優劣比較の尺度が持ち込まれ、優劣づけによるカースト制度と、それに伴うインティミデイション的な環境が生まれるかもしれません(もっとも、人間が枯れてくると、人生のゴールが見えてきますし、芸術の本分のあり処がわかってきますし、自分を高めることしか考えなくなるというか、ぶっちゃけ自分が日々生きながらえることで精いっぱいですから、他人との比較なんぞ考えなくなって、心安らかに自分と向き合う日々になっていくような気がします)。

 

芸事は、よほど一流でないかぎりは基本的にお金にならない職業だと思うので、芸事の大学を幾つも作ってその道の専門家をたくさん世に送り出せば、もともと経済的に小さいパイの奪い合いになってしまいます。というか、そういった芸事の大学そのものが、一部の人たちが、音楽家になりたい子どもとその親の夢で食べていくための集金メカニズムなのでは?と思うときがあります。でも、外部の夢みるトーシロは夢から覚めれば「イチ抜けた」できますが、内部に入ってしまった人が「イチ抜けた」すれば、親に払ってもらった高額な投資の損失が確定して、それを認識せざるを得なくなるので、非常に勇気がいることでしょう。比較的名の売れた先生や演奏家が、「スキルアップ」や「箔づけ」を目指す市井(しせい)の先生向けにセミナーを開催するなど、業界内で「カニバライゼーション(共食い)」も起こっていると想像します。もちろん、同業者同士でカニバればシステム自体が経済的に疲弊しますから、外部からお金を何とか吸い取るヴィークル(手段)として検定やコンクールを量産することもあるかもしれません。

 

内部の人たちを肥やすためにお金を払う素人が、彼らを潤す検定システムの結果で一喜一憂したりインティミデイトしたりされたりするのであれば、なんだか思うツボというか情けないことだなぁと思ったりします。

 

「コンクールを受けた熟年の方の演奏が、曲の解釈が素晴らしく、またその方の思いが音に反映されていて、とても味わいのある素晴らしい演奏なのだが、小指が動かなかった。一方、若い子が、技術的に完璧な演奏をしたが、無機質な演奏で感動的ではなかった」と、審査を担当したピアノの先生から聞いたことがあります。システム化された検定では、聴く人の主観に左右される「芸術の"芸"」より、どんな人でも計測可能な「術」が評価の基準になるのは、それはそうだろうなと思います。

 

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ピアノ教育であとひとつ理解できないのは、アコースティックピアノ、とくにグランドピアノ至上主義です。ピアノ教師業は、市場が縮小して、生徒をあつめるのが大変と、先生から聞きました。ですから、電子ピアノでもなんでも、キーボードを買ってピアノを弾いてみたいと思っている潜在顧客を積極的に取り込まなければ、経営が苦しいのではと想像します。

 

なのに、電子ピアノでは本当のタッチが練習できないとかなんとかの理由で、アコースティックピアノで練習しないとダメとか、やっぱりグランドピアノだ、と先生方は言います。言わなくても、たぶん心の中でそう思っているような気がします。

 

これもインティミデイションのひとつではないかと思います。「やっぱりアコースティック、アコースティックだったらグランド」と言うことによって、グランドピアノを持っている先生の権威を箔づけすると同時に、グランドピアノを持たない人たちを公然と二流扱いしていることになります。それでは、月謝を払ってくれる生徒さんに対して、とてもひどい言いようではないかと私は思います。だって、住宅事情や経済事情で電子ピアノやアップライトピアノを選ぶ人たちは、どんなに上手かろうが何であろうが、生グランドじゃないからまともな演奏ができない、だから永遠にチーチーパッパの二流なんですよ、と言われているのと同じだからです。クラシックはアコースティックグランドピアノでなければまともに練習できないと考えているのに、電子ピアノやアップライトピアノの生徒さんを受け入れて教えること自体に、大きな矛盾やダブルスタンダード(二枚舌)を感じます。

 

