ピアノ方丈記

音楽の彼岸にて【指の健康寿命を気遣いながら!】シニアのピアノ一人遊びの日々

大人のピアノの目標は、「出すぎた杭」になることだ_001

 

大人のピアノについて、自分の経験をもとにいろいろ書いてきましたが、  

大人のピアノは、レッスンを受けるべきか?独学か?_001 - おんがくの彼岸(ひがん)

大人のピアノは、レッスンを受けるべきか?独学か?_004 - おんがくの彼岸(ひがん)

 

現時点での結論は:

 

ネット社会の今日において、ピアノは独学することができるが、習うことにも一定のメリットがある。

   が、

もし誰かに習う場合は:

 主導権は、自分が必ず握る

  これを確実にしたうえで、

 ピアノが初めての場合は、最初のうちは、音楽文法(理論)を熟知した上での作曲や即興演奏が出来る音楽の本当の実力が有る人(作曲家や他楽器の演奏家を含む)に習うと、バランスのとれた理想的なスタートができる。作曲家はピアノはデフォルトで弾けますし、実力の有る他楽器の演奏家もピアノはデフォルトで弾けるものです、というのは、鍵盤楽器の音の配置はギターなどよりも単純だからです。ピアノは2歳からでも習えるけどギターは2歳からじゃ無理でしょ?

 レッスンを受けつづける場合は、著名な現役のピアニストといった「ピアノの先生たちの先生」に習うか、あるいは、実力が伴っている先生に自宅に来てもらうのが望ましい。

 

と思います。 

①②③の理由は、

 

内田樹『そのうちなんとかなるだろう』という本の中で書いておられる、

師弟関係のダークサイドの罠を、回避するためです。

 

この罠にはまると、構造的に、先生に主導権を取られてしまいます。

主導権を握った先生は、指導を通して、

「先生が優位で、生徒が劣位である」

という呪文を、意識的に/無意識的に、生徒に対してかけつづけるため、

生徒は自信をどんどん吸い取られて

「自分は下手だ、ダメだ、できない...」という劣等感にさいなまれると同時に、

「先生」という名のご主人様から「合格」や「花まる」を頂くことによってしか、自己を認めることができなくなる、

焦燥感に満ちた、哀れな「ご主人様の犬」、つまり、

生徒は奴隷になってしまうからです。   

労働を搾取されるのが奴隷ですが、

もっと流動性の高いお金をわざわざ払って奴隷になっているって、

もうわけがわかりません。   SMプレイのような特殊な場合を除いて、

お金を払って奴隷になるのは、この世の原則(神)に反する行為です。

新約聖書で、イエス・キリストが、「天国に入るのはどのような人か」について、たとえ話をしています。 父親から、それぞれ持って生まれた才覚に応じた金額のお金を預けられた、3人の兄弟の話です。 天国に入るのは、自分が持って生まれた才能を生かして、この世でプラスの付加価値を創出する人です。 お金を払って奴隷に甘んじる行為は、自らのバリューを自ら損なう、聖書の教えに反する、天に唾する行為です。)

 

上記の理由から、

主導権は、自分が必ず握る

これを確実にすることが、最も重要だと思います。

 

 

ピアノの先生の多くは、小学校の先生と同じように、

ピアノ教育業界で伝統的に採用されている指導カリキュラムに沿って、ピアノを教えていると思います。

それは、五線譜の読み方からはじまって、手の形、指の動かし方、楽譜の記号の意味、楽譜どおりに弾くことが中心です。

時代は変わりました。

大人であれば、動画やサイトや本で調べれば、わかるものばかりです。

イタリア語などの専門用語も、楽譜の読み方も、ウィキペディアなどにすべて載っていますし、奏法については、プロによる説明動画も山ほどあります。

それに、子どもでも教わることができる内容は、

畏れ奉(たてまつ)って有難く伝授してもらうような、奥義秘伝のようなものなのか?

それを、子ども相手に何年もかけて教えるというのが、ピアノ教育産業の収益構造ではあるまいか?

