以下は、20211209にアメブロに書いた記事:
いままでこのような記事を書いてきた:
私がピアノを再開してから独学している理由は、
いわゆる巷(ちまた)のピアノ教師によるレッスンに、
払ったお金に見合うだけの価値(value for money) を感じることができないからである。
私は「打ち出の小槌(こづち)」を持っていないので、
自らが「打ち出の小槌」になり自らを振ってお金を稼いでレッスン代を捻出する必要が有る。
自らを振るためには、時間コストや精神的なコストといった、
人生のコストを燃料にする必要が有る。
そのような、私にとっては人生のコストを燃やして稼いだお金を、質の良くないサービスやコンテンツにやすやすと捨てることが、育ちの悪い私にはどうしてもできないのだ。
芸の道は、喜捨の道である。
悲しいかな、物心ついた時からお金が無いことで嫌な思いをしてきた私は、
自分を打ち出の小槌のように振り続けて自ら稼いだ僅かなお金に対する執着心が強い。
そして、
そのようにして得たお金を何かに投資する際には、
当然リターンを得ようとする。
だから、
仕事のスキルアップ⇒収入の増加につながる実学にお金を投じて、
都度そのリターンを得てきた。
私にとっては自分で働いて貯めた貯金を切り崩す、
清水の舞台から飛び降りる出費だったが、
その分仕事の質が上がって、投資をすぐに回収できて、しかも収入がアップした。
このように、
「お金を増やすために、お金を使う」
ことしかしてこなかった。
しかし、
芸道では、
投資しただけのリターンが期待できない
と思ってしまうわけである。 たとえば、
ピアノのレッスンに月25,000円払って、
その出費を私が回収できるか?といえば、
まったく出来ない。
この種の出費は、投資ではなく、
道楽である。
私がこのようにしか考えられないのは、
育ちの悪さゆえの悲しい性(さが)だ。
また、
そういう考えの下賎な身なので、
ピアノを再開してから一瞬習った一流のプロピアニスト先生が主催する発表会で、
そのピアニスト先生のお弟子さんであるプロ駆け出しの若いピアニストの坊やがステージに立ったとき、
その若いピアニストが札束に見えてしまうのであった。
つまり、
「この若いピアニスト坊やを育てるのに、一体いくらお金がかかったのだろうか?」
と、
頭の中で瞬時に値踏みをしてしまうのである。
「小さい頃から、この一流のプロピアニストさんに習っていたということは、レッスン代だけで月10万以上、プラス、発表会の参加費用(最低6万円~/回)や、ピアニストさんのコンサートへのチケット代やCDの購買や中元歳暮などを加味すると、年いくらぐらいはかかる。 それが軽く10年以上継続したから...。 加えて、他の先生にも習っていた場合は? そして、私立の音大は学費だけでも1,000万はかかる。 グランドピアノの購入費用と維持費や自宅練習室の建築費用もある。 そして、この坊やが「プロ」として自活できる日が来るまで扶養するコストを加えると?......」
と、頭の中で考えているうちに、
その若いピアニスト坊やが札束の山にしか見えなくなってしまうのである。
さらに、
その若いピアニスト坊やのお母さんが、
ピアノの発表会の実質的な事務方を一手にやっていて、
(息子が今まで(そしてこれからもずっと)世話になっているのだから当然そういう役目を負うことになるだろう)
しかも、
私と歳がいくつも変わらないんだろうが、
顔は皺だらけで、
鳥ガラのようにガリガリに痩せた身体に、やけに若作りの洋服を着て、
明るい茶色に染めている頭髪の根元が既に真っ白で...。
という様(さま)を見るにつけて、
「このお母さん(とお父さん)が投資した金銭と人生のコストを、
この若いピアニスト坊やは何年かけて回収できるのだろうか?」
と、
老婆心ながら思ってしまうのだ。
私のような、
こういう浅ましい考えしか浮かばない、育ちの悪い人間は、
はなっから習い事という趣味道楽には向かないのだと思う。
もっとも、
ピアノを再開する前に、ちょっとだけ、絵画と習字を習ったことがある。
嬉しかったな~。
「お金にもならないことを
こうしてお金を払って習うことができる自分」という
満足を買えた
と思った。
そのうちに、すぐに満足してしまったのと、
お金がもったいなくなったから、やめてしまった。
だって、仮に、絵画教室や習字教室に通い続けたからといって、
私がお金が稼げる画家や書道家になれそうにないし、
なるつもりもないからである。
ピアノを再開してから、ピアノや作曲を短期間習った時も、
その金銭コストと時間コストと、
自分が人生の時間を削って必死に働いて得たお金を
単に先生に運ぶためだけに
