ピアノ方丈記

音楽の彼岸にて【指の健康寿命を気遣いながら!】シニアのピアノ一人遊びの日々

クラシックピアノからジャズピアノへの転向は難しいか?

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記事:ピアノが上達するには - おんがくの彼岸(ひがん)

からの続きです①クラシックピアノが上達するためには については、上記の記事に書きました。

 

ジャズピアノが上達するためには: 脳を鍛える。そして、脳がある程度鍛えられてきたら、セッションに参加する。

クラシックピアノと違って、ジャズピアノが上達する秘訣は、まずは西洋音楽語をマスターして自分で西洋音楽語をある程度話せるようになってから、リアルな状況で音楽語コミュニケーションの武者修行を重ねることに尽きる、と思います。 外国語をマスターするのとまったく同じだと思います。

ジャズピアノでも、クラシックピアノと同じように体格や体重や筋肉があれば、表現の幅が広がりますが、それよりも、まず第一に、20世紀以降の西洋音楽語の文法にのっとってある程度自己表現、つまりジャズ文法にのっとって即興演奏ができないと、ジャズの入り口にすら入れませんから、外国語をマスターするかのごとく、音楽語の言い回しを覚えて覚えて覚えまくって、自分の言葉でどうにか話せるようになることが、一丁目一番地です。 じゃないと、ジャズの本分であるセッションで、他の楽器の演奏者たちと上手く掛け合い演奏ができずに、共同で音楽を創れないからです。 ピアノの打鍵のタッチや音色なんかよりも、まずは、なにはなくとも、楽器の種類に関係なくジャズ語を話せなければ、どうにもなりません(最初に言葉があり、その後にそれを表現するツールとしての楽器がある)。

 

ここで、クラシックピアノ経験者が軽んじがちな点は、ジャズピアニストをはじめジャズのミュージシャンたちはジャズ文法にのっとって即興演奏をしているという点です。 よく「クラシックピアノとジャズピアノの奏法の違いは」みたいに言われますが、そんな上っ面ではない、もっと根本的な違いが、両者にはあります。 ジャズとは、「ピアノの弾き方のタッチやリズム感をジャズ風に変えるだけで、あとは自由に即興演奏していいんですよ」みたいな野放図なものではない。 ましてや、ピアノの弾き方のタッチやリズム感をジャズ風にしてジャズピアノの楽譜を弾く行為は、演奏者がジャズ文法にのっとって即興演奏をする要素がみじんも入っていないので、ジャズピアノと呼べる代物ではない

 

クラシックピアノを子どもの頃から何年もやってきてリストもラフマニノフも弾けるのに、大人になってから、「ジャズピアニストが楽しそうに演奏するのがいいな~って思って」とジャズをかじってみて挫折する人が多いことの理由が、ここにあると思います。 楽しそうに」弾いているように見えるようになるまでに、クラシックピアノ愛好家がバイエルから始めてリストやラフマニノフまで弾けるようになるのと同じくらいの努力を、彼らはジャズの分野で長年続けてきた、その結果として、「楽しそうに」弾いているように見えるのです。

 

クラシックピアノ愛好家が見落としがちな、もう一つの点は、「 楽譜どおりに演奏する行為は、即興演奏ができるほど音楽語が堪能じゃなくても、けっこう簡単に出来てしまう」ということです。 楽譜どおりに弾くことは、楽譜という、何もかもがあらかじめ決められた視覚的な情報を、鍵盤上の位置情報や強弱情報に変換して音を出す行為ですから、即興演奏のように自分の脳内で瞬時に音楽を創作できる「音楽語のボキャブラリー」が貧しくても、大作曲家が作曲したのと寸分たがわずに弾けてしまいます。  言うなれば、英語の教科書はスラスラ音読できるのに、英語で自由に話せないのと、同じことです。  もっと言えば、英検2級で英文タイプ能力が70ワード/分の人と、TOEICが満点で英文タイプ能力が50ワード/分の人の、どちらが英語の能力が高いか?と同じことです。 英検2級では、英語で自由自在に意思疎通することは不可能ですが、英文の原稿をタイプする能力は、視覚情報(アルファベット)をキーボード上の各文字(a, b, c...)の位置情報に脳内で条件反射的&機械的に変換してタイプする能力ですから、その英文の内容を理解できるかどうかに関係なく、英文タイプを練習すれば向上します。 ところが、たとえば音楽に関する原稿をタイプしていて原稿に aveirable tentionsとかtrancsripsionとか書かれていたとしても、平気でそのまんまタイプして「私は英語をこんなに早くタイプできてエライ」とすましていることでしょう(一方、TOEIC満点の人は、英文タイプがそれほど速くなくても、いちいち止まって辞書で調べることもなくリアルタイムでタイを訂正しながらタイプしていくことでしょう)。 もちろん、英検2級レベルで英文タイプ能力が70ワード/分の人が、自分の頭に浮かんだ複雑な思考をリアルタイムで英語に言語化して流暢に話すことは不可能で、話せたとしても、「今日はどこどこへ行きました。とても楽しかったです」程度の夏休みの絵日記レベルの内容しか表現できないでしょう。 理由は、語彙力や表現の引き出しが圧倒的に少ないからです。 英語である程度自由に自分の言いたいことが言えるようになるためには、英語の教科書の何千倍の量の英文を読み書き聞いて、人前で何度も何度も、何度も何度も恥をかいて、英語に馴れていくことが必要です。 その蓄積があってはじめて、ブロークンなお子様英語ではない、英語の文法に基づいた、まっとうな大人が一般に話すレベルの英語で、自分の意志や考えや要求を伝えることができるようになります。 これが、プロのジャズミュージシャンのレベルだと思います。 音楽は言語と同じなのです。

