音楽の彼岸のピアノ遊び

大人のピアノ道楽を満喫するピアノ一人遊びの日々

ショパンの曲の耳コピというか「思い出しコピー」とリハモ (その⑤)

 

同じ記事②③④の続き。 よく聞くショパンのメジャーな曲の耳コピというか「思い出しコピー」してみようと思い立って、キーを半音下げて記憶からアウトプットしたコードをベースに、

前々の記事では、

上記の曲(モトのキーはたぶんC#mじゃなかったかな?)で:

① この曲でショパンが狙ったインパクトはこれだよね! 

について、ショパンの絶妙の「チラ見せ&ジラしテク」について書いた。 ベースラインをジリッジリッと半音ずつ上げていき、時にはいったん下がったりしながら、しかも、結末のコードをあらかじめ「チラ見せ」というか「チラ聞かせ」しながら、お客さんの期待を盛り上げていき、最終地点のキメコードの頂上から、右手アルペジオがバラバラバラと降りてくる怒涛の劇的な展開で、お客さんに一気にカタルシスを与えるという、「遠山の金さん」にも通じるエンタメ性に、ビックリしたよ。

そして前回の記事では、

② この曲が当時スゴイ!っと思われた理由はこれかな~?

について、ショパンは「ロマン派」の作曲家っていわれるけど、「ロマン派」って何?なところから、

「ロマン派」の本来の意味は、どっかのよそからやって来た支配者から「野蛮人」と下に見られて見くびられている「この土地に代々住みついてきた自分たちの民族の言葉と文化を誇り高く押し出して表現していこうじゃないか!おれたち民族の土着の文化バンザイ!派」なんだろうね、なんて思って、 

だから、そんなロマン派ショパンの「幻想即興曲」も民族主義的な曲なんだろうね? 

と思いながら、曲冒頭のメロやAパートのキメ部分のメロを頭の中で思い出してみたら、民族的なスケールが使われているようだ!

なんて、いろいろと思いを巡らしたんだよね。

 

今回の記事は、今までの一連の記事の「あとがき」的な内容になるかも。で、書き進める上で、どーしてもモト曲のキーを確認しなくちゃいけないのでググったらウィキに「嬰ハ...」あ、もういいです。「嬰ハ」の「嬰」って漢字、コワイよ...。 だいたい「嬰」って漢字の意味って何? 私は「嬰児」ていう熟語しか思いつかないんですけど。 私的には「C#マイナー」でじゅうぶんです。 ちなみに「フラット」を「変」っていうのもどうして? 明治時代の偉い学者様たちが考えたんだから、ちゃんとした意味があったんだろうね、でも今はその意味を知ってる人いる?  とりあえず、モト曲のキーはやっぱり、C#マイナー だったね。 ←【追記】もしかしたら「嬰ハ短調」の「嬰」って、「女の人に貝が2つ」って、「貝」ってオッパイを表しているんじゃないの?だから「嬰児」って、乳飲み子のこと?シャープは音が上に出っ張るからオッパイみたいに出ているイメージなのかな?じゃあフラットの意味の「変」は?あーまあいいやこれ以上考えるのやめよ。

 

で、どうして、私が今回の「思い出しコピー」を、あえてモト曲のキーを半分下げた Cマイナー(BパートはCメイジャー)にして脳内からアウトプットしたか? というのは、

そうすることによって、相対音感を持っている人とそうでない人をスクリーニングすることになるのかな?と思ったから。 絶対音感だけしか持っていない人たちが篩(ふるい)落とされて、相対音感を持っている人だけが記事を読み進めていくかな、と思ったから。 わたしがアウトプットした半音下げたキーのコード記号の羅列を見て、この曲を弾いたことがあって絶対音感しかもっていない人は、三半規管が乗り物酔いみたいになるだろうと思ったから。 子どもの頃の私がそうだったからね。 小学校の音楽の時間に移動ドで歌のメロディを歌えなかった。

そういう意味では、キーをEbマイナーやGマイナーにしてコードを書いてもよかったんだけど、やっぱりキーをCmにすると、一般的にわかりやすいかなと思ったんだよ。 各コードのアルファベットは基本変えずにシャープをつけるなどして半音上げればモトのキーになるからね。

