ピアノ方丈記

音楽の彼岸にて【指の健康寿命を気遣いながら!】シニアのピアノ一人遊びの日々

大人のピアノお稽古が続かない理由(その②)

 

ピアノに限らず、大人のお稽古事は長続きしないものだ。 だが、一方で、10年も20年もずーっと一つの習い事を続けている大人たちもいる。 長続きする人と、長続きしない人との違いは、何だろうか? 私はだいたい長続きしなかったね。 その理由を考えてみたよ。 前回は「理由① コスパが悪すぎ!」だったけど、今回はそれにも関係するというか、ぶっちゃけこれが理由の大元でしょ!だと思うよ:

 

② 「おカネ」+「時間」+「満足」の総合的な収支バランスがマイナスになるから!: 

前回の「理由① コスパが悪すぎ!」を書いたけど、コスパが悪すぎ!と感じる理由は、その習い事に投資する「A:おカネ」+「B:時間」と、それによって得られる「C:満足感」を合計した「人生の幸せ」の総合的な収支がマイナス状態になっているから、「コスパが悪い!」と強烈に感じてしまうのだ。 

よく企業の決算発表でさ、「当社の [A事業部門] は世界経済の影響を受けて▲▲円の赤字になりましたが、[B事業部門] は円安のプラスの影響によって〇〇円の黒字になりました。しかしながら [C事業部門]において集団訴訟への対応に関する特別損失が発生したため、当社全体では▲▲円の赤字となりました」みたいなのあるよね。 それと同じだ。 自分の人生の「幸せ」って、[A おカネ] が足りていて、[B 自分の時間] が十分にあって、[C 自分が満足を感じていること] だ。 でも人生ままならないから、A・B・Cがぜんぶプラスになることは滅多にない。 [A おカネ]がたくさんある人は、そうなるために、一日中働いて [B 自分の時間] がほとんど無いことが多いけど、高額ブランド品をポンポン買って [C 満足感] を味わっていて、[A+C]のプラスが[B]のマイナスを上回っていれば、「幸せだな~」って感じるだろう。 逆に [A おカネ]をもっと欲しいな~と思っている人は、「でもさ、[A おカネ]がないのは、[B 自分の時間]をもつためにあまり一生懸命働いていないからなんだから、私は、たくさんある[B 自分の時間]で俳句を考えていればそれで[C 満足]だな~、と、[A]のマイナスを[B+C]の合計が上回っていれば、その人の人生は「幸せ」だ。 

ところが、大人に特徴的なのは、[A おカネ] はそこそこあるけど [B 時間] を捻出できないという点だ。 働き盛りの現役世代なんて、もう [B 時間] が無い! 私も全然なかった。仕事から帰ったらグッタリしちゃってピアノはおろか趣味に没頭する時間なんてなかったよ。 ピアノを再開した今だって、日々いろいろなことをやらなければいけないし、予想外のことも発生するから、一日のうちピアノや音楽に没頭できる時間は限られる。 

これに追い打ちをかけるのが、ピアノや楽器のお稽古事に特徴的な「自宅で練習した成果をレッスンで審査される」というフォーマットだ。 ピアノのお稽古は、自宅で練習する時間がどうしても必要なように出来ている。 「宿題を自宅で練習して次回までに上達していなければ、マルをもらえないので、次に進むことが許されない」形式だ。 

こういうやり方は、子どもには有効かもしれない。 子どもは、脳も身体能力も伸び盛りだし、普通は、何かに打ち込める自由な時間をたくさんもっている。 「普通は」と書いたのは、昨今「ヤングヘルパー」とよばれる子どもたちが増えているとのことだからだ。 「ヤングヘルパー」とは、子どもの頃だけに与えられている自由な時間を、大人の務めのために奪われてしまっている子どもたちだ。 親のために食事を作り、掃除洗濯をし、スーパーに買い物に行き、ひとつひとつは些末だけど積みあがると膨大な時間と頭脳を消耗する「日々の務め」をしなければならない子どもたちは、子どもでありながら子どもでいられなくなった子どもたちだ。 中には、家計を助けるために働かなければならない未成年者もいる。 そういう子どもたちは、どんなに脳と身体能力が伸び盛りでも、それらのリソースの大半を労働に奪われるから、お稽古事をする余裕も時間も無い。

