ピアノ方丈記

音楽の彼岸にて【指の健康寿命を気遣いながら!】シニアのピアノ一人遊びの日々

アコースティックピアノを買うことは調律サービスも一緒に買うことだ

 

前回の記事

大人の「ピアノ買い」で絶対に外せない最重要項目 - おんがくの彼岸(ひがん)

が長くなりすぎたので、後半部分をこちらの記事に分けました:

 

============

 

アコースティックピアノを買う際に軽んじがちになるのは、

ピアノ購入後のメンテナンスサービス、つまり、

調律師さんの存在だ。

実のところ、

アコースティックピアノを買う」ことは「調律師さんも一緒に買う」ことに他ならない。  

ピアノだけを買って調律師さんが要らない場合は、2つの例外を除いて、不可能だ。 その例外とは:

 例外①:電子ピアノを買う。

 例外②:自分で調律できる。

だ! 

とはいっても、

 例外①:電子ピアノも壊れることがあるから、その時は修理に来てもらう必要が有る。 ←私は実際に、電子ピアノの不具合で、メーカーから修理に来てもらったことがある。

 例外②:自分で調律できればどんなにいいだろう!は、誰でも一度は考えることかもしれないね。でも、仮に自分のピアノを自分で調律できるスキルがあったら、調律師になってるんじゃないかな。 それに、調律師になるには、向き不向きがあるんじゃないかな~?って感じる。 単に耳が良いだけじゃなくて、細かい作業を長い間黙々と続けられる集中力が必要だし、重いパーツを動かすこともあるから筋力も必要だろう。 もちろん、ピアノの複雑なメカニズムを理解しなければいけない。 聴覚能力が衰えてくる中高年がゼロから調律を習得するのは大変だろうしね。 おそらく、クルマの整備作業までとはいかないまでも、同じような性質の仕事なのかな? もちろん、乗る人や歩行者の命がかかる自動車の整備作業と、単純には比較できないとは思うけど。

 

だから、

究極的には、

アコースティックピアノを買うこと = ピアノ本体調律サービスを買うこと

といっても過言ではない。

アコースティックピアノのパフォーマンスの鍵は調律師さんが握っているからだ。

前述したように、

どんなに高価で素晴らしいピアノを手に入れても、

どんなに音響バッチリの完全防音+温湿管理の広々とした部屋に、それを置いても、

調律師さんの腕がヘボければ、ピアノもヘボくしか鳴らないし、ましてや、

買って一度も調律しなければ、数年たてば「ヘンテコな音の出るデカイ置物」になってしまうからだ。 だから、

私がピアノを新規に購入する際に最もこだわったのが、

なるべく安定した品質の調律サービスを継続して受けられること

だった。 ピアノ本体については、誰もが、メーカーや大きさや新品/中古にこだわるし、私も予算の範囲内で私なりにこだわったが、ピアノに付帯する調律サービスの品質や利便性も考えて、ピアノ販売業者を選んだ。

 ( ↑ 私の場合は、ピアノに付帯する調律サービスの安定度合いも考慮して、ピアノメーカー(ブランド)も選ぶ必要があったが、ピアノを何台も所有できるような人は、そんなことを考える必要はないだろう。 ピアノを一台しか持てない人は、そのピアノが故障したらピアノを弾けなくなってしまうから、メンテナンスサービスにこだわる必要があろうが、ピアノを複数台持っている人は、もっと心に余裕を持てると思われるからだ。 クルマに例えれば、大きな家の前に、ジャガーメルセデスCクラス、トヨタのヤリス(ヴィッツだったっけ?)の3台を並べて置いているような人は、よく機嫌が悪くなるジャガーが動かないときはCクラスに乗ればよいし、近所の買い物には小回りの利くヤリスで出かける、という芸当ができる。 本質的に手がかかるジャガーの、心もとない規模のメンテナンスサービスに対して、「いつ来てもらえるのか」とヤキモキする必要がないわけだ。 Cクラスは、大きな故障をすることはまずないだろうし、そこそこの規模のメンテナンスサービス部隊を擁しているだろう。 小さな不具合すら無縁のヤリスにはトヨタの巨大な販売網に見合った規模のサービス部隊がついているから、安心この上ない。 最悪なのは、資金に余裕の無い人が「頑張ってどうにかこうにかジャガー1台だけ買いました!」っていうケースだ。 そういう人は、「またこわれた!」「いつ修理に来てくれるのか?」「部品いったいいつ来るの?(本国から取り寄せ)」「部品代高いーーーっ!(輸入車の部品は割高)」「修理代がかさむよぅ...」とおっかなびっくりハラハラドキドキするよりも、故障しにくいCクラスを買ったほうが心労が減るだろうし、日本国内に住んでいればレクサスにすれば更に安心だろうし、あるいは「クルマは足代わり」と割り切って、というか実際クルマの本質的な機能はそうなんだから、カローラを1台買って、余ったお金を貯金するなり他のことに使う方が賢明だと思う人は、そうするだろう。 ←かつての「すぐ故障する」ジャガーの評判がインドのタタに買われてからどう変わったのか、私は知らない) 

