おんがくの彼岸(ひがん)

ピアノのレッスンに通わずにネットと本だけで独学で得た情報をベースに、自分で考えたことを書いています。

日本を失った日本人

 

京都がオーバーツーリズムでひどいことになっているという記事や話を見聞きするようになってから、かなりたちます。

実際に、私の知っている京都は、もう消滅したんだろうと思います(ちなみに北海道や箱根も、消滅したと思います)。 

もともと、関東の人を「よそさん」中の「よそさん」と思っているだろう京都の人たちは、日本語を話さず日本のマナーも知らない外国人観光客よりも、まだ日本語で意思疎通が可能な関東人のほうがマシだったと思っているかもしれません。 もともと京都に住んでいる人たちは、居場所がなくなってしまっているのではないでしょうか。

 

自分の国、自分の町に住んでいるのに!

 

東京も、京都と同じようになってきています。 外国語が飛び交う地下鉄銀座線の銀座-浅草間で、緊張して乗っているのは、日本人のほうです。 

東京の最も代表的な銀座線の車内の駅名の液晶表示では、日本語の表示時間は4分の1です。

私なんぞは、次の駅を確認しようと社内の液晶表示に目をやる、いつも読めない漢字や判読不可能の文字が目に入ってくるので、もはや、液晶表示を見ることをあきらめました。

これは、私の時間と場所の4分の3が奪われたことを意味しています。

母国である日本に住んでいる日本人の時間と場所の4分の3が奪われたことを意味しています。

 

そんな、銀座ですが、歩行者天国の時間帯には、歩道の縁石に外国人観光客が鈴なりに座って、ものを飲み食いしたり、スマホをいじったりするようになってしまいました(なぜ外国人観光客かって? まっとうな日本人は、歩道の縁石に腰掛けるようなことはしないからです)。 デパートのバッグ売り場では、バッグにチェーンがつけられるようになってしまいました。 有楽町から移転した無印良品の入り口は、もはや日本ではありません。 高級文具店の伊東屋の品格も失われました。 私が憧れて、オシャレして行った銀座は、もはや消滅しました。

 

きれいな街並み、手ごろな値段の質の高い良品が整然とならぶ売り場といった、日本の良さは、日本人が日本人として生きるなかで身につけた、勤勉で、自分が嫌がることを人にしない、他人を気遣う、という世界でも異例の突出した文化的な「常識」があってこそのものでした。 よく、「日本の常識、世界の非常識」と、自らを自虐的に言う日本人が少なからずいましたが、そんなみなさん、おわかりですか? まさに、その「日本の常識」によって築かれた日本の良さが、「世界の常識」によってみるみる破壊されているのです。 「日本の常識」を理解するべくもない者たちが一気に押し寄せれば、日本人が戦後何十年もかけて、エコノミックアニマルと動物呼ばわりされながらも、通勤地獄に耐えながらも、一生懸命に復興して作り上げた、その卓越した文化資源は、またまく間に食い尽くされ、日本の良さはあっというまに崩壊するでしょう。 まるで、焼けただれた土地に、人々がゼロから種をまいて、何十年もかけて一生懸命丹精込めて作った黄金色に輝く水田が、イナゴの大群に押し寄せられるように。イナゴが去った後は、黄金色の文化は破壊され、荒廃した土地に、「文化」という国富を失った貧しい哀れな現地人が残されるだけです。

 

