こんな記事を見つけたよ:
「山下達郎・竹内まりや他、”シティー・ポップ”が海外で人気」
あたりまえだ。 J-POPには名曲が星の数ほどあるんだ。 それにしても、アニメの威力はすごいね。
ようやく時代が、アッコちゃん(矢野顕子)に追いついたね(しかし、そうなるまでに半世紀ちかくかかったとは...)。
アッコちゃんのアルバム「Japanese Girl」を聴いていたころ(もちろんLPレコードで)、巷(ちまた)は、洋楽を礼賛(らいさん)して、日本のポップスを下に見る風潮が強かった。 ちょっとでも音楽を「知って」いる、と思っている人たちは、日本のポップスを見下した。 私は、子どもながらに、それがよくわからなかった。 ヒデキの「〽っやめろっとっいっわっれってっも! ッチャラチャラチャラ、チャーラッ、チャーラッ!」や、「〽せまる~~、ショッカー!」や、「〽そ~らに~、そびえる~、くろがねのし~ろ~、」や、「〽ワンダバダバワンダバダバ」や、「〽ゲバゲバッ、ピー!」を、いま改めて、聴いてみてほしい。 当時の日本の音楽は、ポップスもアニメソングも劇伴(げきばん)も、いかに力強く、そして、洗練されていたことか。
もちろん、「西側(にしがわ)」の音楽に追いつきたいと、音楽家たちが一生けんめい努力して作っていたということはあると思う。 が、できたものは、日本の文化や社会の中で生まれた、正真正銘(しょうしんしょうめい)の日本の音楽だ。
(通常、「西側」に、日本は含まれない。含まれていると思っているのは、日本人だけだ。)
だが、当時は、まだ明治維新や終戦後のコンプレックスが根強く残っていて、「ヨーロッパかぶれ」や「アメリカかぶれ」の人たちが多かったのも、また事実だ。
とくに、多感な子ども時代や10代を、「自分の国より進んでいる」と考えられている国で過ごすと、典型的な「~かぶれ」の人になって戻ってきた。
その例が、私の従兄(いとこ)だ。 交換留学生として、羽田空港(成田空港はまだなかった)からアメリカにとびたった、高校生のお兄さんやお姉さんたちの中に、従兄がいた。 従兄をはじめ、みんな、こざっぱりとした髪型に、男子はボタンダウンのシャツにスラックスズボン、女子は、白いブラウスに紺色のボックススカートの、清潔感のある服装で、羽田空港の搭乗ゲートに消えて行った。
その一年後、親戚一同で羽田に出迎えに行ったときのことを、当時小学生だった私は、今も忘れることができない。 彼らは、変わり果てて帰ってきたのだ! 男も女も、長髪でパーマをかけた、ボサボサの髪型で、みんなデブになっていた(ハンバーガーを食べすぎたんだろう)。 しかも、デブになったうえに、ピチピチのTシャツを着ているから、ますますデブに見えた。 男も女も、ベルボトムの、ヒザがすり切れたジーパンをはいて、チューインガムをクチャクチャとかみながら、到着ゲートから出てきた、その一団は、まるでボロぞうきんのようだった。
先進国に留学したから、さぞかし良くなって帰ってくると思ったら、かえって、悪くなって帰ってきたのだ!
