おんがくの彼岸(ひがん)

「出すぎた杭」の大人ピアノならではの自由と醍醐味(だいごみ)を楽しむtokyotoadのブログ

クラシックピアノ教師がジャズピアノを教えられない理由

 

以下は、20210828にアメブロに書いた記事

 

クラシックピアノ教師にジャズピアノを教えている

ジャズの先生たちのサイトやブログを読むと、

クラシックピアノ教師がおしなべて一様にジャズピアノでつまずく様子と、

どういうところでつまずくかの特徴と、つまずく原因が、いろいろと考察されていて、とても興味深い。

 

根本的な問題として、

クラシックピアノ教師の多くが、

即興演奏ができない、あるいは、

即興演奏が苦手、あるいは、即興演奏ができても、

即興演奏のセンスが悪い

という点があると、私は思った。

 

即興演奏のセンスが悪いとは、

「あれ~、どっかで聞いたことのあるフレーズだな~」みたいな、

使い古されたフレーズを機械的に切り貼りした陳腐で凡庸な即興であったり、

その曲には似合わないフレーズを機械的に切り貼りした即興になってしまったり、即興演奏できても、

クラシック音楽訛りの即興演奏になってしまう、ということである。

 

ジャズは、ジャズ文法に則った

即興演奏が主体の音楽である。

 

本物のプロのジャズピアニストや、いやしくもジャズピアノ教師を名乗っている先生は、

ジャズ文法に則った即興演奏を自由自在に平気で延々と続けることができる。

そうなるために、人生の大半をジャズに捧げて、自宅練習からライブセッションまで、

ずーっと研鑽を積んできたわけである。

 

人生の大半をジャズに捧げてずーっと研鑽に努めてきたのは、

ジャズ文法の体得とジャズ語彙の構築とそれらの実戦的な使用によるジャズ語のプロフィシェンシーの確立である。

 

西洋音楽の世界でよく言われる「音楽は言語である」という一節が、ここで光ってくる。

 

言語の習得は、人が生まれてから成人するまで、20年近くかけて毎日フルタイムで行って、はじめて一人前の成人としての言語を、聞き・話し・読み・書くことができるようになる。

音楽語も同じである。

 

また、

聞く・読むというインプット活動が十分に足りてから初めて、話す・書くという表現活動を始めることができる。 生まれたばかりの赤ん坊は、話すことができず、大人たちからかけられる言葉を聞いてばかりである。 

アウトプットのためには、十分すぎるほどのインプットの量が必要なのである。

音楽語も同じである。

 

「英語は読めるけど、話したり書いたりするのは苦手で...」と言う人の英語力は、実は、読む・聞く英語力も、話す・書く英語力と同じ程度しかないのである。 

英作文が苦手なことは、英語を読む量が絶対的に不足していることを表している。

英語で話せないのは、英語を聞いて意味を瞬時に理解する訓練が絶対的に不足していることを表している。

音楽語も同じである。

「楽譜を見ながらは弾けるけど、即興演奏はできなくて...」と言う人の、

実際の音楽力は、その人の即興演奏の実力ぐらいしかないのである。

楽譜を使わないと人に教えられない先生の音楽力も、然りである。

 

ジャズの真髄とは、リードシートのメロディーとリードシートシンボルだけに基づいて、

ジャズ文法に則って演奏者がリアルタイムで作曲しながら演奏する、

ジャズ文法による即興演奏である。

 

クラシックピアノ一筋でやってきたピアノ教師が、おいそれと簡単に人様に教えてお金をもらうなんてことは到底できないレベルの音楽である。

 

ジャズ語で自由に表現できるだけの音楽の総合力がないと、ジャズピアノを教えることは不可能である。

生徒に単に「ジャズの楽譜」を弾かせてお茶を濁すレッスンは、ペテンである。 なぜなら、

ジャズにおいて、1音1フレーズをすべて書き留めた両手用の2段構えのフルの楽譜は存在しないからである*。

 

