音楽の彼岸のピアノ遊び

大人のピアノ道楽を満喫するピアノ一人遊びの日々

ピアノが弾けることと、音楽ができることは、別物だ

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以前、別の記事に書いていた内容を、こっちに移動しました:

 

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大人からピアノなり楽器なりを始めると、子どもの頃から習っている人がバランバランと演奏するのを見て自信を失うこともあるかと思いますが、自信を失うのは、まったくもって不要で、無駄な行為だと思います。

 

というのは、たとえばピアノの場合、子どもの頃からピアノを習っていて、いわゆる「上級」の曲を弾く人で、実は、音楽のことをよく解かって弾いている人は、ほとんどいないからです。

 

どうしてかというと、私が習った経験では、子どものピアノレッスンは、そのほとんどが「楽譜に書いてあるとおりにピアノを弾く」ことの練習だからです。 大曲をバラバラと弾く人であっても、音楽の理論や、曲の構成の分析など、音楽の肝心かなめのことを知らずに弾いている人が、ほとんどだと思います。

 

子どもの頃に「アナリーゼ」なるものを教わったと主張する人もいるかもしれませんが、お子様が理解できるレベルでの話です*。 また、「音階や音程や和音など、基礎的なことを当然知っている」と思い込んでいるに違いありませんが、実は、ぜんぜん解かっていないのです。 即興演奏についても、ジャズ好きが苦しんで体得するような理論的な即興演奏を教わっている子どもは、ほぼ皆無です。 

(* 子どもの頃から音大の作曲科を受験する目的で、ちゃんとした実績のある作曲家の先生について作曲法や音楽理論を習っている子どもは、その限りではありません。)

 

とても興味深いのは、私が子どものころは、ピアノを習う男の子はとても少なかったのですが、大学のジャズ研は男子学生がほとんどで、そのうえ彼らは、私にとっては想像もできないような複雑な和音を弾きこなすわけです。 今とはちがって、ジャズピアノのレッスンがほとんどなかった当時、彼らは、いったいどこで、あんな複雑な音楽をマスターしたのでしょうか?

 

一方で、ピアノ会で私がユーミンのある曲のイントロを弾いているときに、「おもしろい響きね...」と思わずつぶやいてしまった人がいました。 ロマン派の難曲をバラバラと弾きこなすその人が、ジャズの基本的なテンションコードを判別できないのは、いったいどういうわけなんでしょうか? (もっとも、ユーミンの、とくに、シングルカットされずにアルバムに入っているだけの曲には、大変複雑なハーモニーの曲が多いのですが)

 

さらに驚くべきは、大人になってから習ったピアノレッスンで、ある基本的なスケールをバラした音をポロロンと弾いたら、クラシックピアノの先生が「おもしろい音ね」と興味深げに言ったのですが、「えー!?わからないんだ~....」と心の中でびっくりしてしまいました。 

(クラシックピアノの人は、自分が聴きとれない和音を「おもしろい音」と表現するんだなぁと、個人的な経験から思います(和音とすら思っていないかもしれない))

 

もっと驚くべきは、ある [ピアノの先生の先生] が主催するピアノの発表会で、生徒として出演したベテランのピアノの先生が「半年前にアナリーゼの研修に行って、あ、ここにⅡ-Vがあるなど、わかるようになった」と言ったのを聞いて、おいおいおいおいっ!って思ってしまった。 耳を疑ったよ....(ポップスやジャズをやってる素人からも笑われちゃうよ。何十年もピアノを教えてきたのにそういうことを人前で平気で言えちゃうのは、ある意味、幸せなご身分だと思いますが、私はあなたからは教わりたくないよ!)。

 

これが、ちまたのピアノ教師と、子どもの頃にピアノを習った人の水準だと、私は思っています(というか、伝統的に、市井のピアノの先生のほとんどが専業主婦ないしは家事手伝いの内職(お小遣い稼ぎ)だからです。彼らの本業は主婦業&お母さん業または家事手伝い(という名の箱入り娘)ですから、彼らに音楽に関してまっとうな期待をすること自体が的外れなのです。幸せな身分だからこそ「現在この曲の教授法*を勉強しています」とか「今の生徒たちはいろいろな曲を持ってくるから予習をするのが大変」とか、「だからピアノの先生の仕事って、こんなに大変なんですよ**」とか人前で平気で言えちゃうんです。これらの言葉の真の意味は「自分は、自分の仕事を遂行するだけの知識やスキルを持っていません」ということですから、プロ意識がある人は、たとえそうであっても、自分の職業的な付加価値を棄損するようなことは口が裂けても公言しないはずです(だから、人に見えないところで、ケツまくって黙々と必死にスキルを勉強しまくっているはずです))。

