スガダイロー氏のツイッターに、
北海道は網走を拠点に音楽活動を行っている
田村まさか氏に関するツイートを見かけた。
唯一無二の圧倒的な世界観でジャズの地平線を押し広げ続ける
スガダイロー氏の視点に敬服しっぱなしの私は、
すぐさま、この
田村まさか氏についてググった。 そして、
さすが、スガダイロー氏の稀代の芸術的琴線に触れた
田村まさか氏だ!と思ったのである。
ちょいと冷やかしがてらに、この記事末尾に貼りつけた田村氏のライブ動画を再生してからずっと聴き入っている私が、ここに居る。
もしも、子どもの頃に習った近所のママさんピアノ教師が、
このライブ動画冒頭の田村氏のクラシックピアノ演奏に対して
「音を間違えた...」と彼女が言いかけたその瞬間に、
私は、エルボードロップクラスター鍵盤叩きを、鍵盤じゃなくて
彼女のアゴめがけて一発お見舞いして即座に黙らせるよ。
「内声が大きすぎ...」と彼女が言わんものなら、いま一度
エルボードロップクラスタークラッシュ!をお見舞いして二度と言えないようにしてやるよ!
そんなねぇ、「楽譜どおりに間違いなく弾きましょう!」なんていうねぇ、
夏休みの子どもプールみたいなションベン臭いピアノのお稽古なんて
網走湖の北に広がるオホーツク海に放り捨ててクリオネに喰われてしまえ!
である!
「幼い頃からクラシックピアノを練習し続けて音大まで卒業したのに、
人前で披露する機会が無くて...」
なんて言ってばかりいる自称音楽家のみなさんは、
田村まさか氏のライブから学ぶものが有り過ぎるだろう。
なんせ、
田村まさか氏は、網走のホテルのロビーで、
イベント仕事が入らない限り毎晩!毎晩だよ!グランドピアノやアップライトピアノやオカリナを駆使したライブを自ら企画開催して、
ホテルの宿泊客に楽しい音楽のひと時を与え続けているのだから。
動画によると、もう10年も!このホテルのロビーという表現の場所を確保し続けているそうだ。 音楽を生業(なりわい)にする人なら、「これはスゴいことだ!」と思うはずだ。 それに、基本的に毎晩、10年間もホテルのロビーで、義理もコネも、実質的なパワハラ強制動員も効かない、まったく見ず知らずの一見(いちげん)の宿泊客相手に、表現活動を続けてごらんよ、場数を踏みすぎるほど踏みすぎた末に確立した如才ないトークスキルでお客さんを離さない!
もちろん、ギャラが発生しているかどうかは分からない。
それに、網走のホテルの宿泊客は、夕飯を食べた後にホテルの近くで遊べる場所がそう多くはないだろうから、網走刑務所さながらに網走のホテルに監禁状態で、他にめぼしいエンターテインメントもないような場所であることも、なくはないだろう。
だが、それを押しても、である!
毎晩毎晩、ホテルのロビーの楽器を駆使してお客さんを楽しませる表現活動を続ける田村まさか氏に匹敵するような、実のある表現活動をしている自称音楽家が、この世にいったい何人いるっていうんだ? しかも自らロビーのピアノの調律もするという、無敵な人である。 最初は調律のバーターとしてのステージだったのかどうかは知らないが、今や田村氏のステージはホテルにとって欠かせないキラーコンテンツではあるまいか。
田村まさか氏は、芸術家に死活的に必要な要素を持っている、というか、百貨店の営業やその後のエンターテイナー人生を通して、世の中に揉(も)まれるうちに後天的に培ったのかもしれないが、それは:
① ライブ冒頭の「つかみ」で、誰でも一度は聞いたことがある、親しみやすくてお腹の消化に良さそうな定番クラシックピアノ曲を演奏して、ロビーをうろつく気まぐれな宿泊客の耳元に癒しの音楽をとどけつつ、ステージ前の席に引き寄せる。 「お腹の消化に良さそうな」選曲が、重要ポイントである。 ホテルの夕食でカニやホタテなど北海道の名物をたらふく食べた後に、宿泊客たちが満腹感にひたりながらなんとなくロビーの土産物コーナーをひやかしたりという時間帯のライブである。 そんな頃合いに、もしも、リストのメフィストワルツとかドビュッシーの西風のなんとかとかメシアンのなんとか鳥みたいな、宿泊客の胃腸がひっくり返るような曲を弾いてごらんよ、お客さんたちの胃袋はビックリ仰天!⇒ゲロ吐きまくってホテルのロビーは阿鼻叫喚の地獄絵図になってしまうことだろう。 田村まさか氏はそこんところをよくわかっていて、いかにもお客さんのお腹の消化に良さそうな、優しくて穏やかなクラシックピアノ曲ばかり演奏して、宿泊客のお腹も幸せにこなれて部屋に返ったら安らかな眠りにつくこと請け合いだ。 そして、
