音楽の彼岸のピアノ遊び

大人のピアノ道楽を満喫するピアノ一人遊びの日々

遊べるギター、遊びが許されないピアノ

 

前回の記事で書いた、私が買ったアコースティック楽器向けリズムマシンについて、使い方を紹介する動画を視た。 ある楽器店のギター担当者が説明する動画だ。 

 

動画を視て気がついたのは、そのギター担当者が使う、ある言葉だった。 「このリズムマシンを使って家でギターでいろいろ遊べます」と、動画の中で「遊ぶ」という言葉を何度も使ったのだ。 

 

心がざわついた私は、「ギター 遊ぶ」で検索してみた。 そしたら、たくさんサイトがひっかかってきた。「ギター 一人遊び」という言い方もあるということがわかった。 「ギターの一人遊び」とは、ふだんバンドで活動しているギター弾きが自宅などで一人で弾く場合に使うようだ。 

 

さらに心が、こんどは悪い方向にざわついた私は、「ピアノ 遊ぶ」でも検索してみた。 そして、「ギター 遊ぶ」の検索結果とのあまりの違いようにビックリ仰天してしまったのだ!

 

「ピアノ 遊ぶ」の検索ででてくるサイトは100パーセント、赤ちゃんや幼児にピアノを習わせる内容だった! ピアノで「遊ぶ」のは、まだ二足歩行も言語能力もままならない幼子ということだ。 当然ながら、これらのサイトは年端も行かぬ彼らにピアノを買い与える親御さんたちに向けた内容だ。

 これに対して、

「ギター 遊ぶ」の検索結果は、100パーセント、ギターを買って弾く本人向け、つまり、大人向けの内容だ。

これはとても興味深いことだと、私は思った。 

大人のギター弾きはギターで「遊ぶ」が、

ピアノで「遊ぶ」のは、赤ちゃんや幼児だけなのだ。 言い換えれば、

赤ちゃんや幼児の間はピアノで遊べるけれど、 

小学生ぐらいなると、ピアノで遊べなくなるのだ。 つまり、 

幼児を除いて、

「ピアノは遊ぶものではない!ピアノは練習するものである!」 

と考えられているのだ。 

「ピアノで遊ぶ?とんでもない! ピアノは遊ぶような安易で低俗な楽器ではない! ピアノを弾くためには練習練習また練習が必要なのだ! ピアノで遊ぶことが許されるのは年端も行かぬ赤ん坊か幼児だけだぞ!」 

ということらしい。  

 

そこで、還暦をあと数年に控えた私は、

今後はピアノで遊ぶことにした。 

今後こんりんざい、練習しないことに決めた。 

「還暦」は、生まれてから60年の暦が一回りして、

赤ん坊に戻ることを意味する。 

ピアノで遊ぶ赤ん坊予備軍の私にふさわしいではないか! 

還暦になって赤ん坊に戻る前に、今から予行演習でそうなっておこう!と心に決めた。

 

日本の頂点の超一流ギタリストさんたちのインタビュー記事を読むと、「中学生ぐらいでギターに目覚めて、プロになるまで一日8時間や9時間毎日毎日夢中でずっと弾き続けていた」という回想を見かける。 高校時代、家で夕飯を食べている間もお箸を持っていない時はギターを弾き続けていた人もいる。 ギターを弾くのが楽しくてやめられなかったそうだ。 

一日8時間ギターで遊ぶのを1年続けるのと、

一日30分ピアノを練習するのを1年続けるのと、 

どちらが上達するだろう?  

