去年(2019年)の年末の紅白歌合戦は、フォーマットの一層の形骸化のなか(もう今年は見ないと思う)、
ピアノ的には、
YOSHIKIがカワイ、桑田真澄選手の息子がRoland、ヤマハのピアノももちろんあってロゴが画面に映ったと思うが、録画をとばしながら見たので確認していない。 最後に登場したアコースティックピアノは、ゆずのバックで正隆さんが弾くスタインウェイ(なぜヤマハではない?)、鍵盤楽器として最後に登場したのは、ユーミンのバックで正隆さんが弾くローズ(たぶん正隆さんの私物だろう)だったが、アコースティックピアノに関しては、ピアノメーカーの広告大会だったね。
一人で約50人分の存在感を放つ歌手は、昭和の大御所ばかりで、改めて、文化は経済力の反映であると思いました(今のアイドルの1人当たりの存在価値は、郷ひろみや安室奈美恵の約50分の1なんだもんね)。
郷ひろみ、石川さゆりは盤石だが、五木ひろしは、本人のせいではなくステージ演出がうるさくて録画を飛ばした。
竹内まりやは、岩下志麻ばりに画面にスクリーンがかかって、気の毒に思った。
ユーミンはさすがだ。 ラガーマンたちを立てる地味な衣装はさすが。 曲が終わってラガーマンたちににかけたコメントもさすが。 正隆さんをはじめ大ベテランのミュージシャンたちの演奏もさすが。
そして、AI美空ひばり。 賛否両論あるようだし、秋元康だらけ感に、食傷気味になったが、この企画の意味合いは、かなり大きいと思う。
声が似ているかどうかについては、美空ひばりの映像や音声のデータがたくさん残っていれば、ますます高性能になるコンピューターにそれらのデータをすべて入れて補正を重ねていけば、限りなく本人に近い歌唱を再現できる可能性がある。
人間ではなくてロボットを使って本人を再現することも、未来には可能だろう。
もちろん、AI美空ひばりは、本人ではない。
だが、AI美空ひばりは、すでにこの世にいない死者が、CDやダウンロードなどの音楽コンテンツにとどまらない、ライブパフォーマンス興業になり得ることを、表したと思う。
実際に、ボーカロイドがアイドルになっているのだから、AI美空ひばりも、シニア層を対象にしたマーケットがある可能性がある。
実は、AI美空ひばりは、まだこの世にいる人にとっても、朗報ではないのか。
AI技術が、老化やケガなどの障害による、演者のパフォーマンスの劣化を補ってくれる可能性が、示されたからだ。
歌手は、年をとれば、声帯も老化して、声が低くなったり、かすれたりするし、体力も落ちて、往年の全盛期のような伸びのある歌唱はできなくなる。
とくに、若さや可憐さを売り物にしていた、往年のアイドル歌手は、声とルックスともに、劣化してくる。
彼らにとって、マイクを通した歌声をAIで補正して、全盛期の頃の歌声を聴かせることができれば、それは、彼らにも、オーディエンスにも、嬉しいことではないだろうか。
「AI美空ひばり」の技術で、いちばん恩恵を受けられそうな歌手は、
松田聖子だろう。
竹内まりややユーミンも、ある程度はそうだが、この二人は何といっても、シンガーソングライター、作曲家である。 自分でコンテンツをクリエイトすることができるので、老化によって歌唱パフォーマンスが劣化しても、作曲家としての価値が傷つくことはない。
これに対して、松田聖子は、デリバリー(コンテンツを届けること)が専門。 呉田軽穂をはじめ作曲家の先生方の作った作品を歌うだけである。 いくら自分のために作られた曲であっても、デリバリー専門の彼女は、老化によって自分のパフォーマンス機能が劣化すれば、当然デリバリーの品質も劣化し、それが、自らの価値の劣化に直結する。
往年の松田聖子の歌声は、すでに無い。 キーを下げ、ハスキーがかった声はさらにざらついて、声には往年の伸びもパンチもない。
「アイドルとして全盛時代だった松田聖子」のフォーマットに固執し続けたため、自分の偶像(アイドル)を上手く老化させることができなかった彼女が、若いころとおなじ可愛らしい衣装に老体を隠し、衰えた声で歌う姿は、痛々しいものだった。
生身の人間による生身のパフォーマンスを絶対視するのは、もろ刃の剣だ。
人間の身体能力や精神能力の限界における表現は、崇高ではあるが、
