以下は、20210906にアメブロに書いた記事:
先日から書いている記事について、
私は、
トランスクライビング(耳コピ)は、ほとんどの人間が生まれつき持っている能力である、と思う。
(↑「ほとんどの」としたのは、ほとんどの人とは異なる聴覚や脳の機能を持って生まれてくる人がいるからである)
基本的には、
母国語を聞いて話すことができれば、音楽語も同様に聞いて話すことができるはずである。
「トランスクライビング(耳コピ)ができない」と自分で思っている人、あるいは、ピアノ教師などの「音楽のプロ」とみなされている人々からそのように思われている人は、
何らかの要因によって、音楽語を聞く能力が開花していない人である、 と私は考える。
子どもの頃に、テレビなどから流れてきた歌を、聞きよう聞き真似で歌っていたならば、
それがまさしく、音楽語をトランスクライビング(耳コピ)してヴォーカルで再生していたことに他ならない。
ほとんどの人が、子ども時代、だれに教わったわけでもないのに、
歌謡曲やテレビまんが主題歌やJ-POPやアニソンを、聞きよう聞き真似で諳(そら)んじていたのではないか。
そして、高校生あたりから、仲間たちとカラオケで好きな曲を自由自在に歌っていたのではないか?
カラオケボックスで、歌の楽譜をガン見しながら歌っている人がいただろうか!?
「カラオケには歌う人のガイドになるメロディー音がはいっているぞ!」
そのメロディー音を耳をそばだてて真剣に追いながら悲愴な顔で歌っている人がいただろうか!?
それなのに、音楽という「学び」や「お稽古」になったとたんに、
「聴音」なんていうイカメシイ言葉で特別扱いされるようになり、
「音楽は、カラオケなんぞという低俗なものではございません!」と言われて、
J-POPよりもずっと単純でクソつまらないメロディーを五線譜に書き留める訓練を受けるようになると、
持って生まれた素晴らしい耳コピ能力は、
無視され、無能化され、潰されてゆく。
私は、これを、とてもおかしなことだと、ずーっと思っている。
90年代にカラオケボックスで広瀬香美やミスチルを伸び伸びと歌っていた人たちが、
耳が悪いはずがないからである。
ためしに、その高尚な「聴音」とやらを教えるピアノの先生方に、
クラシック愛好家たちが見下すポップス畑の
広瀬香美の「ゲレンデが溶けるほど恋したい」や、ミスチルの「名もなき詩」を、
聴きとらせて五線紙に正確に書かせてみると良い。
今から20年以上も昔に流行ったポップスを。
もちろん、生まれつきの聴覚の良さという能力は有って、
「子どもの頃に、誰に言われたわけでもなく、ピアノなどの楽器のレッスンに通ったこともないのに、テレビから聞こえてきた歌を、小学校の授業でもらったリコーダーや鍵盤ハーモニカなどでマネして演奏していた」
と語る一流のプロミュージシャンが目につく。
このようなプロの音楽の頂点の頂点に上り詰めた人たちは、
生まれつきの聴覚能力がズバ抜けている人たちが多いだろう。
じゃなければ、他のメンバーの音に合わせながら演奏表現して全体的な良い化学反応を追求するバンドなどの合奏形態が基本のプロの現場で、とても機能できないからだ。
このような一流のプロが、IQ試験を受けたら、
聴覚情報処理を計る検査で平均を上回る突出したパフォーマンスを出すのではないか、と思う。
こんな私ごときでもそうだったので、そう思うのである。
思い起こせば、私も、2歳のときにはテレビから聞こえてきた歌をマネて歌っていたそうだ。
それを見た親が、私にピアノを習わせた、という話だ。
つまり、音楽を聴きとる能力は、ピアノのお稽古以前の能力なのだ。
一流のプロミュージシャンたちの子ども時代と一致する傾向である。
そのようなミュージシャンの中には、「中学になるまで楽譜を読めなかった」と話す人もいる。
と聞くと、
「どうせ、ピアノ以外の単純で簡単な楽器の奏者なんでしょう?」
と思うのが、ちまたのピアノ絶対至上主義狂信者たちである。
だが、
そのミュージシャンが作曲した曲を、聞いてすぐに再現できる音楽のプロが、はたして何人いるだろうか?
そのミュージシャンのアドリブ演奏を、聞いてすぐに譜面に起こせるピアノの先生が、はたして何人いるだろうか?
そのミュージシャンが楽譜製作ソフトで作成したアレンジと同じ質のものを作れる音楽のプロが、はたして何人いるだろうか?
また、そのミュージシャンが、自分の専門楽器以外に、ピアノはもちろんのことギターもドラムもひととおり演奏できると知ったら、ピアノ絶対至上主義狂信者たちは一体どんな顔をするだろうか?
tokyotoad=おんがくを楽しむピアニスト
もとの記事@アメブロ:
ほとんどの人はトランスクライビング(耳コピ)ができる | おんがくの細道
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このブログ「おんがくの彼岸(ひがん)」は、私 tokyotoad が、中学卒業時に家の経済的な事情で諦めた「自分の思いのままに自由自在に音楽を表現する」という夢の追求を、35年ぶりに再開して、独学で試行錯誤をつづけて、なんとかそのスタート地点に立つまでの過程で考えたことや感じたことを記録したものです。
「おんがくの彼岸(ひがん)」というタイトルは、「人間が叡智を結集して追求したその果てに有る、どのジャンルにも属さないと同時に、あらゆるジャンルでもある、最も進化した究極の音楽が鳴っている場所」、という意味でつけました。 そして、最も進化した究極の音楽が鳴っているその場所には、無音静寂の中に自然界の音(ホワイトノイズ)だけが鳴っているのではないか?と感じます(ジョン・ケイジはそれを表現しようとしたのではなかろうか?)。 西洋クラシック音楽を含めた民族音楽から20世紀の音楽やノイズなどの実験音楽まで、地上のあらゆるジャンルの音楽を一度にすべて鳴らしたら、すべての音の波長が互いにオフセットされるのではないか? 人間が鳴らした音がすべてキャンセルされて無音静寂になったところに、波の音や風の音や虫や鳥や動物の鳴き声が混ざり合いキャンセルされた、花鳥風月のホワイトノイズだけが響いている。 そのとき、前頭葉の理論や方法論で塗り固められた音楽から解き放たれた人間は、自分の身の中のひとつひとつの細胞の原子の振動が起こす生命の波長に、静かに耳を傾けて、自分の存在の原点であり、自分にとって最も大切な音楽である、命の響きを、全身全霊で感じる。 そして、その衝動を感じるままに声をあげ、手を叩き、地面を踏み鳴らし、全身を楽器にして踊る。 そばに落ちていた木の棒を拾い上げて傍らの岩を叩き、ここに、新たな音楽の彼岸(無音静寂)への人間の旅が始まる。
tokyotoadのtoadはガマガエル(ヒキガエル)のことです。昔から東京の都心や郊外に住んでいる、動作がのろくてぎこちない、不器用で地味な動物ですが、ひとたび大きく成長すると、冷やかしにかみついたネコが目を回すほどの、変な毒というかガマの油を皮膚に持っているみたいです。
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↑ 不本意にもこんな野暮なことを書かなければならないのは、過去にちまたのピアノの先生方に、この記事の内容をパクったブログ記事を挙げられたことが何度かあったからです。 トホホ...。ピアノの先生さんたちよ、ちったぁ「品格」ってぇもんをお持ちなさいよ...。
tokyotoad