② 北海道ゆかりのヒットソングを郷愁のオカリナで演奏して、北海道に旅行に来た宿泊客たちの旅情をいやがうえにもかきたてる、選曲の妙、 そして、
③ ①と②と、安定感バツグンのトークで、すっかりお客さんの心をつかんでから、いよいよ満を持して自分の自作のオリジナル曲を聴かせる。 その頃までには、さいしょはロビーの土産物コーナーをうろつきながら冷やかし半分に耳を傾けていた宿泊客も、田村まさか氏の音楽世界に完全に取り込まれてしまって、もはや椅子に腰を落ち着けてじっと聴き入るばかりである。 そして、田村氏のオリジナル曲が、一見誰にでも作れそうな、シンプルでやさしい、なごみのメロディーの楽曲であることが、北の大地の素朴な郷愁とパーフェクトにマッチして、観客はもはや田村マジックの虜だ! それから、誰にでも作れそうなシンプルな曲に限って、実は、作るのが最も難しいんだ。
スガダイロー氏をしても、いや、日本のジャズ界のフロンティアを果敢に攻め続けるスガダイロー氏だからこそ、演奏ツアーでたまたま宿泊したホテルだったのかもしれないが、田村まさか氏のエンターテイナー魂に、同業者として心打たれたのだろう。
「クラシックピアノを何年も習っていても、いつまでたっても上手くならない」と思っている人は、田村まさか氏が演奏するクラシックピアノ曲から、大いに学ぶことがあるはずだ。
要は、
先生にマルをもらうために心の底から怯え切って弾く、機械のように冷えきったチキンな技巧よりも、「自分の存在をさらけ出して聴く人に喜んでもらいたい!」と思う熱い芸人魂こそが、芸術表現の真髄なのだ。 人前での芸術表現で人を感動させたければ、自ら喜んで人前で自分の全存在を自ら屠(ほふ)って芸術の神さまに生贄(いけにえ)に捧げる人柱(ひとばしら)、つまり「芸人(エンターテイナー)」にならなければ、絶対に人を感動させることはできない。 表現者が、観客の前で、観客の歓びのために、自らの存在を生贄に捧げるとき、ミスタッチやブレた拍子キープなんていう目くじら立てることすら屁(へ)にもならないものなんて消滅してしまって、すべてが神々しい、芸術神に祝福された人間賛歌に昇華して、聴く人の心の中に天国を実現する福音の響きとなるのである。
田村氏の場合、氏の芸人魂にダメを押すのが、「自分の表現活動が北海道の繁栄に少しでも役立てば」という、利他の思いが伝わってくる氏のトークである。 地元のために自らがメディア(媒介物)に徹する、「世のためアティチュード」があるから、通りすがりの見ず知らずの宿泊客が足を止めて聴き入り、地元からオカリナ教室のオファーが来て、ラジオ番組のパーソナリティーを依頼されるようになるのだ。
表現活動とは、その人の人間力である。
そして、
究極的には、
クラシックピアノも、他の芸術表現活動も、日々の会社での仕事業務も、なんでもかんでも、
人生、やったもん勝ちなのである。
そして、人間がチッコい他人の嫉妬の裏返しの嘲笑や偉ぶった指導者のダメ出しなんて「屁(へ)」とも思わずに、
やったもんだけが、
自分を信じてひたむきにやりつづけた人だけが、
どんどん熟達して、本物になるのである。
田村まさか氏はこうも語る: 「今までピアノを50年間やってきたが、マスターするまであと50年、いや100年は必要だ。」 自分を信じて、ひたむきに続ける。 本物の存在の言葉である。
田村まさか氏が、世の全ての表現者にとっての
天上の星になるであろう。
鎌倉出身の、スガダイロー氏である。
鎌倉といえば、
「いざ、鎌倉!」というキャッチコピーが生まれた謡曲「鉢(はち)の木」の
北条時頼(ほうじょう ときより)公である。
執権職をリタイアしてから出家して諸国漫遊の旅に出かけた北条時頼公は、
現在の栃木県は足利市近郊にて、
親族の陰謀によって故郷を追われ埋もれ木のように生きていた
佐野源左衛門(さの げんざえもん)という超有能ハイスペック人材を見出して、鎌倉幕府に呼び戻したのである。
演奏ツアーで訪れた網走市で、
地域に密着して活動する田村まさか氏に着目したスガダイロー氏は、
さすが、現代の鎌倉殿である。
そうこうしているうちに、下記の田村マサカ氏のライブ動画が終わりました:
この動画で視覚的に目が行ったのは、田村まさか氏の手の大きさ・ぶ厚さだ。 ピアノをはじめ楽器の名手たちの手は、例外なく立派だ。