それがまさに大人の世界だ。 大人になると、一日の大半を、労働や家事や日々の社会的な務めに費やすことになる。 それらを遂行するためには、脳と身体をフルに働かせる。 そして、それらを遂行した後に自由な時間が残ったとしても、脳はすでに消耗疲弊しているから、ロクなことができない。 だから、抜け殻のようになってネットを見たりテレビを茫然と眺めていたりしかできない。 習い事、とくにピアノなどの楽器演奏は、脳の集中力を必要とする。 でも、日々の務めを遂行した大人には、趣味道楽に酷使できる脳の集中力はもう残っていない。 しかも大人は、脳も身体能力も、今日よりも明日のほうが劣っていくから、子どもに比べてもっと練習時間が必要だ。 これらの大人特有の事情が、楽器演奏のお稽古事のフォーマットと相容れないから、お稽古事が苦痛になる。 [A おカネ]はあるけど、宿題のために自宅で意味のある練習ができる[B 時間]が無いから、ぜんぜん進歩しないままでレッスンに行って先生にダメだしされてばかり。 あるいは先生から「できなくてもいいんですよ」「レッスンに来られるだけで素晴らしいじゃありませんか」なんて上から目線の見え透いたシラジラしい言葉を浴びせられて、大人のお稽古事の現実を思い知ってやんなっちゃうんだ。 つまり、お稽古事から[C 満足]を得られない。 [A おカネ]はプラスでも、[B 時間]と[C 満足]が大きくマイナスするから、ボトムラインの収支である「幸せ感」はマイナスになって、不幸を感じるだけになってしまう。 であれば、わざわざ不幸になるためにお稽古事に[A おカネ]を払い続けるだけ無駄でしょ? だからやめちゃう。 

と私は思った。 前回の記事で私が作曲家の先生によるレッスンから速攻脱落したのも、[B 時間]が足りなかったからかもしれない。 楽譜は読めるけど、和声は予備知識の無い状態で初めてやるもんだから、1日8時間、毎日毎日やり続けていれば、衰え行く大人の脳でもだんだん覚えていけて、すこしは先が見えたかもしれない。 よく「山にこもって練習したい」なんていうけど、本当に山にこもりたいよ!でも、それができないのが一般的な大人の日々だ。 もっとも、世の中には、恵まれた大人たちもたくさんいるんだろうな~と思う。 有り余る[A おカネ]で[B 時間]を買うことができて、練習時間も十分にとれて集中して練習できるから、レッスンでもどんどん進歩して[C 満足]を感じられる、だから何年も何十年もお稽古事に通っていられるんだろうね。 または、旦那(パトロン)稼業の人たちだ。 先生に[A おカネ]をつぎ込む一方で、練習する[B 時間]が足りなくて、というかそもそも練習して上手くなろうとする気がなくて、先生に会えるだけでもうじゅうぶん[C 満足]な、先生のファンすなわち「お旦(おだん)」の人たちは、自分の[A おカネ]が続く限り「レッスンを受ける」という体(てい)で先生を支援し続けるだろう。 生徒や弟子の身分でいるほうが安心する、いわゆる「信者体質」の人も、信仰する的(まと)がある限り心の平静を感じ続けられるのだろう。

私はおカネで時間を買えるような身分じゃないし、ましてや旦那稼業なんて到底出来る余裕はないし、信者体質でもないから、自分で細々とピアノ一人遊びをしている。 音楽業界で結果を出し続けている超一流のプロたちの演奏や言葉をお手本にして。 そして、そういった本物のプロ演奏家の演奏や言動を聞いたり観たり読んだりしていると、ますますお稽古事に通う意味がわからなくなってくる。 つまり、ピアノ教育の世界はプロ不在の世界に思えてくるんだ。 ちょっとだけ多く知っている実質素人が、ぜんぜん知らない子どもやズブの素人の大人に、ほんのわずかな内容をちょびっとずつもったいぶって上から目線で教えることで長期的にカネを得ている世界。 そしてその背後にうっすらと見えるのはピアノ製造産業。 それがピアノ教育界の実態なんじゃないかなぁって思えてきたんだ。 

 

続きは次回になるかどうか... ③④

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