 

 

楽器はチューニングが命だ。

どんなにミスタッチなく演奏しても、パッセージを美しく弾いても、

調律が狂った楽器からは、雑音しか鳴らない。

演奏前や演奏の合間にさえ、自分で必ずチューニングするのがデフォルトの三味線やギターと違って、

素人ピアノの場合は年に数回で済むとはいえ、調律師さんにチューニングしてもらわなければならないアコースティックピアノにとって、

調律師さんの存在は、

「素人ピアノの素人」や「素人ピアノのプロ」想像する以上に大きい。 そして、

調律師さんの存在が、世の一般のピアノ好きたちにとって最大の課題になっているのも、実情だろう。

ネット上で、ピアノの調律師さんを家に入れることについての悩み相談のやりとりを見かける。 「ピアノは調律が必要な楽器だけど、ピアノの調律師に家に来てもらうのが憂鬱だ」というジレンマを感じている人が少なからずいることがうかがえる。 

ジレンマには、調律師さんの調律サービスや調律スキルへの不満のほかに、調律師さんのスキルとは直接関係のないことへの不満や憂鬱があって、私も前のピアノで同じようなことを経験したことがある。たとえば:

 

①調律が終わった後も調律師さんが話好きでなかなか帰ってくれない(お茶出しの調律師さんとの歓談がツラい)

 ↑ これは、私も過去に一度経験したことがある。いつもは15分ぐらい話して帰ってくれるのだが、ある時、ピアノの話に興がのっちゃったのか、延々と語り続け、こっちが「そろそろ帰ってくれる?」の意味で「コーヒーお代わりなさいます?」と聞いたら「はい。」、しばらくして「お菓子がなくなっちゃいましたね、もうひとついかがですか(って聞けば遠慮して帰るだろう)」って聞いたら「はい、いただきます」だってよ! 1時間たっても一向にピアノ話が終わらないので、「そろそろ買い物に行かないと...」って言ったら初めてオタオタアタフタ帰って行ったよ...。←これは、コロナ前の話。 当節は、お茶やお菓子を遠慮する調律師さんもいるだろうし、持ち帰ってもらえるようにお茶のペットボトルや個包装のお菓子を最後に手渡すピアノ所有者もいるかもね。

 

②調律師さんのピアノの扱いが雑だったり、ピアノ周辺の物品や床壁への注意がぞんざい(最悪の場合は傷つけられた)

 ↑ これも私は過去に経験がある。一応ヨガマットなどを床に置いて「ここに置いて下さい」って言っても、取り外したピアノの前板を無造作に壁に立てかけようとしたり、ごっついアクション部分をフローリング床に直に置こうとするんだよね。調律中も座りながら椅子を床にガンッ!ガンッ!て叩きつけるようにして移動。鬼のような集中力で作業してくれているのは有難いんだけど、リビングにピアノを置いてあるので、フローリングや壁に傷がついたらとハラハラして、神経がすり減っちゃって、調律師さんが帰った後の精神的疲労感が半端なかった。 腕はとても良い調律師さんだったけどね。

 