もしかすると、楽器メーカーからの何かがあって、生ピアノを販売する必要があって、生ピアノの購入を勧めるのかもしれません。音楽教室チェーンは楽器メーカーの楽器販売のためのヴィークル(手段)と考えられますものね、そして生グランドはピアノの中で最も高額だろうし、高額商品は売上の数字に貢献するし、利益率も高そうだもんね。

 

とはいっても、すでに世の中に広く普及した電子楽器にも対応するのがプロの先生ではないでしょうか。電子ピアノで楽しそうにショパンだリストだアニメだジャズだと弾いている世界中のピアノ好きの動画を見ると、電子ピアノが人類を幸せにしている、貢献の大きさを感じますし、今の世の中、逆にピアノ教育が電子ピアノに近づいていかないのかな?とも思います。

 

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クラシック音楽の世界は、インティミデイションの環境が出来やすいような気がします。西洋でもある程度はそうだとは思いますが、日本の場合は、かつては特権階級の人しか西洋文化を享受できなかった歴史の名残りのなかで、世の中が変わったのに、古い枠組みに残っている人たちが今までと同じ古いやり方で食べていくために、一般ピープルの憧れや夢や劣等感を搾取し収益化するツールとして、インティミデイションが意識的/無意識的に使われているように思えることがあります。

 

ところが、インターネットやYouTubeのおかげで、一般ピープルが西洋の本物の良質な音楽コンテンツを簡単に見られるようになりました。やがて自動翻訳によってさらに詳しい情報を得られるようになると、インティミデイションは効かなくなっていくでしょう。クラシック音楽は西洋が本家本元ですから、仕方がないことです。

 

ところで、アメリカでも、クラシック音楽業界は当然厳しく、ピアノで修士・博士課程を出た人でさえキャリアの見通しは暗いようです。「除雪機の作業員は歩道を除雪してお金をもらえるが、それは世間が、その仕事が価値のある必要なものだと思っているからだ。タキシードやドレスを着てリサイタルで伝統的なコンチェルトの名演奏をする超絶技巧ピアニストへの世間の需要は無い。そんなピアニストは掃いて捨てるほどいて、チーズバーガーや今夜寝るソファのために喜んで弾くピアニストがたくさんいる。ビジネスマンのように考えて、死んだ分野はどこか、成長分野はどこかを見極めることが必要だ」と、下記の教授さんが語っています:

Thinking Through Graduate School in Music

(この教授さんは、アメリカの音楽教師団体が、成長分野として「recreational music making (RMM)」に着目している、と語っています。「大人の初心者や再開者のレクリェーションとしての楽器演奏」のことみたいですが、この教授さんの話す表情から、「大人のチーチーパッパ」と見られていると感じました(この教授さんに悪意はないと思いますが、表情や話す内容につい本心がでちゃったよね。誠実な教授さんで、ためになる動画をいろいろアップしている方だと思います)。

 

実のところは、インティミデイションを使う人自身が、何らかの脅威を感じているから、自分を価値ある大きな存在に見せようとして無意識に脅しをかけようとするのかもしれません。インティミデイションするのもされるのも虚しく悲しいことですから、お金を払って楽しむレクリェーションやレジャーとしての大人のチーチーパッパでは、カモられないように、軽やかにスルーしていきたいものです。

 

学問やスキル習得への投資が、投資した金額を超える現金収入につながる実学の世界では、先生が教えるコンテンツに付加価値があるということですから、先生は文字通り先生ですが、「学問」や「習い事」の革をかぶったレクリェーションやレジャー産業は、投資した金額はお金を払う人が夢を見たり幸福感を得るために費すもので、あとは娯楽消費として消えるだけですから、先生業は人を楽しませてお金を頂く接客業であり、TDLのキャストとおなじエンターテイナーです。エンターテインメントに基本的に脅しは不要ですが、あるとすれば、お化け屋敷やホラー映画のそれと同じものです。

 

 

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