おんがくの彼岸(ひがん)

大人の独学ピアニストtokyotoadのブログ

バッハのコラール集が日本でほとんど知られていない理由

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県境で関所のような改めが行われるなど、「入り鉄砲、出女」の様相を呈してきた昨今ですが、吹く風の中に確かに漂っている何かが、いにしへの江戸の時代に時計をもどしているのでしょうか。 今や世界の国々の多くが、江戸時代の日本よろしく鎖国状態になっています。 近所の小学校の校庭に咲くソメイヨシノや、道路わきの街路樹の若葉など、わざわざ遠くに出かけなくても、珠玉の風景は生活のすぐそばにあるわけで、地元の風景や文化遺産は地元の人たちで楽しむのがいちばん。 もみ手して外国人観光客を大量に呼び込んで住民の日々の生活の環境を悪化させた挙句の果てに、いただいたお土産が疫病でした、という、その土地その土地で何万年も前から畏れ敬われ近年はもっぱら社の中に封じられてきた神様たちからのバチが当たったのでしょうか、「おまえらちょっとやりすぎだろ!?」と。 

 

柳家喬太郎小泉八雲の『怪談』をベースに作った、出羽の国の屈強な武士の噺がありますが、ストーリーのクライマックスで、これぞ日本人の宗教観だ!と思うような展開になります。 キリスト教国+妖精の国アイルランド人の血をひく小泉八雲は、おおらかでインクルーシブな伝統的な日本人の宗教観に親近感を持ち、原作の物語を筆記したのかもしれません。

 

バッハのコラール集が日本のクラシック音楽教育でほとんど扱われてない理由が、まさにここにあると思います。

 

このブログでは、西洋音楽のハーモニーの大元(おおもと)であるバッハのコラール集について何度か書いてきましたが、私自身、和声学について自力でネットで調べて知るまでは、バッハのコラール集のことは知りませんでした。 日本では、子どものピアノレッスンでも、専門的なピアノ教育においても、インベンションや平均律は必ずやるのに、バッハのコラール集を見たこともない人がほとんどだと思います。 これが英語圏の音大レベルのハーモニー本になると、バッハのコラール集が絶対的にフィーチャーされていて、この差はいったいどこから来るのだろうか? と不思議に思っていましたが、今ではその理由がわかります。

 

理由は、バッハのコラール集は讃美歌、つまり、キリスト教の宗教音楽だから! です(しかも、カトリック聖歌ではなく、プロテスタントの讃美歌であるとが、更にネックになっているのではないか、と勘ぐります)。

 

日本では、国公立の学校では、特定の宗教に関するコンテンツを教えないことになっています。 信仰の自由を保証する戦後の日本の憲法下においては、最も川上の国立の大学で大々的に教えることが出来ない、ということは、川下の音楽教育のカリキュラムに組み入れようがありません。

 

なぜ国立の大学で、西洋クラシック和声の根幹であるバッハのコラール集(キリスト教の宗教曲)を大々的に取り上げることができないか、は、明治維新以後の日本のやむにやまれぬ国策の歪みが顕在化している部分だと思います。

 

明治政府は、日本の植民地化を防ごうと、西洋列強の産業や文化を大急ぎで吸収しなければなりませんでした。 と同時に、おそらくは、「日本人は、男性や女性の生殖器をかたどったような石棒や石臼を拝む野蛮人ではない」ということをアピールする必要があったことでしょう。 そのために、神道を体系化して国教に掲げる政策をとったのではないでしょうか、あたかも、西洋諸国の国教であるキリスト教に類するような、体系化した宗教を掲げる国であることをアピールするために。

 

ところが、西洋文明の輸入には、当然、それを生んだ土壌である西洋の宗教(キリスト教)がついてまわります。 文明と、それを作った民族の宗教観は、切っても切りはなせないからです。 そして、神道を国教に掲げる明治後の日本政府にとって、キリスト教は、やっかいな宗教でした*。 キリスト教は、江戸時代を通じて迫害されていたうえに、維新後は、いわゆる「負け組」の旧幕府側の士族(元武士)たちが、キリスト教に帰依することで、西洋の先進文明と自分たちとのアイデンティティの同一化を図ったと思われるからです。 「すべての人は神のもとに平等である」というキリスト教の影響を受けた人たちが、富国強兵の結果生じた公害問題や人権問題に反対を唱えるようになる。 「本当は、進んだ西洋の産業文化だけをコピーしたかったのに、不要なキリスト教までも...。」というのが、施政者たちの本音だったのではないでしょうか。 

* キリスト教といっても、カトリックの方が、日本の国とうまくつきあっているような印象があります。実際に、カトリックの女子高(~女子大)は、日本社会の上層を突き破って国と一体化した御令嬢を複数輩出しています。 これに対してプロテスタントは、その名前自体が「プロテスタント(体制に抗議する)」ですから、どうなんでしょう? バッハのコラール(プロテスタントの讃美歌)が日本の音楽教育において扱いが低い理由は、そのあたりにあるのでしょうか。 ちなみに本当の令嬢たちが通うカトリック女子校(~女子大)はフランス系が多いような気がします(え?「本当の令嬢たちなんているの?見たことないよ」だって? 当たり前ですよ、本当の令嬢たちは箱入りですから、不特定多数の人相手に顔や素肌をさらすわけないじゃありませんか。下々(しもじも)の目が届かないところに今でもちゃんと生息していますよ。それから、本当の令嬢たちに限って、ダサイ&イモい&ババくさいものです。男の気を引くために女を磨く必要がないからです)。 日本の和声学はフランス系と何かに書いてあった気がするので、日本は基本的にラテン系(カトリック系)を好み、ゲルマン系(プロテスタント系)を好まない傾向があるんでしょうかね?  カトリックはヴァチカンにいる教皇が宗教的存在として頂点に在しているわけで、そういう機構制度的な側面も日本の国の在りように訴えかけるところがあるんでしょうかね? このあたり、クラシック音楽の日本人の専門家たちはどのように考えているんでしょうか。 

