ピアノ方丈記

音楽の彼岸にて【指の健康寿命を気遣いながら!】シニアのピアノ一人遊びの日々

クラシックピアノのレッスンの呪い

 

このブログにも書くことがなくなってきて更新をやめようと思っていたのですが、ひとつ書くことができました:

 

もう何年も間違いつづけていることがあります。 ほんとうに簡単なパターンなんです。 基本中の基本中の基本のパターンなんです。 頭の中ではちゃんと理解していて、すぐにおぼえられる勢いのパターンなんです。 それなのに、ピアノを再開してから、ずーーーーーーっと、ずーーーーーっと、ずーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっと、間違えるクセが直りません。 いろんなパターン練習をやっているつもりなんですが、まだまだ練習量がぜんぜん足りていないんだと、思っています。

 

西洋音楽は、間違いようがない音楽です。 なぜなら、西洋音楽は、脳の前頭葉で理論的に構築される音楽だからです。 以前ちょっと習った作曲家の先生は、「偉大な作曲家が作った西洋クラシック音楽の楽譜には、思いつきの音は1音たりとも書かれていない」と話していました。 

 

これを踏まえて、私は、間違えるのは、以下の原因があると思います:

原因①: 西洋音楽の仕組みを理解しているつもりで実は全然理解していない

原因②: 理解していても、演奏中に物理的&時間的&精神的に集中できる環境が得られていない

原因③: そもそも西洋音楽自家薬籠中の物にしていないために、上記①や②になってしまう

 

原因①について: 「頭で理解している」と、「それをパブロフの犬状態で再現できる」の間には、何万光年もの乖離がある、ということはわかっていても、実感できていない。 実感するためには、痛い思いをしなければならない。 「もうじゅうぶんに痛い思いをしている」と思っていても、まだ痛い思いが足りていない。 とどのつまりは、「間違えたらギャラがもらえない」とか「次の仕事のお声がかからなくなる」ような立場に置かれていない、お気楽な身分である(←それはそれで幸せなことです)。

 

原因②について: 脳内に次から次に浮かんでくる雑多なことをこなしていく日常生活において、明鏡止水の心理状態で純粋に演奏に集中できる物理的&時間的&精神的な余裕を持てないと、練習中にも雑念が浮かんできてそれらに気をとられて間違えてしまう。 加えて、演奏の姿勢や動作の試行錯誤に注意をとられると、鍵盤上の位置情報への注意がおろそかになって、間違える。

 

原因③について: 上記の原因①と②は、結局のところは言い訳に過ぎない。 時間的な余裕の無さや、物理的/体調/心理状態によって、どんなに集中できなくても、ぜんぜん違うことを考えていても、自動的に出来てしまうのが、「自家薬籠中の物にした」状態である(これがプロのレベル)。

 

ところで、上記は、即興演奏についての話であって、既存の楽譜どおりに演奏する再現演奏行為についてではありません。 楽譜を見ながら楽譜どおりに弾こうとして間違えるのは、本来であればもう救いようがないホープレスの論外なんですが、楽譜どおりに弾いて間違えることに特有の原因があると感じます。

 

それは、「楽譜どおりに間違えないで弾くことへの絶対主義」です。 

巷(ちまた)のクラシックピアノのレッスンの全てが、このスタンスでなされていると思います。 

楽譜に書いてある音符や強弱記号を間違えずに弾くことに絶対的な価値が置かれるため、その楽譜に書いてある音楽の仕組みを理解していなくても、機械的であっても完璧に再現演奏できれば高く評価されるので、「とにかく譜面どおりに何度も何度も練習して指先に覚え込ませて間違えないように弾けばOK!」という、「丸暗記型マークシート方式テスト」のマインドセットが無意識に刷り込まれてしまう可能性があります。

「だからアナリーゼをやるのだ!」ですが、曲の構造を頭で理解していても、それを骨の髄で心底理解していないから、間違えるわけです。 すみずみまでちゃんと理解していたら、何かで注意をそらされない限りは、間違いたくても間違えられないくらい、間違いようがない筈です。

 

