以下は、20211015にアメブロに書いた記事:
トランスクライビング(耳コピ)に関する記事を今まで書いてきたが、
トランスクライビング(耳コピ)の際に陥りがちな「罠(わな)」がある!と思ったので、ここに記したい。
トランスクライビング(耳コピ)の際に陥りがちな「罠」とは、
楽譜を作成することが目的化してしまう
である。
そもそも、
トランスクライビング(耳コピ)するのは、
耳コピしたい曲なりフレーズなりを、自分で演奏したいから、耳コピするのである。
それなのに、
夢中で譜面起こしをしていると、
「あれ?これは♯で表記するのかな?それとも♭で表記するのかな?今このキーに変わったから、えーっと...」
とか、
「えーっと、この表示記号のスペルはこれでよかったんだっけ?」
とか、
「このコード記号って、別の書き方もできるなぁ、どっちがいいんだろう?」
といった、
記譜法に関することでアタマの中が占領されてしまっていることはあるまいか?
さらに最悪なのは、
「このキーシグナチャー(調号)で本当に合っているのかな...?」
という、耳コピの最中に
曲の根幹を揺るがす問題の恐怖にさいなまれることである。
「耳コピしているのに調号がわからないなんて!(笑)」
そうなのだ。 自分でも大笑いなのだが、
残念ながら私は、
Bメイジャーのキーと、C♭メイジャーのキーの違いを、
耳で聞くだけで判別する能力が無いので、
私にとってはぜんぜん笑えない問題なのである。
というのは、とある曲のコードを、転調先のキーから当たりをつけてBメイジャーキーと思って書き留めたのだが、
後日、その曲の作曲者の人のトークから、その曲のキーがC♭メイジャーであることを知り 、
自分の目の前のアルファベットと数字の羅列をもう一回最初から書き直すかどうか、悲しく迷ったことがあったのである。
これは、
ドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」が録音データしか存在しなかったとして、
それを耳コピする場合、F#メイジャー or G♭メイジャー の
どっちのキーを使って耳コピしたら良いんだろうか?
と迷うのと同じシチュエーションである(が、この曲の場合は途中で転調する先のキーで想像がつく、いやいや、それは甘い考えかもしれないのか...?)。
こういうことがあると、いろいろなことが気になりだして、頭の中がグルグルグルグルしはじめる。
これが、罠である!
そもそも、
弾いてみたいと思った曲の楽譜が一般に売られていなかったり、売られていても信用できる内容かどうかわからないから、
耳コピなんていうシチメンドクサイことをやっているわけで、
できることなら、
聴いただけでコード進行を完璧に記憶できて、しかもオカズや合いの手も含めてかなりの精度で再現演奏できれば、それに越したことはないのである。
だいたいにして、
音楽は、目で見るものではない。
音楽は、耳で聞くものである。
だから、
プロの業界の仕事用の楽譜ならばいざ知らず、
自分で個人的に楽しむためだったら、
紙の上にどんな方法で記録しようが、
自分がそれを見ながら演奏したときに、自分が思った通りに聞こえればよいだけの話である。
ところが、
子どもの頃から染み付いた楽譜信仰のおかげで、
「楽譜は五線紙上に正しく書かなければっ!」
という超シリアスな使命感という笑える呪いにかかって、
耳コピがはかどらないばかりか、
譜面を書いたら変に満足して、弾く気力すらもう失せてしまった...
という
真っ白な灰に燃え尽きた「あしたのジョー」の最後のページみたいな心持ちになってしまう自分を発見して、
ばかばかしい!
耳コピなんで、五線紙じゃなくても、
紙の切れ端にメモッたアルファベットや数字のメモでぜんぜんOK、というか
そのほうが、下手に時間と精神パワーを譜面作成作業に吸い取られるよりも、
本来の弾く方に時間と精神パワーを使えるので、ぜんぜんよいのではないか!
と思うことがある。
tokyotoad = おんがくを楽しむピアニスト
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このブログ「おんがくの彼岸(ひがん)」は、私 tokyotoad が、中学卒業時に家の経済的な事情で諦めた「自分の思いのままに自由自在に音楽を表現する」という夢の追求を、35年ぶりに再開して、独学で試行錯誤をつづけて、なんとかそのスタート地点に立つまでの過程で考えたことや感じたことを記録したものです。
「おんがくの彼岸(ひがん)」というタイトルは、「人間が叡智を結集して追求したその果てに有る、どのジャンルにも属さないと同時に、あらゆるジャンルでもある、最も進化した究極の音楽が鳴っている場所」、という意味でつけました。 そして、最も進化した究極の音楽が鳴っているその場所には、無音静寂の中に自然界の音(ホワイトノイズ)だけが鳴っているのではないか?と感じます(ジョン・ケイジはそれを表現しようとしたのではなかろうか?)。 西洋クラシック音楽を含めた民族音楽から20世紀の音楽やノイズなどの実験音楽まで、地上のあらゆるジャンルの音楽を一度にすべて鳴らしたら、すべての音の波長が互いにオフセットされるのではないか? 人間が鳴らした音がすべてキャンセルされて無音静寂になったところに、波の音や風の音や虫や鳥や動物の鳴き声が混ざり合いキャンセルされた、花鳥風月のホワイトノイズだけが響いている。 そのとき、前頭葉の理論や方法論で塗り固められた音楽から解き放たれた人間は、自分の身の中のひとつひとつの細胞の原子の振動が起こす生命の波長に、静かに耳を傾けて、自分の存在の原点であり、自分にとって最も大切な音楽である、命の響きを、全身全霊で感じる。 そして、その衝動を感じるままに声をあげ、手を叩き、地面を踏み鳴らし、全身を楽器にして踊る。 そばに落ちていた木の棒を拾い上げて傍らの岩を叩き、ここに、新たな音楽の彼岸(無音静寂)への人間の旅が始まる。
tokyotoadのtoadはガマガエル(ヒキガエル)のことです。昔から東京の都心や郊外に住んでいる、動作がのろくてぎこちない、不器用で地味な動物ですが、ひとたび大きく成長すると、冷やかしにかみついたネコが目を回すほどの、変な毒というかガマの油を皮膚に持っているみたいです。
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↑ 不本意にもこんな野暮なことを書かなければならないのは、過去にちまたのピアノの先生方に、この記事の内容をパクったブログ記事を挙げられたことが何度かあったからです。 トホホ...。ピアノの先生さんたちよ、ちったぁ「品格」ってぇもんをお持ちなさいよ...。
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