音楽の彼岸のピアノ遊び

大人のピアノ道楽を満喫するピアノ一人遊びの日々

正真正銘のプロの音楽家を見つけた(その②)

 

前回の記事を書いたきっかけは、偶然あるテレビ番組を視たことだ。 

 

その番組の画面に映った、あるヒット曲を歌唱し伴奏している「音楽家」の一群を見て、「10人近くで歌っているのに、彼らのパフォーマンスが、駆け出しの演歌歌手1人分よりもこちらの心に伝わってこないのは、どうしてだろう?」と、思ってしまったのだ。 それから、連弾のピアノ伴奏についても、「2人がかりで1人分の音楽も奏でていないんじゃないのか?」と思ってしまった。 つまり、費用対効果の絶望的な悪さを感じてしまったのだ。 テレビに映った画像が札束の山に見えてしまったわりには、成果物の芸術コンテンツが全然こちらの心に刺さらない。 まるで「他人事(ひとごと)」のように歌い弾く彼らの映像は、10秒と見ていられない。 おそらくそこらへんのこと(訴求力の弱さ)をテレビ局もわかっていて、これらの音楽家さんをピン芸で出してはとても映像と音楽がもたないから、歌唱を合唱形態にして、しかもピアノ伴奏まで1台を2人に連弾させて(ピアノの発表会みたいだよ...)、画面に移り込む音楽家さんの頭数をなるべく増やして「数のパワーで勝負」しようとしているのだろうが、それでも駆け出しの演歌歌手一人の一生懸命のアピールには勝てないし、ましてや、石川さゆりさん本人が一人で歌う「津軽海峡冬景色」にかなうわけがない! 品質が劣る商品の数のパワーは、最高品質の商品1個の足元にも及ばない。 大量生産の包丁を10本使って切っても、日本の名工が作った包丁1本の切れ味のようにはトマトは切れない。 品質の性能イコール値段だ。 歌や演奏に限ったことではない。「数のパワー...」の音楽家のみなさん全員の衣装の金額の総額で、石川さゆりさんの衣装の着物の正絹の帯一本すら買えるかどうか...。ちゃんとした着物はベラボーに高いよ。 そんな「数で勝負!」の音楽家の皆さんが映る画面が札束の山に見えてしまったのは、画面に映っている「音楽家」のみなさん全員が音大出身者である場合は、彼らを音楽家にするために投下されたコストは、学費だけで総額1億円にはなるだろうからだ。 

 

じつは、このテレビ番組の制作そのもの費用対効果は悪くないと思う。 出演しているこれらの「音楽家」さんたちへの謝礼はいくらだろうか? 歌ごとにとっかえひっかえ出演してくる総勢のべ数十名の「音楽家」への謝礼の合計総額は、おそらくは、若手の演歌歌手1人のギャラより少ないのではなかろうか。 ビジネスはお金にシビアだから(当然のことだが)、彼らに支払われる金額が彼らの市場価値だ。 無名の音楽家さんたちは、「テレビに出演して歌わせてもらえる!」というメディア露出の機会自体に既に大きな価値を感じているだろうから、テレビ局側は足元を見て、その分を差し引いた僅かな金額しか彼らに支払わないだろう。 このテレビ番組の勝者は、低コストの演者を使ってある程度の尺の番組を低予算で制作させ、高齢者向け通販健康食品の広告主からCM広告収入を得ているテレビ局だ。 原曲を歌う当の歌手本人たちを出演させれば彼らの高額なギャラで予算が到底合わないし、彼らの歌唱映像を流せば肖像の使用料等の支払いが発生する。 彼らの所属事務所の大後輩の駆け出しの若手歌手に代わりに歌わせればギャラは抑えられるが、どっちみちご本家たち本人ではないし、その割には何がしかのギャラを芸能事務所に払い込まなければいけない。若手とはいえ、彼らはプロの歌手だから。 であれば、「どっちみちご本家が歌わないのだから、コストが安上がりなほうがいい」という考えにもなろう。 とにかく低予算で尺のある歌謡番組を仕立てようと思えば、無名の「音楽家」たちに声をかけて、彼らが欲しい「テレビという強力なメディアへの露出」と引き換えに彼らにタダ同然で歌わせれば、原曲の作詞家・作曲家への著作権使用料の支払いだけで済む。 おそらくテレビ局は制作した番組コンテンツの著作権を握っているだろうから、「音楽家」さんたちは、収録のために何日も前から一生懸命練習して、どこかでスタジオを借りて合同リハーサルを重ねて衣装も自前で用意して...という自分のマンアワーやその他のコストをつぎこんだ割には、もらえる謝礼は僅少だし、自分の晴れの舞台の映像を他で使用することもできないはずだ。 「あの番組に出演しました!」と、彼らの親兄妹や親戚縁者や知人友人や彼らのお教室の生徒とその親御さんたち...という彼らの実際の「お客さん」にアピールできる実績も、次から次に似たような音楽家たちが佃煮(つくだに)のように登場するたびに、メディア露出の価値もどんどん希薄化してしまう。 音楽家の皆さんの歌唱スキルやピアノ伴奏の技術は、音楽教育の世界では高いのかもしれないが、指導されたとおりの技量でどんなに楽譜に正確に歌い演奏しても、技術だけではどうにもならないことがよくわかってしまう番組だ。 とどのつまり、どこの誰ともわからない「音楽家」たちが、自分の持ち歌でもないアカの他人の有名歌手のヒット曲の楽譜を、どんなに正確に、どんなに正しい発声で、どんなに束になってどんなに完璧に歌ったとしても、本家にはかなわない。 売れっ子作曲家の先生からその曲を頂いて、文字どおり宝物であるその曲を命を賭けて歌い込み、日本各地のレコード店の店頭やネオン街の盛り場やデパートの屋上などで歌い歩いてショービジネスの現実世界で場数を踏んで、執念をかけてヒットさせた当のご本人の代わりができるはずがないのだ。     

