ピアノ方丈記

音楽の彼岸にて【指の健康寿命を気遣いながら!】シニアのピアノ一人遊びの日々

即興演奏(ジャズ)と、譜面再生演奏(クラシック)の、脳内の活動の違い

 

何か月か前に、「弾いていて意図しないキーを不用意に叩いてしまうので、その原因を考えてみた」的な記事を書いたが、

ここ最近は、意図しないキーを不用意に叩くことが極端に減ってきた!

人間ってすごいね~!楽しみながらやり続けるとどんどんできるようになるんだね! 「人間は考える葦である」ってホントだね、「考える」を取ったら「人間は葦である」になって、すぐに風で折れたり踏んづけられたりになってしまうけど、「考える」ことで、強靭な存在になれるんだ。 考えるのを楽しみながらずーっと続けることが、ありとあらゆるものの上達のカギだ。 ちゃんと社会に出て世間様のために全うに働いて成功している様々な人たちが口をそろえて言うように、基本的に自分の性分に合わなくて楽しめないものは、続かない。 続かなければ、やらなくなるんだから、絶対にマスターできない! 何かをマスターしたいのなら、絶対に、自分にムチを打たないこと! 自分にムチを打ち続けると、やがて自分の心の手足が委縮して、動けなくなってしまう。 それでも続けられることは、ご褒美にお金をもらえることだけだ。 でしょ?社会でちゃんとキャリアを張ってお金を稼いできたベテランの皆さん。 お金をもらえないどころか収支がいつも持ち出しになってお金が出て行くばっかりの趣味道楽では、とにかく楽しんで、とにかく続けて、そして絶対に諦めずに自分自身でやり続けること。 これに尽きる。 ちなみに、自分自身で汗かかずに習い事にお金を払って漫然と通い続けているだけでは、あんまり上達しない。 ノウハウやスキルは、お金を手放すだけでは、買えない。 キモは、自分自身で汗かいてやり続けることだね。 

 

セロニアス・モンクが「間違った音は存在しない」と言ったが、そうなんだよ! 弾いていて「あ!間違えた!」と思って弾き直したときに、「あれ?間違って弾いた音のほうが良いんじゃない?」ってことが、こんな私でもたくさんある。 モンク大師のこの金言は、そういうことを言っているんだ!ということが、ようやくわかった。 音楽の文法にちゃんと則ったボキャブラリーが増えれば増えるほど、間違った音は存在しなくなっていく。 西洋音楽の進化の道を体験できるひと時だ。 若きハービー・ハンコックが、マイルズ・デイビスのバンドのピアニストだった頃、北欧(ストックホルムだったかな?)のジャズフェスティバルで、ある曲のキメのコードをどういうわけかとんでもなく「間違えた」音で弾いてしまって「ヤバイ!」と青ざめた。 ところが、バンマスのマイルズは「ハービー、今日はシャレたコードをキメてきたな」と思ったそうだ。 そういうものなんだね。 そのライブ映像は、世界のどこかの物好きによって動画にアップされていて、ハービーがそのコードを弾いた瞬間に「ここ!」ってわかるようになっているみたいだね視たことないけど。 ハービーが「ヤバい!間違えた!」と思ったコードは、マイルズの一言で、一転してとても有難い、オーセンティックな至高のコードになったわけだ。 さしずめ、音楽版「はてなの茶碗」だね。 今ではその曲のその部分を「ハービーコード」で弾く人たちが増えているだろうね。 「ハービーコード」にディグっちゃって、「こんどこの曲を演奏するときはこの「ハービーコード」をキメてやるぞっ!」と我を忘れて夢中に練習しまくっているジャズっ子たちが地球上に何人もいるのが見えるようだよ。 ここまで読んできた「ジャズもやってみたいな~」なクラシックオンリーの人は、マイルズ・デイビスハービー・ハンコックの名前を見てもピンとこないか、心のシャッターが下りてしまっているかと思うが、ジャズのアルバムをたった1枚だけ選ぶとしたらコレ!と誰もが思うであろう名盤中の名盤は、マイルズ・デイビスの1枚で、そのアルバムのピアニストがビル・エヴァンズだ。 ハービー・ハンコックは、ビル・エヴァンズの何人か後のピアニストとしてマイルズ・デイビスのバンドに抜擢された、若くしてジャズ界で出世コース間違いなし!だった人で実際に今も現役の大御所だ。しかも、高校までクラシックピアノを習って、モーツァルトを演奏してアメリカの何かのコンクールで一等になって、その賞としてフィラデルフィア交響楽団と共演した人なんだ(そして、その経緯において、ハンコックは、フィ交響楽団から吐き気をもよおすような胸クソ悪い人種差別を受けた)。 

