おんがくの彼岸(ひがん)

「出すぎた杭」の大人ピアノならではの自由と醍醐味(だいごみ)を楽しむtokyotoadのブログ

習い事に関する興味深い動画

 

 

習い事に関する興味深い動画を視た。 勝間さん目の付け所が本当に面白い。

 

得意なことは、習う前から自発的に始めていて、できるから楽しくて夢中で続けた結果、習う時点ですでに人より抜きんでている。 これは、算数(理数系の思考)でも作文でもスポーツでも絵画でも作曲でも耳コピでも、なんでもそうだ

 

耳コピが好きな人は、べつに3歳からピアノを習っていなくても、子どもの頃から、誰に言われたわけでもないのに、耳に入ってきた歌のメロディーをマネて歌ったり、縦笛などの義務教育楽器を使って演奏していたに違いない。 私がそうだ。 幼い頃からピアノを習わせてもらっていたが、それは、3歳にもならない私がテレビから聞こえてくる歌をマネして歌ってばかりいたので、「この子は音楽が得意かもしれない」と親がピアノを習わせてくれたのだ。 つまり、私の場合、歌マネあってのピアノだったわけだ。 小学生の頃は、小学校から帰ってくると家で歌謡曲やテレビまんがの主題歌を聞きよう聞き真似でピアノで弾きまくる上に、ピアノだけでは飽き足らずに縦笛で吹きまくっていた。 誰に教わったわけでもないのに、幼い時にすでに、自発的に、弾きまくり吹きまくらずにはいられないから、そうするのだ。 そういう、「耳に入った音をマネして再現せずにはいられない」生まれながらの特性を、たまたまピアノのレッスンの先生に発見されただけで、ピアノ教室で教わったから誰もが「聴音」と呼ばれるものが得意になるもんじゃない。

 

移調もそう。 「教えて知恵袋」的なサイトで「苦手な移調を上達するにはどうしたらいいですか?」という音大生さんの質問を見かけたけれど、たぶんその音大生さんは、訓練しても、子どもの頃から自発的に移調して弾いていた人よりも移調ができるようになることは、ないだろう。 移調が苦手な人は、この先の人生もずっと、移調が苦手だろう。 というのは、音大生にもなって「移調が苦手」という、そしてそれを「教えて知恵袋」的なサイトで開けっ広げに質問してしまうという、耳を疑うような状態であることは、子ども時代のピアノのお稽古の頃からずっと苦手で移調を避け続けてきた(にもかかわらず音大に入れてしまったというかそんな人を受け入れてしまう音大が存在する!)ということだからだ。 だから私は、音楽産業という実力主義のビジネス業界でまっとうにお金を稼いでいるプロのミュージシャンしか信用できないのだ。 近所の子ども相手に教えてお茶を濁すような存在に「本当の音楽の素質があるのか?」と疑わしく思っているのだ。 

これに対して、音大を卒業したわけでもないのに移調が苦も無くできる人は、子どもの頃に既に、誰に教わったわけでもないのに自発的に移調しまくっていたのだ。 こんな私でも、子どもの頃に、テレビから流れてきた歌謡曲を聞きよう聞き真似でピアノで弾く時には、シャープやフラットが少ないキーに変えて弾いていた。 誰に教わったわけでもないのに、自分で勝手にそうしていたのだ。 だから、ピアノのレッスンで「移調」という概念を「教わった」途端に、練習しなくてもできたし、自分がそれまでやっていたことが「移調」と呼ばれるものなんだ、と知ったのだ。 ずっと前から自然に自発的にやってきたことだから、先生に手とり足取り教えてもらうまでもないことなのだ。 そして、還暦近い今、10代の頃に数限りなく聞いてカラオケで歌いまくって覚えてしまっている日本のポップスを自分なりにアドリブ入れて演奏するのを楽しんでいるが、ピアノ演奏での音域を考えてオリジナルキーではないキーで弾いたり、自分が積極的に馴染みたいキーで弾くことがとても多い。 その際に楽譜に起こすこともない。 もともと耳で聴いて頭に記憶したコンテンツを、楽譜という視覚情報にわざわざ変換するなんていうシチメンドクサイことをするのもおっくうだからだ。 生まれてこのかた「移調」なるものを苦しいとも苦手とも思ったことすらない人がこの世に存在する。 物心ついた時点で「移調」なるものが苦手に感じた人は、「移調」なるものの先天的な才能に恵まれていないのだ。 

