音楽の彼岸のピアノ遊び

大人のピアノ道楽を満喫するピアノ一人遊びの日々

クラシック音楽とキリスト教

以下は、20211127にアメブロに書いた記事:

 

先日の記事:

クラシックピアノvsジャズピアノは、日本語vs外国語と同じ

 

の続きになるかどうかはわからないが、

 

私が知っている、

ユダヤ教キリスト教の、ザックリとした違いは:

 

ユダヤ教: 旧約聖書だけを信じている

キリスト教カトリック: 旧約聖書新約聖書両方を信じている

キリスト教プロテスタント: 新約聖書だけを信じている

 

である。

 

キリスト教ロシア正教のことは、良く知らない(が、カトリックっぽいだろう)。

アフリカのキリスト教のことも、良く知らない(カトリックっぽいだろう)。

キリスト教英国国教会のことも、良く知らないが、おそらくは、「離婚ができる」カトリックと漠然と想像している。ヘンリー8世か誰かが、愛人と結婚したいがために本妻と離婚したくて、離婚を認めないカトリックから離脱したんだと思う。いつの時代もイギリスはブレグジット好きだね。

 

さっきの:

ユダヤ教: 旧約聖書だけを信じている

キリスト教カトリック: 旧約聖書新約聖書両方を信じている

キリスト教プロテスタント: 新約聖書だけを信じている

についてだが、

 

ざっくり言うと、

 

ユダヤ教徒は、旧約聖書で約束された救世主(メシア、メサイア)がまだこの世に現れていないので、今も、まだ見ぬ救世主がこの世に降臨するのを待っている。

 

キリスト教徒は、イエス・キリストこそが、その救世主である!と信じている。

 

同じキリスト教でも、

カトリックプロテスタントでは、大違いである。

 

そして、

一般で言うところのクラシック音楽とは、

どちらかといえば、

プロテスタント寄りなのではないか?と想像する。

というのは、

J.S.バッハのコラール集が、西洋音楽のハーモニーの基盤とされているからである。

J.S.バッハは、ルター派を支持していた。

だから、プロテスタント寄りなのではないか?と私は想像するのである。

 (上記は、英米やドイツでの話であり、フランスやイタリアなどのカトリック圏ではバッハがハーモニーの基盤とされているかどうか、私は知らない。)

 

カトリックプロテスタントの違いについて、

山田五郎氏がYouTubeチャンネルで、

洞察に溢れた考察を述べている。⇒この動画だ。

その動画の中で、山田氏は、

プロテスタントにおける「自由」について、

非常に深遠なコメントをしている。

以下は、

「自由は、厳しい。」という氏の言葉に基づいた、私の考察である:

 

 プロテスタント教育機関で教育を受けた人たちは、

 「自分たち一人一人がキリストである」(←山田氏談)

 というマインドセットを叩きこまれている違いない。

 「自分たち一人一人が、キリストである」

 キリストは、唯一神であり、また聖霊である(三位一体)であるから、

 すなわち、

 「自分たち一人一人が、神である」

 という唯我独尊的「自主独立」マインドセットを叩きこまれている、ということになる。 

 「自主独立」と、「自分勝手」は、違う。

 自分を厳しく律し、社会に対して責任を果たしてこその、自主・独立・自由である。

 世間に厄介をかけるような身分ではないばかりか、 逆に

 世の中の有形無形のバリューを上げるために世間に積極的に貢献する姿勢が、

 「自律」して「自立」していることであり、それこそが

 「自由」を得るための大前提であることを、叩き込まれている筈である。

 ここで重要なポイントは、

 「自由」とは、プロテスタント教徒目線の「自由」である

 ということである。

 彼ら目線で考える 「自由」を得るために、

 彼らを理解しない者たちによって、

 キリストと同じように茨(いばら)の冠(かんむり)を頭にねじ込まれ、

 十字架を背負わされ、

 ゴルゴダの丘で周囲の者たちから石つぶてを投げられながらも、

 自分目線での「正しい」生き方を貫く覚悟が出来ているに違いない。

 彼らにとっての「自由な人生」とは、

 周囲の批判を受け止めず、ものともしない茨の道のことである。

 「プロテスタント」という言葉自体が、

 ローマのバチカンが総本山のカトリックという

 歴史と伝統ある機構体制に反抗する

 というマインドセットを表している。

 だから、

 メシア(メサイア)降臨を2000年以上も待ち望んでいる民族の

 歴史と伝統の結晶である旧約聖書をガン無視し、

 新約聖書だけを認めて追求するのであろう。

 歴史や伝統を否定し、それに反抗し、

 どんな批判にさらされようとも自主独立で我が道を行く。 

 自分はキリストなのだから!

