おんがくの彼岸(ひがん)

大人の独学ピアニストtokyotoadのブログ

phewさん出演のライブを聴きに行った

 

phewさん - 中学生だったうん十年前に、教授プロデュースの「終曲」というシングルレコードを買った。 その後、「phew」というLPレコードも買った。 今でも大切に持っています。

 

そんなphewさんが出演するライブが、しかも、モリイクエさんが出演とのことで、行ってきました。

 

phewさんのライブに行けるような境遇になるとは、中学の頃には思いもよりませんでした。 うん十年間必死で生きてきた甲斐があります。

 

phewさんのLP「phew」には、特別な思い出があります。 もう高校生になっていたかもしれないが、このLPを買ったその日、すぐにカセットテープに録音して(大切なレコードが擦り減らないように)夜中まで聴きまくった。  とくに、〽マッチ擦り~火はボウボウと広がるが~....(中略)....入り口のそと~出口のな~か~蜘蛛糸をひく~....っていう、B面の1曲目を何度も何度も聴いた、その翌日、ものすごい頭痛がして、学校を休んだ! phewさんの曲の呪力を体感したことは、いまでも懐かしいトラウマです!

 

phewさんや、モリイクエさんの演奏を観ていて、いろんなことを感じました。 

とくに、いわゆるミュージカルサウンドではない音を、電気と機械を使って発生させる音楽の意味が、心にしみてきました。

古典的な楽器を演奏するためには、そのために特別な身体的な訓練を受けなければならない。

だが、電気と機械で生み出す音楽は、そういった身体訓練が必要ない、自由な音楽だ。

そして、古典的な楽器が受ける、西洋音階や作曲理論のシバリからも、自由だ。

自分の音楽的なステイトメントを、何にも制限されずに表現できる。

しかも、楽器を演奏するための体格的&運動能力的なハードルも無い。 ハードルがあるとすれば、確固たるクリエイティビティがあるかどうかだ(その人の底の深さ浅さがあからさまにわかってしまう、ある意味最も残酷なハードルだが)。 

身体的な能力は、歳をとるにつれて衰えていく。 だが、電気と機械による音楽の創造には、歳をとることは、かえってプラスに働くだろう。

これが、作曲家が常に神であって演奏者が自分のクリエイティビティを差しはさむ余地がない再現芸術との、決定的な違いだ。

phewさんたちの演奏を聴きながら、自由を満喫しました。 

 

phewさん、モリイクエさん、そしてもうひとりのドラムの方(この方もハンパなかった)のステージは、遮光器土偶のイメージだった。 シェイクスピアの「マクベス」に、予言をする3人の魔女が出てきたと思う。 ブリテンの文化では、3人の女性は「過去・現在・未来」のトリニティ(三位一体)を表すと、どこかで読んだ。 彼女たちは、キリスト教化される前の、paganismの巫女だ。 それが、キリスト教化のなかで、魔女にされてしまった。 もともと、魔女は、森と狩猟の女神ダイアナ(山の神)の、キリスト教下での成れの果てなのだ。 かつての日本にも、山に、森に、海岸に、むき出しの聖地が無数にあった。 空と大地の間で、おおらかな巫女たちが、神羅万象を生き生きと媒介していたのだ。 岡本太郎神の言うとおり、音楽は呪術表現だ。 現代のnemetonで、大地の声を媒介する3人の巫女の儀式に参列した気持ちになりました。

 

ライブの最後に、phewさんだけ、タイ式の(= 外国人向けの)お辞儀をしなかった。 ブレない存在は、カッコいい。

 

追記: 前半と後半のあいだの休憩時間になって気がついたのは、前半のライブの間に、私も含めて立っているお客さんたちの列(2列目より後ろ)がステージに向かってジリジリ前に寄っていったとみえて、気がついたら周囲の人たちが発する気の圧がすごい(わたしもそうだったと思うが)。 無言の圧が無音の熱気となって何だかスゴかった。  

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