おんがくの彼岸(ひがん)

「出すぎた杭」の大人ピアノならではの自由と醍醐味(だいごみ)を楽しむtokyotoadのブログ

歩きながら「築こう」ともがいて生きていくのが、多くの人の現実

 

以下は、20210831にアメブロに書いた記事

 

前に書いた記事、どれだったかな? ⇒ この記事ですね

その記事に追加した内容を、元の記事を添えて別カテゴリーにも残しておこう(もとの記事は末尾に添付):

 

追加した内容:

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社会に出る前にちゃんと基礎作りをして基盤を固めてから社会に打って出ていける、恵まれた境遇に生まれ育った人は、少ない。

 

社会に出た時点では基礎も基盤もお粗末で、社会に出てから、働きながら基礎を少しずつ固めていく人がほとんどだ。

 

それに、どんなに環境が良くてどんなにしっかり基礎を作れても、完璧な基礎など有り得ない。 自分よりもっと恵まれた人たちが、もっと優秀な人たちが、たくさんいる。

 

だから、みんなそれぞれ、働きながら、苦しみもがきながら、人生という自分の城を、ちょっとずつ補強していく。

 

ただ、人生には、のるかそるか!の時が何度かあると思う。

リスクを取らないと次に進めない場合に、自分の全存在をどちらかの選択肢に賭けて勝負に出なければならない、

丁半博打みたいなバイナリーな局面に何度か遭遇すると思う。

 

そのような局面では、自分の今までの全ての知見をもとに、厳しい目で周りの状況判断を行い、

ひとつの道を取って、もうひとつの道は捨てる! 

潔く捨てる!

 

そのような局面を何度か通り越して、今、私は、こうしてここにいます。

ここにこうして生きていることは、本当に幸運なことだと、しみじみ有難く思います。

 

二つとも取ったり、ときには三つも取ろうとすると、それぞれに投下するパワーが二分の一や三分の一になるから、ひとつの道に100%賭けた人たちと勝負にならなくなり、やがて落ちこぼれて、退場することになる。

いつか必ず、欲張ったツケを払う時がやって来る。

 

何かを捨てて何かを得ることを繰り返して、鋭い視点で生きてくると、

物事に対する見方も鋭くなり、

何が本物か、ニセモノかが、わかるようになってくる。

言葉だけで結果が伴わないものが、スグわかる。

「安全です」「安全です」って言葉で言われて、現実を見れば、本当に安全なためしがない。

ニセモノに限って、「私は本物です!」 「私は優れています!」って叫ぶことばかり。 

人間社会でちゃんと働いて結果を出して世間様から評価されたことがない、世間知らずが言うことだ。 オオカミ少年といっしょ。 だから、ますます上手く行かなくなる。 そして、ますます声をはりあげて叫ぶ:「私は本物!」「私は優秀!」。 結果的に、ますます信用されなくなる。

 

人間社会では、行動とその結果でしか、評価されない。 表面的な言葉だけのアピールは、信用されない。

なかでも、誰かの行動や手柄の上に乗っかった表面的な言葉だけのアピールや訓示は、最も忌み嫌われる。 

人の努力の成果をクスネておいて、さも自分がスゴイように宣伝する人に限って、

その人のサービス品質が劣悪であることを、世間はイヤというほど経験してきて、

その都度痛い目に遭ってきたから、もはや信用しないばかりか、

せっかく自助努力で築いてきた幸運の足を、そのような輩に引っ張られるのを嫌って、

もはや近寄ろうともしないのだ。 

 

本物かどうか、優れているかどうかは、世間様が判断することだ。 

自分で言ってしまってはオシマイである。 

 

tokyotoad

 

===以下は、 この記事 からの引用===

 

ちゃんとした赤ん坊の形になる前に歩き出そうとしてしまいがちだけど、それはそれで、ありがちなことだし、ハリボテでもなんでも何かしら建てて動きださなければならない場合が、この世にはたくさんある。 