先日、ある日本の伝統芸能の公演を観に行きましたが、最も高尚と言われている、その芸能の公演に、言葉からしてラテン地域のヨーロッパ人の中年女性2人が来ていて、一人の方は、3歳の子供のように始終落ち着きがなく、公演が始まると、始終首を横に振り(そりゃそうだ、日本人だって慣れていなければ聴きとるのが難しいものなんだから)、挙句の果てに、携帯を取り出して写真を撮り始めた! すぐ後ろの日本人の女性がたしなめたが、恐縮する様子ひとつない。 休憩時間になって、私も注意したが、悪びれる様子ひとつないのだ! 日本の伝統芸能は、当の日本人でも理解しにくくなっています。だから、まずやるべきは、ふつうの日本人にアピールするのが先決なのです。 文化の土壌が全く違う、とくに西洋人は、よっぽど日本に入れあげていない人でなければ、理解できることはまず不可能で、ふつうは、「日本の伝統芸能は、異様で、奇怪であり、我々の西洋文明とは全く異質の(つまりは、劣った)ものだ」と、忍者よろしく無邪気に受け止められるのが関の山です。 実は、前頭葉で考えた西洋文明の理路整然さの先にあるのが、日本の文化に代表されるものなんですけど、それをわかろうはずがないわけです。 だから、的のない的に矢を射るような徒労を重ねるよりも、まだ的のあるふつうの日本人の心に刺さる努力をすることのほうが、日本の伝統芸能にとって、はるかに費用対効果があります。 

話はそれたが、このように、せっかく楽しみにしていた公演は、マナーを守らない、お里が知れるような外国人観光客によってケチがついてしまった。 私のチケット代と時間は、こうやってドブに捨てられた。

私の人生の時間とお金と心の平穏は、こうやって失われた。

日本人の人生の時間とお金と心の平穏、つまりは、日本の国富は、こうやって失われた。

 

近所の公園では、母親たちに見守られながら子どもたちが遊ぶなかに、一見してすぐ日本語すら話さない外国人観光客がベンチに座って、日本人の子どもたちが遊ぶ様子を、ただ見ている。 地元の子どもたちの遊び場の場所を占領して、彼らは一体何をしているのか? サル山のサルでも見ている気分でいるのか? 彼らが、公園のベンチに座って、日本人の子どもたちが遊ぶさまを観察しても、日本には一銭も入らないのだ! そればかりか、観察される日本人のほうが、憩いの場所を侵食され、居心地が悪い気持ちになる。

日本の国富がダダ漏れで失われている。

 

先月の台風のあと、多摩川が氾濫した二子玉川の写真が、とある日本の新聞に載っていた。そこに、ピントがぶれているが映っていたのは、明らかにスマホをかざす西洋人の観光客だった。災害の被災地までもが、外国人観光客のお気楽な観光スポットになってしまっている! そして、彼らは、災害の様子をスマホで撮るだけで、ビタ一文、落とさないのだ!

 

これが観光なのか?

 

こんなことになったのは、「日本人の国土と生活を守るための良いバリアー」としての日本語をないがしろにして、普段の日本人が生活する領域にまで、不必要に外国語の表示をばらまいてしまったからだ。

言語は、その国の力の影響力を示す。たとえば、ある言語が街中で普通に表示されている地域は、その言語を話す国の影響下にある、ひどい場合は、植民地であることを意味する。

「おもてなし」のために、なんていって、自国の言葉を隅に追いやって「多言語化」なんて呆けたことを言うのは、日本人ぐらいだ。

東京メトロ銀座線の車内における日本の存在力&影響力は4分の1で、4分の3は他の国々に実効支配されていると言われても、文句は言えないのだ

そのことを、日本人はわかっているのか?

日本人は、どこまで、お人良しなのか?

日本の優れた「おもてなし」は、それを受けるに値する人たちにのみ提供されるべきで、日本人の生活シーンの中にまでズカズカと入り込んだ挙句に一銭も落とさないようなマナー知らずのウゾウムゾウにまで一生懸命に質の高い「おもてなし」を提供する必要はこれっぽっちもないのだ。そういうウゾウムゾウについては、彼ら用の観光地を仕立てて、巧みにそっちに誘導して金を落とさせて、ふつうの日本人の生活を守るべきだ

 