③調律師さんが臭い(異常に強烈なタバコ臭や口臭など)。調律師さんが帰った後に、換気をしてもなかなか匂いが消えない。

 ↑ これも過去に経験あり。その調律師さんは、腕もそこそこだし、動作は丁寧だし、長居しない人だったんだけど、唯一のネックが強烈な口臭。 調律がはじまってしばらくすると、調律師さんの口臭が漂ってきて、やがて家じゅうがその人の口臭の匂いになる。調律作業中は、近所への音漏れに配慮して窓を締め切っているからね。帰った後に換気しながら毎回お香をたいて浄化するんだけどね、それでも調律師さんの口臭がなかなか消えてくれないんだ。

 

④当節、調律師さんがマスクを着用せずに作業。

 ↑ これも過去に経験あり。 個人的には、これがいちばん困った! 世間がこんな状況だし、閉め切った屋内での作業だから当然マスクを付けて作業してくれている、と思った私が甘かった! 家に入ってくる時はマスクをしてたのに、作業の途中にちょっと見に行ったら、マスクを付けずに作業していたんだ! 家主であるこっちはね、ピアノがある部屋に入るときはマスク付けてんだよ! ビックリして、それでも遠慮がちに、「とてもお願いしにくいんですけど、このような時期でもありますし、マスクを付けて作業してもらえると有難いのですが...」と頼んだら、調律時にマスクを着けて作業すると音が聞きとりづらいんだって。 とはいえ、こちらのピアノは仕事じゃなくて単なる趣味道楽なので、生活のための感染リスクの極小化が絶対優先すべき項目なのだ。 働いて会社から給料もらってる勤め人は、とくにそうでしょ? 人前で芸を披露するのが仕事のエンターテイナーがマスクを外してステージに立って仕事仲間内で感染したり、会社員が仕事がらみの飲み会や接待の席でマスク外していて感染したとか、子どもが学校でもらってきて家族全員が感染したっていうのは、不可抗力でいた仕方ないことだ。 だけど、自分や配偶者の趣味道楽が原因で感染したら、給料もらって働く社会人としてはアウト! 勤労者にとって、自分の健康管理は基本中の基本だからだ。 それができない人は、「自分の健康も管理できないようじゃ、仕事もできないんだろうな」って印象を持たれちゃう。 それに、その業界や仕事の性質上、また、関わり合いになる人たちへの責任上、家族も含めてあらゆる感染リスクを封じ込める努力を続けなければいけない人もいる。 だから、ライブハウスに聴きに行きたくてもずーっと我慢しているんだ! なのに、よりによって、自分の家の中にマスク非着用者を出すことになったとは! もうトホホだったよ...。 恥ずかしながらこちらは、大邸宅でもコンサートホールでもない、狭小な個人宅なので、もうすこし配慮してほしかった。「調律師は落語家じゃないんだから、仕事中は一人で黙って黙々と作業するのだから、そんなに神経質にならなくても...」って思う調律師さんもいるだろう。だけど、事情があってリスクを最小限に抑える必要がある人は、マスクを付けないその調律師さんの腕がどんなに良くても、新規に他の調律師さんを探すしかない。「調律作業中もマスクを常時着用致します」と謳う調律師さんを探すしか手立てがなくなるんだ。あるいは、調律が必要なアコースティックピアノを弾くのは当分諦めて電子ピアノやキーボードを使うしか、こちらには選択肢が無い。宮仕えの身の悲しさだが、仕方がないことだ。ちなみに、新規ピアノの調律師さんは、作業中も常時マスクを着用してくれて、安心だ。

 

とここまでいろいろ書いてきたが、調律師さんだって、人間である。 個人宅の中で家主に断りもせずにマスク非着用というのはちょっとどうかと思うが、

人間だもの...。

集中力が必要な細かい作業の仕事だから、仕事が終わってお茶を出されてホッとしたところに「会話」のスイッチがはいってしまうとつい話が止まらなくなってしまったり、ピアノの調律作業に集中するあまり周囲への配慮がぞんざいになってしまう人もいるだろうし、

人間だもの、食べたものやタバコなどの嗜好品でいろんな匂いがするものだし、オナラもする。 私だって誰だってそうだし、調律師さんのほうが「この家臭い!」って思っているかもしれないし。

