音楽の彼岸のピアノ遊び

大人のピアノ道楽を満喫するピアノ一人遊びの日々

日本を失った日本人

 

京都がオーバーツーリズムでひどいことになっているという記事や話を見聞きするようになってから、かなりたちます。

実際に、私の知っている京都は、もう消滅したんだろうと思います(ちなみに北海道や箱根も、消滅したと思います)。 

もともと、関東の人を「よそさん」中の「よそさん」と思っているだろう京都の人たちは、日本語を話さず日本のマナーも知らない外国人観光客よりも、まだ日本語で意思疎通が可能な関東人のほうがマシだったと思っているかもしれません。 もともと京都に住んでいる人たちは、居場所がなくなってしまっているのではないでしょうか。

 

自分の国、自分の町に住んでいるのに!

 

東京も、京都と同じようになってきています。 外国語が飛び交う地下鉄銀座線の銀座-浅草間で、緊張して乗っているのは、日本人のほうです。 

東京の最も代表的な銀座線の車内の駅名の液晶表示では、日本語の表示時間は4分の1です。

私なんぞは、次の駅を確認しようと社内の液晶表示に目をやる、いつも読めない漢字や判読不可能の文字が目に入ってくるので、もはや、液晶表示を見ることをあきらめました。

これは、私の時間と場所の4分の3が奪われたことを意味しています。

母国である日本に住んでいる日本人の時間と場所の4分の3が奪われたことを意味しています。

 

そんな、銀座ですが、歩行者天国の時間帯には、歩道の縁石に外国人観光客が鈴なりに座って、ものを飲み食いしたり、スマホをいじったりするようになってしまいました(なぜ外国人観光客かって? まっとうな日本人は、歩道の縁石に腰掛けるようなことはしないからです)。 デパートのバッグ売り場では、バッグにチェーンがつけられるようになってしまいました。 有楽町から移転した無印良品の入り口は、もはや日本ではありません。 高級文具店の伊東屋の品格も失われました。 私が憧れて、オシャレして行った銀座は、もはや消滅しました。

 

きれいな街並み、手ごろな値段の質の高い良品が整然とならぶ売り場といった、日本の良さは、日本人が日本人として生きるなかで身につけた、勤勉で、自分が嫌がることを人にしない、他人を気遣う、という世界でも異例の突出した文化的な「常識」があってこそのものでした。 よく、「日本の常識、世界の非常識」と、自らを自虐的に言う日本人が少なからずいましたが、そんなみなさん、おわかりですか? まさに、その「日本の常識」によって築かれた日本の良さが、「世界の常識」によってみるみる破壊されているのです。 「日本の常識」を理解するべくもない者たちが一気に押し寄せれば、日本人が戦後何十年もかけて、エコノミックアニマルと動物呼ばわりされながらも、通勤地獄に耐えながらも、一生懸命に復興して作り上げた、その卓越した文化資源は、またまく間に食い尽くされ、日本の良さはあっというまに崩壊するでしょう。 まるで、焼けただれた土地に、人々がゼロから種をまいて、何十年もかけて一生懸命丹精込めて作った黄金色に輝く水田が、イナゴの大群に押し寄せられるように。イナゴが去った後は、黄金色の文化は破壊され、荒廃した土地に、「文化」という国富を失った貧しい哀れな現地人が残されるだけです。

 

先日、ある日本の伝統芸能の公演を観に行きましたが、最も高尚と言われている、その芸能の公演に、言葉からしてラテン地域のヨーロッパ人の中年女性2人が来ていて、一人の方は、3歳の子供のように始終落ち着きがなく、公演が始まると、始終首を横に振り(そりゃそうだ、日本人だって慣れていなければ聴きとるのが難しいものなんだから)、挙句の果てに、携帯を取り出して写真を撮り始めた! すぐ後ろの日本人の女性がたしなめたが、恐縮する様子ひとつない。 休憩時間になって、私も注意したが、悪びれる様子ひとつないのだ! 日本の伝統芸能は、当の日本人でも理解しにくくなっています。だから、まずやるべきは、ふつうの日本人にアピールするのが先決なのです。 文化の土壌が全く違う、とくに西洋人は、よっぽど日本に入れあげていない人でなければ、理解できることはまず不可能で、ふつうは、「日本の伝統芸能は、異様で、奇怪であり、我々の西洋文明とは全く異質の(つまりは、劣った)ものだ」と、忍者よろしく無邪気に受け止められるのが関の山です。 実は、前頭葉で考えた西洋文明の理路整然さの先にあるのが、日本の文化に代表されるものなんですけど、それをわかろうはずがないわけです。 だから、的のない的に矢を射るような徒労を重ねるよりも、まだ的のあるふつうの日本人の心に刺さる努力をすることのほうが、日本の伝統芸能にとって、はるかに費用対効果があります。 