 

「そんなことはない!私は、クラシックピアノしか習ってこなかったけど、ポップスを聞いただけでピアノで自由にアレンジして演奏できる!」

 

はい、そういう人、たくさんいます。私もそうです。

 

それができても、ジャズが弾けないのは、どういうわけなんでしょうか?

そしてそもそも、そのポップスなるものの演奏は、ポップスに聞こえているんでしょうか?

 

西洋音楽語は、日本語や英語などの言語と同じように、時代とともに変化してきました。

 

クラシックピアノで使われる音楽語は、さしずめ、

「拙者親方と申すは、お立合いの中にご存知のお方もござりましょうが、お江戸を発って二十里上方、相州小田原一色町をお過ぎなされて青物町を登りへおいでなさるれば....」と同じノリ。

一方、ジャズなどの20世紀以降の西洋音楽は、ちゃんと訳せませんが、

「私が「社長」と呼ばれる理由を、見物の皆さまの中にはご存知の方もおられるとは思いますが、まずは自己紹介をいたします。東京を出発して関西方面に向かって80kmほどにある、神奈川県小田原市一色町を過ぎて、青物町を上っていくと....」

を、

昭和の戦後後期であれば、さだまさし風ギター弾き語りで、

21世紀だったら、ライムを盛りに盛ったヴァースにアレンジして、

というふうに、

意味は同じで、同じ日本語でも、単語や言葉づかいや話すリズムが違います。 現代の日本語は、江戸時代から大きく変化しているのです。 

だから、尾上菊之助さんは『下町ロケット』の中で、現代語で話したのです。 本業の歌舞伎の舞台で話す言葉を話したら、時代考証的に超場違いだからです。 イギリスの現代テレビドラマでシェイクスピア英語で話したら超場違いなのと同じことです。

 

西洋音楽も同じです。 

だから、クラシックピアノを何年、何十年続けていても、いや、むしろ、何年も何十年も続けていればいるほど、クラシック方言、というか、クラシック訛りがキツくなってしまって、ジャズ方言をちょっとかじったらできるようになるどころか、ジャズからどんどんどんどん遠ざかっていってしまう。

日本で、関西の人が東京に引っ越しても、何年たってもネイティブ東京語(というか今は首都圏方言。本来の東京語は絶滅危惧言語)のスピーカーと同じレベルで話せないのと、同じことですし、その逆もまた然りです。 

言葉の訛りには、使う単語や言い回し、アクセント、そして、リズム感の違いがあります。

同じように、クラシック方言とジャズ方言の間にも、使うコードやフレーズの音構成や、アクセントやリズム感に違いがあります。

 

ところが、クラシックピアノを子どもの頃から長年やってきた人には、たいへんなプライドがあります。 

「クラシックピアノが弾ける、イコール、音楽語を当たり前のように知っている」と思っている。

だから、ジャズの即興演奏を、右手で簡単なフレーズを作ることから教わり始めると、「私はリストの難曲をバラバラと弾けるのに、こんな簡単なことから始めなければいけないの?」と、内心思うのではないでしょうか。 (でも、アドリブできないんでしょ? できなければ、そこから始めるしかないんだよ...。) 

「そして、この「リードシート」という楽譜。メロディーとコードしか書かれていないじゃない? それに、何?この題名のカジュアルな文字フォントは?」と、昔ながらの荘厳な文字フォントの題名の下にオタマジャクシがおびただしく整然と並んだクラシックの名曲の楽譜を思い浮かべては、比較してしまって、ポップな文字フォントで曲のタイトルやリードシートシンボルが書かれているThe Real Bookなどのリードシートに有難みを感じられない。(楽譜崇拝がものスゴいんだよね。でも、そのリードシートって、音大でやった和声学のカンタス・ファーマスみたいに見えない? そう、メロディーラインしか与えられてなくて、あとのヴォイスリーディングはお前が作れ!ってやつにさ。)

「しかも、左手は和音を弾くことばかり。何て単純なのかしら?」 そうですか?そのコード、クラシックで弾き慣れてきた和音と違うでしょ? あ、その音は、ジャズのコードではあまり弾かないんですよ。ってことを、教えられてあるいは独学で知って頭ではわかっていても、いざ鍵盤をたたくと、クラシック訛りがぬか漬けの匂いのごとく染みついた指先が、どうしてもクラシック訛りの音を弾いてしまう。

さあ、このクセを直すのが大変です

あたかも、子どもの頃からずっと大阪で育った人が、東京に移り住んで東京語で話す訓練を始めるようなもの(あるいは、その逆)です。

そして、その大阪出身の人は、東京言葉で話せるようになるでしょうか?