 

そして、

遊ぶ」とは、一体どういうことだろう? 高度に進化した大脳を持つ人間のすることだ、「遊び」も人間脳をフル活用したクリエイティブな頭脳活動になるのが当然だ。 

遊ぶ」うちに、誰かの曲を耳コピして真似してみたり、演奏方法を工夫してみたり、できるようになるまで夢中で試行錯誤しながら弾き続けたり、雑誌や理論書を読んで「へ~、面白い~!」と思った新しい内容を覚えるまで夢中で延々と弾き続けたり、「あの超一流ミュージシャンみたいに弾けたらいいな」と、憧れのミュージシャンの演奏方法や手癖(とは、あえてイカメシイ言葉を使うなら作曲技法のことです)を分析して時を忘れて真似し続けたり。 

これらは、遊びだ。 夢中で時を忘れて没頭する、つまり仏教で言うところの「三昧(ざんまい)」の境地でやるのが、遊びだ。 誰に強制されたわけでもなく、1日9時間もギターを弾き続けて、食事中もギターを手放せなくなるほど夢中に続けられのは、しいからであって、練習であるはずが無い。

 

三昧(ざんまい)」の境地は、他者比較や劣等感の裏返しの優越感やマウンティングの大元(おおもと)である「ロクでもない自我」を放り捨てて、自分を何もかもさらけ出して自己表現を炸裂させる、芸術表現の境地だ。  だから、 

遊び」を頭ごなしにバカにする人間に限って、人間性に「遊び」が無くて、芸術の素質に乏しいものだ。 

 

遊びは芸術の核心だ。 10,000人に一人いるかいないかの存在である超一流ミュージシャンが「今日のライブ、しみました!」と自分の演奏を「しめた!」と語る理由は、そこにある。 音楽産業の頂点におけるシビアな請負い仕事が楽な筈が無い。 でも彼らは、「しかった!」と言えるほどの圧倒的な実力と鬼のようなプロ意識によって「三昧(ざんまい)の境地」で舞台に臨むのだ。 なにはなくとも、まずは自分がしく演奏できなければ、自分を雇ってくれたクライアントの歌手やソリストしくパフォーマンスできず、音楽のしさがお客さんに伝わらないことを、彼らは知っているのだ。 「しい」や「音」の「」には「白」という漢字(というか正確には殷字)が使われている。「白」の字源は「人間の頭蓋骨」だ。 「人間の頭蓋骨」イコール「死」だ。 圧倒的な実力と経験とプロ意識を持ちながら自分を放り捨てて明鏡止水の死の境地で舞台に臨むのが「」だ。 これが一流以上のプロのレベルだ。

別の言い方をすれば、

「自分の演奏でイッパイイッパイの余裕ゼロのレベルで、自分にしがみついて演奏するのは、その演奏で到底カネをもらえない素人仕事だ」 

ということである。  

 

 

ピアノが「練習しなければならない楽器」にならざるをえない宿命的な理由は、ピアノという楽器が高額な商品だからだろう。 

ギターは、入門モデルであれば、中学生になって今まで貯めたお年玉や、高校でバイトをちょっとすれば買える値段だ。 

ピアノはそうはいかない。  

未成年者がピアノを買うことは、不可能だ。 

中学生も、高校生も、大学生になっても、

学校そっちのけでバイトしまくってかなりまとまったお金を貯めるか、あるいは、親からまとまったおカネをもらって金融市場に投資したり自ら学生企業してガッポリ稼がない限りは、

扶養家族の身分で、ピアノはおいそれと買える楽器では、ない。

少なくとも数十万円は下らないピアノは親が子に買い与えるものだ。 

だから、

ピアノメーカーは、ピアノを弾く当の子どもには見向きもしないで、

我が子にピアノを買い与える親に向けて売り込みをかける。 

財布を握っている者に売り込むのは当然のことだ。 斎藤一人さんが著書の一冊で、「畜産飼料業者は、酪農家に向けて商品を売り込む。決して、餌を食べる牛や豚に向かって売り込まないでしょう? その餌が家畜にとって美味しいかどうかは問題ではない。餌を買う酪農家(人間)が「買いたい」と思う餌を作って売ることが大事なんですよ」という内容を書いていたと思うが、それと同じことだ。 「人間の子どもをブタ扱いするなんて(怒)!」ではない。 ビジネスの世界では同一のケースだ。 どんな商売も、カネを持ちそれを使う力を持っている者に向かって商品なりサービスなりを売り込む。  

だから、

ピアノを売り込む際に、

「このピアノはお子さまの音楽遊びに最適ですよ!」

なんてピアノメーカーが宣伝するはずがない! 