作曲や編曲もそうだ。 作曲や編曲を正式に習ったことがないのに、子どもの頃のピアノレッスンで作曲のまね事をやらされたら既に曲が作れた。 誰に言われることもなく、家でたわいもなく即興で弾いたり、歌を作ったりしていたから、「ソナタ形式で作れ」とソナタのフォーマットを教えられて家ですぐに作って翌週持ってって先生に褒められた。 そういうもんなんだ。 50代になった数年前に作曲家の先生に一瞬習ったときに、70年代のニューミュージックの編曲を診てもらおうと自作の楽譜を持って行って作曲家先生の前で弾いたら、先生が開口一番「その楽譜売れば?楽譜のダウンロードサイトがあるよ」って。 手直しすら無かった。 そういうもんなんだ。 もちろん、音楽理論や作曲法や編曲法を知っていたほうが断然いいに決まっている。 だけど、音楽理論や方法だけ知っていても、センスのある作曲や気の利いた編曲ができるわけじゃない。 だから、音大の作曲科を卒業したわけでもないのにヒット曲を多作するアーティストやミュージシャンが、たくさんいるのだ。 そういうヒットメーカーたちは、「作曲法なるもの」を教わったことがなくても、年端も行かぬ頃から耳に入ってきた音楽情報を吸収して無意識に統合して、誰に言われたわけでもないのに自発的に曲を作り始め、作るのが楽しいから何曲も何曲も夢中で作り続けるあいだに、キラリと光る曲を作るようになっていたのだ。 そして自分の作曲が聴衆にウケたり社会に求められて「お金になる」ことを知った時点で、「作曲法なるもの」を本を読んだり習ったりして「勉強」し始めるが、彼らの「勉強」なるものは、「へぇ~、カッコイイと思って自分が使っていたこのコードって、トライトーン・サブスティテューションとかオグメンテッド6thって音楽理論では呼ばれているんだね~」というような、「確認作業」に終始するのである。 もともとその才能が有って、子どもの頃から誰に教わることもなく好きで楽しくて夢中でそれを続けた結果、それが出来るようになった人たちにとって、「勉強」とは「確認作業」のことなのだ。  

 

一方で、私は、楽譜に書いてあるとおりに間違えずに弾くことが、子どもの頃から苦手だ。 音楽を耳で聴いて認識・把握するので、目を使って音楽の視覚情報(=楽譜)で認識するのがおっくうなのだ。 もっとも、耳で聴いて把握できるといっても、聞こえた音を一字一句正確に完璧に把握して覚えるほどの記憶力は無いので、どうしても自分で「編曲」する箇所がでてくる。 当然、先生から「間違っている」「正確に弾け」と指導される。 そう言われて、楽譜を目で見て練習して正確に弾けるようにはなるが、そうして演奏しても、ちっとも楽しくないどころか、逆に苦痛だ。 自分ならではのオリジナリティを加えて表現することが許されない作業が、精神的に苦痛なのだ。 ツェルニーや古典派ロマン派といった、いったい何が良いのか個人的に全くわからない音楽をやらされると、もう地獄だ。 つまり、私は生まれつき、自ら創意工夫することが好きな反面、クラシックピアノのような「誰かの創作物を正確に再現することに終始する行為」に興味が沸かないというか、そういう行為に意味を見出せないから、子どもの頃から苦痛に感じて、苦手なのだ。 クラシックピアノのレッスンが苦痛だったし、苦痛に感じる時点で苦手なのだから、私は今までも、これからも、生きている限り、クラシックピアノなるものの才能がないのだ。 

