ピアノ方丈記

音楽の彼岸にて【指の健康寿命を気遣いながら!】シニアのピアノ一人遊びの日々

東日本大震災と、女性の仕事着について

 

以下は、20220311にアメブロに書いた記事:

 

女性の社会進出!

男女雇用機会均等法!(←1986年~)

総合職の女性!

リケジョを増やせ!

女性を管理職に!

女性を取締役に!(←「お茶汲み取締役」でいいから)

女性の深夜労働を解禁に!

危険作業分野も女性に「開放」せよ!

Mカーブの改善!つまり

ママになっても社会に出て働ける! そのかわりに

パパの給料が少なくなる! 要するに、

いままでパパが一手にもらっていた所得を、

ママとの間で分配するのだ。

企業のコスト削減の中、残業が減らされて、

「残業代」という名の実質的な「家族手当」が見込めなくなったパパは、

今までより稼ぎが減る代わりに、

仕事の拘束時間が減って、その分「自由な」時間が増えるから、

パパも、保育園の送り迎えが「できるようになる」、

その一方で、

ママが働けるようになって、

パパの稼ぎが減った分を稼いで

家計を補てんしないと、

家計がたちゆかなくなる。

 

 

一般庶民の生活は、

いつの時代も、苦しい。

 

 

私が一般企業に就職した1980年代後半から、

女性に対する要求がどんどん増している。

もちろん、それまでの女性は、

頭よりも身体(とくに下半身)を要求されていた。 要するに、

子どもを産み育てる役割と

家事の肉体労働を要求されていたのだ

頭の良さよりも、スキルよりも、

肉体、とくに下半身(繁殖能力)だったのだ。 だから、

家庭と「子どもがらみの世界」の中でしか生きていない

「主婦は、社会常識が無い」と、

企業人たちからは、一人前の人間と思われなかったのだ。

コロナ禍の中、みんなが一様に黙っている

通勤電車内で、

周りの人たちの「周囲を気遣っての沈黙」を全く解せずに

ペチャクチャしゃべっているのは、決まって

シニアの女性2人連れか、女子高生だ。

周囲の通勤客たちは、振り返って眉をひそめるが、

彼女たちは、周囲の冷ややかな視線すら、察することができない。

だからといって、

彼女たちをとがめ注意する者は、いない。

どうしてかって?

彼女たちは、社会から

全うな人間(責任ある社会人)として見られていないから。

おそそうしたりキャンキャン吠えたりするどこかの犬を

だれもとがめて注意しないでしょ。

彼女たちは、社会から

「人間の脳」を持った存在(=人間)とはカウントされていないのだ。

「人間の資格」の無い存在と、社会から思われているから、

子どもやペットと同じように

「大目に見てもらえる」のだ。

でも、何が彼女たちをそうしたんですか?

残念ながら、人を殺傷する戦争がらみのテクノロジーは進化しても、

依然として、

子どもを産む機能を女性から切り離すことができない。

男性よりも生物学的に弱く、

男性に比べて1か月の4分の1はパフォーマンスが落ち

  (↑当然だ!生理が毎月来るんだから!)

男性と同じ時間働いて、男性よりも給料が少ない存在。

それが、女性だ。 

つまり、女性は、人生の経済的付加価値が低いのだ。

それは、

子どもを産むという、男性にはできない、

人類にとって最も重大な役割という付加価値を持っているからだ。

ところが、経済社会では、

子どもを産んで育てるという、

人類の繁栄の礎(いしづえ)である最重要の役割に、

経済的付加価値が認められていない。 

これが、女性にとっての永遠の足かせになっているのだ。

子育てと家事労働の価値は、国内総生産(GDP)に反映されない。

GDPに反映されないということは、経済的に、社会的に、

その役割には価値が無いとみなされていることだ。

それが、

今までの主婦業であり、母親業であり、

それらの予備軍の女子高生たちなのだ。

だから、

朝の通勤電車の中でペチャクチャおしゃべりする

彼女たちの、場違いで常識無い行動も、

顔をしかめる他の通勤客(人間)たちから「大目に見てもらえる」のだ。

経済に価値を貢献する

一人前の人間として見られていないから。

 

えーここまで発作的に書いてきて、

ぜんぜん表題の件にたどり着いていないが、

 

私が3・11の正月(しょうつき)命日に言いたいことは:

 

女性を働かせたければ、

働く女性の仕事着に「女性性」を求めるな!