ピアノは高額な買い物だ。 買う方だって、思い切って買うのだ。 

だいたい、「子どもの遊び道具」に数十万円、いや場合によっては100万円以上も喜んでカネを手放せるような親ならば、最初からスタインウェイをポーンと買い与えて好きなように遊ばせるだろう。 

というわけで、一般家庭がピアノを買うにはどうしても、親が子どもの情操教育のために多額の出費をして購入する楽器」という教育的な大義名分が必要なのだ。 

だから、思い切って大枚はたいて子どもに買い与えたピアノを、我が子が弾く際には、「ピアノ教師によるお稽古が必要で、ご自宅では「練習」「練習」また練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習....... 

させますと、お子様の情操教育に大変よろしゅうございますよ!毎日規則正しく練習させることは躾(しつけ)にもなります。しかも、東大生の多くが子どもの頃にピアノを習ったともいわれておりますよ!」と売り込めば、親は高額の出費に合理的妥当性を認めて納得する。 親にとって、自分の人生の時間を切り売りして額に汗して稼いだ、かなりの額のお金を、自分の遺伝子を受け継いだ次世代の分身である我が子の教育のために出費することはおカネの有効活用になると感じられるからだ。 断じて「猫ふんじゃった」を面白おかしく弾いてばかりでは許されないのだ! 「そんな遊びをさせるために高額なピアノを買い与えてやったんじゃないぞ! 練習しろ! 練習して親がお前のためにピアノに投じた金額のモトをとれ!」 

敵のほうもちゃんとわかっていて、親御さんと子どもを練習練習練習コンクール練習練習練習検定練習練習練習...のめくるめく「ピアノの教育」の教義にドップリ浸(つ)からせる。 あげくのはてに、子どもが遊びながらやるような「聞きよう聞きマネで歌ったり演奏したりする」行為を「聴音」というイカメシイ名の科目にし、子どもが遊びながら口ずさんだり弾いたりするテキトー弾きを「即興演奏」という厳格な科目にし、ギターっ子が中学で音楽好きの仲間たちと音楽雑誌を見ながらワイワイ教え合って覚えるコードやスケールやなんやかやまで「なんとか」や「かんとか」などの「厳粛な法制・教義」に仕立てて教え込もうとする。 子どもが楽しみふざけてやるような音楽的な遊びを、すべて「ピアノ指導カリキュラム」のもとに教育制度して練習させ、大本営による多種多様な検定やコンクールへ次から次へと急(せ)き立て、子どもたちをイノシシ村のウリ坊の短距離競走ショーのごとく出場させ競わせていく。 ウリ坊、いや子どもにとってはまったくヒドイ仕掛けなのだが、当事者たちにとってはウリ坊なんてどうでもいいのだ、だってカネ持ってる親イノシシを煽って納得させて彼らがピアノを買ってくれればいいんだから。 「ピアノを習わせると頭が良くなるらしい!」「我が子にもっと上級のピアノ教育を!」という親の闘争心に火をくべつづけるような仕掛けをこしらえて、我が子が猛練習してピアノを弾きつぶした先から買い替え続けてもらえばいいのだ。 親が子どもにピアノを買い与え続けさせるためには、導入教育⇒初級レベル⇒中級レベル⇒上級レベルと、ピアノの教育指導的な側面を無限にオグメント(増大)させていくしかない。 子どもにピアノを買い与えられるようなおカネとピアノの置き場所を持っている世帯の数は限られるから、その限られた世帯をガッチリ捕まえて彼らの子どもの一生を通してピアノを何台も買い替え続けてもらうことが、ピアノメーカーの戦略のひとつであろうことは想像がつく。 アップライトピアノ⇒グランドピアノ⇒音大入学後グランドピアノ買い替え⇒卒業後ピアノ教室用にグランドピアノ買い替え⇒年数が経ったのでまた買い替え...。と、ピアノ教師の資金源である彼らの親を最終顧客に据えて買い続けてもらう。 一方で、彼らの予備軍を育成するためにピアノ教室チェーンを展開してピアノ販売の最前線基地にする。 まずはピアノ教室の教師に1台売って(私の伯母は某メーカーのピアノ教室チェーンの教師に採用された途端にそのメーカー製のピアノに買い替えた)、教師から生徒の親にピアノ購入を斡旋させ、場合によっては生徒の親が1台ピアノを購入するごとに教師に対してリベート報酬を出す。 

