ピアノ方丈記

音楽の彼岸にて【指の健康寿命を気遣いながら!】シニアのピアノ一人遊びの日々

究極の「大人のピアノ遊び」の例

 

前回の記事を書いて以降、触発された方もいらっしゃるようで、そんな貴方の参考になるかもしれない、

「大人のピアノ遊び」の究極の例を見つけましたよ! 

私が目指すのは、まさにこのレベルだね。 もっとも、私の場合は自分個人のライブハウスを作って、コンサートレベルのピアノのほかドラムセットやPAなど音響設備を完備して、自分が聴いてみたいと思う一流以上のミュージシャンや楽師や伝統芸の師匠に来てもらって、友人知人やご近所さんにも声をかけてみんなで至高の名人芸を楽しむんだ。 近所の小学校高学年や中学生も連れて来てほしい。多感な頃に一流以上の名人たちの至芸に接することは、おカネでは買えない生涯の宝物になるからね。 チケット代?とらないよ、誰からも。 そんなセコいことしないで、演者さんへのギャラはぜ~んぶ私持ち。 だから、時間があって気が向いた人だけ観に来ればいいの。 ギャラの金額?怖くて想像できないよ!でも、私の夢の中では、太っ腹の私がポーンと支払っている姿が見えるよ! いうなれば、料亭で楽しむお座敷遊びのライブハウス版。 本物の芸者衆や幇間さんが来てくれて日本の選ばれし成功者たちが嗜(たしな)む高尚(で高額)な遊びの真骨頂を垣間見せてくれたら最高だね。 高座にもなるように、ステージはすこし高めにして、必要に応じて畳敷きにもできたら理想。 ステージの袖に使わない大型楽器や畳などを置いておける場所や、演者さん用の楽屋(洗面所付き)もきちんと用意したいし、音響スタッフさんのブースも欲しい。 ライブハウスのデザインコンセプトは、何年も前に脳内で完成済み。 あとはおカネだけ!(大笑)  言うのはタダだからね!  

社会的な成功者のピアノ道楽の極めつけは、自分でピアノを弾かないことだ。 だって、社会的に成功した人は、人生のほとんどを社会的に成功するために生きてきたから。 ピアノを練習するなんていうヒマな時間は全く無かったはずだ。 ピアノを弾かないにもかかわらず、一般ピープルが夢見ることすらできないような超高級ピアノを自宅に所有している: これが、社会で成功した証であり、究極の大人のピアノ遊びだ。 あ、そうか、私のライブハウス構想が実現していないのは、私が社会的に成功していないからだね!: 

さすが、スタインウェイ社は、おカネを持っていてピアノを所有したいと思っている人たちが今どこに生息しているかを、よく分かっている。 スタインウェイの自動演奏機能付きのピアノは、別に自分がピアノを弾けなくても、っていうか、自分がピアノを弾かない方が!巨匠たちの名演奏を楽しめるもんね。 それにさ、こういう人たちは、そもそも、ピアノの「レッスン」なんつーものに「通う」なんていう下々(しもじも)アクティビティに一切無縁の世界に居る人たちだ。 だいたい日々仕事に超忙しい、地位も名誉もカネも有る人たちが、自分より地位も名誉もずっと低くてカネが無いから働いているんでしょ?なピアノ教師の教室にヘコヘコ「通う」ヒマも気もあるわけないもん。 それにさ、異次元に超高級のピアノを自宅に持っている人が、愛車のベントレーマイバッハで街角のピアノ教室のさ、いろんなものを触りまくったジャリども(←ほんとだよ!鼻くそほじくったり股ぐらを搔いたりさ!「なんて下品な!」だって?偽善者め!あんたもやってたっていうか今でもやってるでしょ!)が触りまくった国産の量産ピアノの鍵盤を叩きに行くと思う? 有り得ないでしょ! 「私は忙しいんだ、そんなに教えたければお前の方から出向いて来い!でも、来られてもこちらは忙しいから会わないよ。ところで、私が「生徒」だって?私に「教える」だって?お前はいったい何様のつもりだ!?言葉遣いに気をつけろ!私が誰だかよくよく考えてから物を言え!」だ。 社会の上層に居る富裕層がさ、「レッスン」や「お稽古」ごときでおカネを頂く巷(ちまた)の寺子屋の「先生」や「教師」ふぜいから「生徒」や「弟子」呼ばわりされたいと思うはずないでしょ! 彼らより社会的にずっと下にいる、ジャリや色呆けまがいの年寄りにピアノ教えておカネを投げてもらっているような、あいまいな輩(やから)から「指導」を受けたり「評価」されるような身分の方々じゃないよ。 ピアノ教師(なのか何なのかわからないような、あいまいな存在)から「弟子」や「生徒」呼ばわりされて、そんなヤカラから鉛筆でマルをもらうために目を血走らせて奴隷のように悲愴に練習練習また練習したり、どっかで聞きかじってすぐに影響されたようなピアノ教師のどっかで何度も聴いたことのあるような精神指導の文言を神妙に聴く迷える羊のようなチッコイ人間だったら、そもそも富裕層に成り上がってないよ。 富裕層にはカネが有って時間が無い。 いや彼らにはカネも時間も有るが、彼らは自分のカネや時間を無駄なことには一切使わない。 富裕層は、カネの使い方が鬼のようにシビアだ。 カネをドブに捨てるようなことを一切しない、キレッキレにカネ使いのツメが辛いから、富裕層に成り上がったのだ。 そういう彼らは、超高級ピアノにはカネを払う価値が有ると思っていて、自動演奏機能付きにして休日に聴いて楽しんだり、自分の豪邸に一流の著名ピアニストを呼んで大広間のパーティーで超高級ピアノを弾かせることにはカネを使う価値が十分にあると思っているけれど、わざわざ自分の高額な人生の時間を削って、著名ピアニストでもない実質素人なのに上から目線の「あんな一体何様(なにさま)?」なピアノ教師ふぜいから「生徒」呼ばわりされるレッスンにカネや時間を費やすことに対して合理的な妥当性を認めるはずが有るわけがない。 当然だよ。 だから、ピアノ教師がピアノの「レッスン」や「指導」を富裕層に売り込むことは不可能だしそもそも無駄な徒労だ(別の何かを売り込む場合のことについては、私はわからない)。 