 

産業技術については、上っ面のノウハウだけを輸入すれば何とかなるかもしれませんが、いかんせん、文化芸術に関しては、上っ面の技巧だけコピーしても、心(宗教観)の底から信奉しなければ、画竜点晴を欠くようなものしか作れない。 ここに、日本の西洋音楽界や西洋画壇における、「ボタンのかけちがい」があって、それを岡本太郎に鋭く見切られてしまった。 というかんじなのではないでしょうか。

 

わたしがこのように思ったのは、数年前に作曲家の先生に和声学を習った際に、その教科書が「赤尾の豆単*」みたいに感じられたこと、そして、音大の学生さんが西洋音楽理論を駆使して作ったと思われる習作を聴かされた時に、キマイラのような、ないしは、母体の中で髪の毛と歯しか育たずに死産で生まれた子ども(from三木成夫の著作**)のような、なんともいえない気持ちの悪さを感じたことに、端を発します。 

*「赤尾の豆単」を丸暗記して効果が出るんだったら、いまの還暦前後の人たちはみな英語がペラペラなはずです。

** 三木成夫氏の仕事にインスパイアされて胎児をモチーフにして作った美術作品のなかには、主張が意味不明の薄気味悪い作品にしか思えないものもあります。一体、何を主張したかったんでしょうか? それが、藝術ですか? 芸術作品とは、その作品を通して作者が伝えたい強烈な主張が有ることです。作者が命を燃やしてハラワタから発散する強烈な主張が存在しない、ただ頭の中でモチーフや技巧をこねくり回し過ぎて前頭葉の袋小路から出したような作品にあるのは、他人事(ひとごと)の雰囲気だけ。作者のハートというかハラワタが憑依していない作品は、単なる技巧の披露に過ぎないのです(そういう人が、芸術家になれずに、先生止まりになる)。

 

音楽についていえば、明治維新から150年間も必死に西洋音楽をコピーしてきたのに、アメリカの音大でよく使われるTonal Harmony(Kostka, et al.)*に、日本人の作曲家が一人も言及されていないばかりか、言及されている唯一の非西洋人の名前がラヴィ・シャンカールという有り様なわけです。 シャンカールは、「西洋の音楽は単純すぎる」と言う国、インドの人ですが、日本のアカデミアが夢見憧れる国際舞台では、西洋文化の黄色い模倣のような背骨の無いものは何の存在感もないことを表しているようです。 その証拠に、この本では、ガチで日本の、背骨のある、伝統音楽の平調子はちゃんと紹介されているわけです。 そういうことです。

*私はこの本を読破しましたが、日本の名称では唯一、Yamaha DX-7 (DX series) が掲載されていました(が、Yamaha DX-7は「アメリカのなんとか大学の誰の某が発明した原理を使っている」と添えられています。つまり、原理はアメリカが作った、オリジナリティはアメリカ由来だ、と言っているかのようです)。

 

明治政府がクラシック音楽の専門学校を作って学生たちにピアノやバイオリンを習わせたのは、西洋諸国に向けた「日本は野蛮な国ではありません」という主張だったんですよね。 日本におけるクラシック音楽の機能は、今でもそうなんですよね。 だから、今でも、日本の中で、クラシック音楽と日本の伝統音楽の間には厳然たる壁が存在している(だって、日本の伝統音楽は、日本人の、日本人による、日本人のための音楽であって、「日本は野蛮な国ではありません」と誰かに訴えて認めてもらおうとするためのツールではないから。もっとも、雅楽については、遠い昔にクラシック音楽と同じツール性があったかもしれませんが)。 

 

日本という国はとても面白いところがあって、施政者や支配階級から見下されさげすまれ無視されてきた文化が、国際的には強力な存在感を放ち、国の宝になります。 縄文土器土偶、歌舞伎、浮世絵、マンガ・アニメ、アニソン・ゲーム音楽、そして日本のシティ・ポップ。 なぜでしょうか? お上主導による外来文化のコピーは、本家をただ真似ただけの、オリジナリティの全く無い、正統性と質において本家より優れることが絶対にない単なる劣化版のコピーであり、ツール・技巧でしかありませんが、それをツールとして日本の民衆の土着の文化(とその潜在意識層に今も活きづく原初的な宗教観)が使いこなして作り上げた、日本の土着文化という背骨を持った表現になったとたんに、がぜん強い。 じつは、西洋クラシック音楽もそうです。 西洋音楽の大元(おおもと)であるバッハのコラール集には、当時流行した世俗の歌のメロディーも使われているそうです(Riemenschneider)。 当時のドイツの流行歌のメロディーも入ったコラールを、聖歌隊はノリノリで歌ったことでしょう。 バッハは真にリアルな作曲家だったんですね、だから200年以上も後の時代に、人種も文化も違う人たちがバッハの音楽にインスパイアされて、ジャズの古典ができていくんですね。 

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