つまり、Cmのキーで書くことによって、「脳内カポ」を持っている相対音感保持者は何の苦労も無く記事を読み進めることができるんじゃないかな、と思ったんだ。

ジャズの人たちは、「モト曲のキーがC#mなのを、半音下げてCmのキーでコードを書いてるの? はいはい、わかりました。 必要なら半音上げたC#mのキーでアドリブ演奏して楽しんでみるねー! 他にも Ebm や  Gm なんかでもやってみようかなー。」って、何の抵抗も無くスイスイ楽しんでくれると思ったから。

 

私がこの一連の記事を書いた理由は、そこにある。

ジャズ好きの人たちが、「クラシックピアノ愛好家たちがショパンの楽譜を振りかざしながら『お前たちジャズ人に、ショパンがわかるか!』みたいに脅かすもんだから、クラシックは怖いよ~ショパン怖いよ~って思っていたけど、コードに起こしたのを見ると単純明快なコード進行だねー!しかも、ジャズのスケール練習で結構使えるんじゃない? さっそく楽しくやってみよー!」って思うかな? って期待したんだ。

一方、クラシックピアノ一辺倒できた人たちはどうだろうか? ②の記事を読み始めてすぐ、コードが半音下げて書かれているの見て、たぶん、頭の中に記憶しているモト曲と半音ズレている違和感を感じたうえに、「モト曲のキーはC#マイナーだったかな?」だって!?この曲の「調号は嬰ハ短調だ!(怒)」って思った人もいるかもね。 「高尚なクラシック音楽を、低俗なジャズ人やポップス人が使う英語の音楽用語で語るとは!(怒)」って感じて、読み進める気が失せちゃった人もいるかも。 でもね、イギリス人やアメリカ人は、クラシック音楽もジャズもロックもメタルも基本的に英語の音楽用語で語るから、彼らにとってはこの曲の key は C# minor なんだ。 それに私はジャズや現代音楽からいろいろ吸収できたらいいなと思って、それらの本場アメリカの言葉の音楽用語を使ってるからね。 この記事を読んでイラッときた人たちにとってもっと許し難かったのは、彼らが憧れ奉る西洋のピアノ音楽の代表ショパンの代表曲を「遠山の金さん」に見立てたことかもしれないね。 彼らの「名誉白人」的な虚ろな自尊心に桜吹雪をお見舞いするような内容だったかな。 この世で最も安っぽくて哀れな存在は、「名誉白人」的な「虎の威を借る狐」だよ。 江戸時代の実在の奉行を題材にした「遠山の金さん」は、古くから歌舞伎や講談にもなって、テレビ時代劇で一層ストーリー構成が研ぎ澄まされた、日本のテッパンの名ストーリーラインだ。 自分の文化をバカにする一方で、どこかの異質の宗教&文化に土下座してばかりのマインドセットでは、何をやったって虚ろな根無し草だ。 自分の存在の核が欠落しているからだよ。 中心にポッカリと寂しい風穴があいている人間は、すぐに他の人からそれとわかってしまう。 だから、どんなに誰かのマネをしても、誰かのフリをしても、いつまでたっても世界から認められないし、尊敬もされない。 世界はね、日本の音楽の核を見たかったんだと思うよ。 でもね、当の日本の音楽家たちが西洋音楽を語るばっかりだから、内心ガッカリしていたんじゃないかな。 ジャズや現代音楽の世界も、ずっとそうかもしれない。 じゃなきゃどうして、「インセン」がジャズの理論書のスケールに載ってるの? 「ヒラジョーシ」が現代音楽の代表的な理論書に載ってたり、メタルのギタリストたちが練習してるの? ひるがえって、これらを知っている日本人の音楽家様たちが、ピアノの先生様方を含めて、いったいゼンタイどれだけいるの? 

話がそれちゃったけど、ショパンの作品をどう煮て食おうと焼いて食おうと放り投げようと、その人の勝手だ。 本人や関係者の著作権がとうの昔に失われた、つまり経済的に価値が無いパブリックドメインにあるショパンの作品を、誰がどう扱っても、誰も怒ったり文句を言える筋合いは無い。 あんた、ショパンのいったい何なのさ? 