それを演じなければならない演者は、常に自分の身体能力の劣化(老化)の恐怖と戦い、練習のし過ぎで、喉を壊したり、指を壊したり、精神的に追い詰められて声が出なくなったり、楽器を弾けなくなったりする。
そして、そうなった歌手や演奏家は、お払い箱だ。
とても残酷なことだ。
だが一方で、身体能力が大きく損なわれても、演奏家としてステージで活躍している人もいる。
イギリスのロックバンド、デフ・レパードのドラマー、リック・アレンだ。
1980年代、私が彼らのコンサートを中野サンプラザで見たときは、アレンは、まだ両腕のドラマーだった。
アレンはその後、事故で片腕を失ったが、今もなお、デフ・レパードでドラムをたたき続けている。
通常のドラムセットを改造した、彼用のスペシャルなドラムセットを使うことで、それを実現している。
もちろん、それは、デフ・レパードのバンドメンバーの結束の固さによるものであり、
また、デフ・レパードが、80年代に世界的なヒットをとばし、今も商業的な価値を持っているバンドということもあるが、
ドラマーとして現役を続けるアレンは、身体的な理由で廃業を余儀なくされてしまっていた多くのドラマーやミュージシャンに、
希望を与えるものではないのか:
彼が、失った片腕を、機材やテクノロジーで補って、ステージに立ち続け、今なおオーディエンスを魅了し続けることについて、
批判される筋合いがあるだろうか?
そして、アレンが、現役でステージに立ち続けることによって、
希望や勇気をもらえる人たちが、たくさんいるのではないか。
だとすれば、彼は、スターだ。
プロのミュージシャンは、エンターテイナー(芸人)であり、
一般ピープル(かたぎ)のオーディエンスは、
彼らのパフォーマンスに対してお金を払うことによって、
夢や元気を受け取る。
エンターテイナーは、サーカスの玉乗りのクマではない。
エンターテイナーは、スターなのだ。
これに対して、
生身の人間にミスのない超絶技巧のパフォーマンスを当然のように期待して、
彼らがミスタッチした(指の着地に失敗した)、しなかったで、エキサイトして一喜一憂する観客もいる。
彼らの行為は、
「感動した」という表層心理の下にある深層心理レベルで、
キリスト教徒が、丸腰でライオンと対決させられて、
ライオンに食べられる一部始終を見物する群衆が感じるような、
残虐な愉悦に浸っていることもあるのではないか。
どんなに長い指の人間でも決して弾くことができない曲をつくって、
ピアニストが、物理的に演奏不可能なものを演奏しようと
必死になる様子を鑑賞するピアノ曲や、
コントラバス奏者が、セリフと演奏のタイミングによって、パニック状態になっていく様子を鑑賞する曲があるが、
これらは、人間の動物的な残虐性は、
2000年前から、全く変わっていないことを表していないとも限らない。
(あるいは、そのような聴衆の残虐性を揶揄して、作られた曲なのかもしれない。)
生身の人間による生身のパフォーマンスの絶対視に、内在する、残虐性。
ミスのない超絶技巧を当然のように求められて、
心身が追い詰められて、腱鞘炎になったり、指の腱を切ったり、バネ指になったり、ジストニアになったり、
ひどい場合は、メンタルが追い詰められて、弾けなくなってしまう。
そうなったら、お払い箱。
これでは、ピアニストは見世物小屋の曲芸の動物と変わらない。
そして、壊れた彼らを、「悲劇のピアニスト」と持ち上げて、感傷的に陶酔し、
しばらくすると彼らのことなんて忘れてしまって、
新しく出てきた若くて活きのいいピアニストたちを追っかけていく。
一般ピープルの、無邪気で無責任な残虐性。
「AI美空ひばり」は、その意味で、多くの示唆に富んでいる。
高齢化する日本。
演じる人も高齢化していく。
どんなに超絶技巧のプロだって、年をとれば、若いころのような演奏はできなくなる。
年老いた身体では、出す音も老化する。
声も出なくなる、指も動かなくなる、筋力も衰える。
脳だって老化するから、歌詞や曲の一部を忘れることもでてくる。
生身の人間による生演奏をどこまでも絶対視するなら、
演者の老化や身体的な障がいを受け止めて、
大いに讃え認めるスタンスがなければならない。
そうではない、批判的なスタンスで完璧な演奏を求めることは、