だから、

「ジャズ風」や「ジャズ風アレンジ」みたいに言って、中途半端なこズルイ表現で、

ニセモノのペテンを安っぽいメッキでごまかそうとする。

「ジャズ風」とは、「ジャズ文法を全然知らないけれど、軽い気持ちでマネしてみたのよ。それっぽく聞こえるかしら?」という意味。

「ジャズ風アレンジ」とは、「ジャズ文法を全然知らないけれど、軽い気持ちでマネしてそれっぽく聞こえる感じ?に書いた、フルの楽譜」という意味。

本物のジャズピアノの先生は決して使わない言葉だ。

 

 

*往年のジャズの巨人たちによる演奏の録音をトランスクライブした楽譜は存在し、販売されている。 現代の実力派のジャズピアニストによるスタンダード曲の実演録音からのトランスクリプション譜や、アマチュア愛好家のために彼らがアレンジした簡易な楽譜も販売されている。 ただし、仮にそれらを正確に演奏できたとしても、自己表現の音楽としてのジャズにはならない。 誰かの実演の録音のトランスクリプションを正確に再現演奏できるのは、そのもとになった録音音源の再生メディアだけである、いや、実際は、実際の演奏の音源を記譜法で譜面に正確に落とし込むことは不可能である(演奏者独特の間合いや強弱のニュアンスを正確に譜面に記録するためには、記譜法は粗すぎるからである)。 作曲者本人による実演の録音が残っていてそれらを再生して聴けることが、20世紀以降の音楽と、クラシック音楽との、決定的な違いである。

 

 

tokyotoad = おんがくを楽しむピアニスト

 

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このブログ「おんがくの彼岸(ひがん)」は、私 tokyotoad が、中学卒業時に家の経済的な事情で諦めた「自分の思いのままに自由自在に音楽を表現する」という夢の追求を、35年ぶりに再開して、独学で試行錯誤をつづけて、なんとかそのスタート地点に立つまでの過程で考えたことや感じたことを記録したものです。

「おんがくの彼岸(ひがん)」というタイトルは、「人間が叡智を結集して追求したその果てに有る、どのジャンルにも属さないと同時に、あらゆるジャンルでもある、最も進化した究極の音楽が鳴っている場所」、という意味でつけました。 そして、最も進化した究極の音楽が鳴っているその場所には、無音静寂の中に自然界の音(ホワイトノイズ)だけが鳴っているのではないか?と感じます(ジョン・ケイジはそれを表現しようとしたのではなかろうか?)。 西洋クラシック音楽を含めた民族音楽から20世紀の音楽やノイズなどの実験音楽まで、地上のあらゆるジャンルの音楽を一度にすべて鳴らしたら、すべての音の波長が互いにオフセットされるのではないか? 人間が鳴らした音がすべてキャンセルされて無音静寂になったところに、波の音や風の音や虫や鳥や動物の鳴き声が混ざり合いキャンセルされた、花鳥風月のホワイトノイズだけが響いている。 そのとき、前頭葉の理論や方法論で塗り固められた音楽から解き放たれた人間は、自分の身の中のひとつひとつの細胞の原子の振動が起こす生命の波長に、静かに耳を傾けて、自分の存在の原点であり、自分にとって最も大切な音楽である、命の響きを、全身全霊で感じる。 そして、その衝動を感じるままに声をあげ、手を叩き、地面を踏み鳴らし、全身を楽器にして踊る。 そばに落ちていた木の棒を拾い上げて傍らの岩を叩き、ここに、新たな音楽の彼岸(無音静寂)への人間の旅が始まる。

tokyotoadのtoadはガマガエル(ヒキガエル)のことです。昔から東京の都心や郊外に住んでいる、動作がのろくてぎこちない、不器用で地味な動物ですが、ひとたび大きく成長すると、冷やかしにかみついたネコが目を回すほどの、変な毒というかガマの油を皮膚に持っているみたいです。

 

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↑ 不本意にもこんな野暮なことを書かなければならないのは、過去にちまたのピアノの先生方に、この記事の内容をパクったブログ記事を挙げられたことが何度かあったからです。 トホホ...。ピアノの先生さんたちよ、ちったぁ「品格」ってぇもんをお持ちなさいよ...。

 

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