私が住んでいたロンドンの地下鉄の車内には、日本語はおろか、外国語なんてひとつも表示されていなかった。 英語だからだろうって? だったら、日本語を簡単にして、日本語を世界に広めればいい。 せっかくJ-POPやアニメなど、魅力的な日本語のコンテンツがたくさんあるんだから。

 

英語で道を聞かれたら、日本語で答えればいい。ここは日本なんだから。日本人がオドオドして英語を使うことで、相手が得るメッセージは、「自分たちは日本人より優位である」ということである。日本における唯一の公用語である日本語を、堂々と使って、何を恥じることがあろうか。 

日本では、日本語を話す人が、どんな場合でも最優先されるべきだ。 なぜなら、日本語を母国語とする日本人、ならびに、日本語を学んで喋れるようになった人たちは、人生の時間と努力を、日本語という文化の習得に賭けた人たちだからだ。 自分の人生を日本に賭けた人たちが、日本では最も優遇されるのは、当たり前ではないか。 そういう人たちが、日本に住みながらにして隅っこに追いやられて不自由な思いを強いられるのであれば、日本は、喜んで自らをどこかの国々の植民地にしていることになるのだ。 

 

以前、日経ビジネスに、小田嶋隆氏が、「観光立国とは、物乞いの国になり下がることだ」という旨の文章を書いていた。 観光産業に依存しなければならない国は、物乞いの哀れな国なのだ。 

 

私の母国、日本は、急速に失われている。 そうなれば、私を含めて日本人は、日本にいながらにして、亡国の民になってしまうのだ。 一体それでいいのか?

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近現代における、オーバーツーリズムの最初の被害国は、フランスだと思います。 産業革命によって19世紀に地球の半分を所有していた隣国イギリスから、ろくすっぽフランス語も話せないような成金観光客がパリに大量に押し寄せたことでしょう。 ところで、先日のトマス・クックの倒産は、イギリスのひとつの時代の終焉を象徴するものと思われます(日本でJTBが倒産するようなものです)。

フランスが今でもその文化資源の価値を高く維持できている最大の理由は、フランス語という言語障壁が有効に機能しているためだと思います。 フランスは、自国の言葉であるフランス語に対して、当然でありながら大きな誇りを持っており、外国人観光客に英語なんぞでヘコヘコと応対しないという、敷居の高さが、フランス人の日々の生活を守っているのだと思います。とても賢明なことだと思います。 フランス人は、フランス文化を英米文化よりも上に見ています。 だから、子ブッシュがキャンプデービッドに当時の各国首脳を招いた際に、「ノータイのカジュアル」という米国側からのドレスコードを受けて、唯一、ネクタイ着用で参加したのが、真っ赤なネクタイにビシッとスーツ姿のフランスのサルコジ大統領でした。 私はテレビでその光景を見て、大いにウケました! だから、アメリカはフランスが嫌いなんだよね。 でも、フランスの方は、アメリカに嫌われても何とも思っていないんだよね。 だって、フランスの方がアメリカより優れているんだから。てことなんだよね!)

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「日本語を話す日本人」であることの信用の高さ: 「日本人であることの、世界的な信用の高さ」という、途方もない無形資産の価値を、ぜひとも自覚するべきです。 日本人の言語である日本語を話すことは、自分が、世界で最も信用が高い国民、ないしは、そのような信用が高い国の言語を話す、つまり、日本の文化に通じている人間であることを、周囲に示すことになります。 もちろん、そうすることで、日本人その人にとってのリスク(物取りに狙われる、従順と思われている日本女性は外国人の性的な魅力の対象になり得るなど)は伴います。 が、日本国内においては、マジョリティである日本人より力を持っている者は、いないはずです。 ですから、積極的に日本語を話して、自分が日本人であることを表明することが、日本人にとって得策です。 なぜならば、よく似た他国の人と間違われることは、日本人にとって、大きな損だからです。

 

