以下は、20210731にアメブロに書いた記事:
音楽じゃなくても何でもそうですが、そのジャンルや職場で快適に過ごすためには、そのジャンルなり職場なりに君臨する牢名主を懐柔することがカギだ。
「水戸黄門」で、悪代官によって牢屋にブチ込まれた助さんないしは格さんは、持ち前の知力や剛力で、またたく間に牢名主を懐柔してしまうばかりか、挙句の果てには牢名主になっちゃって優雅な牢屋ライフを送る。
助さんや格さんまでとはいかなくても、牢屋の中でも音楽でも、快適で優雅なライフを送るためには、牢名主とお近づきになるのが一番だ。
その音楽ジャンルにおける、自分にとっての牢名主をアイデンティファイして、徹底的にお近づきになる。
自分にとっての牢名主と心安くなれば、その音楽の練習も楽しくなるというものだ。
ここで私が意味する「牢名主」とは、人間ではなく、そのジャンルの音楽を最も特徴づける要素である。
そして、牢名主は、ひとつではないし、求道の途中でどんどん代わってゆく。
私にとっての牢名主は何人かいて、ひとりずつお近づきになっていっている。
5年かけて、いまのところ、二人とは少しは心安くなった。
去年から、その二人のうちの一人の分身である牢名主様とお近づきになろうとしていろいろ試行錯誤していて、それらにともない、ようやく練習らしきものができるスタートラインに立てた気がしている。
そして、私の行く手に新たな牢名主様たちが待っているのが見える。
tokyotoad=おんがくを楽しむピアニスト
もとの記事@アメブロ:
その音楽ジャンルの牢名主とお近づきになる | おんがくの細道
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このブログ「おんがくの彼岸(ひがん)」は、私 tokyotoad が、中学卒業時に家の経済的な事情で諦めた「自分の思いのままに自由自在に音楽を表現する」という夢の追求を、35年ぶりに再開して、独学で試行錯誤をつづけて、なんとかそのスタート地点に立つまでの過程で考えたことや感じたことを記録したものです。
「おんがくの彼岸(ひがん)」というタイトルは、「人間が叡智を結集して追求したその果てに有る、どのジャンルにも属さないと同時に、あらゆるジャンルでもある、最も進化した究極の音楽が鳴っている場所」、という意味でつけました。 そして、最も進化した究極の音楽が鳴っているその場所には、無音静寂の中に自然界の音(ホワイトノイズ)だけが鳴っているのではないか?と感じます(ジョン・ケイジはそれを表現しようとしたのではなかろうか?)。 西洋クラシック音楽を含めた民族音楽から20世紀の音楽やノイズなどの実験音楽まで、地上のあらゆるジャンルの音楽を一度にすべて鳴らしたら、すべての音の波長が互いにオフセットされるのではないか? 人間が鳴らした音がすべてキャンセルされて無音静寂になったところに、波の音や風の音や虫や鳥や動物の鳴き声が混ざり合いキャンセルされた、花鳥風月のホワイトノイズだけが響いている。 そのとき、前頭葉の理論や方法論で塗り固められた音楽から解き放たれた人間は、自分の身の中のひとつひとつの細胞の原子の振動が起こす生命の波長に、静かに耳を傾けて、自分の存在の原点であり、自分にとって最も大切な音楽である、命の響きを、全身全霊で感じる。 そして、その衝動を感じるままに声をあげ、手を叩き、地面を踏み鳴らし、全身を楽器にして踊る。 そばに落ちていた木の棒を拾い上げて傍らの岩を叩き、ここに、新たな音楽の彼岸(無音静寂)への人間の旅が始まる。
tokyotoadのtoadはガマガエル(ヒキガエル)のことです。昔から東京の都心や郊外に住んでいる、動作がのろくてぎこちない、不器用で地味な動物ですが、ひとたび大きく成長すると、冷やかしにかみついたネコが目を回すほどの、変な毒というかガマの油を皮膚に持っているみたいです。
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↑ 不本意にもこんな野暮なことを書かなければならないのは、過去にちまたのピアノの先生方に、この記事の内容をパクったブログ記事を挙げられたことが何度かあったからです。 トホホ...。ピアノの先生さんたちよ、ちったぁ「品格」ってぇもんをお持ちなさいよ...。
tokyotoad