音楽の彼岸のピアノ遊び

大人のピアノ道楽を満喫するピアノ一人遊びの日々

「老化」と「ピアノ」

 

先日、こんな記事を書きました:

tokyotoad1.hatenablog.com

 

武田鉄矢氏も引用していた、内田樹氏の『修業論』の一節は、心に刺さります:

 

「そもそも、武道家の身体能力をもっとも確実に損なうのは、加齢と老化なのである。 だが、かつて死神に走り勝った人間はいない。 だからもし、加齢や老化を「敵」ととらえて、全力を尽くして健康増進とアンチ・エイジングに励んでいる武道家がいたとしたら、彼は生きていること自体を敵に回していることになる。」(内田樹『修業論』より)

 

上記の文章の中の「武道家」を、「ピアニスト」や、楽器の「演奏家」に置き換えることができると思います。

 

老化が大きな敵になるのは、競技によって優劣や勝敗がはっきり決まる、スポーツの世界です。 「(女子フィギュアスケート選手について) 加齢・結婚・出産によって、回転力や筋力が落ちて、その選手のパフォーマンスが低下する。だから、その選手にとって、年をとること、結婚すること、子どもを産むこと、究極的には、(女性として)幸せになることが、敵になる」というようなことを、武田鉄矢氏が、内田樹氏の『修業論』を紹介する際に、話していたと思います。  生理が来なくなるといった、女性本来の機能が損なわれるほど体を酷使して練習する、マラソンや機械体操の女子選手たちも、同様でしょう。 年端(としは)もいかない子どもたちに、将来の生物的な機能の発達を損なわせるまで練習を強いる一方で、その子たちの「現代の軽業(かるわざ)・曲芸」に、手放しで感動したり、スゴイスゴイと誉めそやす行為には、本質的に、残虐性をはらんでいるような気がします(現代の太神楽(伝統芸能)では、子どもの時から酷使することは有り得ない)。

 

武道でも能でも楽器演奏でも、自分の身体を動かして行う活動は、老化とともに、だんだん、できなくなります。 でも、これらがスポーツでないとすれば、老いていきながらも、死ぬまで続けていきたいと思わせる何かがある、そんな次元のものだと思います。

 

ピアノはどうでしょうか?

 

ピアノでは、老化によって:

 ① 指や身体が動かなくなる(⇒ミスタッチの増加)

 ② 絶対音感が、あったとしても、50代ぐらいから、ズレていくという説がある(Rick Beatoさんの動画によると)。 絶対音感がズレることによって、キーと音の認識が、あやふやになっていく。 たとえば、Bの音を出そうと思って、Bbの鍵盤を叩いてしまう、など。(⇒ミスタッチの増加)

 ③ 視力の低下 ⇒ 楽譜が読みづらくなる、抑えるべき鍵盤を認識する反応が遅くなる (⇒ミスタッチの増加)

 ④ 記憶力の低下 & 記憶の消滅。①~③に加えて、脳の機能も老いていく。いままで覚えていた記憶が、失われたり、ど忘れがひどくなる。 そのため、楽譜や段取りが、なかなか覚えられなかったり、覚えても、すぐに忘れてしまう。(⇒ミスタッチの増加)

 

伝統的に、ピアノ教育において、最も疎まれ、忌み嫌われるのが、ミスタッチです。 であれば、老化は、ピアノ演奏にとって最大の敵です。 

 

ということは、老化の一途をたどり、ミスタッチが増えていくばかりの中高年向けに、ピアノを趣味として売り込む行為は、それ自体が、矛盾しており、整合性が欠如しています。

 

一方で、当の教師たちは、「中高年の人々が、ピアノを練習する際に直面せざるをえない、老化がピアノ演奏に及ぼす負の影響について、どう対処すべきか」という認識が無いまま、あたかも、「子ども向けのレッスンフォーマットを、そのまま流用すれば問題ない」かのごとくに、中高年向けにピアノのレッスンを売り込んでいるのではないか? 

 

もっとも、老化の影響は、自分が老化してからでないと、わからないものですから、若い先生がたは、中高年の生徒の苦悩を、想像すら、共感すら、できないでしょう。

 

身体が動かなくなり、ミスタッチが増加していく、老化の一途をたどる、大人にとって、ふさわしいレッスンが、あるのか。 もし、あるとすれば、どんなレッスンなのか?

一方で、

「できなくても、上手く弾けなくても、いいんですよ」

っていう、レッスンに、カネを払う価値があるのか?

どんな内容のレッスンが、カネを払っても通う、価値があるのか?

大人向けの趣味のレッスンや趣味講座は、接客業ですから、いろいろな目的でレッスンに通う中高年もいることでしょう。

 

話がそれましたが、『修業論』のなかで、そのほかに、その通りだと思った個所:

「修業は商取引とは違います。「努力」を代価として差し出すと、使用価値の明示された「商品」が手渡されるというシンプルなプロセスではありません」(『修業論』より引用)

 

「これこれの練習を、これこれの期間継続したから、これこれの効果が得られる」ということは、ない、ということだと思います。

 

「走っているうちに「自分だけの特別なトラック」が目の前に現れてくる。新しいトラックにコースを切り替えて走り続ける。さらにあるレベルに達すると、また別のトラックが現れてくる。また切り替える。

そのつどのトラックは、それぞれ長さも感触も違う。そもそも「どこに向かう」かが違う。はっと気がつくと、誰もいない場所を一人で走っている。もう同一のトラックを並走している競走の相手はどこにもいない。修業というのは、そういうものです。」(『修業論』より引用)