東京出身の人は、大阪語で話せるようになるでしょうか?

なれます。 訛りは残りますが、なれます。

これから、新しい土地の人間に心底なりきって、そこでずっと生きていく覚悟があれば。

ネイティブスピーカーのレベルにはならないものの、話せるようになれます。

慣れ親しんだ故郷を捨てて新天地に骨を埋める覚悟があれば。

言葉は、文化です。 文化は、その人の魂とプライドの拠り所です。

異なる言葉を流暢に話せるようになるには、今までの魂とプライドの拠り所を、たとえ数年間でも捨て去って、その言葉の文化の中に身を投じて、どっぷり浸かることが必要です。

それを捨てる覚悟があれば、東京人であっても大阪語を、大阪人であっても東京語を、かなり流暢に話せるようになれます。

音楽も同じです。

クラシックピアノからジャズピアノに転向するためには、今まで信仰してきたクラシック方言を否定して、ジャズ方言に宗旨替えして、つまり、ジャズ教に改宗して、イチからジャズ方言にどっぷりつかっていく。

イチからジャズ方言にどっぷりつかるためには、具体的には、短いフレーズやコードを鍵盤で弾いては間違え、間違えてはまた弾きなおし、弾きなおしてはまた間違え、また間違えてはまた弾きなおし....を続ける。 子どもの頃からずっと弾いてきた、良く見慣れているはずの鍵盤を見つめながら、おぼつかない指で、もたつきながら(じつは、おぼつかなくてもたついているのは、指じゃないんだよね)。 自分のどこかがおぼつかないもんだから、間違えまくるうえに、打鍵のタッチや音色に気をつかって弾くどころではない。 ショパンやリストが作った曲の楽譜を見ながらだったら、あっという間に指をコロコロと動かして華麗に弾けるのに! さらに、ピアノに向かわない時間は、ジャズの曲を聴きまくって、プロのアドリブ演奏を自分で譜面に耳コピして、アドリブのフレーズ(リック)を楽譜無しで弾けるようにする。 それを、時間がある限りいつも、繰り返し続けていく。 

そのうちに、たぶん、「こんな練習ばかりしていては、指が動かなくなって、大好きなショパンやリストが弾けなくなる!」

という、高速で指を動かすための練習の時間が蝕まれることに対する焦りが生まれてくる。 

アイデンティティ・クライシスの瞬間です

そのとき、どちらを選ぶのか?

 

だから、クラシックピアノ経験者が大人になってジャズピアノをやってみて挫折することが多いんです。

 

ジャズピアノを試しに始めたクラシックピアノ経験者が直面するチャレンジは:

 ①今までおぼつかなくてもさしたる問題ではなかった西洋音楽語の、特に20世紀以降の西洋音楽語の、ほぼゼロからの習得(基本的な音楽文法を理解した上での作編曲や即興演奏ができなければ西洋音楽語はブロークンのお子様レベル)、そして、

 ②今まで訛(なま)っているなんて思ってもみなかった、自分のクラシック訛(なま)りの矯正

です。

だから、キツいんです。精神的に。

さいころからピアノを何年もやってきたから当然知っている、と思っていたことを、実はぜんぜん知らずに、得意顔で弾いていた! という事実を、ジャズピアノのレッスンで暴かれて、ジャズピアノの先生の前でそれを認めざるを得ない状況に陥るから。 そして、

今まで流麗優雅に弾いていた高尚な、というか「高尚だ」と自分が信じて疑わなかった音楽を、「お前の音楽は訛っているから直せ」と、実質的に言われるから。

「お前は、西洋音楽語をロクに話せないうえに、お前の、その片言の西洋音楽語は訛っている!」

薄暗い場所でお酒を飲みながら聞くような類(たぐい)の音楽をやっている連中から、鼻をへし折られるようなことを、実質的に言われるから。

 

「でも、ジャズの人は、何かというと、音楽理論音楽理論!と、得意げに理論を振りかざす」

そうです、ジャズの人は、そのような傾向があると思います。 まるで、クラシックピアノ愛好家が演奏技術!演奏技術!と、得意げに技術を振りかざすように

実は、そのクラシックピアノ曲の楽譜は、西洋音楽理論の塊(かたまり)です。 私が一時期習った作曲の先生によれば、「クラシック音楽の楽譜には、一音たりとも、思いつきのテキトーな音は書かれていない」そうです。 演奏する人が理論をぜんぜん知らなくてもピャラピャラ弾けるのは、ベートーベンやショパンやリストやドビュッシー....といった大作曲家たちが、音楽理論に基づいた作曲を一手にやってくれているからです。 

ジャズも西洋音楽です。 だから、理論、理論、と声高に言うのは、不思議なことではありません。 だって、ジャズでは、ベートーベンやショパンや....が一手に引き受けていた作曲という創作活動を、演奏する人が即興で行う必要があるから。 当然、理論に目が向くわけです。 大作曲家のフンドシをつけて相撲をとるわけにはいかない。 自分が創作活動をするしかない、いや、自分で創作したいんだよ!

