今から3年以上前に書いた下記の記事について:
「ピアノが下手」なことのスゴみ - おんがくの彼岸(ひがん)
何かが「下手な」ことは、じつは、
その人物の社会的なスゴみを表しているのではないか?
と私が思うに至ったきっかけは、
もうずいぶんと遠い昔、かれこれ40年近く昔にさかのぼる。
そのころの私は、子どもの頃から字を書くのが下手だったので、
「字が下手なことは就職活動に不利なのではないか?」
と思って、
「日ペンの美子ちゃん」のペン習字の通信教育を一瞬受講したことがあった。
それでも、普通に書くとフザケたような字に、今度は真面目に一生懸命書くと、力の入れ過ぎでとんでもなく荒れた字になってしまうクセが直らずに、
「このまま社会に出て私は全うな社会人として生きて行けるのだろうか?」
という激しい不安に襲われていた。
まだパソコンというものが無かった時代。ワープロがかろうじてあったくらいの頃だから、文章は基本的に手書きだった。 そんな時代に、オフィスワークといえば一般事務の仕事しか無かった庶民の家庭の女性にとって、字がきたないことは、大きなマイナスポイントだった。 英語の書類にはタイプライターがあったが、封筒の宛名や送り状など、ほとんどの書類は手書きで作成していたからだ。
親に経済的に頼れないので、とにもかくにも、社会に出て少しでも給料の良い仕事にありついて、自分で何とか働いてお金を稼がなければ...。
という思いだけだった。
そんなときに、図書館で、習字の本を借りた。
その本を読んだ途端に、私は、
文字の上手/下手に関する見方が180度変わってしまったのだ。
その本には、当時の首相の筆跡が載っていた。 そして、
その首相の筆跡について、本の著者の評価の文章が添えられていた。
それは:
「社会的に成功をおさめた人の筆跡は、社会のトップに上りつめた人物ということによって、もはや文字が素晴らしいのです」
という内容のことが書かれていた。
それを読んで、私は、とたんに気が抜けてしまった。
つまり、だ、
社会的に成功すれば、文字の上手い下手なんて、どうでもよくなるのだ!
ということを、悟ったのである。
文字の上手/下手が大きな問題になるのは、秘書や事務職など、
自分よりも地位が上の人たちに使われる身分の人間なのだ。
だから、
文字の美醜に関係ない仕事をして、仕事を頑張って社会が自分の仕事を買い続けてくれる限り、文字の上手い下手なんて誰も気にしないのだ!
そう悟ってしまったのだ。
もちろん、「文字を上手に書く」仕事の人は、文字を上手に書けなければお金をもらえない。 その一方で、文字の美醜以外のその人の短所は、さほど問題にはならない。 だって、世間様はその人の「美しい字」にお金を払ってくれるから。
当然のことながら、どんな業界の仕事でも、社会に出て働いてお金をもらうには、社会に出て働くにふさわしい身なりや言葉遣いや行動は必須だ。 だが、自分の「銭のもと」になるスキル以外のものは、ふさわしいレベルであれば問題はない。
実際、中学の同級生で、
最高学府を卒業して立派な仕事に就いている女性がいる。
毎年年賀状をくれる、彼女の文字は、中学の頃からあいも変わらず下手クソだ!