話はそれたが、このように、せっかく楽しみにしていた公演は、マナーを守らない、お里が知れるような外国人観光客によってケチがついてしまった。 私のチケット代と時間は、こうやってドブに捨てられた。

私の人生の時間とお金と心の平穏は、こうやって失われた。

日本人の人生の時間とお金と心の平穏、つまりは、日本の国富は、こうやって失われた。

 

近所の公園では、母親たちに見守られながら子どもたちが遊ぶなかに、一見してすぐ日本語すら話さない外国人観光客がベンチに座って、日本人の子どもたちが遊ぶ様子を、ただ見ている。 地元の子どもたちの遊び場の場所を占領して、彼らは一体何をしているのか? サル山のサルでも見ている気分でいるのか? 彼らが、公園のベンチに座って、日本人の子どもたちが遊ぶさまを観察しても、日本には一銭も入らないのだ! そればかりか、観察される日本人のほうが、憩いの場所を侵食され、居心地が悪い気持ちになる。

日本の国富がダダ漏れで失われている。

 

先月の台風のあと、多摩川が氾濫した二子玉川の写真が、とある日本の新聞に載っていた。そこに、ピントがぶれているが映っていたのは、明らかにスマホをかざす西洋人の観光客だった。災害の被災地までもが、外国人観光客のお気楽な観光スポットになってしまっている! そして、彼らは、災害の様子をスマホで撮るだけで、ビタ一文、落とさないのだ!

 

これが観光なのか?

 

こんなことになったのは、「日本人の国土と生活を守るための良いバリアー」としての日本語をないがしろにして、普段の日本人が生活する領域にまで、不必要に外国語の表示をばらまいてしまったからだ。

言語は、その国の力の影響力を示す。たとえば、ある言語が街中で普通に表示されている地域は、その言語を話す国の影響下にある、ひどい場合は、植民地であることを意味する。

「おもてなし」のために、なんていって、自国の言葉を隅に追いやって「多言語化」なんて呆けたことを言うのは、日本人ぐらいだ。

東京メトロ銀座線の車内における日本の存在力&影響力は4分の1で、4分の3は他の国々に実効支配されていると言われても、文句は言えないのだ

そのことを、日本人はわかっているのか?

日本人は、どこまで、お人良しなのか?

日本の優れた「おもてなし」は、それを受けるに値する人たちにのみ提供されるべきで、日本人の生活シーンの中にまでズカズカと入り込んだ挙句に一銭も落とさないようなマナー知らずのウゾウムゾウにまで一生懸命に質の高い「おもてなし」を提供する必要はこれっぽっちもないのだ。そういうウゾウムゾウについては、彼ら用の観光地を仕立てて、巧みにそっちに誘導して金を落とさせて、ふつうの日本人の生活を守るべきだ

 

私が住んでいたロンドンの地下鉄の車内には、日本語はおろか、外国語なんてひとつも表示されていなかった。 英語だからだろうって? だったら、日本語を簡単にして、日本語を世界に広めればいい。 せっかくJ-POPやアニメなど、魅力的な日本語のコンテンツがたくさんあるんだから。

 

英語で道を聞かれたら、日本語で答えればいい。ここは日本なんだから。日本人がオドオドして英語を使うことで、相手が得るメッセージは、「自分たちは日本人より優位である」ということである。日本における唯一の公用語である日本語を、堂々と使って、何を恥じることがあろうか。 