 

 

プロの世界でも、クラシックピアノとジャズピアノの両方とも一流レベルで演奏できるピアニストはほとんどいない、と思います。

「両方できる」と豪語する人は、たいてい、両方とも、そこそこ(中途半端に)できる人か、片方はできるけどもう片方はそうでもない人です。 両方とも中途半端な人は、プロの演奏家として生きていくのは厳しいんじゃないかと思います。 だってそれぞれの分野で、それぞれの分野に骨を埋める覚悟を持った一流のプロたちがすでにしのぎを削っていますから。

(ジャズピアノの大御所がクラシック曲を弾くことがありますが、それは、そのピアニストが、ジャズピアノで大成功して、ジャズピアノの大御所の地位を揺るぎなく確立してからのことです。 そして、そのピアニストは、あくまでもジャズピアノの大御所であって、クラシックピアノの大御所ではない。 ただし、ジャズ、ポップス、フュージョン、ロック、メタル、ヒップホップ、ソウル、現代音楽、そして、クラシックをはじめとする各地域/民族の伝統音楽....といった、地球上の異なる様々な音楽のジャンルは、異なる様々なルートを取りながら、特定のどのジャンルでもないと同時に全てのジャンルでもある、たったひとつの「音楽の彼岸」にたどり着こうとしているんだと思います。 クラシック曲を弾くジャズピアノの大御所には、彼の進む道の地平線に「音楽の彼岸」が見えているのかもしれません。)

  

習う場合は、

なんちゃってじゃなくて、本物のジャズピアノを習いたいと思うならば、ジャズにどっぷりつかっている先生から習う方がいい。 本物のクラシックピアノをジャズピアノの先生から習おうとする人がいないのと同じことです。 とても不思議なのは、クラシックピアノをちょっとかじっただけのジャズピアノの先生にクラシックピアノを習おうとする人がほとんどいないのに対して、ジャズピアノをちょっとかじっただけのクラシックピアノの先生にジャズピアノもポピュラーピアノも教えてもらおうとする人たちがけっこういることです(先生からしてジャズやポップスをナメている。そういう了見だからいつまでたっても上手くいかないんです)。 ジャズピアノをちょっとかじっただけのクラシックピアノの先生にジャズピアノも習おうとする行為は、江戸弁をちょっとかじった生粋の大阪弁スピーカーに江戸弁を教えてもらおうとするのと一緒です。 生粋の江戸弁とは似ても似つかぬものを教えられるのが関の山です(逆もまた然り)。  子どもの頃から大学卒業までクラシックピアノしかやってこなかったのに「ピアノの先生のためのジャズピアノ講座」をちょっと受講したからジャズも教えられますそして作曲も教えます...というような、どれも中途半端の一人の器用貧乏から習うんだったら、同じ内容を、クラシック一筋、ジャズ一筋、作曲一筋の、それぞれ異なる3人の不器用富豪たちから習うほうが、少なくとも教わるコンテンツはどれも本物です。 幼少のみぎりからクラシックピアノ一筋で育ったピアノの先生が「ピアノの先生のための」と銘打ったジャズピアノ講座や作曲講座にちょっと通っただけの付け焼き刃の手習いで人に教えられるほど、ジャズピアノや作曲は安易なものであるはずがありませんから(良くて子どもだましにもならない)。 もしも、3か月かそこら通っただけでジャズピアノなり作曲なりがマスターできる講座があったら、私は1,000万円払ってでも受講します。ええ、もしも、もしもですよ、この世に本当に、本当に、そんな講座があったとしたら、1,000万円、いやそれ以上の価値があると、私は思います。1,000万円払ってたった3か月でMark Levine著の『The Jazz Theory Book』の内容が一冊丸ごと脳内にインストールされて、それを自由自在に使いこなして即興演奏ができるようになるんだったら、大変に安いもんだと思いますよ。  

 

とはいえ、日本人がやることですから、クラシックもジャズも、鰹や昆布の出汁が効いた和風味になることは、絶対に避けられません。 おしょうゆ味のクラシック音楽のことは置いといて、ジャズに関しては、自分のルーツを反映させないと、本家の劣化版のコピーにしかならないので、本家(アメリカの黒人)以外のプロのジャズミュージシャンは、生き残るために、自分の母国や民族の音楽を取り入れてキャラを立たせています。 だから、ロンドンデリーの歌をジャズにアレンジしたり、ラテンの音階やリズムを取り入れたりする、非黒人のピアニストがいるわけです。 これは、別に、音楽(ジャズやフュージョンやポップスやロックやヒップホップなど)に限ったことではない。 他の芸術も、ビジネスも、同じです。 どんなに宗旨替えしても、自分のルーツは無意識の底に船の錨(いかり)のように残る。 自分のルーツは、自分の存在の拠り所になるだけではなく、その人(国)の魅力の源泉であり、経済的な付加価値を生む、その人(国)の強みなのです。 