 

これに対して、

私がよく見る歌謡番組は「プレイバック日本歌手協会歌謡祭」だ。 昭和の演歌や歌謡曲の大御所やベテラン歌手たちが自分の往年のヒット曲を歌う過去の歌謡ショー番組の録画を流しているだけの、コンテンツ使いまわしの究極の低予算番組だが、なにしろ、国民的なヒット曲を出すほどの歌唱力とオーラを持った当の歌手本人たちが自らのヒット曲を歌いあげるから、画面に目がクギづけになって見入ってしまううえに、録画までして「この人はスゴイ!」「この楽曲はスゴイ!」と感動したステージを何度も見てしまう。 彼らの中で音大出身者は菅原洋一さんぐらいではなかろうか。 当時の音大出ということは、菅原さんはたいへんなお坊ちゃまだろうが、音大に通ったコストを既に回収して余りあり過ぎる音楽キャリアを現在も継続中だ。 他の大半の大御所歌手に共通しているのは、作曲家など音楽業界の仕掛け人のもとで歌のレッスン修業をしながらキャバレーまわりなどの実際の現場の場数を無数に踏んだ下積み経験の圧倒的な分厚さだろう。 長い芸能人生の間には、心にもないことをしなければならないこともあったろうし、泥水を飲むような思いもしただろうし、人間が嫌いになるような思いもたくさんしただろうし、芸能界の闇も見たことだろうし、お墓の中まで持っていくと心に決めたいろいろなものを抱えていることだろう。 それを生き残って、一群から抜きんでてレコード会社の目に留まりデビューして、更にヒット曲をとばした、10,000人に1人の存在だから、輝くようなスター性を持っているのだろう。 それは、彼らの人生が生まれたときに既に背水の陣だっただろうこと、あるいは、自ら退路を断って背水の陣を敷いて芸能界でサバイバルの戦いをしたことから発しているに違いない。 生まれつき退路を持っていなくて、または、自ら退路を厳しく断って、背水の陣を敷いて泥の中に飛び込み、9,999人が泥の中から出られないなかで、一人だけ、泥から芽を出して、蓮の花を咲かせた存在。 スポットライトが明るければ明るいほど、スポットライトが当たらない部分の闇は暗い。 スポットライトの明るさと後ろの闇のコントラストが強いのが、お茶の間に名前が浸透するレベルの一流のプロの音楽家だ。 光と闇のコントラストは、音楽家という生業における、夢と現実のギャップだ。 光の部分は、音楽家がお客さんに与える「夢」の部分だ。 そこに、プロの音楽家の付加価値が存在する。 音楽で自活していない自称音楽家は、そのコントラストが弱いか、無いか、あろうことに闇の部分のほうが明るい人もいる。 自称音楽家のパフォーマンスには「夢」の部分がないから、彼らの付加価値は半人前で、だから、何人も束になって歌唱した歌の力が、駆け出しの演歌歌手1人分にも及ばなかったり、1台のピアノを2人がかりで連弾しているのに出ている音楽のパワーは半人分ということになってしまう。 それは、自称音楽家たちは、生活基盤の退路(セイフティーネット)を与えられていて、背水の陣で音楽活動をしていないからだ。 彼らの余裕が、彼らの「他人事(ひとごと)」のようなパフォーマンスを生み、だから「夢」を生まないのだ。 それは、ある意味とても恵まれたことだ。 「自称音楽家」なんていう、金が出て行くばかりの実質素人/趣味人のような贅沢な生き方は、退路を持っていなければ、とてもできない。 その退路を棄てて、背水の陣を敷いて、暗闇の中で自分の頭で必死に考え、もがき続け、ステージスキルと戦略を練り上げ、自分の命を燃やして、つまりは自分の命を張って、なんとか光を発することができるようになって、お客さんに「夢」を見てもらえるようになれば、音楽だけで食べていける正真正銘のプロの音楽家になれるだろう。  