もうひとつの原因に、「初見演奏信仰」があると思います。 「本当の意味で初見演奏ができる」能力とは、楽譜をぱっと見ただけで頭の中で瞬時に曲全体のアナリシスが行えて、そのうえで演奏ができる、という能力だと思いますが、音符の視覚情報を条件反射的に機械的に鍵盤上の位置情報に変換する能力だけが訓練されている人が多いのではないかと思います。 何年か前に、ピアノ会で、「子どもの頃から某音楽教室でずっとピアノを習い続けていた」と言う人が初見演奏を自慢げに披露するのを見たことがありますが、その後の歓談でジャズとクラシックの違いについて私がなるべくわかりやすく、「クラシックでは、たとえば左手でこのベース音を弾くのと同時に右手でこの3和音を弾いて曲を終えることは絶対に許されないが、ジャズでは許されるどころか、普通にそうするのだ」と説明したら、その人の顔がブランク(表情が真っ白)になって無反応になったので、「ああこの人は、機械的に初見演奏ができるだけで、音楽のことを全然知らないから、頭の中が真っ白になっちゃったんだなぁ」と私は思いました(が、当時の私も音楽を全然知らなかったし、今もほとんどわかっていません)。

 

私の場合、既存の楽譜や自分で耳コピした譜面を弾く行為は、そのミュージシャン(作曲家)の世界観をマネすることで自分の肥やしにしたいからなのですが、「音楽を楽譜どおりに機械的に再現する」マインドセットが、今も後頭部に呪いのようにべったりと貼りついているようです。 だから、「面倒だから」とか「時間がもったいないから」という理由でロクにアナリシスもしないで何かに追われるように楽譜をなぞって弾き始める。 「これじゃダメだよ、ちゃんと曲の構成の骨組みを把握してからのほうが、あとあとずっと楽なんだから!」と自分に言い聞かせても、何かに追われるように弾き始めて、案の定、「譜面を見ながら間違えずに弾けた!」とか「暗譜ができた!」と思った段階から、どんどん間違え始める。 曲を全く理解せずに機械的に覚えただけ!という、脳を全く使わない浅いレベルの丸暗記方式が露呈する、お粗末な有り様...。 子どもの頃に習ったピアノのレッスンの呪いのお祓いが、まだまだぜんぜん済んでいないようです。

 

2021年7月に追記: 

以前の記事で「クラシックピアノを子どもの頃から長年やってきた人には、たいへんなプライドがあります。クラシックピアノが弾ける、イコール、音楽語を当たり前のように知っている」と思っている。」と書きましたが、この、見当違いのプライドも、大変強力な呪いといえます。 この呪いがあまりにも強力なので、クラシックピアノ経験者がジャズピアノをかじってみて挫折することが多いんだと、私は心底思っています。 とくに、とても幼い頃からクラシックピアノを習っていた人に限って、西洋音楽の「いろは」の「い」の部分を論理的に教わることなく育っていますから、「そんなこと当然のごとく知っている!」と、すっ飛ばしにかかり、実はそこをちゃんと理解していないのにすっ飛ばすもんだから、すぐに壁にぶち当たってしまうんだ、と私は思います。 大人がやる西洋音楽の基礎を構成する積み木についての論理的な認識が無いもんだから、そうなっちゃうんです。

実は、日本語をはじめとする言語も同じことです。 学生が社会人になると、入社当初は、会社用語や業界用語といった、日本人なのに今まで生きてきて一度も目にしたことも聞いたこともなかった社会人日本語に面喰らいますが、それらを必死に覚えて、やがて企業人として一人前の物言いができるようになっていきます。 どんな業界でも、働いてお金を稼ぐプロの世界では、お子さま言葉のままでは相手にもされない、というか、その世界に入る資格が無いのです。 大人の社会人の使う語彙やイディオムを使って意思疎通できることが、大人の社会で認められて生きる必要条件です。 音楽も言語です。 特に西洋音楽は、ロジカルな語彙の体型的な集積であり、一音一音をロジカルに組み合わせて意味を作ります。 

