おんがくの彼岸(ひがん)

「出すぎた杭」大人ピアノならではの自由と醍醐味(だいごみ)を楽しむtokyotoadのブログ

「プロの音楽」と「素人の音楽」

 

以下は、20210822にアメブロに書いた記事

 

ジャズの偉大な先人たちが残した言葉は本当だったことがわかった。

 

ほんとだね。 

彼らは、音楽を会得するための本質をちゃんとわかっていて、

たいへんな努力をしてそれをマスターしたんだね。

 

彼らには、どうして音楽の本質が見えて、それをマスターできたんだろう?

ジャスは新興の音楽ジャンルで、「素人の音楽」の業界が生まれてなかったからだろうね。

 

このいわゆる「素人の音楽」業界が生まれると、何やらおかしなことになってくる。

音楽の本質を煙(けむ)に巻くようなことが起きてくる。

 

「素人の音楽」とは、素人が演奏する音楽だ。

広く素人向けに、素人向けの音楽を教えたり検定やコンクールをつくって参加者たちから参加費を徴収して利益を得る、いわゆる検定ビジネスがでてくる。 ひどい場合は、○○検定、△△検定、XX検定...と、多様な検定をつくって素人からの参加費用を当て込む検定花盛り状態になる。 検定ビジネスモデルはよっぽど儲かるらしいね。

また、教えるビジネスの制度化が進むことも特徴だ。

音楽のうわべだけが些末に切り取られ、ライフハック化され、指導要綱化して、

指導要綱さえ覚えていれば誰でも人に教えられるようなことになってくる。

主婦/主夫や家事手伝いといった「素人音楽のプロ」が片手間で教えることができるような、

安易なものになってくる。

 

歌舞伎や落語などの日本の伝統芸能や、常磐津や清元などの日本の伝統音楽が、

その強力なバリューの希薄化を免れている理由は、

芸能が、師匠から、その芸能のために人生を投げ打った少人数の弟子だけに、狭く濃く受け継がれていくからだ。

これがもしも、

日本芸能大学歌舞伎学科や、落語大学(あの師匠の新作落語にあったね!)や三味線グレード検定なんかができて、

毎年何百人もの卒業生や何千人もの検定合格者が市場にどんどん排出されたら、

これらの伝統芸能/音楽の水準は一気に下がってしまい、

価値の希薄化が起きてしまうことだろう。

だから、日本の伝統芸能や音楽にとって、今のような少人数に厳しく伝承していく方法が、

その価値を守るために、絶対にいいのだ。

そういう意味で、日本の伝統芸能・音楽の世界で広く行われている世襲制度は、一見すると閉鎖的で排他的なものに思えるかもしれないが、

実は、芸能にとって最強の価値保全伝承システムである。

 

西洋クラシック音楽だって、

産業革命で労働者から成り上がった中流ボリュームゾーンが生まれて彼らのお財布を当て込む「素人音楽」市場ができる前は、

世襲制を基本に、ごく少数の限られたプロたちの間で厳しく伝承されていた。

少数精鋭のプロたちは、

作曲・編曲・音楽監督・演奏すべてを自から行う、

本物の音楽家だった。

 

新興の音楽だったジャズも同じだ。

ジャズミュージシャンは、作曲・編曲・音楽監督・演奏のすべてを自ら行う、

本物のプロの音楽家だ。

そんなプロの音楽家たちが、先を競うように独創的な音楽を作った。

それは、プロの音楽家としての生き残りをかけた熾烈な競争だった。

その競争のプレッシャーはものすごかったらしい。

だから、自分で自分を追い込むプレッシャーや、仕事がなくなる不安をまぎらわすために、

現実逃避の手段に手を染めて、ジャンキーになって若くして死んでいったジャズメンがたくさんいたんだね。

演奏家たちが命をかけて研ぎ澄ましていった音楽だ。

 