「それらに対する配慮も含めて、プロではないのか!」

という声もあるし、私もそうは思うけれど、

世の中、いろいろな人がいるし、そういうことはままあるし、なんせ、

自分で調律できない、調律師さんに全てをお任せするしかない立場では、こちらからあまり強くは言えない。

「こっちが金を払っているんだから!」

とはいっても、

ピアノの状態の良し悪しは、調律師さんの胸三寸といってもいい。 それに、

調律師さんだってなにも悪気があって長話ししたりぞんざいだったり臭かったりするわけじゃないんだし。

調律師さんが家に来るのは多くたって年に数回のことだし。

 

それから、調律師さんに対するこのような不満がほとんど無い人たちもいるのではなかろうか? そんな人たちは、ある要素(ファクター)に関してとても良い条件を有しているのではなかろうか? 

そのファクターとは:

 ★ピアノの置き場所

ではなかろうか?

上記のような調律師さんへの不満を持つ人は、たいてい、ピアノをリビングダイニングキッチン(LDK)という1つの部屋の中に置いていて、しかも、LDK自体があまり広くなくて、家もさほど大きくないのではなかろうか。

もし、居住者の居住スペースから完全に隔離された、広々としたピアノ専用の部屋にピアノを置いていれば、調律師さんがらみの諸問題はあまり気にならないのではなかろうか。

話好きな調律師さんの話がなかなか終わらないのは、調律師さんに、LDKのリビングダイニングの応接セットないしは食卓でお茶を出すしか方法がないからではないのか? 居心地のよいソファーや椅子に、お客様のように座らせてもらったら、調律師さんもうっかりお尻に根が生えてしまうのではなかろうか。 これが、たとえば、素っ気ないガランとしたピアノ専用部屋に質素な(座り心地があまりよくない)椅子と小さなテーブルぐらいしかなくて、家主が立ったままでお茶出しすれば、あまり快適に長居できる雰囲気じゃないから、調律師さんだってお茶やお菓子をすぐ片づけて帰ってくれるのではなかろうか(←コロナ前だったらね。今は屋内での飲食を遠慮する調律師さんがほとんどだろう)。

また、調律師さんがピアノの周りの壁や床への注意がなくてハラハラするのは、ピアノがリビングという、家の中でいちばん高級なスペースにピアノが置いてあるからではないだろうか。 LDKのL(リビング)は、家の中では来客スペースも兼ねていて、壁紙や床素材など内装にいちばんお金がかかっている、家主にとって、もっとも傷をつけられたくない場所だ。 もしピアノが、素っ気ないガランとしたピアノ専用部屋に置いてあれば、万が一床や壁を傷つけられても、家主の心理的なダメージはリビングよりも低いのではないか。 リビングに敷かないような安じゅうたんでもピアノ部屋に敷いておけば、より心の平穏が保てるだろう。

調律師さんの口臭や体臭についても、ピアノ専用ルームにピアノが置いてあれば、調律師さんはそこに籠りっきりになるから、他の居住スペースにはあまり匂ってこないだろうし、調律師さんが帰った後はその部屋だけ窓を全開にして扇風機でも回して集中的に換気すれば、短時間でダメージはなくなるだろう。

つまり、

大きな邸宅に住んで、ピアノの大きさや性能に見合った十分なスペースがある独立したピアノ専用ルームにピアノを置いている人は、これらのような悩みはあまり持たないのではなかろうか。

「それができれば苦労はないよ!」

という声が聞こえてくる。

そうだよ。 

そのとおりだよ。 

でも、ぶっちゃけ、

それができないから、いろいろな苦労を味わうんじゃないのか? 

つまり、

さいしょっから、自分の身の程に対して無理をしているから、狭小住宅の狭いLDKに、ピアノなんていう、大音量が出る、専門業者に調律をしてもらわなければならないような大仰な楽器を押し込んでいるという、自分の身の丈に対して不自然なことをしているから、憂鬱な思いをするのではないのか?