そう考えれば、「1年で大作曲家某の難曲が弾けるようになった」人たちが、世界中でどんどん動画をアップしている現象も、不思議ではありません。

頭も身体能力も伸び盛りの若い人だったら、ピアノが好きで好きで夢中で弾いているうちに、1年ぐらいで、いわゆる難曲をかなりのテクニックで弾けるようになることは、じゅうぶん可能なのではないか。

 

誰かが作った指導カリキュラムに沿って教えることは、それほど難しいことではないと思います。

逆に、指導カリキュラムの範囲を超える知識がなくても、カリキュラム通りに教えることができれば、「ピアノの先生」の看板を上げることができるわけです。

(一般企業で「英語屋」として働くために必要な英語力に遠く及ばなくても、英会話チェーンのマニュアルに従って教えれば自宅でキッズ英会話教室を開いて「先生」の看板を上げることができるのと、同じです。)

そのピアノ指導カリキュラムは、子ども向けのものだと思います。

大人は、

子ども向けの指導カリキュラムでカバーされていない領域に魅力を感じると思いますが、

ピアノのレッスンでは、子ども向けの教材に、

申し訳に「大人の」という枕ことばがついた教材をやらされてはいないか?

楽譜どおりに弾く・手の形・指使い、といった

反射神経と身体能力を鍛えることが中心の内容だとすれば、

伸び盛りの若くて柔軟な脳と肉体が必要な内容です。

老化&フレイル化が進行する大人が、同じように取り組んでも、子どもや中学生のようにいくはずがなく、

子ども用のカリキュラムをひな形にされてしまっては、

ダメだしを受けるばかりになってしまう。

かたや、ピアノの先生は、大人が求めている、指導カリキュラムを超えた領域の知識が乏しい場合が、多いのではないか?

だって、多くのピアノの先生は、女性で、結婚していて、家事と育児の合間にピアノを教える、ママさん先生ですから。

現在の彼女たちは、「音楽バカ」はおろか、「ピアノバカ」でい続けるのも、難しい。

もちろん、かつては、「ピアノバカ」だったと思いますが、

今は、家庭を守り子どもを育てることが本業の、「奥さん業バカ」、「子育てバカ」です。 そうでなければ、彼女たちの旦那さんやお子さんが困ってしまいます。

そのうえ、時代はどんどん進んでいる。

どんどん新しい音楽が世に受け入れられていて、

それらがネットで急速に広まって、

一般大衆の耳は、どんどん進化している。

そのスピードについていくには、「音楽バカ」であり続けなければ、非常に困難でしょう。

時代遅れの、すでにコモディティ化したノウハウには、経済的な価値が無い。

だから、ネットや動画にどんどんアップされて、見放題なのです。

広告を強制的に見せられる時間ロスを除けばタダで手に入るものを、わざわざお金を払って教えてもらうことは、

額に汗して働いて稼いだ「天下の通用」をドブに捨てる行為です。

(先生に「ピアノを教えてもらう」以外の、たとえば「ピアノ教師」という存在への恋愛嗜好性があるなどの、何らかの妙味を感じてレッスンに通うのは、別の話です)

せめて、大人は、

時代についていっている「〇〇バカ」から習いたいじゃありませんか。

「〇〇バカ」とは、「〇〇の鬼」です。

「〇〇の鬼」にならなければ、「その道のプロ」でいられないことは、

大人は知っています。

だって、社会で「仕事バカ」でやってきたから。

「〇〇バカ」じゃない人を、お金を払う価値のあるプロとはみなさないから。

 

サービスへのニーズと、サービスを提供する側の間に、

ミスマッチがあるのではないか。

 

自分のコンテンツが経済的な付加価値を失ったコモディティになってしまったのに、

それに気づくこともなく、

コモディティ化した中身を、皮相的な「教授法」で見栄えを良くすることに血道をあげる、「先生」たちがいるのではないか。 

また、「〇〇大学を卒業した」とか「◇◇に留学した」とか「△△先生に師事した」ということを、さりげなく語って、自分を大きく見せようとする先生もいるのではないか。

でも、

大人が習いたいのは、「教授法」ではない。

「先生の肩書き」でも「先生が留学した国の名前」でも「先生が習った先生の名前」でもない。

コンテンツを、音楽を習いたいのだ! (子どもだってそうだ)

そのモノを持っているのか?いないのか? 持っているなら、ゴタクを並べるのはいいから、モノを見せろ。

ということです。

一般社会では、育成がきく「若さ」という市場価値を持つ若者じゃなければ、

人は、実力で出した結果でしか、見てもらえません。

「〇〇大学の✖✖学科を卒業して、アメリカの△△大学で高名な◇◇教授に習って修士号を取得しました」

「ああそうですか。 それはそれとして、あなたの実力を見させてください」

となって、試験なり試用期間なりで、実力を見られるのが、通常のやり方です。

 

大人が見ているのは、本人の実力だけです。

「この先生は、ちゃんと弾けるのか? 音楽の体系的な知識があるのか? 「初見演奏は大事ですよ」と言うが、本人にそのスキルがあるのか? 即興やアレンジやリハモのスキルがあるのか? 私が支払うお金に見合った価値を、実際に私に提供できるのか?」