ルノワールが描いた「ピアノを弾く少女たち」の絵から聞こえてくるような

バイエルやツェルニーやブルグミュラーみたいな、

中流階級のお嬢さんがたの趣味のお稽古事のために作った素人向け音楽とは

本質的&異次元的に違う

プロ中のプロたちの熾烈な生き残り競争から生まれ進化して、

プロ中のプロたち本人がアドリブ演奏してレコードやテープに刻まれた音楽だから、

ジャズには鬼気迫るものがあるんだね。

 

でも、ジャズが誕生してから1世紀ほどが経ち、

クラシック音楽のように、ジャズにも「素人の音楽」業界が生まれ始めている。 

音楽の本質を知らない先生たちが平気で「ジャズピアノ教室」の看板を掲げ始めているようだ。 

中には、「クラシックピアノ教師ですがジャズピアノ教えますよ」みたいな、

とんでもなく胡散臭いものまで出てきている(ちゃんとジャズ文法に則ってセンス良くアドリブ演奏できるのかいな?って、できるはずないでしょ!)。

 

それでも、まだジャズでは、

ジャズという音楽の本質をマスターしている、

現役のプロのミュージシャンに教えてもらうことが、まだ可能だろう。

 

 

tokyotoad=おんがくを楽しむピアニスト

 

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このブログ「おんがくの彼岸(ひがん)」は、私 tokyotoad が、中学卒業時に家の経済的な事情で諦めた「自分の思いのままに自由自在に音楽を表現する」という夢の追求を、35年ぶりに再開して、独学で試行錯誤をつづけて、なんとかそのスタート地点に立つまでの過程で考えたことや感じたことを記録したものです。

「おんがくの彼岸(ひがん)」というタイトルは、「人間が叡智を結集して追求したその果てに有る、どのジャンルにも属さないと同時に、あらゆるジャンルでもある、最も進化した究極の音楽が鳴っている場所」、という意味でつけました。 そして、最も進化した究極の音楽が鳴っているその場所には、無音静寂の中に自然界の音(ホワイトノイズ)だけが鳴っているのではないか?と感じます(ジョン・ケイジはそれを表現しようとしたのではなかろうか?)。 西洋クラシック音楽を含めた民族音楽から20世紀の音楽やノイズなどの実験音楽まで、地上のあらゆるジャンルの音楽を一度にすべて鳴らしたら、すべての音の波長が互いにオフセットされるのではないか? 人間が鳴らした音がすべてキャンセルされて無音静寂になったところに、波の音や風の音や虫や鳥や動物の鳴き声が混ざり合いキャンセルされた、花鳥風月のホワイトノイズだけが響いている。 そのとき、前頭葉の理論や方法論で塗り固められた音楽から解き放たれた人間は、自分の身の中のひとつひとつの細胞の原子の振動が起こす生命の波長に、静かに耳を傾けて、自分の存在の原点であり、自分にとって最も大切な音楽である、命の響きを、全身全霊で感じる。 そして、その衝動を感じるままに声をあげ、手を叩き、地面を踏み鳴らし、全身を楽器にして踊る。 そばに落ちていた木の棒を拾い上げて傍らの岩を叩き、ここに、新たな音楽の彼岸(無音静寂)への人間の旅が始まる。

tokyotoadのtoadはガマガエル(ヒキガエル)のことです。昔から東京の都心や郊外に住んでいる、動作がのろくてぎこちない、不器用で地味な動物ですが、ひとたび大きく成長すると、冷やかしにかみついたネコが目を回すほどの、変な毒というかガマの油を皮膚に持っているみたいです。

 

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↑ 不本意にもこんな野暮なことを書かなければならないのは、過去にちまたのピアノの先生方に、この記事の内容をパクったブログ記事を挙げられたことが何度かあったからです。 トホホ...。ピアノの先生さんたちよ、ちったぁ「品格」ってぇもんをお持ちなさいよ...。

 

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