 

そして、ショパンのこの曲を弾くクラシックピアノ愛好者たちは、「紙の上に印刷された音符を見る視点とは違う視点から、音楽を把握する人たちがいる」ということを知ったかもね。 私は、ショパンのこの曲の楽譜を見たことがない。 子どもの頃のピアノのレッスンで、この曲をやらされる前に逃亡したからね。 だから、この曲のキー(調号)すら、あやふやだった、という始末だ。 でも、今までに何度か聞いて脳内に残っていた記憶をベースに、どんなキーでもコードを書き出すことができる。 私はプロの音楽家ほどは耳が良くないから、違っているコードやメロディラインもあるだろうが、大体はこんな感じでしょ? 違って覚えていたところは、私によるリハモ&インプロってことだね。 コードが耳コピできると、上に乗っかるメロディやインナーヴォイスもかなり正確に耳コピできるはずだ。 私は、この曲、コードもコード進行も直球だから、ベースラインやメロディやインナーヴォイス(というか各コードをバラし弾きしている音)ぜんぶをモト曲のキーで譜面に書けると思う。 もちろん曲のテンポが速いから、音源をゆっくり再生することになるとおもうけどね。 私ごときがそうなんだから、世にあまた存在する、本当の意味での音楽巧者や、当然ながら、音楽産業のトップで活躍している一流以上のプロのひとたちは、難なくこの曲を完コピできるはずだ。 私が「この人はスゴイ!」って思っているケンバニストさんたちは皆ラクショーで耳コピするはずだよ、だって、彼らは、この曲よりもっと複雑な、20世紀以降のハーモニーに基づいたジャズ・フュージョン・ポップスの分野で一流の人たちだから。 

私や他の多くの人たちのように、別に楽譜がなくても今回のようにショパンの曲を楽しめるのは、ショパンの曲のおおもとの情報形態が音情報だからだ。 楽譜は、おおもとの音情報を紙の上に記録したもの。 つまり、楽譜のほうが後付けの存在だ。 録音技術がなかった時代の作曲家の作品を記録して後世に伝えるために、楽譜は素晴らしいメディアだけど、録音技術が存在する現代に、録音を何回も聴けば、おおもとの音情報から音楽を把握して記憶する人たちが出てくる。 音楽を記録するメディアとして、楽譜・録音につづいて、DTMが加わっただろう。 パソコン上で音楽を操作することができるようになって、DTMリテラシーは音楽で食べるプロには必須だろう(いいなぁ私もDTMソフト欲しい...)。 それから、音楽を把握する方法は楽譜を凝視してばかりの他にも有る。 ジャズギターやメタル好きのギター愛好家だったら、おおもとの音情報を聞けば、コードばかりか、ショパンが使ったスケールまでも瞬時に想像するだろう。 これは、ギターが、弾く人に、コードとスケールの鬼になることを要求する楽器だからだろう。 ピアノ弾きじゃないのにクラシックピアノ愛好者よりもショパンの曲を分析的に聞いちゃう人たちが、いるんだよ。 これが音楽の楽しみの、真骨頂なんだ。 もちろん、単に楽譜を見て、そのとおりに再現演奏できることも、スゴイと思うよ。 でもさ、この曲を何度か聞いてコード進行を何となく覚えて自分の好みのキーでアウトプットして曲の構造に思いをめぐらしたり、ショパンが意識したかもしれないスケールを想像してみたり、この曲のコード進行をつかってアドリブ演奏したりという、大きな楽しみを持っている人たちが存在する。 私だけじゃないと思うよ。 クラシックピアノのお稽古一辺倒でやって来た人とは全然違う座標軸でショパンを楽しもうと思えば楽しめる人たちが、この世にたくさんいるはずだ。

 

とはいっても、そろそろ私も、悲愴な耳コピ作業に戻るとするよ。 私が「この人はスゴイ!」と思うケンバニストさんたちのひとりのオリジナル曲の耳コピ。 この人の曲を聞いただけで脳内に取り込む音楽力が私には無いから、五線紙にメロディとコードを書き留めて、なんとか覚えたいよ(涙)! でも、書き留めたメロディを一音一音なぞって弾くうちに、はは~ん、このスケールの音をこういうふうに散らしているんだな、上手いな~! って思ってきた! それに、このケンバニストさんはギターも弾くからなのか、スケールやモードの引出しが多いね。