私が子どもの頃に通ったピアノレッスンで、先生から唯一花マルをもらった曲がある。 湯山昭の『お菓子の世界』の本編最後の『ドーナッツ』だ。 どうして、この曲だけ私は花マルをもらったのか? それは、この曲には、私が心底興味があった音楽ボキャブラリーが満載だったからだ。 今から思えば左手はストライドの動きに終始し、ハーモニーもリズムもジャズの要素が取り入れられた「ドーナッツ」は、子どもの頃の私が心底興味がある音楽だったのだ。 自分の音楽創作のための「肥やし」を吸収したいと無意識に思って、「ドーナッツ」に使われている音楽ボキャブラリーを覚えて「自分のモノにして使いこなしたい!」と、練習のレベルを遥かに超えて無我夢中で楽譜を読んで家で時間を忘れて覚えるまで延々と弾いていたから、音を正確に記憶するばかりか自分の音楽的な歓びのために心底楽しんで弾いたことが、先生の心に響いたのだろう。 湯山昭の「ドーナッツ」を最初で最後に、私が先生から花マルはおろか二重マルすらもらうことは、以後無かった。 湯山昭の『お菓子の世界』のような20世紀の音楽を、それ以後のレッスンで習うことは一度も無かったのだ。 生徒側に選曲の自由が無い、先生から一方的に出された課題曲をこなすだけの、昭和の時代の話である  子どもの頃にピアノを10年以上も習って、私が先生から「ピアノの演奏が上手い」と評価されたのは、この曲ただ一曲だけだ。 あとはずーっと、この先生にとっては「ピアノが下手な子ども」だったのである。   

 

人は、それぞれに異なる、持って生まれた才能が有って、生まれ持ってこなかった能力を後付けでどんなに勉強特訓しても、それを生まれ持ってきた人より出来るようになることは、まずない。 生まれ持ってきた人は、物心ついた頃から既に自発的に始めて、好きだからできるようになって、できるから楽しくてどんどん続けるから、ますますできるようになって、ますます楽しくて好きになって、ますます続けていく...、と、加速度的に上達するばかりの人生を走り続けるので、生まれ持ってこなかった人が彼らに追いつくことは基本的に不可能で、かりにできたとしても極めて難しいのだ。 万が一にも彼らに追いけたとしても、ようやく彼らに追いついた!と思った時には、すでに彼らは遥かずっと先を走っている、という、基本的に負け戦(いくさ)を続けていくことになるのだ。 スポーツのための体格や身体能力、聴覚認識の良さ、視覚認識の良さ、理数系の思考、文化芸術的な創作能力、演技やトークの表現能力や、研究発明能力や、ビジネスセンスや金銭感覚や、顔だけで世間がお金をくれる「○○シンデレラ女優」の顔立ちの例外的な美しさ(それに演技力が加わったら大女優だ!)など、それを持って生まれてこなかった人にはどうすることもできない天賦のものがある。 私が「この人はスゴイ!」と思うミュージシャンたちは、作曲や即興演奏の感性と世界観が人並み外れて突出しているが、彼らはもともと、音楽的にズバ抜けた能力を持ってこの世に生まれてきて、それを子どもの頃から自発的に鬼のように熱中して研ぎ澄まし続けてきたから、浮き沈みの激しい音楽産業で今も第一線で稼ぎ続けていられるのだ。 どんな業界でも、頂点にいる成功者たちは、「もともと鬼っ子が、それに夢中になって鬼のように続けた結果、その道の鬼になった」存在なのだ。  

私を含めて社会の99%の人は、突出した才能の無い凡人に生まれてきたので、一般社会でなんとか自分の得意なことを生かして働いてお金を得られるように、無意識にそのような道を探しながら生きているのだろう。

 

tokyotoad