以下は、20220203にアメブロに書いた記事:
糸井重里氏とオリラジ中田氏の対談動画は、
糸井氏の年の功というか、
糸井氏が格の違いを見せつけた感じだね。
(中田さんは人生の大後輩だから当然だが、
一般的に、
若い人のほうが年配者よりも優れていることは、事実だ。
それが、人類の進化というものだ。)
動画の中で、
私の心の琴線に触れた糸井氏の言葉は:
===以下、文末リンク先の動画からの引用===
本気ですから。
売るか、売らないか、ですから。
「お前が教えてくれるようなことっていうのは
俺は知ってるよ」ていうような人に対して
広告はこうやりましょう、っていう話をしに行っている。
[広告]代理店がやっていることが、
クライアント[広告主]に追い越されている現状
プロ中のプロの、トップ10の人たちと話していると、
レベルが違うんですよ
トップの人が「君になら話す」って言ってくれない話は
つまんないんですよ。
折り紙の鬼 と ラーメン屋
アーティスト と ポピュラーソング
アート と 大衆文化
人の多さ
足の多さ
「お足」の多さ
カネが集まるところかどうか。
(↑ このあたりは私の解釈が入っている)
生きている間のゴッホの人生は、あんまり送りたくない
(ゴッホだって)
生きている間にポピュラーになりたかったんだと思う
わかってほしかった
バッハだって
クライアントがいたから
演奏会ができたわけで。
誰も聴いてくれないバッハの音楽なんて有り得ないでしょ?
アート と ポピュラー の間のバランスと両立
失敗の可能性
不要なこと、
を、やらない。
打算は、創造性の妨げになる
守らなければならない規則は、自然と守られるようになる。
少年漫画の野球部では
女子マネージャーがガミガミいってるでしょ?
そんなに怒鳴るんだったら洗濯やめればいいんだよね。
集まって仕事をしているのは、稼ぐため。
ルールを守って稼げるんだったらルールを守るよ
「こっちが良いんだ」っていう自信は、僕には無い。
勝たないチームは腐る。
目的を失う
倫理が狂う
負けてても納得できるか
負け続けると確実に腐る
苦しかったら、やめてますよね。
「素」であること
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この動画を視て思った、私の意見は:
趣味は、自分の人生と、向き合うこと。
趣味から学べるかどうかは、自分次第。
そして:
生徒(客)が先生(業者)を
追い越してゆく時代になった
ということ。
以前からそう感じていたが、
この動画をみて、それを確信した。
インターネットや動画は、
かつて一部の者たちが特権的に独占していた専門知識を、
私のような庶民に、安価に開放してくれた。
これは、庶民にとっての
情報の自由開放である。
情報の自由開放によって、
いままで既得権益を有しているという、
ただそれだけの理由で、
特段努力も自己研鑽もロクにせずに
利益をエンジョイしていた無能な仲介業者たちは、
「あんたたち、要らないでしょ!」
ということが、暴かれてしまった!
努力もしないで、誰かのコンテンツからの受け売りを
さも自分の手柄のように吹聴して生徒をインティミデイトする(脅す)
無能な先生様たちにとって、
「終わりの始まり」の黙示的な鐘が、
世の中全体に鳴り響いている。
すでに、
情報の自由を獲得した生徒(客)たちが、
無能な先生(業者)を
追い越し追い抜いていく時代なのである。
tokyotoad
もとの記事@アメブロ:
生徒(客)が先生(業者)を追い越してゆく時代 | おんがくの細道
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このブログ「おんがくの彼岸(ひがん)」は、私 tokyotoad が、中学卒業時に家の経済的な事情で諦めた「自分の思いのままに自由自在に音楽を表現する」という夢の追求を、35年ぶりに再開して、独学で試行錯誤をつづけて、なんとかそのスタート地点に立つまでの過程で考えたことや感じたことを記録したものです。
「おんがくの彼岸(ひがん)」というタイトルは、「人間が叡智を結集して追求したその果てに有る、どのジャンルにも属さないと同時に、あらゆるジャンルでもある、最も進化した究極の音楽が鳴っている場所」、という意味でつけました。 そして、最も進化した究極の音楽が鳴っているその場所には、無音静寂の中に自然界の音(ホワイトノイズ)だけが鳴っているのではないか?と感じます(ジョン・ケイジはそれを表現しようとしたのではなかろうか?)。 西洋クラシック音楽を含めた民族音楽から20世紀の音楽やノイズなどの実験音楽まで、地上のあらゆるジャンルの音楽を一度にすべて鳴らしたら、すべての音の波長が互いにオフセットされるのではないか? 人間が鳴らした音がすべてキャンセルされて無音静寂になったところに、波の音や風の音や虫や鳥や動物の鳴き声が混ざり合いキャンセルされた、花鳥風月のホワイトノイズだけが響いている。 そのとき、前頭葉の理論や方法論で塗り固められた音楽から解き放たれた人間は、自分の身の中のひとつひとつの細胞の原子の振動が起こす生命の波長に、静かに耳を傾けて、自分の存在の原点であり、自分にとって最も大切な音楽である、命の響きを、全身全霊で感じる。 そして、その衝動を感じるままに声をあげ、手を叩き、地面を踏み鳴らし、全身を楽器にして踊る。 そばに落ちていた木の棒を拾い上げて傍らの岩を叩き、ここに、新たな音楽の彼岸(無音静寂)への人間の旅が始まる。
tokyotoadのtoadはガマガエル(ヒキガエル)のことです。昔から東京の都心や郊外に住んでいる、動作がのろくてぎこちない、不器用で地味な動物ですが、ひとたび大きく成長すると、冷やかしにかみついたネコが目を回すほどの、変な毒というかガマの油を皮膚に持っているみたいです。
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↑ 不本意にもこんな野暮なことを書かなければならないのは、過去にちまたのピアノの先生方に、この記事の内容をパクったブログ記事を挙げられたことが何度かあったからです。 トホホ...。ピアノの先生さんたちよ、ちったぁ「品格」ってぇもんをお持ちなさいよ...。