ということである。

 

2011年3月11日、

私は、オフィス街のビルのなかで、パソコンに向かって仕事をしていた。

その4日ぐらい前にも大きな地震が起きて、

オフィスの中の据え付け型のスライドキャビネット(書類満載)が

左右に揺れるぐらいの揺れがあったが、

3月11日に午後3時前の地震では、私はさすがに机の下にもぐったよ。

地震後、1~2時間内に、

部内の机の上のPCがどんどんフリーズしてダウンしていった。

情報が遮断されてしまった中、

夕方には、帰宅できる人は帰宅ということになり、

歩いて家路についたのだ。

私にとってラッキーだったのは、

  (地下鉄サリン事件の日も

   営団地下鉄で通勤していたこともあって)

いつ何時、何が起こるかわからないと思って

常日頃から、アラヴォンというブランドの、

甲幅が広くて、

ゴム製のガッシリしてしかもクッション性の有る靴底の、

一見するとオフィス靴に見える

とても歩きやすい靴を履いていたことだ。

もうひとつラッキーだったのは、

自宅がオフィスから数キロと、

歩いてもさほど遠くなかったことだ。

それでも、

歩いて帰宅する大勢の人並みに混じって、

クルマで大渋滞する、というか、

1ミリも動かないクルマの間を縫うように、交差点を渡りながら、

「焦らないで、無理しないで、ゆっくり歩こう」

と、ペースを遅めにして歩いた。

無理をすれば、足に負担がかかって、

歩きやすい靴を履いていても、

足が擦り切れて歩きづらくなるリスクを

どうしても避けたかったからだ。

人間、公共交通機関がすべてストップしてしまうと、

自分の二本の足だけが、唯一の頼りだ。

そんな非常時に、女性らしいハイヒールなんて履いていたら、

いったいどうなるか!?

自宅近くまで歩いてきたときに、

私のすぐ前をヨタヨタ歩く

20代~30代ぐらいの若いOLさんがいた。

彼女が履いていた靴は、

5センチほどのヒールのある、

後ろ部分がストラップになっていて、

つま先に向かって靴先が小さくすぼまった、

可憐で華奢な靴だった。

後ろの部分のストラップは、とうに外れて、というか

ストラップで足首の後ろがこすれて痛くなって

自分で外してしまったのだろう、

彼女がヨタヨタ歩くたびに、

その外れたストラップが、ピロン、ピロンと跳ねて揺れるのだ。

靴の後部から大きく後ろにはみ出た踵(かかと)が、

すぼまった靴先の中で足の指が圧迫されてこすれて、

歩くたびに足先が悲鳴をあげるから、

靴を浅履きにしないと歩くこともままならない、

という状態を、表していた。 
こんな靴では、何キロも歩くことは、不可能だ!

彼女は、そのキツキツの小さな靴で、一体全体、

どこまで歩いて行かなければならないのか?

彼女は、無事に家まで歩いて帰ることができるのか?

私は、彼女を、心底気の毒に思った。

 

その時、私は強く思ったのだ:

身体の華奢な、非力でか弱い女性こそ、

常日頃からスニーカーのような歩きやすい靴を履くべきだ!

だって、

自然災害は、いつ、何時襲ってくるかわからないから。

職場の机の下に非常時用のスニーカーを備えていても、

外出先で地震にみまわれたら、一体どうするんだ!?

3.11よりも大きい地震が直下に起きて、

舗道がガラスの破片やがれきまみれになったら、

ハイヒールで歩けるわけがない!

それから、

スカートも、女性の行動を制限して余りある。

大正時代だったか、デパート火災で

多くの女性の店員が焼け死んだ。

理由は、着物&腰巻きだったから、

ビルから飛び降りられなかったのだ。

 (↑気の毒に、時代的に、

   ビルから飛び降りて「丸出し」を見られる恥辱よりも

   焼死を選ぶしかなかったのだ)

現代のスカートも、

女性に同様の「模範的」プレッシャーを与える。

だからこそ、

災害時に女性が機動的に避難するためには、

ズボンやキュロットスカートに、スニーカーといった

機動的な服装を

常日頃からしていることが死活的に重要だ。

なのに、女性は、

働け! 夜中まで働け!

男並みに働け!

とハッパをかけられているにもかかわらず、

仕事着に「女性性」を求められ続けている。

これでは、

男性並みに動けないんだよ。

とくに、災害時に。

女性が災害時に難儀をすることは、

男性にもはね返ってくるんだ。

難儀をしている女性を手助けする男性にも、

負担がかかるんだ。 だから、

女性がズボンやスニーカーを着用していて

動きやすい服装をしていれば、 災害が起きても、

女性は自力で機敏に動いて避難することができるから、

男性が女性を手助けする必要が減る。

従って、

男性も機動的に避難できて、助かる確率が高くなるのだ。

働く女性が機動的な服装をしていれば、

働く男性にもメリットが大きいのだ。

 

私が、

働く女性にとって理想的な装いだ!と思っていたのは、

ドイツのメルケル前首相の服装だ。

彼女は、

いつもズボンを履いていて、

ヒップがかくれる長い丈のジャケットを着て、

つまり、「女性性」の最大の特徴である

お尻(生殖器)をジャケットで覆い隠して、

ヒールの低いズックのような靴を履いて、

ショートヘアで、まさに

働く女性にとって理想的な装いをしていた。

働く女性の理想的な装いとは、

世俗の社会の中で男並みに働く、

「実質的な尼さん」の装いなのである。

「女性性」を極限まで覆い隠した装いなのだ。

尼さん(ワーキングウーマン)に、「女性性」は無用だ。

それで良いのだ。

メルケルさんは、一国の首相としての仕事のシーンでは

「女性性」のカケラも無い「実質的な尼さんルック」が

最も機動的かつパワフルに効果的だ。

フリフリのドレスなんか着て首脳会議に出ようものなら、

他国の元首たちは、彼女を

「まともな人間」として扱ってくれないからだ。

そのかわり、

旦那さんと過ごす休日には

フリルのついた派手な服でも何でも好きなものを着て

一向に構わないんだ。

 