非人間的な悪魔の所業だ。
あるいは、
人前で演奏することで生計を立てている本物のプロが抱える不安を知る由もない、
ズブの素人(または、お気楽なご身分の自称プロ)であることの証明だ。
何年か前、オリンピックの短距離走へ出場を希望したが叶わなかった、
南アフリカの片足の短距離選手がいた。
バネのような義足をつけた彼のほうが、
健常者よりも良いタイムを出せてしまうからだろう。
丸腰の健常者よりも、運動能力で優位に立つ時代。
芸術の分野では、
「AI美空ひばり」によって、
この世に物理的に存在しなくなった人たちの名演が
ライブ鑑賞できる可能性が示された。
往年の名歌手や名演奏家も、AIで復活する可能性がある。
さらには、
コンピューターの一層の発達で、実演とAI演奏の誤差を最小化していく方法が高度化すれば、
写真や肖像画、伝記や手紙や当時の批評記事などの文献データをコンピューターに入力して、
それらの情報から再現した往年の大作曲家、たとえば
AIベートーベンが、当時のピアノを使って弾く、当時の音で再現した月光ソナタだって、あながち夢物語でもない。
荒唐無稽だし、本物のベートーベンによる演奏の音声記録はこの世に残っていないが、
そういうコンサートに、好奇心で人が集まれば、立派な興業だ。
AIベートーベンによるコンサートが、商業的な価値を持ったとき、
失業するのは、誰なのか。
「今までの月光ソナタだって、どっちみち、
ベートーベン本人じゃなくて、別人が弾いていたんだから、
AIベートーベンと変わらないよ。
いやむしろ、
AIベートーベンの方が、どこの文化圏の出身かわからないピアニストよりも、
本物のベートーベンに近いんじゃないの?
本人のデータをもとに作ったんだから。
おなじニセモノなら、
AIベートーベンのほうが、より本物に近いかもしれないよ。」
って考える人もでてくるかもしれない。
前述したデフ・レパードのドラマー、リック・アレンのように、
さらには、
物理的にその楽器が演奏できなかった人も、
健常者と同じように、いや、それ以上に、
素晴らしい演奏ができる可能性が拓かれている。
電子ピアノは、弾く人の打鍵よりも、良い音が鳴るように作られている、
と、ピアノ再開後に習ったピアノの先生が言っていた。
すでに、そうなのだ。
たとえば、60代で身長160cm体重50kgの女性がいて、
彼女の身長や体重や運動データを入力して、
彼女の30代の時の打鍵力を推量して、彼女の打鍵信号を補正すれば、
彼女の30年分の老化は、オフセットされて、
彼女の演奏は、いついつまでも、30代の若さを保つことができたら。
それにとどまらず、
彼女が、30代で身長2m体重100kgだった場合の運動能力を計算して、
それを彼女の打鍵にリンクして音を出せば、
彼女は、背が低いという、持って生まれた身体的ハンディキャップを補って、
彼女の物理スペックでは肉体的に決して出すことができない音を、自由に出すことができまいか。
脳の老化にしてもそうだ。
曲の段取りを忘れても、ヘッドフォンから声が教えてくれれば、
忘却によるミスタッチも防げるようになる。
たとえ、違う鍵盤を叩こうとしても、
楽器の頭脳が瞬時に判断して、そのキーのボリュームを自動的に切ることもできる。
あるいは、
楽譜の情報をあらかじめ入力して、楽譜どおりの音に補正したり、
モードやコードの情報プールに、演奏家の手クセのデータを反映して、
その演奏家にとっての最適音を瞬時に計算して、
ミスタッチ音の代わりに鳴らしてくれる。
そうなれば、演奏家は、
無邪気で残酷な観客の重箱の隅をつつくようなミスタッチ探しや
「このピアニストも、指が回らなくなって、老けたな」
なんていう、したり顔の素人批評を、はね返すことができる。
演奏家が、腱鞘炎やバネ指やジストニアやメンタル障害で潰れることも、減るのではないか。
キラキラしたオベベを着せられて、観客の前で曲芸をやらされるサーカスの動物の身分から、
晴れて人間になれるのではないのか。
シロートの私だって、ここまで想像できるんだから、
楽器メーカー各社は、すでに研究開発を始めて久しいに違いない。
荒唐無稽な夢物語は、やがて現実化する。