 

「自分が音楽で、ピアノでやりたいことは何か?それができるには何を強くしたらよいか?」について考えながら50代の5年間独学で続けてきて、自分でも「やればできるんだなぁ!」と感無量だ。 今の状態で5年以上前に戻って喫茶店でボランティアピアニストしたらずいぶん楽な気持ちで弾けただろうね。 コロナで世の中が変わってしまったのと、世の中いろんな人がいるから、もう人前で弾くつもりも必要もない。 これからも一生つづけていけば、自分のやりたい音楽の理想にもっと近づけるだろう。  

 

この頃は、ジャズなど即興で演奏する人たちの頭の中の動きが、ようやくわかってきたように思う。 音楽の主権を自分が握って、頭の隅々までクールに落ち着いて演奏しているんだね。 ジャズのアマチュアのみなさんの即興演奏でもそう。落ち着いた鍵盤さばきが大人の演奏って感じでカッコイイ! ひるがえって、自分はどうだろう? つい最近までは、調教師のムチにおびえるサーカスの玉乗りの子熊のような気持ちでビクビクして弾いていたなぁ、と思って、もうやんなっちゃった。 演奏中のあの焦りは何なんだろう?「楽譜に書かれた音を間違ってはならんのだ!一音たりとも!ミスタッチ=人間失格!死ね!おまえにとってこの世は終了!」という世界は、人間的じゃないなぁ。 もちろん、演奏してお金を稼ぐプロは違うけど、一流のプロでも間違える時は間違える。でも普段の演奏がスザマジイから、たまに間違えると「ああこの人も人間だったんだなぁ」って逆に安心する。人間だもの。相田みつを。 演奏がいつも完璧すぎると、「この人長生きできるんだろうか?」って逆に心配になるよ。 とあるモノ凄いバンドのメンバーで「この人は人間かっ!」みたいな超高速で超精密なアドリブ演奏を涼しい顔して平然と行う、ある楽器奏者の人、40歳ぐらいで亡くなった。 怖くなるくらい高次元の音楽を創りだす超一流のミュージシャンの人たちには、ぜひとも長生きしていただいて、たくさんの素晴らしい音楽をこの世に残して欲しい。

 

落ち着いて弾けるようになったのは、音楽の主権をだんだん取れてきたからだろう。 それに、姿勢が良くなって音が良くなったせいもあるだろうね。 でも即興で弾くときは、まだ前頭葉で考えながらだから、気がつくと姿勢が悪くなっている。 前頭葉で考える必要がないくらいに音楽の主権を取れるようになったら、姿勢も良くなっていくだろうね。

 

ここまできて痛感するのは、即興演奏をしたいならヘタにあんまりクラシックをやらないほうがいいんだろう、ということだ。 もし私が子どもの頃にピアノを習っていなかったら、もっと早く簡単に即興演奏ができるようになっていただろう、と思う。 ジャズや、ポップスのアドリブ演奏といった、即興演奏に必要な音楽文法やボキャブラリーと、それを脳内で回すための脳の活動が、クラシックピアノを演奏するときと、本質的にぜんぜん違うんだね。 使う脳の領域がぜんぜん違うと感じる。