音楽が言語と違う点は、意味が理解できなくてもフラストレーションを感じずに聞いていられることです。 言語と違って、音楽は、聞いている時に「あれ?いま何て言ったの?」とか「この単語の意味がわからない」とフラストレーションを感じることがありませんし、そもそも素人は、音楽を言語だと認識していません。 これに対して、音楽のプロであれば、自分が聞き取れなかった箇所が気になるはずです。 音楽のプロは、もともと音に敏感な人たちに違いありませんから、基本的には聞いた音楽の意味をすべて理解するはずですが、万が一「いまの響きはどうなっているんだろう?」と思った個所があったら、気になって解明しようと思うはずです。 自称「音楽のプロ」の中に、そのレベルに達していない実質シロートがワンサカいます。 彼らは、自分が聞き取れない響きを、いっしょくたんに「おもしろい音ね」で片づけてしまって、意識がそれ以上先に行くことがありません。 そういう観点でいえば、ちまたのピアノ教師の100人中99人は「素人音楽のプロ」という、道路交通法の中の自転車みたいな立ち位置の存在だと思います。 その時々のシチュエーションで車道も歩道も見境なく走行し、車道では自動車ドライバーに気を遣わせ(自動車免許取得で叩き込まれる道路交通法を知らずに平気で車道を走行するので、自動車ドライバーにとって予測不能な危険な走行をする)、歩道を走行すればけたたましくベルを鳴らして歩行者を威嚇したり時には追突して歩行者を傷つけるが、当の本人たちは軽車両としての自覚が全く無いまま疾走。 軽車両なのに車道は「危険だから」と避け、通行人のものである歩道では大きな顔して走り回る。 車両のハシクレなんだから車道を走れよ! その自信が無いのなら自転車なんか乗らずに歩行者として歩道を歩け! だから、もし習うのであれば、プロ業界から仕事を請け負っている、つまり世間様からちゃんとプロとして認められているミュージシャンや作曲家に習う方がいいと、私は思うのです。 彼らの多くは、生まれつき聴覚に優れていて、子どもの頃からテレビなどから聞こえてきた歌をマネして歌ったり、小学校でもらったタテ笛や鍵盤ハーモニカで聞きよう聞きマネで再現していたと思います。 耳に入ってくる音楽が気になって気になって仕方がないから、聞きよう聞きマネで再現したくなるのです。 音楽の音が気になって気になって仕方がなくて音楽に無我夢中になった末に、とうとうプロになってしまったのです。 音に対する耳の良さは、音楽のプロへの必須条件だと思います。 言語だってそうです。 人間は、赤ちゃんの時は周囲の人から話しかけられる言葉を聞いて、それから徐々に意味のある言葉を話し始めて、さいごに読み書きを習います。 聞いて話すことがコミュニケーションの本質であって、聞いたり話したりしたことを残すために書面に記録するわけです。  音楽も同じで、楽譜などの記録媒体は、あくまで、後付けですし、不完全なものです。 民謡などの音楽が世界中の民族に口承で伝わっていて、音程やリズムが複雑すぎて正確に西洋流の楽譜に書き記せない音楽がたくさんあります。 西洋音楽の楽譜を絶対視することは、人間に生来備わっている音楽の本質的な才能の芽を刈り込む危険性があります。 「楽譜がないと演奏できません」なんて平気で言う人は、音楽の本質からみて本末転倒のことを公然と言っているわけで、音楽のプロとしては有り得ないことです。 

 

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このブログ「おんがくの彼岸(ひがん)」は、私 tokyotoad が、中学卒業時に家の経済的な事情で諦めた「自分の思いのままに自由自在に音楽を表現する」という夢の追求を、35年ぶりに再開して、独学で試行錯誤をつづけて、なんとかそのスタート地点に立つまでの過程で考えたことや感じたことを記録したものです。

「おんがくの彼岸(ひがん)」というタイトルは、「人間が叡智を結集して追求したその果てに有る、どのジャンルにも属さないと同時に、あらゆるジャンルでもある、最も進化した究極の音楽が鳴っている場所」、という意味でつけました。 そして、最も進化した究極の音楽が鳴っているその場所には、無音静寂の中に自然界の音(ホワイトノイズ)だけが鳴っているのではないか?と感じます(ジョン・ケイジはそれを表現しようとしたのではなかろうか?)。 西洋クラシック音楽を含めた民族音楽から20世紀の音楽やノイズなどの実験音楽まで、地上のあらゆるジャンルの音楽を一度にすべて鳴らしたら、すべての音の波長が互いにオフセットされるのではないか? 人間が鳴らした音がすべてキャンセルされて無音静寂になったところに、波の音や風の音や虫や鳥や動物の鳴き声が混ざり合いキャンセルされた、花鳥風月のホワイトノイズだけが響いている。 そのとき、前頭葉の理論や方法論で塗り固められた音楽から解き放たれた人間は、自分の身の中のひとつひとつの細胞の原子の振動が起こす生命の波長に、静かに耳を傾けて、自分の存在の原点であり、自分にとって最も大切な音楽である、命の響きを、全身全霊で感じる。 そして、その衝動を感じるままに声をあげ、手を叩き、地面を踏み鳴らし、全身を楽器にして踊る。 そばに落ちていた木の棒を拾い上げて傍らの岩を叩き、ここに、新たな音楽の彼岸(無音静寂)への人間の旅が始まる。

tokyotoadのtoadはガマガエル(ヒキガエル)のことです。昔から東京の都心や郊外に住んでいる、動作がのろくてぎこちない、不器用で地味な動物ですが、ひとたび大きく成長すると、冷やかしにかみついたネコが目を回すほどの、変な毒というかガマの油を皮膚に持っているみたいです。

 

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