調律師さんに一方的に非があるわけではない。誰が悪いわけでもない。 とどのつまり、

自分の好き勝手でやっている趣味と、自分の身の程が、合っていないから、ピアノの騒音で近隣から苦情を受けたり、買ってからいちどもフタじゃなくて屋根をあけたことのないグランドピアノの籠った音で弾くしかなくて、たまに屋根を開けて弾いたら大音量がうるさ過ぎて、ただでさえ狭いピアノ部屋に毛布やら何やらを持ち込んで「優雅なピアノルーム」とは似ても似つかない物置き小屋のような部屋の中で弾くしかなかったり、狭いLDKで長時間作業する調律師さんを鬱陶しく感じるのではないか。

庶民の家は、時とともに、どんどん小さくなっている。

戦前や戦後まもない頃は、会社員や公務員の小さな家でも、家屋と庭の敷地全体がぐるりと高い塀で囲まれて、外からあまり見えないようになっていたし、正面玄関に通じる正門の他に、御用聞きさんや職人さんが出入りするための勝手通用門があった。 もちろん、家屋自体にも、正面玄関と、勝手口の、家の敷地内に出るための出入り口が2か所についていた。また、家屋の中は、台所・茶の間・客間(座敷)が、それぞれ個別にあったり、ふすまで仕切って別室をこしらえることができるようになっていた。 つまり、いまのLDKのLとDとKがすべて別々の部屋だったのだ。 私の祖父母の小さくてつつましい家ですら、そうだった。

やがて、戦後の高度成長期に、郊外にベッドタウンニュータウンとよばれる住宅地ができると、家屋と狭いながらも芝生を植えた庭の敷地を取り囲むのは、高い塀ではなくなって、低いフェンスになり、隣の家が丸見えになり(こちらも丸見えになり)、御用聞きさんや出入り職人さん用の勝手通用門は姿を消した、というか、勝手門をつくるスペース的なゆとりが無くなったのだ。 それでも、家屋本体には、玄関と勝手口の2か所の出入口はまだあった。 それまでは各々の独立した部屋だった台所と茶の間が、「ダイニングキッチン」という「オシャレな」名前のついた1部屋の中に、事実上縮小されてしまったが、まだ応接間は別の部屋だった。 つまり、DKは一部屋になってしまったが、独立した応接間(L)はまだ残っていた。 そして、独立した応接間(L)にアップライトピアノが置かれ、調律師さんは、そこに籠って一人で作業をした。

ところが、その後、バブル期のマンションでは、とうとうLとDKが1部屋の中にまとめられて、LDKという「オシャレな」アルファベット名の、事実上のひと部屋に集約されてしまった。 そして、マンションだから、勝手口も当然無くなって、人間も生ごみもペットの死骸も、正面玄関を通って外に出るしかなくなってしまった。 

 

戦後の日本の家屋に正門/正面玄関と裏門/勝手口があったのは、日本の城や大名屋敷の名残だろう。 城にはたくさんの門がある。 江戸城では、正門の「大手門」や、将軍が非常時に天領である甲府に避難する出口として設けられた「半蔵門」や、使用人が出入りする門や、江戸城内で出たゴミや病死した人の死体などを搬出する「平川門(不浄門)」などがあった。 歌舞伎の『忠臣蔵』のモトネタになった江戸城内の刃傷事件の罪をとがめられて切腹を言い渡されて、城外の切腹場所に送られる浅野内匠頭が追い出されたのは、この平川門(不浄門)からであった。 

 

かつては、日本のお屋敷はもちろん、会社員の家にも、家屋と同じかそれより広い庭があって、それらの敷地が人の背丈ほどの塀に囲まれて、お客様や主人や家族が出入りする表門&表玄関と、職人さんが出入りしたり夕飯の材料を買ってきた奥さんが買い物かごを下げて入ったりゴミなどを外に出すための裏門&裏玄関(勝手口)の、ふたつの出入り口が有るのがふつうだった。

戦後から現在までの間に、日本の家は、どんどん、どんどん、狭くなっていった。 戦後のモータリゼーションを受けて、庭の一部は、マイカーを駐車するガレージになった。 家屋の中では、独立した子供部屋を設けるのと相殺して、家族みんなが使うスペースである台所と茶の間が一つのDKにまとめられ、ついには外からの来客を招きもてなす「晴れの間」である応接間もなくなって、応接間の機能が家族がふだん部屋着でくつろぐ茶の間に集約されていった結果が、LDKと呼ばれる一部屋の空間だろう。

だから、調律師さんといった外部の人間が、ふだんは家族がご飯を食べたりテレビを見ながらゴロゴロしているプライベート空間になっているLDKに上がり込んで、長時間そこに居続けることが、家の者にとっては、本質的にストレスなのだ。

つまり、ピアノが、LDKなんていう場所に置いてあるから、置かざるをえないような家に住んでいるから、問題が起こるのだ!

