以下は、20220127にアメブロに書いた記事:
以前書いた記事:
で、以下のように書いた:
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素人のジャズピアノ愛好家の演奏が、
クラシックピアノ愛好家に比べて「下手」に聞こえる理由が、
このあたりに有る。
【研究+探求】アクティビティのほうが、【暗記+練習】アクティビティよりも、
演奏中にはるかに脳に負荷がかかっているからだ。
ジャズの即興演奏では、
将棋や囲碁のように沢山の「手」を考えながら演奏している。
この「手」が瞬時に頭に浮かばなかったり、
複数の「手」のなかで迷ってしまうと、
脳が躊躇して、
その戸惑いが演奏に出てしまうので、
「下手」に聞こえてしまうんだと思う。
このような即興演奏をスラスラしているのが、プロの人たちだ。
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「いや、それを差し引いても、
ジャズピアノ愛好家のピアノ演奏は、
クラシックピアノ愛好家の演奏に比べて、
ピアノの演奏技術が劣るのが常ではないか?
いや、ぶっちゃけ言って、
プロの世界だってそうではないか?
プロのジャズピアニストと、プロのクラシックピアニストを比べれば
演奏技術においては、断然
クラシックピアニストが勝ち!ではないか!」
という向きもあろう。
このような意見に決定的に欠けている視点は:
ジャズピアニストと
クラシックピアニストは、
音楽に関して
全然違うところを見ていて、
音楽に関して
全然違う目的地を目指している
ということだ。
クラシックピアニストが見ているところは、
目の前の楽譜台に立てかけた、西洋クラシック音楽の大作曲家が作った
名曲の楽譜の完璧な再現行為である。
従って、どんな大作曲家が作ったどんな難曲でも弾きこなせるように
ピアノの演奏技術を人間を超越したマシンレベルにまで向上させて維持することが、
彼らの目指す目的地であるので、
打鍵の音の響きや質感やペダリングや、
高速パッセージの正確な演奏といった
ピアノの演奏技術の向上に、
練習の大半が費やされるのだ。 また、
楽曲分析や作品の解釈は、
「偉大なる大作曲家○○先生が、この作品を通して何を伝えたかったか?」
を勉強し、それを演奏を通して伝えるという目的がメインになる。
これに対して、
ジャズピアニストが見ているところは、
彼ら本人が、自ら作曲家や編曲家になって
脳内で瞬時に作曲/編曲してリアルタイムで演奏すること、
つまり、
リアルタイム音楽創作表現活動である。
従って、とにもかくにも、一にも二にも、
西洋音楽理論(文法)にのっとったジャズ語の習得が
彼らの目指す目的地であり、
彼らはそのように訓練を行う。 従って、
バンドのメンバー間で即興で音楽の掛け合い漫才ができるレベルの
非常に高度な音楽語プロフィシェンシーを獲得して研ぎ澄ますための訓練が
大半を占めることになり、
「楽譜の忠実な再現演奏」のための演奏技術の向上は、
どうしてもバックバーナーに、つまり、
台所のガスコンロ台の奥のいちばん小さい
「弱火でトロトロ煮込み用」のコンロに押しやられてしまうのだ。 そして、
ガスコンロの手前の強火用のコンロでは、
「ジャズ語のプロフィシェンシーの構築」という
メインディッシュのサーロインステーキが占領するのである。
もっとも、
ジャズにおいては、そもそも、
「誰かが作った曲の楽譜を忠実に再現演奏する行為」は、
石ころほどの価値も無い。
また、
楽曲分析や作品の解釈においては、
偉大なるジャズの巨匠○○が使った特徴的なコード進行や、
特徴的なボキャブラリーやイディオムを研究して、
自分の音楽の自己表現の肥やしにする
という点に主眼が置かれる。
もうひとつ、
クラシック音楽とジャズその他の20世紀以降の音楽の
決定的な違いは、
クラシック音楽には、
作品を作曲した大作曲家による実演音源が残っていないことである。