そして、シロートも、プロも、高齢化していく。
高齢化するマーケットに対応するために、
楽器メーカーは、そうしていくだろう。
そして、そのような、楽器の進化に伴って、
楽器メーカーの製品販促ヴィークルである音楽教室チェーンが教える内容も、
変わっていくことだろう。
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CDやダウンロードの音楽コンテンツの録音には、すでに、歌手の歌声のブレを補正するシステムが使われている、という動画を見ました。
多少のブレやミスがあっても、録音後に補正できれば、録音のテイク数を減らすことができ、従って、録音のためのスタジオ使用料・音響スタッフの人件費・演奏者のスケジュール調整などの有形無形のコストを減らすことができる、という内容の動画でした。
これは、声に限ったことではないようです。
アダム・ニーリーさんの動画のひとつに、二ーリーさんが参加するジャズのユニットが、クラシック音楽のバイオリニストを雇って録音をしたとき、バイオリニストたちは、さすがにクラシック音楽の演奏家だけあって初見演奏のスキルは素晴らしかったが、何度説明しても、指示したリズムで演奏することができなかった(クラシック音楽とジャズのリズム感が決定的に違うため)、そして、録音後に音に修正をかけなければならなかった、という話をしていました。 つまり、録音後に音を修正することができるのです。
おなじく二ーリーさんの、口パクやカラオケを使った演奏への賛否に関する動画だったと思いますが、ヨーヨー・マが、オバマ大統領の就任式で、口パクならぬチェロパク、というか他の演者もひっくるめて、ストリングスパクだったという内容を話していたと思います。 生の木材で作られているアコースティック弦楽器には厳しい野外ステージで、演者と楽器の性能が低温*や風雨などの悪天候に大きく左右されるようなステージでは、生の演奏にこだわれば、本番の演奏の音質が悪くなって、観客に満足を届けられないことが大いに考えられる。 ましてや、儀式的な場での演奏は、失敗が許されない。 そういう場合は、演奏の質を維持するために、チェロパクなり口パクなりピアノパクなりを行う意味がある、という考えもある、というか、実際、そういうステージパフォーマンスが多いのではないでしょうか。
(* 真冬のマンハッタンは真冬の札幌ぐらいの体感温度で、歩道に融雪剤がまかれていたので、冬のワシントンDCも同じくらい寒いのではと想像します。アメリカの東海岸は、北米大陸で冷やされた寒気が直接来るため、冬の寒さが厳しい)
Perfumeのステージを見て、口パクを批判する人は少ないと思います。 3人の演者のダンス(の振り付け)や衣装・歌や編曲のコンテンツ・照明や音響などを総合した、エンターテインメントのショーとして、素晴らしいからです。
映画やテレビの世界では、長くスタントマンを使ってきました。 風車の弥七が、弥七役の役者さんとスタントマンさんの二人が作り上げたキャラクターであっても、だれも、イカサマだと批判しないはずです。
寄席では、噺家が客席に向かって「そんなに真剣に聴いてもらわなくていいんです。 われわれ噺家はくだらない話をしゃべっているだけですから。 なんとなく、ぼんやりと聞いてくだされば」なんて言います。 最初にそう言うことで、客席と自分のテンションを和らげて、リラックスした状態で初めて可能になる最高のパフォーマンスのための環境を整えているのかもしれません(し、そんなことすら、もはや思っていないのかもしれません)。 グールドが現役のピアニストを引退する際に「ピアニストは、寄席芸人のようになってしまった」と言ったそうですが、日本語に翻訳した人は、ピアニストを太神楽やジャグリングなどの曲芸師にたとえたのでしょう。 太神楽やジャグリングの芸人さんも、年をとると、落っことしたりしますが、お客さんのほうも、まったく気にせずに拍手を送って、寄席の空間を楽しんでいます(人間なんだからミスはつきもの。そんなもんにいちいち目クジラ立てるのは野暮(文化が無い)ってもんだ、ってことでしょう)。
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