広いお屋敷に住んで、ピアノ専用の独立した音楽室なりスタジオなりラウンジがあれば、調律師さんが、家族がゴロゴロくつろぐプライベート空間に上がり込む必要もないのだ。

昨今は、家具メーカーが、「リビングにもなるダイニングセット」と銘打って、低めのテーブルに、ダイニング椅子とソファーを足して2で割ったような椅子を付けたダイニングセットを売り出している。 私はこれを見て、とうとう、LDKのLすら消失しかけているのかもしれないと、暗い気持ちになった。 今の市街地の一戸建てには、もはや、芝生が植わったネコの額ほどの庭も無ければ、道路と家の敷地を隔てる塀もフェンスも、家と道路を隔てる門すら、無い。「近所の子どもが家の敷地内に入ってきて遊ぶので困る」という苦情は、敷地を塀やフェンスで囲まれていたかつての住宅では有り得ないことだった。 もはや庭も無くなってしまった現代の住宅の「家の敷地内」とは一体どこのことか? マッチ箱のような狭小住宅の玄関先に、ようやくクルマが1台置けるほどの、芝生も花壇も無い、コンクリで塗り固めた殺風景なスペースのことだ。 道路と敷地を仕切るフェンスも門もないような家だから、近所の子どもたちは、道路と地続きのコンクリの平面だったら無意識に入ってくるよ、子どもだもの。 近所のガキどもに立ち入られるのがイヤなら、道路と自分の敷地の間に塀でも門でも建てりゃいいじゃない?何でそうしないの?家のクルマの鼻っ面が道路にちょっぴり出ていて、門やフェンスが建てられないから?なんだぁ、自分だっていつもクルマを道路にはみ出させて道行く人たちに迷惑かけてるんじゃない?じゃぁクルマを小さい軽自動車にすればフェンスが建てられるんじゃないの?軽はイヤなの?じゃぁクルマ持たなければいいんじゃない?クルマが無いと不便なの?だったらもっと広い土地に家建てて家の周りを塀で囲めば?お金がかかる?だったらもっと郊外の安い土地に行けば?旦那さんの通勤が大変になる?だったら旦那さんに職場を変えてもらえば?給料が安くなる?だったら奥さんもパートに出て働けば?それもイヤなの?だったら.......................

..................................... 

 

小さな家に住み、LDKのLすら消失したマンションのDKに住み、それでも、自分の子どもに少しでも習い事をさせてあげようと、電子ピアノから頑張って買い替えたアップライトピアノ。 年に一度、調律師さんが来ると、子どもたちは子供部屋にこもったり遊びにいったりできるけど、ママは、大して高い物は置いていなくてもいろんなものがいっしょくたんに置いてある狭いDKを空けることはできない。 調律師さんが作業をしている間、音を立てないように、キッチンで久しぶりにコンロをみがいてみたり、冷蔵庫の中を整理してみたり、換気扇まわりを掃除したりしながら、じっと待つしか、ない。 そうして、調律代金のほかに、家計の中でなんとかやりくりしてピアノのお稽古の月謝と、先生への盆暮れの付け届け、発表会やコンクールの参加費と先生への謝礼、「先生の先生」のコンサートには動員をかけられて家族総出で家族の人数だけチケットを買って参加。 「ピアニストになりたい」という子どもの夢のために、自分のための出費をことごとく切り詰めて、いつのまにか、もう何年も学生時代の友達とのランチも行っていない。 そうこうするうちに、ピアノの先生から「アップライトピアノではこれから先の曲は無理。グランドピアノを買うように!」と言われて、すでにアップライトピアノがドッカリ占領する、テレビや食卓でギュウギュウづめの小さなDKを茫然と眺めながら力尽きる家庭が、どれほどたくさんあることだろう。