そうでもしなければ、ピアノ事業の採算をとるのが難しいのだろう。 ギターと違って大型楽器のピアノは、原材料の保管場所から製造ラインや完成品の出荷前の保管場所といった、多くのスペースが必要だし、それらを販売する店舗のスペースも大きくならざるを得ない。 つまり、場所のコストが高い。 製造ラインの設備もギターと比べたら大がかりだし、販売後の定期メンテナンスが必要だから「調律師」部隊も抱えておかなければならないし、晴れてピアノが売れたら売れたで、それを納品するピアノ運送という特殊な運搬業者も維持しておかなければならない。 その上で黒字のビジネスを継続するためには、たくさんたくさんピアノを売らないと厳しいのだろうと想像する。 ピアノ製造販売のビジネスには、規模が必要なのだろう。 

この図式における主人公は、子どもにピアノを買い与えて「うちの子のアタマが(自分たちよりも)良くなりますように」と根拠無く夢見る親御さんと、「うちの教室ではお子さんにこんなこともあんなこともそんなこともたくさんたくさん教えますよ!そしてコンクールを検定を受け続け(て我々におカネを貢ぎ続け)ましょう!」と宣伝するピアノ教師たちの背後に居るピアノメーカーとピアノ教育業界である。

夢見て月に向かって吠えたり金切り声を上げたりしているのは、大人たちだけだ。

そこに、ピアノを弾く当の子どもたちは、居ない。 

でも、それでいいのではないかと思う。 

そうじゃないと、日本のピアノメーカーは潰れてしまうだろう。 

自分の国に大手のピアノメーカーが有ることは、とても幸せなことだ。

ピアノの本家でもない極東の東洋人が大量生産するピアノを買うアメリカ人やイギリス人だって、もし買えるんだったらスタインウェイや、(ヴィクトリア時代に地球の半分を持ってい大英帝国で名を挙げた)ベヒシュタインを絶対に買いたいはずだ。 ベーゼンドルファーの職人たちだって、東洋人の親会社に頭を下げるのに忸怩(じくじ)たる思いをしているかもしれない。  

欧米人たちのやりきれない思い。 明日は我が身だ。 

大手の有名ピアノメーカーが2社も健在に残っている日本の人々は、幸せな国民だ。 

この幸せを噛みしめて、決して手放してはならない。 だから、

国産ピアノを何台も買い替え続けて自分たちの富を日本のピアノメーカーにせっせと移管し続ける裕福な世帯に、私たちは深く感謝するべきだと思う。

 

ピアノとは対照的に、

ギターを売るためには、ギターに興味を持った中高生なり大人なり、実際にギターにカネを払って演奏する本人たちに向けて訴求することになる。 

その際に、

「あなたがギターを弾くためには、「ギター教師」による「教育」が必要で、自宅では「練習」「練習」また練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習練習.......」  