だけです。

逆に、学歴や留学経験や師事した先生の名前ばかり並べられると、

「この人、本当に実力あるのかな?」

って、疑わしくなってきます。

 

だから、「音楽バカ」「ピアノバカ」から、習いたい。

「〇〇バカ」は、実力がある可能性が高いからだ。

分野は違っても、大人は、社会経験を積んだ結果として、

自分の分野の知見を持っており、

それを、音楽なりピアノなりといった新しいインプット情報と

脳内で統合して、

自分だけの新たな知見を築く経験智を持っているのだから。

まだ脳内のハードディスクにいろいろと書き込まれていない子どもと同じに扱われては困る。

 

私が、中高年になってピアノを再開した時に習った、先生たち。

ある先生は、私が教えてもらいたいと、家で練習していた楽譜を持っていったら、

一目見るなり、

「ああ、それは無理!」(=その曲は、あなたには無理よ!という意味)

と、片手ではらいのけるような仕草をしました。

いったいどういう権威で、そういうことをするのでしょうか? そして、

やられた方は、どんな気持ちがするでしょう?  それに、だいいち、

一般社会では、そんな振る舞いを、お金を運んできてくれるクライアントに、取引先に対して行いますか?

だから、

大人たちの社会を知らない、一般世間の狭い人からは、習いたくない。

という結論に、私は達したのです。

 

これに対して、

私がかなり名の知れたプロのピアニスト(音大の作曲科卒)のレッスンを受けたときの話です。

「まず弾いてみてください」

と言われて、練習していった曲を弾いたら、

「どうしてそんなに自信なく弾くんですか? そんなに自信なく弾いたら、上手く聞こえるものも上手く聞こえませんよ」

って、言われました。 だから私は、

「いままで、ピアノの先生に演奏を褒められたことがないので、自信がありません。」

と答えました。

本当のことですから。

そしたら、ピアニストさんは

「自分はピアノがとても上手いんだ!と思って弾きましょうよ!」

って言ってくれたんだけど、

その場ですぐそんなふうに考え方を変えられますか? 

いままで一度も褒められたことがないのに、

「自分はできない、下手だ、ダメだ」が染み込んだ頭は、

そんなにすぐには変えられません。

この経験から、私は、

手先の技巧が上手い下手よりも、まずメンタル!

メンタルが一番大事なのだ! 

という結論に至ったのです。

レッスンの間、ピアニストさんは、私が弾く間、

ピアノの近くに立って、両手を広げたり大きなジェスチャーをしたり、

歌ってくれたり声をかけてくれたりして、

私の演奏をノセてくれようとしてくれました。

この経験から、私は、

もしお金に余裕があるなら、かなり名のあるプロのピアニストに習うのはアリだと思います。

プロのピアニストは、演奏の仕事を通して世の中にもまれていますから、

大人の生徒の扱いが如才ない。

さらに、彼らは、大人の生徒を、

自分のライブやコンサートの潜在顧客と見る、と思うからです。

ダメ出しするよりも、生徒をノセて、レッスンを楽しんでもらって、自分が開催する発表会の出演枠を買ってもらって、さらには、自分のライブやコンサートに足を運んでもらって、CDを買ってもらおう、と思うだろう。

自分のファン、ご贔屓筋になってもらおう、と思うだろう。

そのピアニストさんが、そんな感じでした。

プロで商売をしているのですから、しごくまっとうな、ロジカルな考え方です。

そのピアニストさんは、ネガティブなことは一切言わず、

私がちょっと努力すればできそうなアドバイスを1、2点、しかも、

「これ、できるんじゃないかな?できるでしょう!」というポジティブな言い方で言ってくれました。

 

私は、

プロのピアニストさんのレッスンでは、

 師弟関係のダークサイドの罠にはまることがありませんでした。

彼ら自身が、演奏で食べていくためにケツをまくっている、

「演奏バカ」「演奏の鬼」「エンターテインメントの鬼」なわけです。

演奏でお金を稼ぐ実力があって、しかも、接客が上手い。

大人がお金を払う価値のある、本物だと思いました。 

 