 

===追記(20221205)===

畑違いの音楽ジャンルのピアノ教師に軽はずみに習ってしまうと、最初の出だしで致命的なハンデを負ってしまう可能性がある。 クラシックは天動説、ジャズは地動説だ。 ジャズのピアノ楽譜をちょっとなぞっただけで「ジャズピアノも教えますよ」と謳うクラシックピアノ教師(天動説)は、地動説が存在することすら知らないで教えようとしている。 そして、誰かによっていったん天動説を刷り込まれてしまうと、後になって、膨大な脳エネルギーを費やして文字通りコペルニクス的な思想&感覚の大転換をしなければならなくなる。 

 ↑ この記事からの引用:大人のピアノお稽古が続かない理由(その⑦・⑧・⑨) - 音楽の彼岸のピアノ遊び

 

===2023年11月14日に追記:===

上記の「クラシックは天動説、ジャズは地動説だ」について、自分のピアノの先生に「どう思いますか?」と聞いてみるといい。 もし自分がジャズピアノを習いたい場合は「ジャズは地動説だ」と言われてポカ~ンとしたピアノ教師は、ジャズピアノは教えられないと、私は考えている。 理由は? それをここで書いちゃうと、このブログ記事の内容を安易に脳にコピペしてオウムのように再現暗唱するピアノ教師がいるかもしれないから、ここでは書かないよ。 自ら理解していない内容をオウムのように再現暗唱する教師ほど有害な存在は無い。 何も知らないイタイケな子どもたちを先導する羊飼い役としては危険きわまりないからね。 そういう、自分の専門分野の芸の確固たる根が育たなかったのに「先生」稼業を張っている先生は、昨日は「白です!」と言った舌の根も乾かないうちに、どっかから聞きかじってきたのか、今日は「黒です!」と言うような、猫の目のように言うことがクルクル変わるので、引率されている方が混乱するばかりになってしまう。 

ちまたで教えられているクラシックピアノが天動説で、ジャズピアノを含めたジャズ音楽が地動説であることを、もっとも顕著に示す現象が、それまでクラシックピアノしか習っていなかった生徒が、大学入学と同時に大学のジャズ研の門を叩いたものの瞬く間に辞めてしまってロックやポップスのバンドサークルに入っていくという現象だ。 私がそうだったから、そう思うね。 18歳になる頃には、もう、遅すぎるんだよね。 外国語もそうでしょ? 人間ね、18歳までにできなかったことは、18歳以降も、あまりできるようにならないという展望があるね。 どうしてって? 18歳までそのことを鬼のように熱中してやってきた人たちには、到底かなわないからです。 

ちまたのクラシックピアノ教師がジャズ音楽に難儀するのは、音大卒業までジャズなんてやろうとしたことすらなかったからなんですよ。 「新しいことを22歳から始めてすぐに人に教えられる」と思うこと自体が、噴飯ものの大勘違いなんだけどね。 どうしてそのような安易すぎる考え方を平気でできるんだろう?と私も考えたんだけど、つまりは、「借り物の文化をうわべだけコピって何とか体裁をつくらなければ、外国にバカにされる!」と思い込む習性を刷り込まれた日本人の悲しさなのかもしれないね。 たとえばね、清元(きよもと)の三味線の師匠がさ、津軽三味線の教室に3か月通っただけで、「津軽三味線も教えますよ!」なんて言うわけが絶対にないでしょ? そんなこと、恐ろしくて言えないでしょ? 芸事っていうものは、かくも人生の大半を削る、一生を賭して追求するものでしょ? それがさぁ、クラシックピアノ教師は、わかんないみたいなんだよね。 つまり、芸事の本質をぜんぜん理解することもなく、ピアノ教師になっちゃった、というか、なれちゃったんだよね。 そういうシステムになっているんだよね。 

それからね、「楽譜が無ければ弾けません!」って堂々と言うのもね、やめといたほうがいいと思うんだよね。 だってさ、あなたが日本人だったら、「書いたものを読み上げなければ日本語を話せません!」なんて堂々と言わないでしょ? よくさ、「英語の文章は読めるんだけど、英語を聞いたり話したりするのは苦手なんですよね」なんてことを言うTOEIC800点台の人っているでしょ? で、その人は、実質的には「私は英語ができません!」って言っているんです。 だってさ、日本人だったら、日本語を聞く・話す・読む・書くが何不自由なくできて当たり前でしょ? 英語でそれができないんだったら、それは英語ができないことなんだよ。 だから、「楽譜が無ければ弾けない」とか「移調が苦手」とか「聴音が苦手」とか「アドリブ演奏を勉強している」とかって、生徒さんに向かってあまり得意げに言わない方がいいと思うよ。 だってそう言うピアノ教師は「私は音楽ができません!」って堂々と言っていることになるからね。 それから、「勉強する」っていう言葉だけどさ、日本人のあなたは、生まれてこのかた日本語を勉強したことある? 小学校で正式に勉強するまえに、既に親きょうだいや幼なじみの友だち相手に、お子さま言葉であっても何不自由なくペラペラと話していたでしょ? だから、「勉強中」イコール「できません」ってことだよ。 勉強しているようじゃ、世間では全然通用しないんだよ。ダメなんだよ。ということが、私が還暦までの社会経験を通して実感したことです。 