*何かに関する「教授法を勉強している」ということは眉唾ものだと、個人的に思います。「コンテンツそのものを差し置いて教授法をPRする」ほどうさん臭いものはないと思うからです。「教授法」とは「教授法」で喰っている人たち、ひいては、そういった法人組織の食いぶちのような気がするからです(私のような愚かな人間は、ついそう思ってしまうのです)。

**ピアノの先生が大変な仕事だったら、バスやタクシーの運転手や工事現場のクレーン操縦者のほうがよっぽど大変です。 人命を安全に運ぶための第二種自動車免許をとったり、大型特殊車両の操縦免許をとって、事故がひとつも許されない職場で日々職務を遂行しているんですから。 「シェフの仕事って、料理を作るだけじゃなくて、店舗の家賃などの経費を払ったり、食材を管理したり、保健所の指導を受けて店舗の衛生管理を行ったりと、とても大変なんですよ」ってサイトに書いてあるレストランに食べに行く気がしますか? 「公認会計士の仕事ってこんなに大変なんですよ」なんてサイトに書いてある会計事務所に監査の仕事を頼む気がしますか? 会社の事務職だってスーパーのレジだって、社会に必要な仕事はみな大変な仕事なんですよ、だけど、みんな大人だから、「大変だ大変だ」なんて子どもじみたことを言わずに、みんな黙々と自分の仕事をこなしているわけです。

 

楽譜の字面(じづら)っていうか、譜面ヅラを間違いのないようになぞって、ミスタッチのないように、音色やタッチのことばかり気を遣って弾くことに重点が置かれすぎていて、肝心の音楽のことを真にわかっている先生や生徒は、とても少ないと思います。

 

 

つまり、楽譜どおりに正確に楽器を演奏できることと、音楽を知っていることとは、別物なんです。 ここのところを、私を含めて素人は、認識していないと思います。

 

また、わるいことに、音楽理論に出てくる音程や、スケールの章を、「こんな基本的なことは、子どもの頃にチューリップの音符で習いました」と目もくれないから、音楽を解かっていないまま、ただ譜面通りに弾くことが上手くなるんだと思います。 

 

楽器の演奏を、サーカスの動物の玉乗りみたいにしてしまったもんだから、大人になってピアノを始めた人たちは面喰らってしまうのかもしれない、と思います。 (でも、音楽のジャンルによっては、速弾きや、オクターブ越えのアルペジオ伴奏など、曲芸の要素はあると思います)

 

音楽理論は、とても数理的なものだと思います。 でも、ちょっとでも知ると、面白いと感じますし、どんなジャンルの音楽でも、聴いて楽しむ際にも楽しくなります。 大学の理工系学部の出身のジャズピアニストが目につくのは、音楽の数理的な側面の表れかもしれません(音楽理論に基づいて即興演奏しますから)。 その一方で、日本語の伝統的な西洋クラシック音楽の理論書は、表面的な内容をこむずかしく書いてあって、読むとかえって音楽理論が嫌いになるような書き方だと思います。 船頭多くして....のような、読む人を混乱させ、音楽理論を不必要に難解に見せている、権威的な理論書もあると思います。 (読む人に、「自分はバカなんだ orz.........。」と思わせるような、複雑怪奇な書き方の本の著者の頭の中は、西洋文化の特徴である「一貫性のある論理的思考」そのものが、欠如している。つまり、はなから西洋の文化を理解するアタマの構造を有していない、と思います。 または、共著の場合は、著者たちの間でのコンセンサスがとれていないから、例外項目のページが膨大な量になってしまって、読む人にとっては何が何だかわからなくなってしまうんだと思います。 これらは、忖度(そんたく)を強いる日本社会と、その結果としての日本の生産性の低さを示す、典型的な例です。 

