音楽の彼岸のピアノ遊び

大人のピアノ道楽を満喫するピアノ一人遊びの日々

ストリートピアノとポップス

 

このあいだ、ネットニュースに「JR品川駅の構内にあるストリートピアノが撤去された」という記事を見かけた。 品川駅にあったんだね。

安全上の理由だったようだが、そうだよね、東京周辺、というか、日本の大都市の公共交通の駅は、利用客の数がものすごい。 お金を払わないでピアノを弾く人が原因で、駅の安全管理の人件費をかけられるわけないもんね。

 

わたしも、2回、ある国の首都の鉄道駅の構内に置いてあったストリートピアノを弾いたことがある。

 

この駅の、日本の鉄道駅との決定的な違いは、一国の首都の鉄道駅、いうなれば日本のJR東京駅に相当する駅の、利用客が、日本人からは想像できないほど少ないことだ。 というか、電車自体の本数が、想像できないほど少ない、というか、そもそも、その首都の人口が、日本の政令指定都市にも遠く及ばないほどに少ない、というか、そもそも、その国の人口がとても少ない、つまり、人口密度にならせば、日本からすれば誰もいない...、みたいな国だ。 

 

だから、その駅自体に、人は集まってくるけど、日本の大都市の駅みたいなテンションがない。 の~~~んびりした、まっ~~ったりした雰囲気が漂っている。 で、置いてあるピアノを、電車に乗る前に「ちょっと弾こうかな?」みたいにポロリンポロリンと2、3曲つまびいて、家路に帰るらしい人や、幼い娘と一緒に環境音楽みたいなものを即興弾きする若いお父さんや、やっぱりアンビエントミュージックみたいなのを即興弾きするヒッピーのお兄さん(ピアノを習っていない弾き方だが、空気をつかんでいた。いや、だからこそ、ほんわかしたアンビエントな音楽になっていたのだ!)みたいな人が弾いていて、それに人が数人立ち止まってちょっと聞いていては、またその場を離れる、みたいな、なんともゆる~~い感じがピアノの周りに漂っていた(ピアノのレッスンで習っていますみたいな曲をバランバランとコンサートのように弾く自称名人はあまりいない、というか、発表会弾きは、場所がらダサく聞こえてしまうのだ)。 

 

私は、一度は、教授の曲を、教授責任編集の楽譜からソロピアノ用に直して自分の楽しみに弾いている一曲を弾いて椅子を立ったら、中央アジア系の学生っぽいお兄さんが笑顔で寄ってきて、「パーフェクト!」って言ってくれた。 教授のファンの人かな(ファンが世界中にいるからね)。 音があまり間違わなかったからかな。 人の往来がある大空間では、技巧的な要素はあんまり関係ないかもしれないね。 原曲よりもゆっくりと、バラード調に弾いたから、BGM的になってよかったのかもしれない。 (ちなみに、その都市には、この2,3年後に、本物の坂本龍一がやって来て、音楽イベントをやった。チケットはすぐに完売したらしい)

 

もう一回は、同じ場所で、J-popの大ヒット曲を2曲、弾いた。どちらもバラード調の曲で、BGM的に、静かに弾いた。 2曲目を弾き終わったら、その国の人らしい50代くらいの夫婦が拍手をしてくれた。 今から思ってもド下手な弾きっぷりの演奏に拍手してくれたのは、私が、自分の国の曲を弾いたからかもしれない。 J-popは、コード進行やメロディーに、西洋音楽には無い独自性がある。 私が弾いた2曲とも、J-popの独自性が強く表れている曲で、だから、私はその2曲が大好きで、いつも家で弾いていた。 でも、それだけではなくて、どうしたらピアノ一台でなんとか素敵に弾けるだろうか、といつも考えて、ジャズのコードやモードを勉強して試したりと、改良しながら練習していたから、「私はこの2曲が大好きです」という思いが伝わったのかもしれない。 私は日本人なので、日本のヒット曲が大好きだ。 大人になってから英語圏に数年住む機会があったこともあって、日本人として、日本のものを胸を張って表現する気持ちがある。 それに、子どもの頃から、自分の国のヒット曲が大好きで、それをバカにしたり下にみる人たちが理解できない、というか、哀れな人たちだと思って見てきた。 そういう私がJ-popが大好きで、自分で楽しみながらも、ピアノ一台だけど少しでも素敵に弾きたいと思って、いろいろ工夫したり音楽理論を独学したりする気持ちが、アレンジや演奏の音に出たのかもしれない。