なんて販促して売れるわけがない! 「ギターを弾いてみたいけど難しいかなぁ自分でも弾けるかなぁ?」なんて楽器店を覗いた潜在顧客たちがみんな怖がって逃げてしまうよ。 

だからこそ、

実際にカネを払ってギターを購入して演奏する本人たちに幸せなギターライフを満喫してもらってギターという楽器のファンになってもらうように、「ギターを弾いて楽しんでもらう」コンセプトで訴求するのだろう。 だから「ギターで遊ぶ」という文言が出てくるのだ。 親が子どもにギターを買い与えるとしても、ピアノに比べて入門モデルが安価なギターは、親にとって購入のための経済的なハードルが遥かに低い。 だから、我が子が部屋で聞きよう聞きマネでテレビから流れてきたCMソングを面白おかしくマネ弾き(耳コピ演奏)しても、フォークギターをかき鳴らして自作の歌を絶唱(作曲活動)していても、親はそんなに身銭を切ったわけではないから腹立たしく感じることがないのだ。 持ち運びできるギターは、購入した本人が学校なり練習スタジオなりに持って行って、仲間とワイワイ楽しめる楽器だ。 そこには仲間同士の教え合いがあり、べつに教室に真面目に通って習わなくても勝手に上達していく。 習う場合も、ギター教師はどことなくギター仙人というか、ギター道の遥か先を歩いている求道者のような、ギターを習う者が「追いかけたい」と思う崇高な目標のような存在か、あるいは「ギター道の先を行く頼れる兄貴」のような、気軽にいろいろ質問できるような同じ目線の高さにいるイメージがある。 「この部分を一日5回練習しましょうね!練習したら、練習カレンダーにこのチューリップのシールを貼りましょう。次のレッスンまでに何枚シールを貼れるかなー、ファイトっ!♫」みたいな、なんというか、ヨチヨチ歩きの赤ん坊を上から見下ろして手をパンパン叩いて手とり足取り教えてあげようとするママさんピアノ教師のイメージが、ギターの先生には無い。 ピアノに比べてギターは安価だし置き場所や騒音のハードルも低いので、潜在顧客は気軽にギターを買ってくれるから、わざわざ「ギター教室」を大規模に運営してコンクールや検定で生徒の競争心を煽り立て「お稽古レッスン教」でがんじがらめにするような固定顧客層を囲い込むための大掛かりな仕掛けも必要ない。 そんなことしなくても、「ウチのお教室はアコースティックピアノでなければ教えられません!」とか「アップライトピアノではこの先に進むのは無理!グランドピアノを買ってもらわないと!」と半ば脅しのように購買を促すことなんてしなくても、ギター愛好者は時を忘れてギターで夢中に遊ぶうちにメキメキ上達するからすっかりギター好きになって、やがて二本目、三本目のギターを買い求めるようになり、エレキに目覚めればPAや各種エフェクターへと、周辺機材をどんどん買ってくれる。 ギターにのめり込むうちに、二本目は20万円、三本目は50万円、いつかはギブソンの200万円...と、ますます高額のギターを買いたくなるだろうし、周辺機材を買い集めるうちに20~30万円ぐらいはすぐに使ってくれる。 ピアノと違って、ギターは[買う人=演奏する本人]で、しかも自分で働いて稼いだ可処分所得を好きに使える大人だから、自分が買いたいと思えばすぐにポンポン買うので、何年か経って気がついたらグランドピアノ1台分ぐらいの金額を簡単に消費していたりする。 ピアノは毎年買い替えるモノじゃないから、10年後の消費額の合計はギターもピアノもさほど変わらないか、ギターの消費額のほうが多いかもしれない。 それに、伝統的な音大にはどういうわけかギター学科が無いから、音大受験のために血眼になってシゴキのような練習練習練習練習また練習する悲愴な練習動機が最初から薄いだろう。 ギター好きの皆さんは自分のギターライフを幸せに楽しんで、楽しいから時を忘れて一日何時間もギターで遊んでいるうちに、つまり、「遊び」という名のクリエイティブでオーガニックな試行錯誤を続けるうちに、脳内の神経のシナプスが四方八方につながり始めるや加速度的にメキメキ上達するからますます楽しくなってギターがますます好きになり、ますますギターを何本も買いそろえ周辺機材におカネを投じていく。 だからギター産業は、ピアノのような「練習・訓練・親の見栄・競争・音大受験」という「恐怖心を煽る仕掛け」で「ピアノ教信者」という顧客層を囲い込んで彼らを恐怖によって統制管理するよりも、ギターの潜在顧客に向けて「ギターを弾いてしいライフを!」コンセプトを訴求する方が結果的にギター人口が増えてギターが売れることが、わかっているのかもしれない。 それを示すかのように、一流のプロギタリストの中には、「中学時代にギターにすっかりハマって起きている間は夢中で弾き続けて学園祭にバンドで出演したら、女子から黄色い声援をもらって嬉しくなってますます夢中で弾き続けているうちに有名ギタリストのテクまでできるようになって次の年の学園祭ではもうスターになっちゃって更に嬉しくなってますます夢中で弾き続けていたら自然にプロの道が開けました」みたいな人が多いのではないだろうか。「モテるためにギターを夢中で弾き続けて上手くなる」は、年頃の若者にとってごく自然の健全な動機だ。 そうでなければ人類は絶滅してしまうし、少なくとも、「検定やコンクールで年老いた審査員の先生方からよい採点を頂けるように必死の形相で練習して上手くなる」よりも、ずっと若々しくて朗らかな動機だ。  

