おんがくの彼岸(ひがん)

「出すぎた杭」大人ピアノならではの自由と醍醐味(だいごみ)を楽しむtokyotoadのブログ

思ったような結果が出ている

 

以下は、20211020にアメブロに書いた記事:

 

7月の終わりごろからThe Real Book をリアルにはじめて、9月末までに200曲を弾いた。 

こういうペースでできるのは、過去3年間につまらないことをポツポツと続けてきたからだ、と思う。 また、

こういうことができるのは、ジャズならではだろう。

今の自分のボキャブラリーのレベルでどんどん弾けるからだ。

英検4級や日本語検定7級のレベルでどんどん話すのと同じことだ。

あとは、一生かけてボキャブラリーを増やしていけばよいのだ。

 

クラシックピアノでは、こういうやり方は不可能だ。 

過去の大先生方のボキャブラリーの偉大な記録を完璧になぞることが目的だからだ。

手の大きさや運動能力や年齢といった身体的な特徴が大きく異なるという理由で

譜面の音楽の規模を小さくして自分に合わせて弾いたところで、

「マル」をもらうことはできない。

理由は、楽譜に書いてあるとおりに弾いていないからだ。 そればかりか、

「大作曲家の先生の当時最先端の音楽ボキャブラリーを駆使した名曲を、

一般ピープルのお前が勝手に変えて弾くなんて、何と不謹慎な!」

と糾弾されてしまう。

ないしは、

「あー、簡単にした初級者向けの(本物ではない)楽譜ね」

と、上から目線で見られるのがオチだ。

 

 

私は思う。

「マル」の意味は、あるのだろうか? たとえば、

バッハインベンションの1番を練習して誰かから「マル」をもらって、

「で、いったいそれが何なんですか?」

ということはないだろうか?

もっと極端な場合は、

12度のコードを弾けた大作曲家が軽々と弾いていた曲を、

モミジのような手と小枝のような身体でミスなく弾こうとして、

猿飛佐助もビックリの曲芸雑技のアクロバティックな動きで頑張ったり、

普段の生活でも小さな手の指の股をグイグイ広げたりと、

悲愴すぎる有り様になってはいないだろうか?

 

 

子どもの頃にピアノを12年習って、感じるのは、

12年も習った割には、やった曲が少ないということだ。

少ないし、幅が狭い。

昭和のバブル前のことだから、今からみれば化石のようなレッスンで習ったわけだが、

今も化石みたいなことになっていたら?

と、何年か前のピアノ会で若い人たちが弾くのを見ながら、うっすらと感じていた。

 

だから、今回ピアノを再開した時には、

子どもの頃のやり方とは異なるやり方で試行錯誤していこう

と思って、再開してから5年間続けてきた。

 

参考にしたのは、英語のマスター方法だ。

幸いにも、私には成功体験があった。

中高6年間も習って、高2から親に頭を下げて家庭教師をつけてもらって、予備校にも通わせてもらって、英語の試験では高得点をあげていたのに、TOEICが800点台の半ばぐらいでは、

英語を辞書がないとちっとも読めない・聞けない・話せない。

 

ほんとうは、わかっていたんだ。

何をどうすれば英語がマスターできるかを。

でも、それを思うと、とほうもなく面倒くさいから、

見て見ぬふりをしていたのだ。

ところが、就職して仕事で英語が必要になり、英語を勉強しはじめて、

もう絶望的な気持ちになった。

「語学を勉強する」うちは、ぜったいにマスターできない。

「勉強する」マインドセットの次元では、ぜんぜん足りないのだ。

 

これは、

ピアノでもギターでも日本舞踊でも合気道でも、仕事でも、すべて同じことだ。

そう思ったので、 英語で経験した

あのシチメンドクサイ、途方もなくゲンナリするようなプロセスを、

ピアノでもやる必要があるんだな、

ということは、わかっていたのだが、

なかなか本腰を入れて始められなかったのだ。

「子どもの頃ピアノを習っていた」「子どもの頃に、ある程度の検定級をとった」

という記号論的なプライドという、「手かせ足かせ脳かせ」で、自らを縛っていたのだ。

そもそも、

「ピアノを」「ピアノを」「ピアノを」

と考えるマインドセット自体が、

私にとっては有害極まりないものであった。

 

音楽語を

と思うことに、正面切って向き合い始めたことが、突破口となった。

「ジャズは難しい」「ジャズは茨(いばら)の道だ」

と、親戚がよく言っていたので、気後れしていたが、

人生一度きりだ!やらずに死んだら後悔する!