ピアノに限らず「クラシック音楽は天動説」「ジャズなど20世紀以降の音楽は地動説」と私が思う理由の一つは:

①「クラシックは固定ド(=絶対音感)の世界」vs「20世紀~音楽は移動ド(=相対音感)の世界」であると、ジャズやフュージョンの本を読んだり耳コピしてマネようと弾いているうちに悟ったから。 「固定ドの世界」から「移動ドの世界」への進化をトリガーしたのが、「純正律」から「平均律」へのディスラプティブな移行だったのではないだろうか? と、私は何となく想像している。 「地球上のあらゆる事象が進化するときに、何らかの突拍子もない跳躍が進化を爆発的に促進させる」というのは、この世の常みたいだからです。 たとえば、蒸気機関が発明されたとたんに、それまでの手工業が大規模な工場生産へと、生産性が爆発的に向上したし、それまでの人力の自転車から、鉄道や自動車といった、人間の移動速度が劇的に早くなった。 電気やパソコンによって、人間の生活が劇的に便利になったことも然りだ。 で、音楽に関しては、「平均律」でチューニングできるようになったことで、ひとつの曲の中で自由にキーを変える(転調する)ことができるようになったんだと思う。 そのことによって、作曲家たちは、大元のキーから、ドミナントサブドミナントやパラレルやレラティブといった、元のキーとの関係性が強い他のキーへの転調を試みはじめた。 でも、新しいものはすぐに飽きられしまうから、やがてモーダルインターチェンジといったキーチェンジを試みるようになった。 でも、新しいものはすぐに飽きられてしまうから、西洋クラシック音楽の基盤である機能和声の檻(おり)を壊し始めた。 そのころになると、彼らにとって常に神秘の世界であり続ける東洋のインドの音楽のリズムや旋律を取り入れ始め、その後は「間(ま)の日本文化」が知られるところになって、音楽のハーモニーにも「間(ま)の日本文化」を取り入れるようになっていった(つまり、あえて鳴らさないことで、曖昧微妙な幽玄の音楽世界を表現しようとし始めた)。 そのころになると、もう一曲の中で元のキーを2つ使うことが試されるようになり、そのうちに、「なんでキーに縛られてるの?キーがあると窮屈!」と感じる作曲家たちによって、とうとうキーそのものが感じられないような音楽が作られ始めた。 これが、音楽の進化だと、私は思うので、絶対音感を持っていることを威張って、相対音感しか持っていない人たちを見下す行為は、シーラカンスが鮪(マグロ)に喧嘩を売るようなものだなぁ、と私には感じられます。

 この文章と、続きの文章については、別の記事として書き始めました ↓ 

 クラシックピアノは天動説、ジャズピアノは地動説。 - ピアノ方丈記

 

===今までの追記:===

クラシックとジャズの違いでよく言われる、リズム感の違いは、日本フュージョンの名盤「KYLYN」によく表れていると、私は思います。 マイルズ・デイビス作曲の1曲をのぞいて、渡辺香津美矢野顕子坂本龍一が、それぞれ複数曲を作曲していますが、各人の音楽的なバックグラウンドの違いが各曲のリズム感に表れていて、三者三様でとても興味深いと思います(←私は、中学時代は教授の曲がいちばん心安く聞けましたが、今は、アッコちゃん~香津美さんあたりの感じが心安く聞けます。 A面の2曲目と4曲目を聴いた時の感動は、あの頃も今も同じです)。

 

クラシックピアノ経験者がジャズピアノをかじってみて感じる困難さの本質については上記本文に書きましたが、音楽文法やリズム文法のほかに、具体的な点として、バンド形態におけるコンピングや、ルートレスヴォイスィングに手こずることが多いのではないか、と思います。 クラシックピアノは基本的にはピン芸で、クラシックピアノ曲の独奏というピン芸に専念してきたわけです。 ギターやピアノといったコード楽器のピン芸では、メロディー、インナーヴォイス、ベイスのパートをすべて自分で行います。 ピアノにおいては、左手でベイス音をまかなうため、左手の小指に根音が染みついてしまっている、そんな気がします。 だからルートレスヴォイスィングに馴染むのに手間取るのではないか?と思います。 その点、電子オルガンは、ベイス音を足のペダル鍵盤が担当し、もともと左手はベイス音を弾く必要がないので、コンピングやルートレスヴォイスィングがあるジャズピアノへの移行に有利なのではないかと思います。

 