本当に優秀な人が書いた本は、読んだ人が、「こんな難しいことが解かる自分って頭いい~!」と思えるような、分かりやすくて、一貫性があって、理路整然とした書き方をしているものです) (もちろん、西洋的な論理的思考には限界があります。だから、日本の伝統文化や武道の精神性から何かを学びたい西洋人がやって来るわけです。 でも、西洋発祥の音楽を理解したければ、西洋人の脳内構造への理解は死活的に必要です。)

 

音楽の知識がほとんどない状態で、譜面通りに間違えないで演奏しなければならない、そして、指が回らない、回らない、と思いながら弾くのは、イノシシ村で曲芸を仕込まれるウリ坊のようで哀れです(自分が一体何をやっているのか解からないでやっていて、背景の理屈を知らないので、防げるミスも防げない。だから、「出来が悪かったら隣のシシ鍋レストランの食材になってしまう」、それほどの恐怖を感じながら演奏することになってしまう)。 (それから、指が回る、回らない、という言葉は、大きな誤解と絶望を招く、とても有害な言葉だと思います)

 

子どもは、お子様仕様のレッスン内容で然るべきと思いますが、大人から音楽を始めるなら、ぜひとも、楽器演奏の技術だけでなく、音楽そのものについて学ぶようにすると、何倍も花も実もある趣味になると思います。それに、楽器演奏の身体的な技術は、スポーツとおなじで、若い人ほど有利で、年を取ればとるほど不利になります。だからこそ、大人は、一段も二段も高い知的・精神レベルで、音楽を楽しむべきだと思います。

 

また、音楽そのものを知っていることは、演奏できる楽器の幅を広げます。YouTubeの動画でギタリストやベーシストやサックスプレーヤーが、ピアノやキーボードで複雑なコード(つまり20世紀以降の和声)をこともなげに弾いているように、音楽そのものが解かっていれば、どの楽器を使っても音楽を奏でられるようになります。日本語を知っていれば、筆で書いても、ボールペンで書いても、パソコン入力しても、日本語で表現できるのと同じです。

 

そうなりたくて、私はここ2年間、自分なりに練習していますが、まだ音程のことすらちゃんとわかっていないなぁと感じています。それでも、各キーでの鍵盤の位置把握力がずっと向上してきたし、ようやくスケールの各音の意味が解かるようになってきたので、このままマイペースで楽しくやっていけば、あと何年かすれば、ブロークンでも自分の音楽言葉でなんとか演奏できるようになるだろうな~と思っています。そうなったら、鍵盤楽器以外の楽器にチャレンジしてみようと思います。

 

2020年10月に追記:

「楽譜のとおりに弾く」ことの真の意味は、「楽譜」という名の補助輪をつけて「音楽」と言う名の自転車をこぐことです。 いつまでたっても「楽譜が無ければピアノを弾けない」ことは、いつまでたっても補助輪がとれない自転車をこいでいるのと同じです。 「大作曲家が作った名曲」という絢爛豪華な補助輪をつけて自転車をこぐことは魅力的ですが、

どんなに運転がぎこちなくても補助輪無しで自分の実力だけで自転車をこぐのが好きな人たちがたくさんいます。 

そういう人たちが、ショパン」や「リスト」という名の補助輪を付けた自転車に乗る輩から、「ショパンもリストも弾けない彼らは音楽ができない」と言われる筋合いは、これっぽっちもありません。 

だって、そもそも彼らは、補助輪無しで自転車に乗れているんですから。

(「楽譜 イコール 補助輪」は、素人音楽素人音楽のプロの世界の話です。プロの音楽業界の世界では、楽譜が必要です。 というのは、プロの音楽業界で演奏される音楽の多くが、プロのミュージシャン(作曲家/編曲家)によって初めて発表される音楽だからです。 そして、プロのミュージシャン(演奏家)たちは、人間の脳の記憶容量をはるかに超える量の音楽を、日々どこかで演奏するのが仕事なので、仕事をするために楽譜が必要なのです。 プロのミュージシャンは、何らかの形で、作曲/編曲/演奏の全てを行っています。) 

 

2020年8月に追記: 

子どもの頃からピアノを習っていていわゆる「上級曲」をバラバラと弾いたり、楽譜を初見で弾けたりするのに、即興演奏や作曲やアレンジがまったくできない人や、はたまたそのようなピアノの先生が多いのは、いったいどういうわけなのか? 