と、思い切ってジャズの軸で再開して、本当に命拾いしたと思う。

即興演奏が主体のジャズは、音楽語が話せないとできない、

その人の真の音楽の実力があからまにわかるジャンルだからだ。

 

子どもの頃から、人が作った曲を楽譜の指示どおりに弾くことに意味を見いだせず、

自由にアドリブ(即興演奏)することだけが真の音楽表現であり、

演奏する人の真の実力は即興演奏の実力だ、とずっと思っている。

もちろん、即興演奏をするためには、音楽文法と、自分の音楽表現の肥やしにするネタの仕入れが必要だ。

そのためには、絶対的な量が必要だ。

先生に「マル」をもらうような、クラシックのお稽古事のペースでは、寿命が来てしまう。

 

音楽業界で引っ張りだこの一流ミュージシャンたちの、

圧倒的な即興演奏力・作曲力・編曲力は、

子どもの頃から誰に言われることもなく、

四六時中音楽に夢中になっていたことに尽きる。

「教わる」「習う」「勉強する」ようなレベルでは到底なかったから、

あれほどまでに流暢で縦横無尽の圧巻のアドリブ演奏ができるのだ、とつくづく思う。

誤解を恐れずに言えば、

彼らは、子どもの頃から正真正銘の「音楽バカ」で、

ずーっと「音楽バカ」でいつづけたからこそ、

今、一流の「音楽バカ」であり続けている。

音楽だけではない。 世の中は、

先端技術の研究でも、企業経営でも、

その道の「バカ」だけが成功するように出来ている。

「○○バカ」とは、「○○の鬼」のことだ。

もはや人間レベルの取り組みではない、超越した次元の存在のことだ。

 

 

人は、自分がどうやって母国語を話せるようになったかを、忘れがちだ。

母国語を話せるようになるために、赤ん坊の頃に親から文法の構文を教わっただろうか? ドリルの練習をさせられただろうか? 

 

幸いにも私は、英語を通して方法を知ったので、

今はそれを音楽に当てはめて行っているだけである。

音楽語ができれば、ケンバン楽器の囚人に甘んじる必要もなくなる。

それから、日本人である限りは、西洋音楽語だけは片手落ちだから、

西洋音楽語の道筋をある程度つけたところで、

いよいよ日本の伝統音楽を始めたい。

日本人なので、日本の伝統音楽をちゃんと知らないうちは死ぬことはできない。

 

 

tokyotoad = おんがくを楽しむピアニスト

 

 

 

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このブログ「おんがくの彼岸(ひがん)」は、私 tokyotoad が、中学卒業時に家の経済的な事情で諦めた「自分の思いのままに自由自在に音楽を表現する」という夢の追求を、35年ぶりに再開して、独学で試行錯誤をつづけて、なんとかそのスタート地点に立つまでの過程で考えたことや感じたことを記録したものです。

