おんがくの彼岸(ひがん)

「出すぎた杭」大人ピアノならではの自由と醍醐味(だいごみ)を楽しむtokyotoadのブログ

手が大きかったら弾いてみたいクラシックピアノ曲

以下は、20210109にアメブロに書いた記事:

 

私は片手で10度に届かないが、

もし手が大きくて、または指が長くて、

片手で10度以上に届くなら

弾いてみたいクラシックの曲がある。

 

グリーグ作曲の「ホルベアの時代から」の

ピアノバージョンの第2楽章「サラバンド」だ。

 

いかにも日本人が好きそうなこの曲「サラバンド」を

ピアノ会で弾く人にほとんどお目にかからなかったのは、

この曲のクライマックスの最も重要なキメ部分に

どデカいオープンポジションコードが登場するからだろう。

 

このどデカいコードを弾くためには、

左手で、ないしは右手で10度に届く必要がある。

「両手の親指で取り合って」

というゴマかしが効かない離れ具合で音が配置された、

Cメイジャーの巨大トライアドだ。

この曲の前半にも、同様の配置のGメイジャーの巨大トライアドが出てきて前半部分のポイントになっているが、

なんといっても、

曲の最終局面の最重要キメポイントに登場するCメイジャー巨大トライアドが、

雪に埋もれ遠い春を待ちわびる北欧の白銀の世界に一瞬燃え上がる生命の炎のような感動を決定づけるのだ。 

「バラして弾けばよいでしょ?」

では、とても格好がつかないのだ。

バラし弾きしたら、

この曲が最も盛り上がる最後の最後でブチ壊しになってしまうのである。

 

曲の中盤部分から否応なく盛り上がって終盤のクライマックスで感動しまくっているところに、

よりによって曲の最終局面の最重要キメポイントでコードをバラし弾きしたら、

興ざめガッカリ感がこの上ないし、

「あ~、届かないのね」

と聴く人に思われてしまって、

トホホ感が半端ないのだ。

山あり谷ありドラマ有りのフルマラソンの完走間近の、感動のゴールのテープの目の前でスッ転んでしまうのと同じレベルのトホホ感になってしまうのである。

 

 

  そもそも、だいいち、

  この曲を作曲した本人である

  大作曲家グリーグの書いた楽譜には、

  「バラし弾き」を指示する垂直の波波記号は書かれていない。

  つまり、

  「バラし弾きするな! 全ての音を同時に弾け!」というのが、

   この曲を作った大作曲家グリーグ大先生からの指示である。

 

 

加えて、

何年も前に楽譜を見ながら鍵盤を押さえてみた記憶なので定かではないが、

曲の最後の、この最終キメ巨大コードに向かうくだりを弾くためにも、

手が大きいと楽だろうな、と思った気がする。

 

だから、この曲を弾く人がほとんどいないのだろう。

正確には、

この曲を弾ける手を持っている人がほとんどいないのだ。

 

だから、この曲は

ピアノのお稽古で使われないのだろう。

この曲を弾ける手を持っている先生がほとんどいないからだ。

自分が弾けない、弾いたことが無いから、生徒に教えることができないのだろう。

生徒のほうが10度以上に届く手を持っていたとしても、

先生のほうが生徒の前で模範演奏をすることが不可能だからだ。

 

北国の郷愁と切ない温かみに満ちた、

日本人なら大好きに違いないこの曲を、

私は物理的に弾くことは不可能だが、

片手で10度以上が届く人は、

それだけで弾く資格が有るので、

とてもうらやましい。

10度以上が届く人は、

楽譜を買って、家で弾いてみるとよいかもしれない。

世界には、この曲を弾ける手を持った演奏家がたくさんいて、

演奏動画がいくつもある。

私は、以前、グリーグと同じノルウェー人の女性ピアニストが演奏する動画を視たことがある。

もちろん、キメ部分のコードをバラし弾きしない演奏だ。

正真正銘の演奏家の動画を能動的に観察することが、最も効果的な学びの方法だ。

また、ジャズ愛好家にとっては、特に驚くようなコード進行も出てこない曲なので、楽曲分析して楽しめるだろう。

 