 

クラシックピアノ愛好家の中には、「息抜きにポピュラーピアノでも」という気持ちでポップスを弾く人がいるようだと、ピアノのレッスンや、ピアノ会に参加した経験から感じる。 だが、どんなにその人たちがクラシックを弾きこなしても、私より素晴らしくJ-popをピアノで演奏することは不可能だ。 なぜなら、彼らのポップスへの気持ちは、私のポップスへの気持ちよりも絶対的に弱いからだ。 大好きで熱中してやっている真剣は、「~でも」のようなお遊び感覚のオモチャの剣を、いとも簡単にへし折る。 彼らの心には、ポップスは、クラシックよりも劣っているというマインドセットが大前提にあるようだが、自分が「劣っている」と考えるジャンルを、息抜きのお遊び感覚で弾けば、自分が思ったとおりの「劣った演奏」で終わるからだ。 

 

クラシックピアノ愛好家が、ポップスを下に観る理由のひとつは、実は、彼らの耳には、ポップスで使われる複雑な和声が、聞こえていないからだと思う。 彼らは、たぶん、ポップスっていうのは、単音のメロディー(ピアノ弾きは、大変愚かしくも、モノフォニックなものを下に見る傾向がある)が、和音の上に乗っかっているとしか思っていない節がある。が、実はその和音が曲者であって、「ドミソ、ドファラ、ドミソ、シレソ、ドミソ」が和音だと思っている人にとっては、ポップスは四次元のハーモニーなのだ。 四次元の音を聴きとる耳がないから、ポップスは単純な音楽にしか聞き取れないんだろう。(大体、和音がドミソ...だけだと思って満足しているところからして、すでに終わっている)。 だから、そういう人が、ユーミンでも何でも自慢げに即興で弾いたりすると、正隆さんのアレンジとは似ても似つかない、ツェルニーが豆腐のカドに頭をぶっつけたようなものになってしまうのだ。

 

そういう人たちのために、「ポピュラーピアノ」なるものの楽譜が量産されているような気がするが、現在の「ポピュラーピアノ」なる、その奇怪なジャンルは一体何なのか、私は今もって、よくわからない。 これは、おそらく、クラシックピアノから「落ちこぼれた人」を慰めてピアノを弾いてもらう(買ってもらう)のが目的で、あるいは、クラシックピアノの合間の「息抜きにポピュラーピアノでも」と弾くような人の見当違いの自尊心を喜ばせるために作られたジャンルなのではないか。 そして、そういうジャンルのために半ば機械的に量産される楽譜の多くは、「三和音」しか聞き取れない人たちを脅かさないように「虚勢された」アレンジの楽譜になっているのではないか(どうせ聞き取れないんだから、クラシックみたいなしろものに、使い古されたありがちなおかずをちょいと加えたようなアレンジでも構わないわけだし、もし忠実な楽譜を作ったとしても、五線の上に印刷されている複雑なコード記号は「見なかったことに」されるだけだからね)。 

 

それから、現在の「ポピュラーピアノ」は、昭和の時代の「ポピュラーピアノ」と違う気がする。 往年の「ポピュラーピアノ」は、 スクリーンミュージックなどをソロピアノ用にアレンジした、技巧的にもコード的にもリズム的にもとても複雑な、クラシックとは一線を画した、まさに20世紀の和声とリズムをふんだんに使ったジャンルだったと思う。 イメージ的には、ラウンジなどで腕のいい職業ピアニストが、数オクターブにまたがるランを駆使しながら、ゆったりと、時に華麗に弾くようなものだったと思う。 それが、どこかの時点で、その複雑なモダンハーモニーが排除されて、セブンスどまりの単純な和音の楽譜が量産されるようになったのは、いったいどうしてなのか? J-popが単純に聞こえるのだろうか? としたら、その耳の聴きとり能力に問題があるのだ。聞こえてないんだよ

 

もちろん、本当にポップスが好きで、真剣に楽しんでいるピアノ愛好家たちは、たくさんいる。だが、彼らを満足させてくれるような楽譜が多くないので、ポップス好きの愛好家の中には、自分で楽譜を修正するなどしてハーモニーの響きを工夫する人たちがいる(でもそれが、自ら工夫することが、また、楽しいのだ)。 

 