「おんがくの彼岸(ひがん)」というタイトルは、「人間が叡智を結集して追求したその果てに有る、どのジャンルにも属さないと同時に、あらゆるジャンルでもある、最も進化した究極の音楽が鳴っている場所」、という意味でつけました。 そして、最も進化した究極の音楽が鳴っているその場所には、無音静寂の中に自然界の音(ホワイトノイズ)だけが鳴っているのではないか?と感じます(ジョン・ケイジはそれを表現しようとしたのではなかろうか?)。 西洋クラシック音楽を含めた民族音楽から20世紀の音楽やノイズなどの実験音楽まで、地上のあらゆるジャンルの音楽を一度にすべて鳴らしたら、すべての音の波長が互いにオフセットされるのではないか? 人間が鳴らした音がすべてキャンセルされて無音静寂になったところに、波の音や風の音や虫や鳥や動物の鳴き声が混ざり合いキャンセルされた、花鳥風月のホワイトノイズだけが響いている。 そのとき、前頭葉の理論や方法論で塗り固められた音楽から解き放たれた人間は、自分の身の中のひとつひとつの細胞の原子の振動が起こす生命の波長に、静かに耳を傾けて、自分の存在の原点であり、自分にとって最も大切な音楽である、命の響きを、全身全霊で感じる。 そして、その衝動を感じるままに声をあげ、手を叩き、地面を踏み鳴らし、全身を楽器にして踊る。 そばに落ちていた木の棒を拾い上げて傍らの岩を叩き、ここに、新たな音楽の彼岸(無音静寂)への人間の旅が始まる。

tokyotoadのtoadはガマガエル(ヒキガエル)のことです。昔から東京の都心や郊外に住んでいる、動作がのろくてぎこちない、不器用で地味な動物ですが、ひとたび大きく成長すると、冷やかしにかみついたネコが目を回すほどの、変な毒というかガマの油を皮膚に持っているみたいです。

 

★ピアノの先生/ブロガー/ユーチューバー/出版社/放送局などの方へ: このブログに記載されている内容を、レッスンや出版などの営利目的/非営利目的(レッスン等で使用・販売する教材、レッスンで教える内容、宣伝等のためのブログ記事での使用等を含む、営利目的につながる可能性のある使用)や非営利目的その他の目的のために、このブログの作者(原作者)であるtokyotoadへの事前の承諾なく無断で使用(複製・コピー・利用・転用・流用・編集・加工・出版・頒布・送信・アップロード・放送・発表等)することは、原作者の権利や人格を保護する著作権法に対する違反行為です。くれぐれもご注意ください。

↑ 不本意にもこんな野暮なことを書かなければならないのは、過去にちまたのピアノの先生方に、この記事の内容をパクったブログ記事を挙げられたことが何度かあったからです。 トホホ...。ピアノの先生さんたちよ、ちったぁ「品格」ってぇもんをお持ちなさいよ...。

 

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「おんがくの彼岸(ひがん)」というタイトルは、「人間が叡智を結集して追求したその果てに有る、どのジャンルにも属さないと同時に、あらゆるジャンルでもある、最も進化した究極の音楽が鳴っている場所」、という意味でつけました。 そして、最も進化した究極の音楽が鳴っているその場所には、無音静寂の中に自然界の音(ホワイトノイズ)だけが鳴っているのではないか?と感じます(ジョン・ケイジはそれを表現しようとしたのではなかろうか?)。 西洋クラシック音楽を含めた民族音楽から20世紀の音楽やノイズなどの実験音楽まで、地上のあらゆるジャンルの音楽を一度にすべて鳴らしたら、すべての音の波長が互いにオフセットされるのではないか? 人間が鳴らした音がすべてキャンセルされて無音静寂になったところに、波の音や風の音や虫や鳥や動物の鳴き声が混ざり合いキャンセルされた、花鳥風月のホワイトノイズだけが響いている。 そのとき、前頭葉の理論や方法論で塗り固められた音楽から解き放たれた人間は、自分の身の中のひとつひとつの細胞の原子の振動が起こす生命の波長に、静かに耳を傾けて、自分の存在の原点であり、自分にとって最も大切な音楽である、命の響きを、全身全霊で感じる。 そして、その衝動を感じるままに声をあげ、手を叩き、地面を踏み鳴らし、全身を楽器にして踊る。 そばに落ちていた木の棒を拾い上げて傍らの岩を叩き、ここに、新たな音楽の彼岸(無音静寂)への人間の旅が始まる。

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