いや、最初から、無理だったんだよ。 ピアノを余裕で置けるスペースを確保できるお金がなけりゃ、「上」には進めないんだよ。 ピアノに限らず、芸事の習い事というものは、そういうものだ。 芸事は、永遠の底無し沼。 際限なくカネがかかるものなんだよ。 カネをつぎ込めるだけつぎ込んでもまだつぎ込めるし、どれだけつぎ込んでもつぎ込み足りない、ブラックホールなんだ。 むしろ、早めに力尽きて良かったじゃないか。 中途半端にお金があったりすると、抜けるに抜けられなくなって、気がついたら、子どもを「ピアニスト」という名の「近所のピアノの先生」に育て上げるのに、電子ピアノ⇒アップライトピアノ⇒グランドピアノ、と、ピアノを何台も買い替え、音大受験のために、音大の学費に、卒業後の箔付けの欧州留学に、いったいどれほどのお金を費やすことになっただろうか。 そして、「ピアニスト」という名前の「近所のピアノの先生」になった子どもは、そのために親が投じた金額を、音大受験のための防音ピアノ練習部屋やピアノ教室開設のための増築工事にかかった費用も含めて、いったい何年で回収できるのか。 近年は、親である自分たちの企業年金も減らされたのに、経済力の無い「ピアニスト」という名前の「近所のピアノ教師」という名前の「家事手伝い」の我が子は、いつまでたっても独立して家を出ていかずに(出て行ける経済力がないんだもの)親のスネをかじりながらどんどん歳をとっていき、もう結婚してどこかに片付いてくれる見込みも無い。そして、親の自分たちは更に年老いて、この頃は医療費もどんどんかさんで、家も老朽化して修繕費用の出費が...。 そして、「ピアニスト」だった「近所のピアノの先生」だった「家事手伝い」だった子どもは、ついに「介護ヘルパー」になった。親専属の。でも、親が死んだら、親の年金がストップしたら、「ピアニスト」という名のキリギリスのような我が子の生活は、ましてや国民年金だけに頼らざるを得ない我が子の老後は、一体どうなるんだ? ローンを組んで購入した、都心から電車で1時間半の郊外の、駅からバス15分徒歩10分のこの小さな自宅(というか実質的には)土地を売って、我が子にいったいいくら残せるんだ? だから、親の自分たちが我が子より先に死ぬことは、とてもできない! 自分たちが我が子より長生きしなければ、つまり、我が子が自分たちより早くあの世に行ってくれなければ、自分たちは安心してあの世に旅立つことができない!

 

かつて、親より早く死ぬことは「親不孝」といわれた。

親より長く生きて、経済的に親の面倒を見るのが、「親孝行」だからだ。

いまは、

親より長生きすることが「親不孝」になるケースがあるかもしれない。

自分が親よりも早くあの世へ旅立って、親の経済的負担を軽くしてあげることが「親孝行」になる人も、なかにはいるのかもしれない。

 

時代は、変わってしまった。

「一億総中流」。サラリーマン家庭の年功序列に基づいた安定して右肩上がりの給与体系と、確定給付型年金に守られた彼らの老後資金の上に成り立っていた、近所のピアノの先生や音楽教室を介して日本の中流階級の子どもたちの親にピアノを販売するという販売方法は、日本の中流層の構造的な崩壊とともに、立ちいかなくなっているのではなかろうか。 アメリカのスタインウェイ社が投資ファンドに身売りをするしかなくなったのも、国の盛衰において日本の20年ほど先を走るアメリカの中流階級の崩壊によって、新興国の富裕層をターゲットにした高級ラグジュアリーブランドビジネスに身を転じるしかなかったのかもしれない。 今、アメリカ国内で、アメリカが誇る高級ピアノであるスタインウェイを実際に買えるアメリカ人が、いったいどれだけいるだろうか? 日本のピアノのビジネスもこれからどうなるのか? 今までどおり、比較的恵まれた家に生まれて音大に行かせてもらったママさん先生が「アップライトピアノを買ってもらわないとピアノは教えられません!」とか「グランドピアノを買わなければ上級には進めません!」と、自分よりも質素な家庭の子どもの親の「ピアノを弾く深窓のご令嬢」幻想やコンプレックスに付け込むようなことを(そうと意図しなくても)言ってピアノを買わせるような手法を続けていて、少子化の日本の中で果たしてピアノは売れ続けるのか? それとも、社会の変化の波に乗って富を蓄えて成り上がった、ピアノなんか今まで触ったこともないし、従来のピアノ教育業界やピアノアカデミアの慣習なんて知りもしないし知る由(よし)もないし知る気すら微塵(みじん)もない、若い頃から仕事の鬼でガンガンバリバリ邁進した結果、今は十二分(じゅうにぶん)にお金を持っていて、高額のブランドピアノをポンポン買って新築の大邸宅や高級リゾート地の別荘に置いちゃおうかなー!という新しいタイプの潜在顧客に、気分よくどんどん買ってもらえるようにするためには、どのようなピアノを作って、どのような売り方をしていけばいいのか?