私がJ-popをはじめポップスが好きなのは、幼い頃の思い出にある。 私にとって、ピアノのレッスンで教わる曲よりも、はるかに複雑でカッコいい音楽は、いつも、テレビやラジオから流れてきた。 ユーミンの「Navigator」をつかったCMや、ラジオから聞こえてきたオフコースの「潮の香り」のハーモニー進行にビックリ仰天したり、新マンの「ワンダバダバワンダバダバ」の和音が一体どうなっているんだろう?と、テレビを食い入るように聞いていた。 庶民の私にとってとても幸運だったのは、伯父が音楽業界で働いていて、子どもの頃に伯父伯母の家に遊びに行くと、当時の音楽業界で話題になっていた、つまり、音楽のプロたちの間で評判になっていた最先端のレコードをたくさん聞かせてくれたことだ。 はっぴいえんど矢野顕子ユーミン尾崎亜美の「Hot Baby」、アバ、ビージーズ、ジャズ、そして冨田勲シンセサイザーによるドビュッシー。 「アイドル歌手」がいかにすごいプロジェクトかを伯父から説かれたりと、音楽業界で食べているプロの目線を垣間見ることができた。 そんななか、クラシックピアノにすっかり興味が無くなった私に、ピアノの先生がちょっと教えてくれた基本的なコード記号が、中学に入ったばかりの私にとって、ユーミンオフコースの世界へのパスポートになった。 「三和音と属七」の狭い音の世界の外に広がる、大衆音楽では常識のセブンスコード。 クラシック音楽の和声学では、おそらくリーディングトーンの扱いの関係で、「20世紀以降の和声」として学ぶ機会がほとんどない、メイジャーセブンやマイナーメイジャーセブンの耳が育った。が、私の耳は、セブンスどまりになってしまった。 これでは、ユーミンオフコースも、コードの骨組みだけしか耳コピできない。つまり、Rick Beatoさんがいうところの「幼稚園レベルのハーモニー」しか、聞き取れない。 でも、クラシックピアノの先生としては、セブンスコードを教えるのが精いっぱいだったことは、今になって、よくわかる。 ナインス以上は、ジャズ・ポップス・現代音楽といった20世紀の音楽の分野になるからで、当時は音大ピアノ科の学生ですら、ドビュッシーの曲でもディソナンスが多い曲を弾くことは、稀だったからだ。 20世紀の大衆音楽は、セブンスどまりじゃ話にならない。 だから、通常のクラシックピアノのレッスンでは、ポップスの和声を正しく理解するために必要な耳は、絶対に育たないのだ。 じゃなければ、ショパンのバラードを弾きこなす人が、ユーミンのある曲のイントロの基本的なテンションコードを「おもしろい音」としか形容できないはずがないからだ。 

 

今、私は、私にとっては四次元のナインス以上のコードと、各モードがわかるように、練習をしている。 趣味として、のんびり、一生かけて、楽しんでいく。 ジャズやポップスの人からすれば笑止千万と思うが、クラシックくずれのセブンスまでの耳じゃぁ、どうあがいても仕方がない。 いちから音楽のやり直しだ、いや、はなっから音楽を知らなかったのだ。 楽譜どおりに弾けることと、音楽を知っていることは、全くの別物なのだ。 それを、寿命があるうちに気づいただけで、めっけもんだ。 それでも、中学の時には聴きとれなかったユーミンのバラード曲を、なんとか耳コピできるようになった。 正隆さんがジャズの要素をふんだんに入れたアレンジの、オツなモジュレーションが先端の洗練性を感じさせる曲だが、モードに親しめるようになってようやく、耳コピできた。 でも、ギターのコード譜と見比べても、なんだかよくわからないな~、と、まだ聞き取れない響きもある。 ギターの響きとピアノの響きの違いから、ピアノで再現すると違って聞こえてしまう響きがあるようだ。 モード内の他の構成音を試しながら、なるべく近い響きに近づけていくが、それが正しいかどうかわからない。 でも、いまのところは、自分がその過程を楽しめれば、それでいい。 いつか、どんな曲でも、かっこいい!と思った曲を完璧にトランスクライブして楽しんで弾けるようになれると思っている。

 

Adam Neelyさんも動画のひとつで言っていたが、ポップスをmediocre(劣った・二流のもの)と思って演奏すれば、その演奏はmediocreなものにしかならない。

 

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(以下は、もとの文章を、2019年6月に加筆しました:)

 