ジャズの練習は、英語で会話ができるようになる練習と同じだと感じています。 そして、音楽・外国語・スポーツに関係なく、何かをマスターする方法は同じなんだなぁ、と、女子プロレスのトレーニング動画を見てしみじみ思いました。 彼女たちは、小さな動きを繰り返し練習して、覚えていく。 練習して自分のものにした小さな動きを積み重ねて、ひとつの技を作る。 その技を積み重ねて、試合で対戦相手と技をかけあって、エンターテインメントのひと時を作り上げる。 英語の単語を覚え、イディオムを覚え、言い回しを覚え、人と会話ができるようになるのと同じプロセスです。 彼女たちは、リングの上で、プロレス語で会話をしているのだなぁと思いました。

 

クラシックピアノとジャズピアノの違いは、丸暗記もののテストと記述式のテストの違いとも言えるかもしれません。 クラシックピアノの場合は、「偉大な作曲家が作った音楽の楽譜」という100点満点の回答があって、回答と異なる音を弾くと(ミスタッチ)、減点になります。 これに対して、ジャズピアノには、大枠のロジックに沿って自分のボキャブラリーや表現を使って答えられて、しかも、丸暗記もののテストと違って、100点が満点ではない(100点を超える成果物ができることもある)。 

 

別の例えにすれば、クラシックは名作小説の朗読、ジャズは粗筋に沿ったアドリブトークと言えます。 前者の好例は、古今亭志ん朝による池波正太郎作『鬼平犯科帳』の朗読CDです。『鬼平』を朗読するのに、故志ん朝師ほど正統な適任者はいません。『鬼平』の世界と同じ文化に生まれ育った、日本語の伝統話芸の一流のプロだからです。 後者の好例は、オリラジ中田さんのYouTube大学です。 原書の粗筋をフリートークでプレゼンする中田さんの、日本語アドリブ能力と伝える力がもの凄いので、中田さんによるコンテンツのアピール力が原作を超えることが往々にしてあり得る。

 

部活に例えると、クラシックピアノは体育会系、ジャズピアノは文化部系だと思います。 体育大学出身のスポーツ選手が多いのと同じように、クラシックピアニストは音大出身者がほとんどではないかと思います。 

これに対して、ジャズピアニストのなかには総合大学の理工系の学部や、理工系大学の出身者が目につきます。 音楽専門学校出身の人は、高卒ドラフトのプロ野球選手のように、高校卒業と同時にプロの世界で育成に入ったようなものです(つまり、能力がある若者の場合は、高卒直後からプロ業界で育成に入るので、業界内で最も有望株に育つ可能性が高い)。 音大出身の場合は、作曲科出身者が目につきます。 つまり、そういうことなんだと思います。 いずれにしても、音大を出ていても出ていなくても、音楽専門学校を出ていてもいなくても、大学の理工系を出ていても出ていなくても、高校を卒業する前後からプロの世界に飛び込んで自分で自分を育成した人が一流のB to Bの演奏家/作編曲家として業界でサーヴァイヴしている、そんな印象があります。

 

西洋の芸術は、ロジカルなサイエンスです。 ジョン・ケイジが作曲した「4'33"」や完奏するのに数百年かかる作品は、日本人にとっては不謹慎な冗談のように思えるでしょう。 バンクシーの公共物汚損の落書きの、いったい何が芸術なのかも、理解に苦しむ人が多いかもしれません。 しかし、これらの作品の基礎には、西洋のロジックが存在します。 東洋から見ると、西洋の芸術は、脳の前頭葉で組み立てたロジックでがんじがらめの芸術です。 西洋人が東洋の文化を、良くて神秘的、悪くて不気味に感じるのは、東洋の思考がロジックに縛られていないからだ、と思います。西洋人はロジカルでないものが不可思議で気持ちが悪く感じるんだと、私は思います(MBAのクラスで、先生が、日本人の生徒に向けて「英語の論文なので、日本式で書かないように」と、薄笑いで言ったことがあります。カチンときましたが、たしかに、年配の日本人や日本の最高学府の出身者の一部に、英語基準では雅(みやび)過ぎる、私のような野蛮人にはわけのわからないロジカルじゃない日本語を書く人たちがいる。きっと、頭が良すぎる人たちなんだね。ただし、英語で書く場合は、「ロジカルじゃない英語を書く人はバカ」とされてしまうから、注意した方がいい)。この、東洋と西洋の思考方法の違いに、輸入文化のローカライゼイションの可能性があります。日本で生まれ育った日本人が認識する西洋クラシック音楽は、その人の思考や西洋幻想のフィルターを通された、ジャパナイズされたものではないか、と思います(このことは、ジャズにも言えるかもしれません。ただ、ジャズには即興演奏という創作の要素が入りますから、本家アメリカ合衆国の中でも、ニューオリンズといったアメリカ南部の本家のジャズと、南北戦争後の奴隷解放によって南部の黒人たちが生きるために職を求めて大量に移住した北部の工業都市デトロイトで発展したジャズや、シカゴや、ニューヨークや、西海岸のジャズは、それぞれに異なるでしょうし、ましてや白人によるジャズは黒人の本家本元のジャズとは全く異質の音楽だと思います。 ただ、即興演奏という個人による創作の要素が入るからこそ、ジャズは米国内の地域を超え、国を超え、文化圏を超えた、ユニヴァーサルな音楽になったんだと思います。 日本のジャズも、アイスランディックジャズも、それぞれの国民性が反映されたジャズ音楽で、そこにこそ価値が有ります(アメリカの黒人ジャズのマネをしても、同じジャズを作れるはずがありませんし、そんな本家の文化のコピーには、全く価値が有りません)。 同様に、それぞれの国の言葉を使った歌が含まれるポップスや大衆音楽も、それぞれの国の文化のオリジナルな表現です。 これが、伝統的な民族音楽の古典になると、話は全く違います。 それぞれの民族が伝統的に作り奏でてきた古典的な音楽は、その民族に固有の歴史的&文化的な表現ですから、正確に伝承する必要があります。 ウィーンフィルが、かつては、ウィーンの中心部の教会の鐘の音が聞こえる地域内の出身者しか楽団に入団させなかったのは、そういう理由からであり、それには、然るべきもっともな理由があったからです。 これは、伝統的な民族音楽に限ったことではありません。 昭和が終わるころあたりまでは、江戸古典落語のプロの噺家になる条件は、江戸言葉が話される下町地域の出身者であることで、そうじゃない場合は、たとえ新宿区に生まれ育った人であっても、「古典落語を演るのは諦めて、新作落語を自作して演じたほうがいい」と言われたのです。 だから、他県出身者は、もうそれこそ論外だったわけです。 こういった事情が、現在の落語協会落語芸術協会の、それぞれのルーツにつながっている気がしてなりません。 NHKの歴代の大河ドラマで「江戸言葉指導」を担当している噺家の顔ぶれにも、そういう事情が表れていると思います。 そういう意味では、ニューオリンズなどのアメリカ南部の黒人ジャズが、ジャズの古典として、正確に伝承されるべきものなのでしょう。 伝統文化の古典の伝承は、西洋クラシック音楽であっても江戸落語であっても、かつてはプロとして演じる資格が出身地で選別されるという、非情なほどに厳格なものだった。 子どもの頃の私がクラシックピアノのレッスンに身が入らなかった理由の根底には、まさにこのことを子どもながらに無意識に感じていたからだと思います。 だから私は子どもの頃から、クラシック音楽よりも、テレビやラジオから流れてきた、日本人が楽しむために日本人が作った音楽に、惹かれ続けているのです)。  