だが、彼らは、そうは思っていなかっただろう。 ボロぞうきんのような恰好をして、物を飲み食いしながら公共の場所を平気で歩くような野蛮人になり果ててしまっても、「日本のほうが遅れている」と、思っていたことだろう。
そして、彼らは、高校生のときに1年間、アメリカに行った、ということだけで、就職でもなんでも、有利に生きていけたことだろう(現在どうなっているかは知らないが)。 これが、英語の力なのか、と、小学生の私は感じたのだ。
しかし、その後、私は、日本中に吹き荒れていたアメリカ崇拝の風潮から、距離を置くようになった。 そして、自らの意志でアメリカに行ったことは、今までにない(ハワイには観光で行ったことはある)。
私は、アメリカの音楽、とくにジャズや現代音楽が好きだし、好きなミュージシャンもたくさんいる。 モンク大師も、テイボーンさんも、アメリカ人だ。 だからといって、自分の国の音楽が、劣っていて後進的だとは、全く思っていないし、むしろ、三味線などの日本の伝統音楽には、西洋の音楽にはない、もっと粋(いき)でオツな洗練性があるにちがいなくて、それがわからないほどに、今の日本人は耳が退化してしまっているのではないか(明治以降の音楽教育よ、ありがとう! ←英語的な皮肉だよ)、とさえ勘ぐっている。
もう21世紀も20年ちかく経ったことだし、元号も変わったんだから、欧米帰りの哀れな選民意識は、そろそろやめにしてもいいんじゃないか。 「欧米はこんなに進んでいる、なのに、日本は。。。」というマインドセットの日本人は、知らずして日本の価値をおとしめている、自分の顔と自分の国に泥を塗っている、ということに、そろそろ気がついてもいいんじゃないか。 そういう、自国の文化と自国民をないがしろにしてばかりいるから、自国の文化や商品を安売りしてばかりで、お人良しの国民と軽んじられるばかりだ。 そんなマインドセットじゃ、いくら英語がペラペラでも、人間が貧しいのだ、ということに、そろそろ気がついてもいいんじゃないのか。
昭和の戦後のモーレツサラリーマンの働きと、その家族の内助の功によって築かれた、日本の商品やブランドは、まだプレミアム(付加価値)がある(サラリーマンをバカにするのはやめるべきだ。サラリーマンこそ、戦後の日本の最大の資源だったのだから!)。 だから、海外にもっともっと高く売っても、お釣りがくるほどだよ。 観光客は、そういった高いジャパン・プレミアムを払ってでも、喜んで日本に観光に来るだろう。
また、私は、日本人なので、日本が、世界中のどこよりも、日本人が住みやすい環境であり続けることを希望している。 大人になってから英語圏に何年か住んだが、地下鉄の駅表示に日本語が書いてあったためしはないし、ましてや、日本語で応対されることもなかった。 有色人種として明らかな差別を受けたし、ヨーロッパ大陸の某国では小石を投げられたこともあった。 日本人が外国に住むということは、そういうことだ。
この英語圏の国で、いちど、あることで文句を言ったら、「If you don't like our way of doing things, fly back to your own country.(この国のやり方が気に入らないなら、自分の国に帰れ)」と言われた。 びっくりしたが、考えてみると、もっともなことだ。 たとえ英語である程度コミュニケーションできても、私はその国では、いついなくなるとも知れない外国人であり、その国では、戦禍などの国難を乗り越えて、何代もわたってその国に「国籍=人生の場所」賭けてきた国民の伝統や慣習が、最優先されるのは、当然だからだ。 さすが、日本の皇族方が留学される国だけのことはある。
そして、もしも私がその国で、その国の言葉(英語)を喋ることなく生活していれば、私は、物理的にはその国にいても、社会的・文化的には、その国の一部では全くない、異分子、蚊帳(かや)の外でしかないのだ。 ましてや、「その国の言葉を覚える努力もしないで、汗もかかずに、外国語を振り回して権利だけ主調するのは、ちょっと調子良すぎるんじゃないの?」と言われても、仕方がないではないか。
私は、せめて自分の国では、誰に差別されることもなく、言葉の不自由を感じることもなく、のびのびと生活したい。 日本に生まれ育ち、日本語が母国語の、日本国籍を持つ人間の、当然の権利だ。
日本が、日本語を母国語とする日本人(日本国籍を持つ人)にとって住みにくくなってしまったら、日本人にとって住みやすい場所は、地球上から、いや宇宙からも、無くなってしまう。 そのことに、みんな、気がついているのか?