これは、彼らが子どもの頃から何年も一心不乱に練習してきたのは、概して:

「視覚情報(楽譜の音符)を目からインプットして、それを脳内で位置情報(キーボード上の特定の鍵盤)に変換して、その鍵盤を間違いなくタイプするスキル」

だからだと思います。 

ここには、聴覚情報が存在しない。 

音楽は聴覚情報であるにもかかわらず、です。 

「自分で鳴らす鍵盤の音に敏感にならなければならない」と言われますが、それは、「視覚情報(音符)のインプット⇒位置情報(特定の鍵盤)のアウトプット」ができた後の段階の話です。 どっちみち、音楽の脳へのインプットは、楽譜という視覚情報という形でしか無い。 

一方で、プロの音楽産業の中で演奏の仕事が途切れない第一線のミュージシャン(のほとんどが仕事の中で即興演奏も作編曲も行う)のなかに、「子どもの頃に身近に聞こえていた歌や音楽を、聞いたままに歌ったり手近にある楽器でマネて演奏するのが好きだった」と語る人たちが目につきます。 彼らは、生まれつき、聴覚情報の取り込みに優れた人たちなのかもしれません。 そして、彼らの音楽の原体験には、楽譜(視覚情報)が存在しない。 彼らにとって、音楽は、もともと聴覚情報だったのです(これが、音楽の有るべき形だ)。  そういう一流のプロたちのなかには、専門の楽器以外に複数の楽器を演奏できる人たちがいることにも、注目します。 つまり、彼らの脳内には、生まれつきの聴覚的な能力に加えて、豊富な音楽経験や自発的な練習で包括的にマスターした音楽語があって、それを楽器を選ばずに自由自在にアウトプットすることができる。 だから、仕事の現場で「こんな感じでやってください」と言われると、クライアントの要求に自分の音楽語で応えることができるし、他の楽器の演奏者とも良いケミストリーを作れる。 しかも、音楽語の表現のセンスがいい。 一方で、音大の作曲科出身や、作曲を独学や仕事を通して学んだ作曲のプロたちは、音楽を理論的に知っていて、作曲ツールを使って音楽を作るスキルを持っています。 ただし、作曲も、センスが問われます。 いわゆる B to B のプロの音楽業界で生き残っている人を見ると、センスの良い音楽を自ら生み出してそれを奏でられる演奏家/作曲家である人が多いように思います(もちろん、「センスの良い音楽」とは、単に聴き心地の良い音楽にとどまらない)。 

子どもの頃に聴覚障害があった竹内敏晴氏が、聴覚の訓練のためにピアノを習ったが効果がなかった、と、著書の中で書いています(バイオリンのレッスンは効果があったそうです。これは、バイオリンにはフレットがついていないから、出す音の音程に敏感にならざるをえないことが効果的だったのかもしれない、と私は思います)。 

RhymesterMummy-Dさんが、ユーミンの「音楽は時間をデザインするもの」という言葉に感動した、という内容を、どこかで聞きました。 さすがユーミン、プロ中のプロ中のプロ!だなぁ、だから、何十年も「ユーミン」という大看板の屋号で店を張り、しかも売れ続けてきたんだなぁ、と思います(ユーミンは、一人にみえて実のところは正隆さんと由実さんの二人力ですから、一人力よりも倍強いということも、大いにあると思う)。 音楽家は、時間のデザイン力のセンスが問われる。 時間のデザイン力のセンスとは、聴く人の期待を良い意味で裏切り続けて飽きさせない力だ。 このセンスがある人が音楽家(芸術家)で、無い人は、単に知識があるだけの先生(学者様)だ。 使い古された陳腐な表現を平気で使ったり人のネタをネタバレさせても気にならないことは、センスが無いことの証(あかし)だ。 つまり、聴く人のことを考えてセンス良く創作できるかどうかだ。

楽譜という視覚情報を鍵盤の位置情報に変換することだけに特化したピアノ演奏の高等訓練を受けた専門家のなかには、音楽を仕事にするうえで死活的に必要な聴覚や音楽センスに優れていなくても、つまり音楽の本当の能力が無くても、専門家になれてしまった人が、少なからずいるとしたら?(そういう人たちは、たとえプロの演奏家になったとしても、本当の音楽の能力とセンスにあふれたプロたちがしのぎを削る業界内で、やがてキャリアが行き詰まって淘汰されていくだろう。その後、彼らはいったい、何を生業にしていくのだろうか?) 

 

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