時間に限りのある人生、それ自体がそうだ。 

たぶん、ほとんどの人が、ハリボテの突貫工事で屋台みたいな自分の店をなんとかこしらえて、この世で生きていく。 

私もそうだった。 ちゃんと基礎を打って、その上にしっかりした柱を据えて、太い梁でつなげて、立派な店を出すのがいいに決まっていることは、子どもの頃からわかっているけれど、自分を取り巻く環境を観察して、自分がそれをするには100年(=3代)早いと感じたら、とにかく突貫工事でハリボテの屋台をつくって動き出すほうが、限り有る人生のなかで時間をかけて基礎しかできませんでした...よりもずっとマシなんだよね。 

多くの人が、すぐに答えを先生に求めようとしたり、先生に言われたことしかしない、みたいな背景に、そういう遠因もあるかもしれないね。  

 

ハリボテの屋台でもなんでも、とにかく立てて、雨風をしのぎながら、ちょっとでも余裕ができたら、すこしずつ基礎を補強したり、壁を塗ったり、屋根に瓦をふいたりして、人生をかけて作っていった家は、ヘンテコな見た目になるかもしれないけど、最初のほったて小屋から比べれば大きな発展だ。 

逆に、最初はたいそう立派な家だけど、人生が進むにつれてメンテナンスする余裕が無くなって、最後にはボロボロになっている、かつてのお屋敷もある。

 

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tokyotoad=おんがくを楽しむピアニスト

 

もとの記事@アメブロ

歩きながら「築こう」ともがいて生きていくのが、多くの人の現実 | おんがくの細道

 

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このブログ「おんがくの彼岸(ひがん)」は、私 tokyotoad が、中学卒業時に家の経済的な事情で諦めた「自分の思いのままに自由自在に音楽を表現する」という夢の追求を、35年ぶりに再開して、独学で試行錯誤をつづけて、なんとかそのスタート地点に立つまでの過程で考えたことや感じたことを記録したものです。

「おんがくの彼岸(ひがん)」というタイトルは、「人間が叡智を結集して追求したその果てに有る、どのジャンルにも属さないと同時に、あらゆるジャンルでもある、最も進化した究極の音楽が鳴っている場所」、という意味でつけました。 そして、最も進化した究極の音楽が鳴っているその場所には、無音静寂の中に自然界の音(ホワイトノイズ)だけが鳴っているのではないか?と感じます(ジョン・ケイジはそれを表現しようとしたのではなかろうか?)。 西洋クラシック音楽を含めた民族音楽から20世紀の音楽やノイズなどの実験音楽まで、地上のあらゆるジャンルの音楽を一度にすべて鳴らしたら、すべての音の波長が互いにオフセットされるのではないか? 人間が鳴らした音がすべてキャンセルされて無音静寂になったところに、波の音や風の音や虫や鳥や動物の鳴き声が混ざり合いキャンセルされた、花鳥風月のホワイトノイズだけが響いている。 そのとき、前頭葉の理論や方法論で塗り固められた音楽から解き放たれた人間は、自分の身の中のひとつひとつの細胞の原子の振動が起こす生命の波長に、静かに耳を傾けて、自分の存在の原点であり、自分にとって最も大切な音楽である、命の響きを、全身全霊で感じる。 そして、その衝動を感じるままに声をあげ、手を叩き、地面を踏み鳴らし、全身を楽器にして踊る。 そばに落ちていた木の棒を拾い上げて傍らの岩を叩き、ここに、新たな音楽の彼岸(無音静寂)への人間の旅が始まる。

tokyotoadのtoadはガマガエル(ヒキガエル)のことです。昔から東京の都心や郊外に住んでいる、動作がのろくてぎこちない、不器用で地味な動物ですが、ひとたび大きく成長すると、冷やかしにかみついたネコが目を回すほどの、変な毒というかガマの油を皮膚に持っているみたいです。

 

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↑ 不本意にもこんな野暮なことを書かなければならないのは、過去にちまたのピアノの先生方に、この記事の内容をパクったブログ記事を挙げられたことが何度かあったからです。 トホホ...。ピアノの先生さんたちよ、ちったぁ「品格」ってぇもんをお持ちなさいよ...。

 

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