「おもてなし」をはきちがえて、当の自国民の生活や時間を犠牲にするほど、自分の同国人を粗末に扱わなくてもよいと思う。 自国民を粗末に扱う国に、未来は無い。
それから、天然資源が乏しい日本は、日本語を天然資源化することを、真剣に考えたほうがいい。 「日本では、日本語が話せることによって、話せない場合よりも、大きな恩恵を得ることができる」ということになれば、日本語を習いたい人が増える。 日本に生まれ育ったという、たったそれだけで、有利な人生を送れるようにするのだ。(日本にいる、英会話学校のネイティブスピーカーの「先生」たちを見てごらんよ)
そのためには、日本語のハードルを低くする必要がある。 母音や子音が少ない日本語は、「聞く」のと「話す」のは、簡単だ。 残るは「読む」と「書く」だ。 このあいだ、駅だったかデパートだったかの公衆トイレに入ったら、非常ボタンの押すところに、大きく「ひじょう」と書かれていた。 すでに、ひらがな・カタカナをメインにした、やさしい日本語への変化がみられる(が、漢字のもとになった甲骨文字が象徴する意味を未来に伝えていくためにも、日本の漢字は残すべきだろう。ひらがな・カタカナでルビをふればいいだけのことだ。「漢字の本国」では、音による省略が進み過ぎて、漢民族が軽蔑した先住民族がつくった甲骨文字の本来の意味が失われてしまっている、と聞いた)。
つまり、日本語による社会的&経済的な障壁を高くしながら、日本語自体の障壁を下げるのだ。 漢字にルビをふったり、漢字ばっかりの学術用語をシンプルな用語にしたりして、ひらがな・カタカナさえ読めれば簡単に読めて、意思疎通できるようにする。「日本では、日本語でコミュニケーションができると、めちゃくちゃ有利になる」ようにして、「日本では、日本語が話せないと、とても不利になるし、とても高くつく」ようにすると同時に、日本語を覚えやすくするのだ。 その国の母国語を使えなければ、生活面で不利になるか、あるいは、通訳などの言語サービスに法外なプレミアムを払って住むほかなく、社会的・文化的に蚊帳の外に甘んじなければならないのは、どの国でも同じだ。
「障壁」は「悪いもの」であると、日本人は刷りこまれてしまったが、世界の国々は、自国の国益(産業や文化資源)を守るために、有形無形の障壁を、何ら悪びれることもなく作っている。 EUのISO基準もそうだ(MBAの授業で習った人も多いだろう)。 外国人に「障壁」と言われてビビッて、国内の言語障壁を必死でとっぱらって、観光地でもないところにまで、日本語をロクに話さない観光客に踏み込まれるような、自国民の生活に不利益をもたらすことをする、お人好しは、日本ぐらいのものだ。
そろそろ、ハマのメリーさん的な、海外(とくに欧米)への憧憬と、外国人に言われたことをビビッて鵜呑みにするメンタリティーは、20世紀への置き土産にしてもよいだろう。
あ、それから、アメリカ人と、ヨーロッパ人(の、とくに非英語諸国の人)は、外見は似ているかもしれないけど、全く別の生き物だよ。 だから、いっしょくたんに考えると、ヨーロッパ(の、とくに非英語諸国)の人たちは、「いっしょにするなよ!」と、憤慨すると思うよ。
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言葉と文化について:
言葉は、お金と同じで、とても公平なものだ。 人種や肌の色や出自に関係なく、その国の言葉が使える人は、その国において、言語障壁がないから、平時においても、災害時においても、最も有利に生きられるはずだからだ。 裏返せば、たとえ、先祖が代々日本人であっても、海外生活が長くて日本語がうまく操れない人は、日本においては、不利な生活に甘んじるほかはないのだ。
音楽語もそうだが、言葉は、習得するのに時間がかかる。 その国の国民としての権利を得ると同時に、義務を担う資格を持った、一人前の国民として堂々と生きるためには、高度な言語能力が必要なのだ。 どの国でも、そのような高度な言語能力を、20年ちかくかけて習得していく。 言語の習得を通じて、ボキャブラリーだけでなく、その国の文化や社会を理解する必要があるのだ。 言語を習得するプロセスは、文化を理解するプロセスであり、その言語が話せることは、その文化を理解していることを示しているのだ。
だから、どこの国に行っても、その国の言葉を、片言でも一生懸命話せば、喜ばれるし、親切に対応してもらえるのだ。 言葉は文化の表現だから、その国の言葉を話そうとする行為は、その国の文化を理解しようとする努力を表しているからだ(日本人であれば、ことさら、よくわかっているはずだ)。 その国の言葉を覚えようともしないで、英語だけで切り抜けようとすれば、ガイジン観光客用の オ・モ・テ・ナ・シ しか受けられないのは、地球上どこに行っても、同じことだ。 公平で公正な世の中では、それ以上、する必要はない。 誰でも、その国の言葉の習得にかけたコストに見合っただけのサービスを、受けることができる。 ただ、それだけのことだ。
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