 

楽器を演奏するだけで食べていける超一流のプロのミュージシャンになると、たった一人でピアノなりギターなりを演奏しているのに「連弾ですか?」「デュオ?」みたいな規模の音楽を即興演奏で紡ぎ出したり、ステージ上の人数を何度数えても4~5人しかいないのに10人以上が演奏しているようなスケールと厚みと密度の有る音楽を創出する。 弦・管・ギター・ベース・ピアノ・ドラム各1名ずつのたった6人で、オーケストラに匹敵する(いや場合によってはオケを凌駕する)音楽を創出する超一流ミュージシャンたちのプロジェクトもある。 このような人たちは、スローテンポの曲でも圧倒的なスケールの演奏を実現するので、機械的な速弾きとか音数の多さというよりも、その人の音楽センスの良さと、気(き)と、プロ魂が、音に込められているから、一人で何人分にも聞こえる演奏になるんだと思う。 言い換えれば、彼ら一人一人が創出する音楽の付加価値が非常に高い。 音楽産業はその付加価値に見合ったお金を払っている。 だから、楽器演奏(もちろん即興演奏・作編曲・音楽監督業を伴う)だけで食べていけている、異形ともいえる突出した音楽水準で音楽を創出する真の音楽家は、ほんの一握しか存在しない。 そして、彼らとて、そのキャリアを存続するために楽器演奏以外の大変な努力と気配りをしている。   

 

tokyotoad

 

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↑ 不本意にもこんな野暮なことを書かなければならないのは、過去にちまたのピアノの先生方に、この記事の内容をパクったブログ記事を挙げられたことが何度かあったからです。 トホホ...。ピアノの先生さんたちよ、ちったぁ「品格」ってぇもんをお持ちなさいよ...。

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このブログ「おんがくの彼岸(ひがん)」は、私 tokyotoad が、中学卒業時に家の経済的な事情で諦めた(←諦めて命拾いした!と、今しみじみ振り返って背筋がゾッとしている)、「自分の思いのままに自由自在に音楽を表現する」という夢の追求を、35年ぶりに再開して、独学で試行錯誤をつづけて、なんとかそのスタート地点に立つまでの過程で考えたことや感じたことを記録したものです。

「おんがくの彼岸(ひがん)」というタイトルは、「人間が叡智を結集して追求したその果てに有る、どのジャンルにも属さないと同時に、あらゆるジャンルでもある、最も進化した究極の音楽が鳴っている場所」、という意味でつけました。 そして、最も進化した究極の音楽が鳴っているその場所には、無音静寂の中に自然界の音(ホワイトノイズ)だけが鳴っているのではないか?と感じます(ジョン・ケイジはそれを表現しようとしたのではなかろうか?)。 西洋クラシック音楽を含めた民族音楽から20世紀の音楽やノイズなどの実験音楽まで、地上のあらゆるジャンルの音楽を一度にすべて鳴らしたら、すべての音の波長が互いにオフセットされるのではないか? 人間が鳴らした音がすべてキャンセルされて無音静寂になったところに、波の音や風の音や虫や鳥や動物の鳴き声が混ざり合いキャンセルされた、花鳥風月のホワイトノイズだけが響いている。 そのとき、前頭葉の理論や方法論で塗り固められた音楽から解き放たれた人間は、自分の身の中のひとつひとつの細胞の原子の振動が起こす生命の波長に、静かに耳を傾けて、自分の存在の原点であり、自分にとって最も大切な音楽である、命の響きを、全身全霊で感じる。 そして、その衝動を感じるままに声をあげ、手を叩き、地面を踏み鳴らし、全身を楽器にして踊る。 そばに落ちていた木の棒を拾い上げて傍らの岩を叩き、ここに、新たな音楽の彼岸(無音静寂)への人間の旅が始まる。

tokyotoadのtoadはガマガエル(ヒキガエル)のことです。昔から東京の都心や郊外に住んでいる、動作がのろくてぎこちない、不器用で地味な動物ですが、ひとたび大きく成長すると、冷やかしにかみついたネコが目を回すほどの、変な毒というかガマの油を皮膚に持っているみたいです。