 

さいごに、仮に、これら一連の記事を読んで「自分もスケールなるものを知っておかなければ!」って焦ったかもしれない、クラシックピアノ人さんがいたとしたら、その行為は無駄かもしれませんよ、って私は言いたい。 楽譜をなぞって楽譜どおりに弾く行為において、作曲家がどの旋法を使ったか、ここは何終止か、この和声進行は...なんて知っている必要は無いもの。 その証拠に、そんなこと全然知らなくても、貴方は今までバラバラとその曲を問題なく弾いてたでしょ? 私だって、子どもの頃のクラシックピアノのレッスンは「楽譜どおりに間違いなく弾けること」で、アナリーゼなるものなんて申し訳程度に一回かそこらだけだったもん。 知ってれば楽しいと思う人もいるけど、知っているだけで楽譜どおりに弾けなければ、なんにもならないのが、再現芸術になってしまったクラシック音楽だ。 音楽の構成に関する知識やノウハウは、実際に音楽を生み出す作曲家の先生がちゃんとわかってやってくれてさえいれば、それで十分なんだ。 黄色い楽典の本を何度眺めてもぜんぜん頭の中に入ってこないのは、楽譜を再現するだけの行為に音楽理論は基本的に必要ないからだ。 これを反対側から見れば、ジャズやポップスのアドリブ演奏といった、即興演奏を行う人たちは、自分で音楽文法を会得したうえで、それを使って自由に音楽を創作できなければ、なんにもならない。 だから彼らは、コード進行やモードといった音楽理論に敏感に反応する。 その裏返しで、彼らは、作曲家が細部まで音を指定した二段構えの楽譜をそのとおりに再現演奏する行為に意味を感じない。 作曲するのは自分だから、たとえその曲を書いたのがショパンであっても誰であっても、自分が最も楽しみたい作曲行為(=創作活動)を既に誰かにやられてしまった結果を印刷したクラシック音楽の楽譜そのものに、最初から興味が沸かないんだよ。 興味が沸かないから、見ないし弾かない、だから、「楽譜を読むのが苦手です」となるわけだが、そう言うことによって彼らが意味しているのは「私は、自分で音楽を作り出す作曲行為が好きなので、どこかの誰かが既に作った音楽を紙に書いたものをそのとおりに再現演奏する行為には興味がありません」だ。  

それから、クラシックピアノ人は、次回ピアノのレッスンに行ったときに、ピアノの先生がやにわ「ショパンのこの曲のメロディの最初の旋法は○○...」なんて言い出しても、ビクつかなくていいと思う。 もしかすると、どっかでいきなり見かけたシロート情報を、さも自分が知っていたかのように、かまびすしく唱えることで、自分の存在を大きく見せて生徒を威圧しようとする無意識のなせる技かもしれないからね。 そういう場合は、ぜんぜん違う曲の楽譜を取り出して、「じゃあ先生、この曲のこのメロディーの旋法は何ですか?」って聞いてみるといいよ。 目の前の先生が、付け焼き刃じゃなくて、本物の音楽の知識を持っている正真正銘の本物の先生だったら、いきなりどんな曲のどんなメロディーを持ってこられても即答できるはずだ。 何かを人に教えるっていうことは、そのくらいの知識と経験の集積があって、はじめて可能になるものなんだよ。 この一連の記事で私がメロディからスケール(モード)を想像したのは、5年くらいかけてそれなりの数の種類を覚えて去年からそれらをアドリブでようやく使えるようになってきたから(それでも、まだ全然使えていないよ...orz...)。 ジャズ人は、そういうことを何年も何十年やり続けているから、瞬時にわかるようになる。 とりわけギター人は、ジャズピアノ人が一般に覚えるよりももっとたくさんのモードに接するから、とりわけモードに敏感になる。 楽譜という、作曲家の脳内から音となって発現した結果を書き留めた二次元の紙の後ろに広がる三次元の世界は、作曲人やアドリブ人や音楽理論人やガチな音楽鑑賞好きがやればいいことだ。 再現演奏人が知っていても損は無いけど、再現演奏人はまずは完璧に再現演奏できなきゃはじまらないでしょ。 それに、だいいち、私が言及したあのスケール(モード)をショパンが意図して使ったかどうか、私は知らない。 パッシングトーンをくっつけた他のスケールかもしれないし。 「高名な○○教授によると、ショパンのこの曲のこのメロディの旋法は△△です!」で先生が言ったとしてもさ、もしかすると、ショパンは何にも言っていないのに、ショパンの死後、後世の「高名な○○」がそう「解釈」した情報に過ぎないかもしれないし。 世の中こんなことばかりだ。 何が正しいか、正解は何かなんて、大人の世界はそんなに白黒ハッキリしてなんかいないことは、大人なら誰でも知っている。 音楽理論の種類は音楽理論家の数だけあるともいわれる。 人の唱えることを額面通りに受け取って振り回されてばかりでは、自分にとって一番重要な、自分の存在を、つまりは自分の人生を粗末にしてばかりの人生になってしまう。 それじゃぁせっかく人間に生まれてきた甲斐がないってもんだ。 大切なのは、他人の言うことは言うことでそれなりに脇に置いておいて、なにはなくとも自分自身で、自分の経験値に照らしてそれらを検証したり、他の情報と比較検討したりしながら、自ら試行錯誤を行って、自分なりに納得できる考えを持って、自分の人生を歩き続けることだ。 それが、大人のやり方だ。 