 

遊べるギターと、遊ぶことが許されないピアノ。

自分が興味を持って自分の意志で自分のおカネで買ったギターで、自分の高度な脳が考えるままにいろいろ工夫して、いろんな「遊び」を一日中試行錯誤しながらクリエイティブに上達していくギター。 

かたや、 

親に買い与えられ、ピアノ教師に言われるがまま、「あれをやれこれをやれそれもやれあっちもそっちもやれ!」と、教育的指導の洪水に溺れ押し流されながら、それが好きかどうかを考えさせてももらえずに、言われたことを言われたままに受動的に調教されていく、楽しく遊び弾きしたくても遊ばせてもらえずに、次のレッスンでピアノ教師からマルをもらうためにただただ機械的な練習に明け暮れるピアノ。 子どもが遊びを通して楽しみながら能動的に体得していくものまで全部ピアノ教師が用意して賜り下さって有難く「教育」して下さるピアノ。 まるで、わけもわからず無理やり餌を喉に流し込まれるフォアグラ用の鴨のような人間の子どもたち。 自分で遊びを考え出す前に、自分で動き回って転んで痛い思いをすることで「本当の学びの機会を得る」前に、道に迷って自分で考えてなんとか突破しようと脳を活発に働かせる前に、自分の頭をフル回転させてあれこれ工夫する前に、自分がクリエイティブに考え行動しようとする前に、ピアノ教師がぜーんぶお膳立てしてあげて手とり足取り教えて差しあげますよ! 遊ぶ自由や考える自由をはく奪され、クリエイティビティの芽をきれいに摘まれてしまった、「考えることができる脳」を失ってしまった哀れな子どもたちの演奏は、ピアノ教師に教えられたとおりに検定やコンクールの審査員の前で減点されないように弾くだけの虚ろな演奏になってしまうだろう。 そこには、とうの昔に、子どもたち本人の音楽による自己表現の輝きは、無い。

 

憧れのギタリストの演奏を夢中で耳コピして、できるようになるまで時間を忘れて自分の部屋で、ベッドの上で、いつでもどこでも弾き続け、ギター雑誌を買ってきてコードを覚えるまで延々と押え続けたり、仲間とワイワイ教え合ったり、自分で演奏の工夫を考えてみたりして、できるようになるまで何度弾いたかわからないくらい一日何時間も夢中で、つまり夢中になるほど脳をフル回転させてギターで遊び続ける人と、 

ピアノ教師から出されたバイエルツェルニーブルグミュラーソナチネ子どもの情景ハノンや聴音や作曲...の宿題を、その曲に興味があるかどうかに全く関係なく、そのスキルの意義をよく理解できないまま、それらに興味があるかどうかの意志表示を行う機会すら与えられずに、来週のレッスンで先生からマルをもらう、ただそれだけのために、機械のようにピアノを練習し続ける人と、

どちらが本当に音楽による自己表現を、人間本来の自己表現の喜びを、楽しんでいるだろうか? 

 

だから私は、今から、ピアノを練習するのを止める。 

そのかわりに、

私は、ピアノで夢中で遊び続ける。 

「独」という言葉すら、悪寒がするので、

私はピアノで遊ぶ 

ピアノで遊んで遊んで遊びまくる!