以前ピアノ会で、楽譜を読むのが苦手で音符にぜんぶアルファベット記号を付けていた人がいた。 私は、その人の気持ちがわかる。 そして、そういう人は無理して楽譜を使う必要は無い、と思う。 おそらく楽譜が必要無い人なんだと思う。 音を耳から聞いて認識する能力が優れているから、わざわざ目で音楽を読んで楽譜の視覚情報を聴覚情報に変換して脳で認識する手間が煩わしいんだろう、と思う。 楽譜を「読めない」んじゃなくて、楽譜を「読む気が起こらない」んだよ。 世の中にはそういう人がいる。 楽譜を使わずに演奏したほうが、楽譜どおりに演奏するよりも、ずっと豊かな音楽を演奏できる人たちが、たくさんいる。 音楽業界でまっとうに雇われてちゃんと仕事をしているプロの演奏家の場合は特にそうだ。 私が「この人はスゴイ!」と思う売れっ子のケンバニストさんたちは、リードシートだけで、もの凄い音数の即興演奏を縦横無尽にやり続ける。ライブの2ステージだけで2時間ぐらい、売れっ子だからライブの仕事が連日入っているから、日々ものすごい数の音を即興かつ高速で紡ぎ出し続けているわけだ。 彼らの演奏を忠実に譜面に起こしたら、繰り返し記号でハショレないからいったい何ページ続くのかわからないページ数になって、しかも各ページがおびただしい音符で真っ黒になった、black midi さながらの見るも恐ろしい戦慄の楽譜になることは確実だ! 要は、神の領域の音楽ってことだ。 音符がタテヨコにおびただしく記録されたその楽譜を、おそらく再生演奏できる人間はいないだろう(もっとも、即興演奏を再現演奏する意味があるかどうかわからないが)。  

 

楽譜は過去の音楽の記録して後世に伝えたり、合奏のために情報共有するために大変優れたメディアだが、即興演奏による音楽は楽譜情報の上を行く。 ところが、楽譜を読んで楽譜どおりに演奏できるスキルだけが評価され過ぎていて、「楽譜を読めない=音楽ができない」という大変誤った認識がまかり通っている。これを、悪魔の呪いという。 逆に「楽譜がなければ何も演奏できない」人たちのほうが音楽が全然できないのに。 だから、楽譜がなくても音楽を演奏できる人は、そういうニセモノたちからの見当違い過ぎる蔑みや嘲笑の餌食になってはいけない。 「楽譜を読めない者は音楽の才能が無い」と公言する人たちは、自分たちが楽譜が無ければ音楽を紡ぎ出せないから、そう言っているだけなんだ、と思う。そういう人たちに限って「専業先生」になっているから、音楽教育はいつまでたっても、そういう人たちばかりが楽譜を振りかざしてひしめき合うレッドオーシャンなのだ。 楽譜が無くても即興演奏を延々と続けられるような、本当の意味での音楽の実力がある人たちは、レッドオーシャンをかるくすっとばして、ブルーオーシャンで仕事をしている(もちろん彼らは楽譜もちゃんと読める)。 素人でも楽譜は読めたほうがいいが、プロ演奏家にならない限りは初見で再現できる必要はないし、訓練すればある程度はできるようになるものだ。 こんな私でもどこかのピアノ教室で先生ができる程度の初見演奏力はあったよ(子どもの頃に)。 楽譜は便利なものだが、楽譜は全能ではない!ということを認識しておく必要が有る。 楽譜に記載できる情報はとても限られている。 だから、まっとうなプロ演奏家による即興演奏を楽譜に起こす場合に、その音数の多さにびっくりするのだ。 こんな私ですら、自分で弾きながら固めていった日本のポップスの大ヒット曲のアレンジをフィナーレにポチポチ入力して譜面に起こそうと思うと、途方に暮れてしまう。 私が自分のアレンジを譜面に起こし始めたのは、ピアノを再開して習った子どもの頃の先生に真顔で平然と「楽譜が無いものは教えられないわ!」と言われたからだ。 楽譜に起こすことがどんなに手間と時間を喰うものなのか、その先生はたぶん解らないんだと思う。 その先生から参考用に借りたポップスの市販楽譜ぐらいの、スカスカの音数でしかもコピペが駆使できるようなものだったら1日で済むよ。 そして日本のポップスの大ヒット曲を私が音楽出版社から許諾を得てアレンジさせてもらった譜を1週間かかって入力してプリントアウトして持って行って見せたら「どうしてこんなに複雑にするの?」って言われた。 あー、もう、根本的な何かが違うんだね。 先生、ポップスをナメすぎだよ(だから先生は本当の音楽の実力がほとんど無いんでしょ?)。 そんな、楽譜に起こすのに何日もかかってしまうようなアレンジだから、私の場合は、とりあえず自分で弾いて録音しておいて、いつの日か楽譜製作ソフトに打ち込もうという気持ちはあるが、そのうちに、録音データを楽譜に正確に変換してくれるソフトがでてくることを待っているんだ。 でもさ、楽譜にして何かいいことある? 私本人が家の中で個人的に楽しんで弾いていて、私自身は楽譜を見て弾く必要が無いんだもんね。   

 

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