日本では、日本語を話す人が、どんな場合でも最優先されるべきだ。 なぜなら、日本語を母国語とする日本人、ならびに、日本語を学んで喋れるようになった人たちは、人生の時間と努力を、日本語という文化の習得に賭けた人たちだからだ。 自分の人生を日本に賭けた人たちが、日本では最も優遇されるのは、当たり前ではないか。 そういう人たちが、日本に住みながらにして隅っこに追いやられて不自由な思いを強いられるのであれば、日本は、喜んで自らをどこかの国々の植民地にしていることになるのだ。 

 

以前、日経ビジネスに、小田嶋隆氏が、「観光立国とは、物乞いの国になり下がることだ」という旨の文章を書いていた。 観光産業に依存しなければならない国は、物乞いの哀れな国なのだ。 

 

私の母国、日本は、急速に失われている。 そうなれば、私を含めて日本人は、日本にいながらにして、亡国の民になってしまうのだ。 一体それでいいのか?

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近現代における、オーバーツーリズムの最初の被害国は、フランスだと思います。 産業革命によって19世紀に地球の半分を所有していた隣国イギリスから、ろくすっぽフランス語も話せないような成金観光客がパリに大量に押し寄せたことでしょう。 ところで、先日のトマス・クックの倒産は、イギリスのひとつの時代の終焉を象徴するものと思われます(日本でJTBが倒産するようなものです)。

フランスが今でもその文化資源の価値を高く維持できている最大の理由は、フランス語という言語障壁が有効に機能しているためだと思います。 フランスは、自国の言葉であるフランス語に対して、当然でありながら大きな誇りを持っており、外国人観光客に英語なんぞでヘコヘコと応対しないという、敷居の高さが、フランス人の日々の生活を守っているのだと思います。とても賢明なことだと思います。 フランス人は、フランス文化を英米文化よりも上に見ています。 だから、子ブッシュがキャンプデービッドに当時の各国首脳を招いた際に、「ノータイのカジュアル」という米国側からのドレスコードを受けて、唯一、ネクタイ着用で参加したのが、真っ赤なネクタイにビシッとスーツ姿のフランスのサルコジ大統領でした。 私はテレビでその光景を見て、大いにウケました! だから、アメリカはフランスが嫌いなんだよね。 でも、フランスの方は、アメリカに嫌われても何とも思っていないんだよね。 だって、フランスの方がアメリカより優れているんだから。てことなんだよね!)

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「日本語を話す日本人」であることの信用の高さ: 「日本人であることの、世界的な信用の高さ」という、途方もない無形資産の価値を、ぜひとも自覚するべきです。 日本人の言語である日本語を話すことは、自分が、世界で最も信用が高い国民、ないしは、そのような信用が高い国の言語を話す、つまり、日本の文化に通じている人間であることを、周囲に示すことになります。 もちろん、そうすることで、日本人その人にとってのリスク(物取りに狙われる、従順と思われている日本女性は外国人の性的な魅力の対象になり得るなど)は伴います。 が、日本国内においては、マジョリティである日本人より力を持っている者は、いないはずです。 ですから、積極的に日本語を話して、自分が日本人であることを表明することが、日本人にとって得策です。 なぜならば、よく似た他国の人と間違われることは、日本人にとって、大きな損だからです。

 

そして、日本という、言論の統制を受けない自由な国に住んでいるという、その膨大な価値を、自覚して、維持するべきです。 いろいなことはあります。 でも、人々は、不満であれ何であれ、自由に自分の思いを表現することができています。 その表現の手段は、日本語です。 ですから、日本語を失ってはならないのです。 「自由な先進国」と自らを唱える国々でも、日本と同じように、その国の社会のなかでは、いろいろな「伝統的価値観」や「宗教観」のドグマの鎖につながれているものです。 でも、それぞれの国が、それぞれの国の言葉で、いろいろな議論をしていること、議論ができる自由があることが、自由な先進国なのです。 だから、日本も、日本人が、日本が良くなるために自由にいろいろな議論をする手段である日本語を失ってはならないのです