自分が働いているような気分になってきたので、すべてやめてしまった。
前述のピアニスト先生と、作曲の先生は、
さすがにプロの音楽業界で店を張っているだけのことはあって、
一流の人たちだった。
だが、ここで、
私の個人的な時間コストの問題が出てきた。
自分の脇に「打ち出の小槌」があれば、練習する時間が確保できるのだが、
自分が「打ち出の小槌」そのものの場合は、
打ち出の小槌となって自分を振って働いてお金を得るために費やした
労働時間の分だけ、ピアノの練習時間が減ってしまうので、
満足に練習もできないままレッスンに通っているうちに、
自分が人生の時間を削って必死に働いて得たお金を
先生に運ぶためだけに
自分が働いているような気分になったわけである。
しかも、
自分は、金銭的な理由で、音楽の道に進めなかったにもかかわらず、である。
自分のほうは、人生を削って、自分の夢や適性とは全然違う仕事を、お金のためだけに何十年も必死でやってきたのに、
自分は夢をあきらめたにもかかわらず、
いまだに人生を削って働きながら、
芸の道に進む夢を叶えたアカの他人にセッセとお金を運んでいる
ということについて、
自分自身、理解に苦しむようになったからである。
そんな浅ましいことを考えることもなく
優雅にピアノのお稽古にお金を喜捨できる人たちが、
心の底から羨ましい。
「ピアノは独学では無理ですよ! ピアノ教師にレッスンを受けなければ、ちゃんと弾くことができませんよ!」
と言う向きには、
「そのレッスンとやらにお金を払って、
万が一でもその「ちゃんと」とやらに弾けるようになったとしても、
私がピアノ演奏でお金を稼ぐことがなければ、
経済的には、
私の懐(ふところ)のカネがあんたの懐に移動するだけで、
私のカネが無くなっていくだけだろ?」
と答える。
人生の限り有る時間とカネを喜捨する
趣味道楽のたぐいは、
自分の心が満足できれば
それが全てなのである。
tokyotoad = おんがくを楽しむピアニスト
もとの記事@アメブロ:
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このブログ「おんがくの彼岸(ひがん)」は、私 tokyotoad が、中学卒業時に家の経済的な事情で諦めた「自分の思いのままに自由自在に音楽を表現する」という夢の追求を、35年ぶりに再開して、独学で試行錯誤をつづけて、なんとかそのスタート地点に立つまでの過程で考えたことや感じたことを記録したものです。
「おんがくの彼岸(ひがん)」というタイトルは、「人間が叡智を結集して追求したその果てに有る、どのジャンルにも属さないと同時に、あらゆるジャンルでもある、最も進化した究極の音楽が鳴っている場所」、という意味でつけました。 そして、最も進化した究極の音楽が鳴っているその場所には、無音静寂の中に自然界の音(ホワイトノイズ)だけが鳴っているのではないか?と感じます(ジョン・ケイジはそれを表現しようとしたのではなかろうか?)。 西洋クラシック音楽を含めた民族音楽から20世紀の音楽やノイズなどの実験音楽まで、地上のあらゆるジャンルの音楽を一度にすべて鳴らしたら、すべての音の波長が互いにオフセットされるのではないか? 人間が鳴らした音がすべてキャンセルされて無音静寂になったところに、波の音や風の音や虫や鳥や動物の鳴き声が混ざり合いキャンセルされた、花鳥風月のホワイトノイズだけが響いている。 そのとき、前頭葉の理論や方法論で塗り固められた音楽から解き放たれた人間は、自分の身の中のひとつひとつの細胞の原子の振動が起こす生命の波長に、静かに耳を傾けて、自分の存在の原点であり、自分にとって最も大切な音楽である、命の響きを、全身全霊で感じる。 そして、その衝動を感じるままに声をあげ、手を叩き、地面を踏み鳴らし、全身を楽器にして踊る。 そばに落ちていた木の棒を拾い上げて傍らの岩を叩き、ここに、新たな音楽の彼岸(無音静寂)への人間の旅が始まる。
tokyotoadのtoadはガマガエル(ヒキガエル)のことです。昔から東京の都心や郊外に住んでいる、動作がのろくてぎこちない、不器用で地味な動物ですが、ひとたび大きく成長すると、冷やかしにかみついたネコが目を回すほどの、変な毒というかガマの油を皮膚に持っているみたいです。
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↑ 不本意にもこんな野暮なことを書かなければならないのは、過去にちまたのピアノの先生方に、この記事の内容をパクったブログ記事を挙げられたことが何度かあったからです。 トホホ...。ピアノの先生さんたちよ、ちったぁ「品格」ってぇもんをお持ちなさいよ...。
tokyotoad