実は、クラシック音楽も、強力なメロディーに、その時代時代においての絶妙なコードを合わせたハーモニーで出来ている。 とくに、右手でメロディーを弾いて左手で伴奏を行うピアノ曲は、その特徴が強いので、構造的には実質ポップスだ。 モーツァルトショパンも、実際のところ、そうなのだ(ただ、コードがバラけているだけだ)。 つまり、ポップスと同じ構造になっている曲が多いのだ(バッハを除いて。グレン・グールドが、バッハが好きで、モーツァルトショパンが嫌いだった理由は、このあたりにあるのではないか。 それから、ビバップスケールのコード弾きと共通点があるバッハの音楽を、バド・パウエルが好きだった気持ちが、わかるような気がする)。

 

グールドが、モーツァルトショパンが嫌いだった気持ちが、素人ながら、なんとなくわかる。 ピアノを習っていた子どものころ、私も、モーツァルトショパン、そしてベートーベン、そしてあのツェルニーが嫌いだった。 ぶっちゃけ、バッハと湯山昭ドビュッシーのほかは、レッスンで習う曲は、やりたくないものばかりだったのだ。 どうしてだろう? と、今になって思う。 それは、たぶん、ツェルニーモーツァルトショパン、ベートーベンのピアノ曲の構造が、「右手メロディー、左手コード伴奏」という、ポップスと同じ構造になっていて、それにしては、そのコードが、テレビから聞こえてくる歌謡曲やアニメソング(20世紀のハーモニー)に比べて「単純すぎて、つまらない」と、子ども心にも、無意識に感じていたからではないだろうか。 ピアノ会で、ツェルニー嫌いやショパン嫌いの人と話したことがある。 それぞれ、嫌いな理由があるようだったが、その人たちも、子どもの頃に「和音の響きがつまんない」と無意識に感じていたのではないだろうか。 バッハを嫌いじゃなかったのは、バッハのフーガなどは、ベースラインもメロディーになっていて、ジャズのベースのように「歩く」ので、ベースの一音、一音ごとに立ちあがる想像上のコードのめくるめく変化が、脳内で感じられて、楽しかったのではないかと思う(たとえば、インベンションの1番の最後の部分でFメイジャーセブンのディソナンスの破壊力を感じられる、といったように。 ほかにも、ソプラノとベースラインだけで、ルートレスの♭ナインスを想像できる曲があったり(viiのセブンス)、バッハには、そういう曲が多いんだと思う。 これが、ジャズミュージシャンがバッハを練習したくなる理由のひとつなのかな、と想像する。  ←Rick Beatoさんの動画のひとつで、バッハの平均律曲集のある曲に、キース・ジャレットの頃にようやく一般化したテンションコードに聞こえる箇所があって、「バッハは、脳内でこのコードが絶対に聞こえていたと思う」ということをBeatoさんが言っていたと思う。 そうだろう、バッハは、脳内でちゃんとそのコードを意図して作曲したんだろう。 だから、何百年も後のジャズミュージシャンたちに、それが届いたんだ、と思う。 それが、バッハが時代を超えて生き残っている、スゴさなんだろうと思う)。

 

「右手メロディー、左手コード伴奏」のピアノ曲が、がぜん面白くなってくるのは、左手のコードが複雑になってくるあたりからなのだろう。 そうじゃないと、バッハの、カウンターポイントによる「脳内テンションコード」の面白さに、かなわないからなのかもしれない。 私の中で、モーツァルトやベートーベンやショパンは、バッハと印象派以降(ポップス・ジャズを含む)のはざ間に、落っこちてしまったんだと思う。

 

だが、ポップスの絶大な力は、その強力なメロディーだ。 偉大なメロディーメイカーの一人、ベートーベンの、「喜びの歌」。 これが20世紀のハーモニーに乗っかると、映画「天使にラブソングを2」のクライマックスで歌われる「Joyful, joyful」」のアレンジになる。 ベートーベンの時代からみれば複雑極まりないハーモニーとリズムだ。 それでも、ベートーベンが作ったカンタス・ファーマスは、モダンハーモニーやリズムに喰われることなく際立つ。 それが古典の名メロディーの力強さであり、指数関数的に高度化したモダンハーモニー&リズムとの親和性を失わないことが、古典が古典として今の時代に生き残っている由縁なのだ。 21世紀に生きているのに、古典とモダンとの懸け橋が脳内で分断されているマインドセットは、気の毒というほかない。

 

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