 キリストと同じように、自分を厳しく律して、

 たった独りで、この茨の道を歩いて行くのだ。 

 だから、

 「キリスト(=神)と同化した自分」の行動が

 他の宗派から、他の宗教から、他の文化から

 何と言われようとも、後ろ指を刺されようとも、

 石つぶてを投げられようとも、

 そんなことは気にもすらしないのだ。

 なぜなら、

 この世には

 自分とキリスト(=神)以外に

 理解すべき、敬うべき、尊重すべき存在は、

 存在しないからである!

  そして、

 キリスト(=神)化した自分と信条を同じくする者たち同士は、

 貴賤無く、平等なのである!

 だから、

 歴史と伝統ある機構体制が作った身分の違いなんて、

 クソ喰らえ!なのである!

 

 

日本におけるキリスト教(カトリックプロテスタントなど)の立ち位置を考察すると、

いろいろなものが見えてくるかもしれない、と思う。

 

日本社会の最上層部に生まれ育つご令嬢方が通う、東京の著名なお嬢様学校(女子大有り3校 + 女子大無し2校(姉妹校同士))がすべてカトリック校であることも、興味深い。

 

 

tokyotoad = おんがくを楽しむピアニスト

 

もとの記事@アメブロ

クラシック音楽とキリスト教 | おんがくの細道

 

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このブログ「おんがくの彼岸(ひがん)」は、私 tokyotoad が、中学卒業時に家の経済的な事情で諦めた「自分の思いのままに自由自在に音楽を表現する」という夢の追求を、35年ぶりに再開して、独学で試行錯誤をつづけて、なんとかそのスタート地点に立つまでの過程で考えたことや感じたことを記録したものです。

「おんがくの彼岸(ひがん)」というタイトルは、「人間が叡智を結集して追求したその果てに有る、どのジャンルにも属さないと同時に、あらゆるジャンルでもある、最も進化した究極の音楽が鳴っている場所」、という意味でつけました。 そして、最も進化した究極の音楽が鳴っているその場所には、無音静寂の中に自然界の音(ホワイトノイズ)だけが鳴っているのではないか?と感じます(ジョン・ケイジはそれを表現しようとしたのではなかろうか?)。 西洋クラシック音楽を含めた民族音楽から20世紀の音楽やノイズなどの実験音楽まで、地上のあらゆるジャンルの音楽を一度にすべて鳴らしたら、すべての音の波長が互いにオフセットされるのではないか? 人間が鳴らした音がすべてキャンセルされて無音静寂になったところに、波の音や風の音や虫や鳥や動物の鳴き声が混ざり合いキャンセルされた、花鳥風月のホワイトノイズだけが響いている。 そのとき、前頭葉の理論や方法論で塗り固められた音楽から解き放たれた人間は、自分の身の中のひとつひとつの細胞の原子の振動が起こす生命の波長に、静かに耳を傾けて、自分の存在の原点であり、自分にとって最も大切な音楽である、命の響きを、全身全霊で感じる。 そして、その衝動を感じるままに声をあげ、手を叩き、地面を踏み鳴らし、全身を楽器にして踊る。 そばに落ちていた木の棒を拾い上げて傍らの岩を叩き、ここに、新たな音楽の彼岸(無音静寂)への人間の旅が始まる。

tokyotoadのtoadはガマガエル(ヒキガエル)のことです。昔から東京の都心や郊外に住んでいる、動作がのろくてぎこちない、不器用で地味な動物ですが、ひとたび大きく成長すると、冷やかしにかみついたネコが目を回すほどの、変な毒というかガマの油を皮膚に持っているみたいです。

 

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↑ 不本意にもこんな野暮なことを書かなければならないのは、過去にちまたのピアノの先生方に、この記事の内容をパクったブログ記事を挙げられたことが何度かあったからです。 トホホ...。ピアノの先生さんたちよ、ちったぁ「品格」ってぇもんをお持ちなさいよ...。

 

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