ところが、
文字が下手なことが、彼女の学歴にもキャリアにも、これっぽっちも影響していない。
彼女は、中学時代も、そして今も、
頭脳がズバ抜けて優秀で、社会で人に尊敬される仕事に就いている。
彼女の字は下手クソだけど、一緒に働く人たちが読めれば問題はないのだ。
ピアノの上手い/下手も、同じだ、と私は思う。
もちろん、プロの演奏家は芸鬼の中の芸鬼であり、芸能人だ。
芸鬼の中の芸鬼でなければ、神業の演奏を披露してお金をもらって生計を立てることは不可能だ。
だが、素人は、素人演奏ならではのスゴみがある。
そのスゴみは、ミスタッチしても、もたついても、全く損なわれないどころか、
ミスタッチやもたつきが、かえってその人のスゴみを増すことにもなろう。
大人のピアノ愛好家は、もっと、ミスタッチや、指のもたつきに、鷹揚になってもよい。
ミスタッチや指のもたつきは、むしろ、自分の箔(はく)になる。
逆に、それらを恐れてビクビク演奏する様(さま)は、人間の大人には見えない。まるで、調教師のムチに怯えながら曲芸をするサーカスの玉乗りの子熊だ。 その姿は、哀れだ。
「お子様ピアノのチーチーパッパお稽古のマインドセット」からなるべく早く脱却することが、大人の愉悦あふれるスゴみのあるピアノの真髄だ。
超絶技巧の圧倒的な演奏は、超一流のプロの演奏家に任せておけばいい。 彼らは、あまりにも才能が有り過ぎるうえにあまりにも芸の鬼なので、神業のような芸を披露できる、というか、そうしないと心が虚ろになって生きてはいけない、生まれてついての芸能家であり、また彼らの神業芸が世間様から称賛され求められるから、演奏のプロとしてお金を稼げているのだ。 そして、こちら側は、客席から、彼らの名人芸を観て楽しめばよいのだ。 自分でそうなろうとする必要は、無い。 そのように悟った時に、「お子様ピアノのお稽古マインドセット」という、ピアノ教師という「素人ピアノのプロ」による支配に甘んじる調教的で隷属的な世界から卒業して、晴れて「大人のピアノ」という人間界に抜けられるのだ、と私は思う。
tokyotoad
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このブログ「おんがくの彼岸(ひがん)」は、私 tokyotoad が、中学卒業時に家の経済的な事情で諦めた(←諦めて命拾いした!と、今しみじみ振り返って背筋がゾッとしている)、「自分の思いのままに自由自在に音楽を表現する」という夢の追求を、35年ぶりに再開して、独学で試行錯誤をつづけて、なんとかそのスタート地点に立つまでの過程で考えたことや感じたことを記録したものです。
「おんがくの彼岸(ひがん)」というタイトルは、「人間が叡智を結集して追求したその果てに有る、どのジャンルにも属さないと同時に、あらゆるジャンルでもある、最も進化した究極の音楽が鳴っている場所」、という意味でつけました。 そして、最も進化した究極の音楽が鳴っているその場所には、無音静寂の中に自然界の音(ホワイトノイズ)だけが鳴っているのではないか?と感じます(ジョン・ケイジはそれを表現しようとしたのではなかろうか?)。 西洋クラシック音楽を含めた民族音楽から20世紀の音楽やノイズなどの実験音楽まで、地上のあらゆるジャンルの音楽を一度にすべて鳴らしたら、すべての音の波長が互いにオフセットされるのではないか? 人間が鳴らした音がすべてキャンセルされて無音静寂になったところに、波の音や風の音や虫や鳥や動物の鳴き声が混ざり合いキャンセルされた、花鳥風月のホワイトノイズだけが響いている。 そのとき、前頭葉の理論や方法論で塗り固められた音楽から解き放たれた人間は、自分の身の中のひとつひとつの細胞の原子の振動が起こす生命の波長に、静かに耳を傾けて、自分の存在の原点であり、自分にとって最も大切な音楽である、命の響きを、全身全霊で感じる。 そして、その衝動を感じるままに声をあげ、手を叩き、地面を踏み鳴らし、全身を楽器にして踊る。 そばに落ちていた木の棒を拾い上げて傍らの岩を叩き、ここに、新たな音楽の彼岸(無音静寂)への人間の旅が始まる。
tokyotoadのtoadはガマガエル(ヒキガエル)のことです。昔から東京の都心や郊外に住んでいる、動作がのろくてぎこちない、不器用で地味な動物ですが、ひとたび大きく成長すると、冷やかしにかみついたネコが目を回すほどの、変な毒というかガマの油を皮膚に持っているみたいです。
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↑ 不本意にもこんな野暮なことを書かなければならないのは、過去にちまたのピアノの先生方に、この記事の内容をパクったブログ記事を挙げられたことが何度かあったからです。 トホホ...。ピアノの先生さんたちよ、ちったぁ「品格」ってぇもんをお持ちなさいよ...。