おんがくの彼岸(ひがん)

「出すぎた杭」の大人ピアノならではの自由と醍醐味(だいごみ)を楽しむtokyotoadのブログ

優れた先生は、優しい先生。

 

以下は、20220207にアメブロに書いた記事:

 

優れた先生は、優しい先生。

 

以上終了である。

 

理由は2つある。

優れた先生が、優しい先生なのは:

 

① 自分の能力に自信があるから

 自信は、余裕を生み、

 余裕は、優しさを生む。

 逆に、

  自分の能力に自信が無い人は、

 威厳や威嚇を表面にまとうことによって

 自分の実力以上に自分を大きく見せようとする心理が働く

 というのが、人間の悲しい性である。

 自信が無いと、余裕が無い。

 余裕が無いと、常時、緊張の連続。

 心がこわばり、身体がこわばり、

 虚勢を張って、声を張り上げ、

 おお怖い!

 独裁者の多くは、自信喪失の弱虫だ。

 

② 大人の社会での振る舞い方を知っているから

 独裁者が大人の社会で力を持てる唯一の方法は、

 権力を握って他者を恫喝するパワハラ行為だけである。

 このような独裁体制のもとでは、

 人間の自由な発想の交換が抑圧されて、

 人間の活動が停滞するので、

 社会が腐る、文化が腐る。

 だが、成熟した大人の社会は、そうではない。

 大人の社会は、仕事の社会だ。

 各々の専門スキルに加えて、

 対人コミュニケーションのスキルが死活的に必要だ。

 そして、

 大人の仕事の社会では、

 自分のスキル以上に自分を大きく見せようと虚勢を張る者は、

 すぐに見破られ、干され、切られる。

 無能な者を雇うことによる経済的な損失を、誰もが嫌うからだ。

 

この大人の社会の外に存在するのが、

子ども相手の教育の世界だ。

子どもは、大人の庇護無しでは生きていけない、弱い存在だ。

ところが、

子どもが弱い存在であるのをいいことに、

「教育」「情操教育」という言葉を

錦の御旗のように振りかざして、

子どもたちに様々な「体育座り」を強いている者たちがいまいか?

将来に花も実もある子どもたちを、

まるでサルの群れのように

地べたに一様に座らせて、

先生様たちを見上げさせる。

子どもたちがそれに逆らうことができない立場にあることを、

解っていて、そうさせるのは、

子どもたちの尊厳を踏みつけていることになりはしまいか?

「いいえ、子どもたちに教育を施しているのです!」

本当か?

「調教」しているのではないか?

その、教育者たちは、

どれほど偉い人たちなのか?

大人相手の社会で相手にしてもらえるような

つまり、大人の社会で大人相手に稼げるような

専門的なスキルと経験を持っているのか?

 

持っていないのにもかかわらず、

大人の社会で稼げているとすれば、

それはスキルではなく、

その人に備わった何らかの娯楽的コンテンツ属性が

お金を生んでいるのだ。

 

ひどい場合は、

前回の記事で書いた

糸井重里氏の言葉のように:

 「少年漫画の野球部では

 女子マネージャーがガミガミいってるでしょ?

 そんなに怒鳴るんだったら洗濯やめればいいんだよね。」

のような、

ストレスでイライラしている女子マネージャーのように、

「教育」という隠れみのをかぶって、

自分が今までの人生で受けたストレスを

子どもたち相手に吐き出すような「先生」と呼ばれる存在はいまいか?