 

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以下は、下記の記事からの引用です。「楽譜を読むのが苦手」と言うジャズピアノ人の深層心理を想像して書いた部分があります、というか、私自身が、楽譜を読むのが苦手だから。 そして、「楽譜を読むのが苦手」と言う人の中には、初見演奏できる人よりも異次元的に音楽人な人がいる可能性が大いにあるから。

ショパンの曲の耳コピというか「思い出しコピー」とリハモ (その⑤) - おんがくの彼岸(ひがん)

上記記事からの引用:

さいごに、仮に、これら一連の記事を読んで「自分もスケールなるものを知っておかなければ!」って焦ったかもしれない、クラシックピアノ人さんがいたとしたら、その行為は無駄かもしれませんよ、って私は言いたい。 楽譜をなぞって楽譜どおりに弾く行為において、作曲家がどの旋法を使ったか、ここは何終止か、この和声進行は...なんて知っている必要は無いもの。 その証拠に、そんなこと全然知らなくても、貴方は今までバラバラとその曲を問題なく弾いてたでしょ? 私だって、子どもの頃のクラシックピアノのレッスンは「楽譜どおりに間違いなく弾けること」で、アナリーゼなるものなんて申し訳程度に一回かそこらだけだったもん。 知ってれば楽しいと思う人もいるけど、知っているだけで楽譜どおりに弾けなければ、なんにもならないのが、再現芸術になってしまったクラシック音楽だ。 音楽の構成に関する知識やノウハウは、実際に音楽を生み出す作曲家の先生がちゃんとわかってやってくれてさえいれば、それで十分なんだ。 黄色い楽典の本を何度眺めてもぜんぜん頭の中に入ってこないのは、楽譜を再現するだけの行為に音楽理論は基本的に必要ないからだ。 これを反対側から見れば、ジャズやポップスのアドリブ演奏といった、即興演奏を行う人たちは、自分で音楽文法を会得したうえで、それを使って自由に音楽を創作できなければ、なんにもならない。 だから彼らは、コード進行やモードといった音楽理論に敏感に反応する。 その裏返しで、彼らは、作曲家が細部まで音を指定した二段構えの楽譜をそのとおりに再現演奏する行為に意味を感じない。 作曲するのは自分だから、たとえその曲を書いたのがショパンであっても誰であっても、自分が最も楽しみたい作曲行為を既に誰かにやられてしまった結果を印刷したクラシック音楽の楽譜そのものに、最初から興味が沸かないんだよ。 興味が沸かないから、見ないし弾かない、だから、「楽譜を読むのが苦手です」となるわけだが、そう言うことによって彼らが意味しているのは「私は、自分で音楽を作り出す作曲行為が好きなので、どこかの誰かが既に作った音楽を紙に書いたものをそのとおりに再現演奏する行為には興味がありません」だ。  

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