私のピアノ一人遊びが、今この瞬間から始まる。 

 

 

そんな私のピアノ一人遊びの内容こっそり読んで、自分自身がろくすっぽ出来もしないで、ひどい場合は自分で試しもしないで、上っ面の情報だけを安易にマネで軽薄なライフハック化して「うちの教室では生徒にこんなことも教えていますよ!」と自分のピアノ教室を宣伝するかのような、シロートのブログに書いてある誰でも見られる無料のコンテンツを安易にパクってカネを稼ごうとする、シロート情報に知識を漁(あさ)るピアノ教師が蠢(うごめ)くお粗末なピアノ教育業界の経済的付加価値は既に無くなってしまった。  

 

私はこれをもって、ピアノ教育の世界を卒業して、「ピアノ一人遊び」という上位の次元に入ったが、「ピアノ一人遊び」なんてまだまだチッコイ、チッコイ! 本当の「大人のピアノ遊び」とは、もはや自分でピアノを弾かないことだ。 三遊亭圓朝の戒名を見よ!「無舌」という文字が入っている。 噺家なのに、舌が無い! 名人のなかの名人、つまり大名人の噺家に成ると、もはや話さなくても、舌を使わなくても、ただ高座の座布団に座っただけで、聴く人を楽しませ、唸らせ、感動させ、喜ばせる! ピアノも然りだ。 究極のピアノ道楽は、自分でピアノを弾かないことだ。 コンサートレベルの高級ピアノを即金でポーンと買って、自分が援助する著名な一流のプロ演奏家に自宅に来てもらって、自宅の大広間で開催するパーティーで弾いてもらうのだ(もちろん、演奏家にはご祝儀をポーン!とはずんでね)。 自分のヘッポコ演奏や自分の子どもである「音大卒の自称プロだってでも知らないよいったい誰?」の教科書通りのリキみまくったカチコチ演奏で招待客の皆さんの耳を疲れさせ彼らの人生の貴重な時間にケチをつけるよりも、誰もが知ってる有名な一流のプロに弾いてもらった方が、招待客のみなさんは「忙しい中パーティーに参加して良いものを聴けた!」と大喜びするし、一流ピアニストはご祝儀を沢山もらってハッピーだし、自分は贔屓(ひいき)のピアニストの演奏と招待客の嬉しそうな顔に大満足だし、まさに社会全体の幸せに寄与する「三方良し」である。 これこそ大人のピアノ道楽の王道だ。 いつか私も!... せめて生きている間に... ハハ、ハハハ、...ハハハ..........orz...  いや、私は10年後に、いや10年後を待たずに、必ずそうなっているはずだ!! ←って書くのはタダだからね。 夢を見てそれを書くのはタダだからね! 世の中、何が起きるかわからないからね、もしかすると本当にそうなっているかもしれないからね! 防音完備の24時間弾けるデッカいピアノルーム兼サロンにピアノやハモンドオルガンなどケンバン楽器を揃えたうえに、和楽器のめくるめくコレクションを置いて、優雅に暮らしている私が見えるよ!って見えなくても見るよ!霞んでても根性で見るよ見通すよ! 根拠のない自信は、自分にとって最強の応援者だ。 

tokyotoad1.hatenablog.com

 

tokyotoad

 

★ピアノの先生/ブロガー/ユーチューバー/出版社/放送局など全ての方へ: このブログに記載されている内容を、レッスンや出版などの営利目的/非営利目的(レッスン等で使用・販売する教材、レッスンで教える内容、宣伝等のためのブログ記事での使用等を含む、営利目的につながる可能性のある使用)や非営利目的その他の目的のために、このブログの作者(原作者)であるtokyotoadへの事前の承諾なく無断で使用(複製・コピー・利用・転用・流用・編集・加工・出版・頒布・送信・アップロード・放送・発表等)することは、原作者の権利や人格を保護する著作権法に対する違反行為です。くれぐれもご注意ください。