 

tokyotoad1.hatenablog.com

 

tokyotoad

 

=========

このブログ「おんがくの彼岸(ひがん)」は、私 tokyotoad が、中学卒業時に家の経済的な事情で諦めた(←諦めて命拾いした!と、今じぶんの人生をしみじみ振り返って背筋がゾッとしている)「自分の思いのままに自由自在に音楽を表現する」という夢の追求を、35年ぶりに再開して、独学で試行錯誤をつづけて、なんとかそのスタート地点に立つまでの過程で考えたことや感じたことを記録したものです。

「おんがくの彼岸(ひがん)」というタイトルは、「人間が叡智を結集して追求したその果てに有る、どのジャンルにも属さないと同時に、あらゆるジャンルでもある、最も進化した究極の音楽が鳴っている場所」、という意味でつけました。 そして、最も進化した究極の音楽が鳴っているその場所には、無音静寂の中に自然界の音(ホワイトノイズ)だけが鳴っているのではないか?と感じます(ジョン・ケイジはそれを表現しようとしたのではなかろうか?)。 西洋クラシック音楽を含めた民族音楽から20世紀の音楽やノイズなどの実験音楽まで、地上のあらゆるジャンルの音楽を一度にすべて鳴らしたら、すべての音の波長が互いにオフセットされるのではないか? 人間が鳴らした音がすべてキャンセルされて無音静寂になったところに、波の音や風の音や虫や鳥や動物の鳴き声が混ざり合いキャンセルされた、花鳥風月のホワイトノイズだけが響いている。 そのとき、前頭葉の理論や方法論で塗り固められた音楽から解き放たれた人間は、自分の身の中のひとつひとつの細胞の原子の振動が起こす生命の波長に、静かに耳を傾けて、自分の存在の原点であり、自分にとって最も大切な音楽である、命の響きを、全身全霊で感じる。 そして、その衝動を感じるままに声をあげ、手を叩き、地面を踏み鳴らし、全身を楽器にして踊る。 そばに落ちていた木の棒を拾い上げて傍らの岩を叩き、ここに、新たな音楽の彼岸(無音静寂)への人間の旅が始まる。

tokyotoadのtoadはガマガエル(ヒキガエル)のことです。昔から東京の都心や郊外に住んでいる、動作がのろくてぎこちない、不器用で地味な動物ですが、ひとたび大きく成長すると、冷やかしにかみついたネコが目を回すほどの、変な毒というかガマの油を皮膚に持っているみたいです。

 

★ピアノの先生/ブロガー/ユーチューバー/出版社/放送局などの方へ: このブログに記載されている内容を、レッスンや出版などの営利目的/非営利目的(レッスン等で使用・販売する教材、レッスンで教える内容、宣伝等のためのブログ記事での使用等を含む、営利目的につながる可能性のある使用)や非営利目的その他の目的のために、このブログの作者(原作者)であるtokyotoadへの事前の承諾なく無断で使用(複製・コピー・利用・転用・流用・編集・加工・出版・頒布・送信・アップロード・放送・発表等)することは、原作者の権利や人格を保護する著作権法に対する違反行為です。くれぐれもご注意ください。

↑ 不本意にもこんな野暮なことを書かなければならないのは、過去にちまたのピアノの先生方に、この記事の内容をパクったブログ記事を挙げられたことが何度かあったからです。 トホホ...。ピアノの先生さんたちよ、ちったぁ「品格」ってぇもんをお持ちなさいよ...。