 

 西洋音楽史上に燦然と輝く

 大作曲家たちの偉大な名曲を

 楽譜の記載どおりに

 忠実に再現するクラシックピアノでは、

 届く、と、届かない、との間には、

 絶望的な隔たりがある。

 

 

グリーグの「ホルベアの時代より」のピアノバージョンの

第3楽章は、10度が届かなくても弾けたような気がする。

この曲も素朴で美しい曲だが、

第2楽章の「サラバンド」の、胸が切なくなるような空気感には、かなわない。

静謐でしみじみとした感動を決定づけているのが、

曲の最終局面の最重要キメポイントで鐘のように鳴る巨大コードなのだ。

 

クラシック畑出身の、あの日本人ピアニストさんは弾けるだろう、と想像する。

あの身長で、あの指の長さだから、弾けるだろう。

しかも、ただ演奏するだけではない、

メインを引き立てる伴奏(当然即興演奏込み)良し、アレンジ良しの、

音楽業界で引っ張りだこの音楽監督さんだ。

つまり、正真正銘のプロの音楽家である。

楽曲分析も含めて演奏してもらいたいものだ。

 

↑上記の曲について、過去に旧ブログで書いていた:

  右下矢印右下矢印右下矢印

 

 

 

tokyotoad = おんがくを楽しむピアニスト
 

 

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このブログ「おんがくの彼岸(ひがん)」は、私 tokyotoad が、中学卒業時に家の経済的な事情で諦めた「自分の思いのままに自由自在に音楽を表現する」という夢の追求を、35年ぶりに再開して、独学で試行錯誤をつづけて、なんとかそのスタート地点に立つまでの過程で考えたことや感じたことを記録したものです。

「おんがくの彼岸(ひがん)」というタイトルは、「人間が叡智を結集して追求したその果てに有る、どのジャンルにも属さないと同時に、あらゆるジャンルでもある、最も進化した究極の音楽が鳴っている場所」、という意味でつけました。 そして、最も進化した究極の音楽が鳴っているその場所には、無音静寂の中に自然界の音(ホワイトノイズ)だけが鳴っているのではないか?と感じます(ジョン・ケイジはそれを表現しようとしたのではなかろうか?)。 西洋クラシック音楽を含めた民族音楽から20世紀の音楽やノイズなどの実験音楽まで、地上のあらゆるジャンルの音楽を一度にすべて鳴らしたら、すべての音の波長が互いにオフセットされるのではないか? 人間が鳴らした音がすべてキャンセルされて無音静寂になったところに、波の音や風の音や虫や鳥や動物の鳴き声が混ざり合いキャンセルされた、花鳥風月のホワイトノイズだけが響いている。 そのとき、前頭葉の理論や方法論で塗り固められた音楽から解き放たれた人間は、自分の身の中のひとつひとつの細胞の原子の振動が起こす生命の波長に、静かに耳を傾けて、自分の存在の原点であり、自分にとって最も大切な音楽である、命の響きを、全身全霊で感じる。 そして、その衝動を感じるままに声をあげ、手を叩き、地面を踏み鳴らし、全身を楽器にして踊る。 そばに落ちていた木の棒を拾い上げて傍らの岩を叩き、ここに、新たな音楽の彼岸(無音静寂)への人間の旅が始まる。

tokyotoadのtoadはガマガエル(ヒキガエル)のことです。昔から東京の都心や郊外に住んでいる、動作がのろくてぎこちない、不器用で地味な動物ですが、ひとたび大きく成長すると、冷やかしにかみついたネコが目を回すほどの、変な毒というかガマの油を皮膚に持っているみたいです。

 

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↑ 不本意にもこんな野暮なことを書かなければならないのは、過去にちまたのピアノの先生方に、この記事の内容をパクったブログ記事を挙げられたことが何度かあったからです。 トホホ...。ピアノの先生さんたちよ、ちったぁ「品格」ってぇもんをお持ちなさいよ...。

 

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