国産ピアノメーカー各社の大変残念なところは、本当に価値の有るものにはカネを惜しみなく使う、この美味し過ぎる富裕層マーケットの存在を知っていながらも開拓できずにいることだ。 理由は、今までの「子どもの教育に熱心な一般家庭に向けて、ママさん先生たちによる子どものピアノのお稽古を中心に据えた庶民的なピアノ販売戦略」が全方位的に確立し過ぎていて、そこかしこに「ピアノ教育利権」が作られてしまっていて、彼らを無視する形で戦略を方向転換することが難しいからだろう。 「ピアノを弾かない、というか弾けない(=弾くヒマが無い)、というか、ピアノを弾くヒマが無いほど仕事に打ち込んだからこそ成功して財を成した富裕層向けに、彼らが自らの社会的成功の印(しるし)として購入して満足げに眺めるだけの、そして、弾く場合は彼らが贔屓(ひいき)にする一流ピアニストが感激しながら弾く、最高価格帯の超高級ピアノを売る」という戦略は、「子どものピアノのお稽古を通して、練習して次々と弾きつぶすための量産ピアノを販売する」戦略に乗っかるピアノ教育利権層の存在意義をアタマから否定することになるからだ。 「所有者がたまに手なぐさみ程度に弾く高級ピアノ」や「所有者の社会的な成功の象徴としての超高級ピアノ」という高額~超高額ピアノを欲している、カネも置き場所もじゅうぶんに持っている富裕層や超富裕層に向けてどのように売り込んでいくか。 ヨーロッパの老舗ピアノメーカーを買収して舶来もののピアノを富裕層向けに売るのは好戦略だが、いかんせん数を売らなきゃ儲からないし、ブランド力も上げなければならない。 スタインウェイは、生産台数の多さや世界中で統一した強力なブランド戦略で、高級ピアノ市場でいまだに抜きんでているように見える。 ちなみに、同社のサイトには、よく有りがちな「当社の専属ピアニストによるピアノレッスン」みたいなレッスン情報が、無い。 あるのは、世界中にいる、ピアノの専門教育を受けたかどうかに関わらず、またピアノの演奏の実力に関わらず、音楽やピアノに情熱を注ぐ(そしてスタインウェイを買える経済力を持っている選ばれし人たちだけに扉が開かれる排他的なコミュニティについての案内だけだ。 「ピアノを習ってヒーヒー言いながら練習する」ような次元の人たちじゃないんだよ。 おそらく、その排他的コミュニティでの活動は、世界的な著名ピアニストの演奏を聴くイベント⇒その後懇親社交パーティーみたいなものじゃないかな。 仮にレッスンらしきものがあったとしても、世界的な著名ピアニスト自らが家に来てくれて、超高級スタインウェイピアノをちょろっと弾くオーナーの演奏を誉めそやして一つぐらいは気の利いたアドバイスを申し上げて、その後は、せっかくだからその著名ピアニストに1,2曲弾いてもらってご祝儀をポーンとはずむ、という、実質的なパトロン活動じゃないかなと想像するよ。 超高級ピアノのオーナーにとって、ピアノ教師ふぜいは無用、というか、雲の上に居る富裕層は下界に蠢(うごめ)く者たちを目にすることも無いんだ。 