さらに良いと思ったのは、

著名なプロのピアニストは、ピアノの先生に教える、

「ピアノの先生の先生」である場合が多い。 だから、

いわゆる「中抜き」で教わることができるわけです。 それに、

プロのピアニストですから、子ども用のピアノ指導カリキュラムをはるかに超えた内容を知っており、しかも、

実際のステージ上での、魅せる演奏や選曲に関してセンスが良い。

それで食べていけてるんですから。

さらに、生徒であるピアノの先生たちの限界についてのニュアンスをうかがえたりします。 

「どういうわけかピアノの先生たちは○○ができないんですよねぇ」

と聞くと、ああ、本物のプロのピアニストさんに教わってよかった!と思いました。 さらに、

こちらとしては、ピアノの先生を必要以上に畏れ奉(たてまつ)ることがなくなります。

 

もちろん、これは私の経験したことで、プロのピアニストさんにもいろいろな人がいると思いますし、

私が続かなかった理由は、ズバリ、授業料(と発表会の出演枠の価格)が高額だったからで、

「自分のお財布と相談した結果、この人のご贔屓筋になることは、私はできそうにないな」と思ったからです。

もし私が、誰かのパトロンができる身分だったら、続けていたと思います(が、現実は、自分の存在を長らえさせるのにイッパイイッパイです。 趣味道楽には、お金がかかります)。

とはいえ、

現役のプロから1回でも習うことは、お金を払う価値があると思います(と、ハービー・ハンコックの生徒だったプロのジャズピアニストさんが動画で言ってたので、私もマネしてやってみて、実際にとても得難い経験になりました)。

 

もうひとつは、

実力が伴っている先生に自宅に来てもらう。という方法です。

そうしている人と、ピアノ会で話したことがあります。

経済的な余裕がある人は、

先生の家の、子どもたちの手垢がつきまくった、くたびれたグランドピアノよりも、

自分の家に先生を呼んで、

自分の豊かな経済力で購入したスタインウェイベーゼンドルファーのグランドピアノで教えてもらってはいかがでしょうか(自分がいつも弾くのは自分の家のピアノだしね)。

この世では、相手を

自分の縄張りに呼びつける行為によって、

自分の優位性を示すことができます

自分が主導権を握れるのです。

グランドピアノを買うべき人 - おんがくの彼岸(ひがん)

 

自分の主導権を、決して他人に明け渡してはならない。

自分の主導権は、必ず自分が握る

 

 

これは、

大人のピアノは、出すぎた杭になる

という、究極の最終形態を実現するための、アンカー(碇(いかり))です。

 

 

 大人の生徒は、ちまたのピアノの先生からみると、とても厄介な存在だと思います。

多くの先生が、大人の生徒のことを、

 「演奏の技術もないくせに、

  分不相応な曲に憧れて弾きたがる。 

  そんな曲を弾くのは100年早いわよ。 

  2歳3歳の頃からピアノを習って、音大を出た私だって

   何年も習ってようやくやらせてもらった曲なんだから!

  しかも、家に電子ピアノしかないんですって! 

  生グランドピアノも持っていないのに、いったいどうやって弾くつもり!?」

って、内心思っているはずです。

言動から、行間から匂ってきます。

 

一方、大人は、中高年になれば、演奏技術が若い人なみに向上することは、残念ながらありません。

プロのピアニストですら、全盛期の若いころの音を出すことはできなくなります。

だから、

大人のピアノは、最初っから、既存のピアノ教育のカリキュラムから、

外れているのです。

 

外れているからこそ、有利なことがあります。

子どもの頃からずっと習っている人が陥りがちな、

 師弟関係のダークサイドの罠にはまる必要がない。

罠にはまっている人は、他人の演奏を聴くと

 「ミスタッチした」とか

 「運指がまちがっている」とか

 「テクニックがお粗末」とか

 「あんなテクニックでよくこの曲を弾こうと思えるな」とか

自分と比較するように見て、あげくのはてに

 「自分のほうが上手いぞ」

と言わんばかりの言動と演奏で、

マウンティングしてきます。

マウンティングは、趣味道楽ではなく、本業の仕事でやりましょう。

仕事では、生き残るために、示威行動が必要な場合もありますからね。

 

 

「出すぎた杭」になれば、

そういう不毛な足の引っ張り合いの世界の上の次元、

天上界に抜けられます。

天上界は、「出すぎた杭」ばかりがいる、天上人たちの世界です。

「出すぎた杭」たちは、天上人なので、

劣等感がありません。 

だから、劣等感から生まれる

人との比較や示威行為や足の引っ張り合いなんてことを、考えることすらありません。 

 

 

「出すぎた杭」の別名は、エリートです。

 

 

私が今までに目撃した、エリートたちのピアノ演奏の話を書こうと思って、ここまで書いてきましたが、すでにずいぶん長くなってしまったので、またの機会にします。

 

つづきの記事:

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