これに対して、ジャズでは、
その作品を作曲ないしは編曲した
偉大なジャズミュージシャンたちによる実演音源が残っていて、
それらが普通に市販されていて一般ピープルが気軽に聴けるので、
現代のジャズピアニストがそれらを一寸たがわずに弾いたところで、
いや、万が一にも、一寸たがわずに弾けたとしても、
そんなレプリカの演奏には何の価値も無いのである。
↑ 「万が一にも、一寸たがわずに弾けたとしても」と書いたのは、
歴代のジャズの巨匠たちの実演を、
その音源から楽譜上に完璧に記録することは、
不可能だからである。
不可能なんだよ。
だから、
市販されているジャズの巨匠たちの実演のトランスクリプション譜は、
採譜者のことが気の毒になってしまうほど、
複雑怪奇な譜面になってしまうのだ。
生演奏のグルーヴ感や音の強弱や音質やペダリングや速度の変化を、
紙の上に寸分たがわずに完璧に記録するためには、
今の記譜法は、粗すぎるのだ。
tokyotoad=おんがくを楽しむピアニスト
もとの記事@アメブロ:
なぜジャズピアノはクラシックピアノより「下手」に聞こえるか? | おんがくの細道
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このブログ「おんがくの彼岸(ひがん)」は、私 tokyotoad が、中学卒業時に家の経済的な事情で諦めた「自分の思いのままに自由自在に音楽を表現する」という夢の追求を、35年ぶりに再開して、独学で試行錯誤をつづけて、なんとかそのスタート地点に立つまでの過程で考えたことや感じたことを記録したものです。
「おんがくの彼岸(ひがん)」というタイトルは、「人間が叡智を結集して追求したその果てに有る、どのジャンルにも属さないと同時に、あらゆるジャンルでもある、最も進化した究極の音楽が鳴っている場所」、という意味でつけました。 そして、最も進化した究極の音楽が鳴っているその場所には、無音静寂の中に自然界の音(ホワイトノイズ)だけが鳴っているのではないか?と感じます(ジョン・ケイジはそれを表現しようとしたのではなかろうか?)。 西洋クラシック音楽を含めた民族音楽から20世紀の音楽やノイズなどの実験音楽まで、地上のあらゆるジャンルの音楽を一度にすべて鳴らしたら、すべての音の波長が互いにオフセットされるのではないか? 人間が鳴らした音がすべてキャンセルされて無音静寂になったところに、波の音や風の音や虫や鳥や動物の鳴き声が混ざり合いキャンセルされた、花鳥風月のホワイトノイズだけが響いている。 そのとき、前頭葉の理論や方法論で塗り固められた音楽から解き放たれた人間は、自分の身の中のひとつひとつの細胞の原子の振動が起こす生命の波長に、静かに耳を傾けて、自分の存在の原点であり、自分にとって最も大切な音楽である、命の響きを、全身全霊で感じる。 そして、その衝動を感じるままに声をあげ、手を叩き、地面を踏み鳴らし、全身を楽器にして踊る。 そばに落ちていた木の棒を拾い上げて傍らの岩を叩き、ここに、新たな音楽の彼岸(無音静寂)への人間の旅が始まる。
tokyotoadのtoadはガマガエル(ヒキガエル)のことです。昔から東京の都心や郊外に住んでいる、動作がのろくてぎこちない、不器用で地味な動物ですが、ひとたび大きく成長すると、冷やかしにかみついたネコが目を回すほどの、変な毒というかガマの油を皮膚に持っているみたいです。
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↑ 不本意にもこんな野暮なことを書かなければならないのは、過去にちまたのピアノの先生方に、この記事の内容をパクったブログ記事を挙げられたことが何度かあったからです。 トホホ...。ピアノの先生さんたちよ、ちったぁ「品格」ってぇもんをお持ちなさいよ...。
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