おカネを払ってくれるお客様を「生徒」や「弟子」と見下ろして「教え(てや)る」勢いの態度の、おカネを頂戴する立場の「教師」や「先生」よりも、はるかに高い雲の上の世界に居る殿上人たちにとって、「ピアノのレッスン」や「セミナー」なんていう、庶民による「上から目線気取りの教育指導的な商品」は、最初から、山の遥か上の、雲で見えない山頂に居る彼らの視界には最初から入らないし、仮に彼らの目にひっかかったとしても、彼らに雲の上から見下ろされ憐(あわ)れまれるのがオチだ。 頂上から世の中を悠然と見下ろす、というか、雲で下界の営みを見ることもない富裕層にとって、「下界のピアノ教師による上から目線気取りのピアノレッスン」自体が全くお呼びでないことすらわからないのが、ピアノ教師と、ピアノ教師に隷属するように悲愴にレッスンに通ってカネを払い続ける「生徒」たちが生息する下界の世界のレベルだ。 私は、そういうカネの使い方に経済的な合理性を見出せなかったので、「社会を知らない上から目線のピアノ教師」から精神的な支配(マインドコントロール)を受けるために自分の人生を削って稼ぎ蓄えたカネを払い続ける行為を、数年前に止めた: 

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↑ 不本意にもこんな野暮なことを書かなければならないのは、過去にちまたのピアノの先生方に、この記事の内容をパクったブログ記事を挙げられたことが何度かあったからです。 トホホ...。ピアノの先生さんたちよ、ちったぁ「品格」ってぇもんをお持ちなさいよ...。

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このブログ「おんがくの彼岸(ひがん)」は、私 tokyotoad が、中学卒業時に家の経済的な事情で諦めた(←諦めて命拾いした!と、今しみじみ振り返って背筋がゾッとしている)、「自分の思いのままに自由自在に音楽を表現する」という夢の追求を、35年ぶりに再開して、独学で試行錯誤をつづけて、なんとかそのスタート地点に立つまでの過程で考えたことや感じたことを記録したものです。

「おんがくの彼岸(ひがん)」というタイトルは、「人間が叡智を結集して追求したその果てに有る、どのジャンルにも属さないと同時に、あらゆるジャンルでもある、最も進化した究極の音楽が鳴っている場所」、という意味でつけました。 そして、最も進化した究極の音楽が鳴っているその場所には、無音静寂の中に自然界の音(ホワイトノイズ)だけが鳴っているのではないか?と感じます(ジョン・ケイジはそれを表現しようとしたのではなかろうか?)。 西洋クラシック音楽を含めた民族音楽から20世紀の音楽やノイズなどの実験音楽まで、地上のあらゆるジャンルの音楽を一度にすべて鳴らしたら、すべての音の波長が互いにオフセットされるのではないか? 人間が鳴らした音がすべてキャンセルされて無音静寂になったところに、波の音や風の音や虫や鳥や動物の鳴き声が混ざり合いキャンセルされた、花鳥風月のホワイトノイズだけが響いている。 そのとき、前頭葉の理論や方法論で塗り固められた音楽から解き放たれた人間は、自分の身の中のひとつひとつの細胞の原子の振動が起こす生命の波長に、静かに耳を傾けて、自分の存在の原点であり、自分にとって最も大切な音楽である、命の響きを、全身全霊で感じる。 そして、その衝動を感じるままに声をあげ、手を叩き、地面を踏み鳴らし、全身を楽器にして踊る。 そばに落ちていた木の棒を拾い上げて傍らの岩を叩き、ここに、新たな音楽の彼岸(無音静寂)への人間の旅が始まる。

tokyotoadのtoadはガマガエル(ヒキガエル)のことです。昔から東京の都心や郊外に住んでいる、動作がのろくてぎこちない、不器用で地味な動物ですが、ひとたび大きく成長すると、冷やかしにかみついたネコが目を回すほどの、変な毒というかガマの油を皮膚に持っているみたいです。