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↑ 不本意にもこんな野暮なことを書かなければならないのは、過去にちまたのピアノの先生方に、この記事の内容をパクったブログ記事を挙げられたことが何度かあったからです。 トホホ...。ピアノの先生さんたちよ、ちったぁ「品格」ってぇもんをお持ちなさいよ...。

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このブログ「おんがくの彼岸(ひがん)」は、私 tokyotoad が、中学卒業時に家の経済的な事情で諦めた(←諦めて命拾いした!と、今しみじみ振り返って背筋がゾッとしている)、「自分の思いのままに自由自在に音楽を表現する」という夢の追求を、35年ぶりに再開して、独学で試行錯誤をつづけて、なんとかそのスタート地点に立つまでの過程で考えたことや感じたことを記録したものです。

「おんがくの彼岸(ひがん)」というタイトルは、「人間が叡智を結集して追求したその果てに有る、どのジャンルにも属さないと同時に、あらゆるジャンルでもある、最も進化した究極の音楽が鳴っている場所」、という意味でつけました。 そして、最も進化した究極の音楽が鳴っているその場所には、無音静寂の中に自然界の音(ホワイトノイズ)だけが鳴っているのではないか?と感じます(ジョン・ケイジはそれを表現しようとしたのではなかろうか?)。 西洋クラシック音楽を含めた民族音楽から20世紀の音楽やノイズなどの実験音楽まで、地上のあらゆるジャンルの音楽を一度にすべて鳴らしたら、すべての音の波長が互いにオフセットされるのではないか? 人間が鳴らした音がすべてキャンセルされて無音静寂になったところに、波の音や風の音や虫や鳥や動物の鳴き声が混ざり合いキャンセルされた、花鳥風月のホワイトノイズだけが響いている。 そのとき、前頭葉の理論や方法論で塗り固められた音楽から解き放たれた人間は、自分の身の中のひとつひとつの細胞の原子の振動が起こす生命の波長に、静かに耳を傾けて、自分の存在の原点であり、自分にとって最も大切な音楽である、命の響きを、全身全霊で感じる。 そして、その衝動を感じるままに声をあげ、手を叩き、地面を踏み鳴らし、全身を楽器にして踊る。 そばに落ちていた木の棒を拾い上げて傍らの岩を叩き、ここに、新たな音楽の彼岸(無音静寂)への人間の旅が始まる。

tokyotoadのtoadはガマガエル(ヒキガエル)のことです。昔から東京の都心や郊外に住んでいる、動作がのろくてぎこちない、不器用で地味な動物ですが、ひとたび大きく成長すると、冷やかしにかみついたネコが目を回すほどの、変な毒というかガマの油を皮膚に持っているみたいです。