同様に、

一般企業の仕事に、

「女性性」のセックスアピールは、無用だ。

それよりも、

自然災害大国日本である。

働く女性たちが、通勤中や労働時間中に

いつ何時大地震に見舞われても、

自分たちの力で素早く動いて避難できるような

機動的な働く服装が、一般化しなければ、

女性はいつまでたっても

仕事と「女性性」の間で、わが身を引き裂かれ続けなければならない。

大災害が無い時でも、「女性性」を気にかけながら働くことは、

女性に頭脳的&肉体的な負担を課していることであり、

その重荷をとってあげれば、 すなわち、

「女性性を」気にする必要のない、

労働のために機動的な服装をさせてあげれば、

女性はその分、もっとアタマとスタミナを仕事に割り振ることができて、

女性の労働生産性が上がる。 ひいては、

日本の労働生産性が上がり、

日本経済にメリットをもたらすのだ

 

女性が仕事で

華美なドレスや肌を露出した装いをする業界は、

エンタメ興行や、接客を伴う夜の飲食業といった、

芸能界や水商売の世界だ。

華美な仕事着が求められるのは、

「女性性」のセックスアピールが必要な、

「夢を売る商売」だからだ。

華美な仕事着とは、

その仕事着を着て公共交通に乗って職場に行くことが到底できないような

一般社会の仕事着からかけ離れた

芸人(道化)のステージ(舞台)衣装のことである。

華美な仕事着の業界で稼ぐ女性たちのことは、

カタギの社会でずっとやってきた私には、わからない。

カタギの世界に背を向けて

文字どおりケツをまくって

芸道に精進している

 (↑芸道だけに精進していればいいと思ったら大間違いだけどね)

芸術芸道に身を投じた女性たちは、

その覚悟と矜持を持ってそのように生きているに違いない。

 

 

tokyotoad

 

 

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このブログ「おんがくの彼岸(ひがん)」は、私 tokyotoad が、中学卒業時に家の経済的な事情で諦めた「自分の思いのままに自由自在に音楽を表現する」という夢の追求を、35年ぶりに再開して、独学で試行錯誤をつづけて、なんとかそのスタート地点に立つまでの過程で考えたことや感じたことを記録したものです。

「おんがくの彼岸(ひがん)」というタイトルは、「人間が叡智を結集して追求したその果てに有る、どのジャンルにも属さないと同時に、あらゆるジャンルでもある、最も進化した究極の音楽が鳴っている場所」、という意味でつけました。 そして、最も進化した究極の音楽が鳴っているその場所には、無音静寂の中に自然界の音(ホワイトノイズ)だけが鳴っているのではないか?と感じます(ジョン・ケイジはそれを表現しようとしたのではなかろうか?)。 西洋クラシック音楽を含めた民族音楽から20世紀の音楽やノイズなどの実験音楽まで、地上のあらゆるジャンルの音楽を一度にすべて鳴らしたら、すべての音の波長が互いにオフセットされるのではないか? 人間が鳴らした音がすべてキャンセルされて無音静寂になったところに、波の音や風の音や虫や鳥や動物の鳴き声が混ざり合いキャンセルされた、花鳥風月のホワイトノイズだけが響いている。 そのとき、前頭葉の理論や方法論で塗り固められた音楽から解き放たれた人間は、自分の身の中のひとつひとつの細胞の原子の振動が起こす生命の波長に、静かに耳を傾けて、自分の存在の原点であり、自分にとって最も大切な音楽である、命の響きを、全身全霊で感じる。 そして、その衝動を感じるままに声をあげ、手を叩き、地面を踏み鳴らし、全身を楽器にして踊る。 そばに落ちていた木の棒を拾い上げて傍らの岩を叩き、ここに、新たな音楽の彼岸(無音静寂)への人間の旅が始まる。

tokyotoadのtoadはガマガエル(ヒキガエル)のことです。昔から東京の都心や郊外に住んでいる、動作がのろくてぎこちない、不器用で地味な動物ですが、ひとたび大きく成長すると、冷やかしにかみついたネコが目を回すほどの、変な毒というかガマの油を皮膚に持っているみたいです。

 

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↑ 不本意にもこんな野暮なことを書かなければならないのは、過去にちまたのピアノの先生方に、この記事の内容をパクったブログ記事を挙げられたことが何度かあったからです。 トホホ...。ピアノの先生さんたちよ、ちったぁ「品格」ってぇもんをお持ちなさいよ...。