 

ある基準に基づく能力の優劣で競い評価される「競技」と違って、武道や芸道は、誰と競い合うこともない、それぞれが一人っきりで、それぞれの座標軸で、一生続けていく、「道」なんだなぁと思います。 私は日本人なので、ピアノも「道」にすると、しっくりします。 それに、日本には能という伝統芸能があり、能の稽古や表現における哲学も、とても参考になります。 人種や出自を問わず日本人だったら、日本の伝統芸能の知見を活かさない手はありません。

 

洋もののお稽古事が一般的に「道」と認識されない理由は、もともと日本で発生したものではない、異文化圏のものであることに加えて、伝統文化を受け継ぐような生まれでない、公団住宅(水道や水洗トイレが備わった戦後の憧れの住まい)やニュータウン(山野を切り開いて造成した新興住宅地)に住むことが「オシャレ」であると信じて疑わない、戦後の「産めよ増えよ」政策で爆発的に大量発生した「根無し草」の人口層をターゲットに、大量生産システムによって訴求されたものであり、それが、敗戦による日本の伝統文化への自己否定と、アメリカを代表する西洋文化への、劣等感まじりの強烈な憧れによってターボチャージされた、もともとの文化の蓄積が不在の薄っぺらな性質のものだからでしょう(でも、戦争に負けた、資源の無い貧しい日本が、復活するためには、人口を短期間で爆発的に増やして、マニュアルどおりに仕事をする均一の労働人口をアタフタと作るしか方法がなく、それが、「丸暗記」ものの勉強に代表される、薄っぺらな教育や稽古事のベースになっていったのも、時代としては仕方がないことです)。

 

ほかにも、「減点法のマインドセットを採用すべきでない理由」などが書かれていて、興味深く読みました。

 

「老い」は、実際に老いてみないと、どのようなものか、わからないんだなぁ、と実感します。

そして、今の年齢における「老い」は実感できても、10年、20年先の「老い」は、想像すらできません。 

 

身体能力を基準にすると、この先、絶望しかない。

 

でも、個人的には、中学生のころより、ピアノが「上手く」なりました。理由は:

 ① 2年間、姿勢を改善しようと試行錯誤を続けてきた

 ② 音楽の知識を増やそうとやってきた(アタマを使うようになった)

これら①②のプラス効果が、「老い」のマイナス効果よりも大きかったからだと思います。 

 

もっとも、「上手く」弾けることイコール「楽しんで」弾けること、ではない。

老いてゆけば、どんどん「下手に」なっていくだろう。 でも、私は、やめないだろう。 いつまでも「楽しんで」弾いていくだろう。  

 

これは別に、ピアノに限ったことではありません。 どんな芸事でも、あくまで趣味として楽しむのであれば、生きていること自体を敵に回すような絶望的なアプローチをして、限り有る余生を地獄の日々にするようなことは、絶対にしないように、楽しくやっていきたいものです(ええ、プロとしての本業が、すでに茨(いばら)の道ですから)。 

 

「産めよ、増えよ」政策で増殖した、「中流」と呼ばれる「根無し草」のボリュームゾーンの人たち。 親から受け継ぐ資産のない、成功するための唯一の方法が「ガリ勉」しかなかった人たち。「ウサギ小屋」に住む「エコノミックアニマル」と、西洋からの嘲笑に心の底で深く傷つきながらも、それに耳をふさいで、通勤地獄に耐えながら働いた、そんな「モーレツ社員」たちによって、20世紀の後半に、日本に豊かな時代が到来しました。 

そして今、前世紀の豊かな時代に育ち、最強だった日本株式会社を勤め上げた、優秀な人たちが、趣味を通じた自己表現の活動を、こぞってやり始めています。 彼らの中には、芸道に行くには優秀すぎた人たちがたくさんいます。 

加えて、現在の彼らには、インターネットやYouTubeをはじめとしたリソースが、ふんだんに手に入ります。マイペースで自己表現を楽しむ心持ちとインフラの両方が、整っています。

これが、老成であり、日本が老成したことなのでしょう。

老成から、今までの伝統に根ざした、本当の新しい文化が生まれてきます。 ピアノなどの洋ものの趣味も、「和風ステーキおろししょうゆ味」のように、日本文化にローカライズされた、日本独自の「道」のひとつになる可能性があります。 「道」には、なんらかのパフォーマンス指標によって他者と優劣を競う要素が、入り込むことはありません。

日本の人口の大半が、老いて成っています。

老いて成った日本に対して、方法論が追いついていません。 従来の方法論が瓦解していく音が聞こえます。

 

(芸術のプロたちのなかには、「一般人」を「高尚な芸術を理解する文化度のない、無味乾燥でつまらない会社勤めをするサラリーマンたち」と、見くびる向きがあるようです。 彼らが「つまらない」と見下す「会社勤め」とは、青クサい「自己表現」なんぞは一瞬で踏みつぶされる経済活動の中で、日々マルチタスクを遂行し、社内外の調整をつつがなく行い、地雷だらけのポリティックスを生き延びていくという、極めて高度に社会的で複雑な頭脳労働です。 仕事で優秀な人は、趣味においても、その優秀な頭脳を軽々と使います。 前時代的な芸術のプロにかぎって、「一般人」の能力を見くびった結果、彼ら(顧客)をしくじるのです) 

 

もとの記事:

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