  もっとも、

  ガミガミ言ってばかりの女子マネージャーは、

  人間社会の体制の犠牲者だ。

  犠牲者が、次の世代に、新たな犠牲者を生む。

  これが、衆生の世。 修羅場である。

  ガミガミ言ってばかりの女子マネージャーたちに

  教育・育成された子どもたちは、

  大人になると、

  ガミガミ言ってばかりの女子マネージャーたちに成る。

  代々受け継がれる、負の連鎖。

  負け組の連鎖。

  【ストレス、焦燥感、挫折感、敗北感⇒怒り⇒

   新たなストレスを生み...】 のサイクルが

  堂々めぐりする状態。

  昔の人は、それを、「地獄」と呼んだ。

 

子どもをやるのも、楽じゃないよ。

子どもたちよ、大人になるまで、

自分の魂を、生き生き伸び伸びと柔らかく保って、

生きのびられたら、いいね。

そして、大人になったら、

自分の脳で、人や物を判断できるようになれたら、いいね。

そして、

生きている間に、天国に住めるようになれたら、いいね。

天国は、この世に在る。

天国は、心の中に在る。

天国が心の中に在ると、

自分にも、人にも、優しくなる。

心の中が天国になったら、いいね。

ほとんどの人間が、それができずに、修羅の一生を過ごす。

けれど、

そう信じて、自分の魂を大事にして、

上を向いて試行錯誤していけば、

生きているうちに少しの間でも、心の天国は実現できる。

 

 

さいしょに戻って:

優れた先生は、優しい先生。 だが、

これは、「先生」という肩書に限ったことではない。

どんな分野でも、職業でも、

優れた人は、優しい人。

エラそうに威張った権威主義的な雰囲気から最も遠い人が

優れた人だ。

 

 

tokyotoad=おんがくを楽しむピアニスト

 

もとの記事@アメブロ

優れた先生は、優しい先生。 | おんがくの細道

 

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このブログ「おんがくの彼岸(ひがん)」は、私 tokyotoad が、中学卒業時に家の経済的な事情で諦めた「自分の思いのままに自由自在に音楽を表現する」という夢の追求を、35年ぶりに再開して、独学で試行錯誤をつづけて、なんとかそのスタート地点に立つまでの過程で考えたことや感じたことを記録したものです。

「おんがくの彼岸(ひがん)」というタイトルは、「人間が叡智を結集して追求したその果てに有る、どのジャンルにも属さないと同時に、あらゆるジャンルでもある、最も進化した究極の音楽が鳴っている場所」、という意味でつけました。 そして、最も進化した究極の音楽が鳴っているその場所には、無音静寂の中に自然界の音(ホワイトノイズ)だけが鳴っているのではないか?と感じます(ジョン・ケイジはそれを表現しようとしたのではなかろうか?)。 西洋クラシック音楽を含めた民族音楽から20世紀の音楽やノイズなどの実験音楽まで、地上のあらゆるジャンルの音楽を一度にすべて鳴らしたら、すべての音の波長が互いにオフセットされるのではないか? 人間が鳴らした音がすべてキャンセルされて無音静寂になったところに、波の音や風の音や虫や鳥や動物の鳴き声が混ざり合いキャンセルされた、花鳥風月のホワイトノイズだけが響いている。 そのとき、前頭葉の理論や方法論で塗り固められた音楽から解き放たれた人間は、自分の身の中のひとつひとつの細胞の原子の振動が起こす生命の波長に、静かに耳を傾けて、自分の存在の原点であり、自分にとって最も大切な音楽である、命の響きを、全身全霊で感じる。 そして、その衝動を感じるままに声をあげ、手を叩き、地面を踏み鳴らし、全身を楽器にして踊る。 そばに落ちていた木の棒を拾い上げて傍らの岩を叩き、ここに、新たな音楽の彼岸(無音静寂)への人間の旅が始まる。

tokyotoadのtoadはガマガエル(ヒキガエル)のことです。昔から東京の都心や郊外に住んでいる、動作がのろくてぎこちない、不器用で地味な動物ですが、ひとたび大きく成長すると、冷やかしにかみついたネコが目を回すほどの、変な毒というかガマの油を皮膚に持っているみたいです。

 

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↑ 不本意にもこんな野暮なことを書かなければならないのは、過去にちまたのピアノの先生方に、この記事の内容をパクったブログ記事を挙げられたことが何度かあったからです。 トホホ...。ピアノの先生さんたちよ、ちったぁ「品格」ってぇもんをお持ちなさいよ...。