そして、日本という、言論の統制を受けない自由な国に住んでいるという、その膨大な価値を、自覚して、維持するべきです。 いろいなことはあります。 でも、人々は、不満であれ何であれ、自由に自分の思いを表現することができています。 その表現の手段は、日本語です。 ですから、日本語を失ってはならないのです。 「自由な先進国」と自らを唱える国々でも、日本と同じように、その国の社会のなかでは、いろいろな「伝統的価値観」や「宗教観」のドグマの鎖につながれているものです。 でも、それぞれの国が、それぞれの国の言葉で、いろいろな議論をしていること、議論ができる自由があることが、自由な先進国なのです。 だから、日本も、日本人が、日本が良くなるために自由にいろいろな議論をする手段である日本語を失ってはならないのです

 

オーケストラで演奏してもらいたい時代劇の音楽

 

団員さんたちが、ふだん牛丼や、たらこスパゲティや、ラーメンや、カツサンドや、生姜焼き定食などを主に食べていると思われる、日本のオーケストラは、日本の曲を演奏するのがやっぱり真骨頂ではないかと思っているので(食べ物 イコール 文化です)、ぜひ、珠玉のテレビ時代劇のテーマ曲を集めたコンサートをやってほしいな~と思って(もうすでにそういったコンサートが行われているかとは思いますが)、未完成ではありますが、とりあぜず脳内で妄想したプログラムです:

 

第1部:

 ① 水戸黄門: オープニングテーマ ⇒ 今回のイシュー勃発 ⇒ ♬ポポポ~...テケテケテケテケ テケテケテケテケの弥七のテーマ ⇒「助さん、格さん、こらしめてあげなさい!」で大立ち回り ~ 「控えおろう~!」で印籠出し ~ ご老公が悪者たちをさばいて、そのあとに、いいもんたち(市井(しせい)の人々)にも粋な計らいをする ~ 人々に見送られて旅立つご老公一行。 の劇伴を、組曲仕立てでお願いしたい。 

 ② 銭形平次: オープニングソング。舟木一夫さんご本人に歌っていただければ、なお良し!

 ③ 大河ドラマ風と雲と虹と: 明治維新以後、逆賊扱いされてきた平将門の、戦後の復権を後押ししたともいえる、NHK大河ドラマ風と雲と虹と」。山本直純氏作曲の、1000年前に東日本の大地を縦横無尽に駆け抜けていた東国武士の猛々しい尊厳を見事に表現した曲。

 ④ 一心太助: オープニングテーマ。マイナーキーが多い時代劇テーマ曲のなかで、数少ないメジャーキーの陽気な曲。主演は杉良太郎さん。 御家人役の伊東四朗さんのサラっとコミカルな演技もジワる時代劇の隠れた名作。

 ⑤ 影の軍団: メインテーマ。影に生きる者たちの悲しい宿命と、激しい生きざまが表現された名曲。日本のアクションの御大(おんたい)千葉真一さんとJACの偉大さを噛みしめながら聴きたい。

 

♪ 仲入り ♪

 

第2部:

 ① 鬼平犯科帳: 木下忠司氏に代表される、それまでの重厚な時代劇の劇伴に対して、津島利章氏が新風を吹き込んだ、人間国宝中村吉右衛門さんバージョンのオープニングテーマ。 ドラマでは、津島氏によるおしょうゆ味の劇伴が、脇役レギュラー&客演のみなさんの名演をさりげなく盛り立てている。 

 ② 必殺仕事人: トランペットではじまる、あのテーマ。でも、藤田まことさんが演じる中村主水が仕事をするシーンの曲も含めて、お願いできれば最高。 作曲は、戦後の大衆音楽の権化(ごんげ)、平尾昌晃氏。

 ③ 大河ドラマ獅子の時代: 宇崎竜童氏による、エレキギターをフィーチャーした、斬新で、かつドラマの内容にとてもマッチした、シンフォニックロックの先駆けともいえる名曲。 時代設定は明治時代だけど、幕末を直(ちょく)で引きずっている頃だし、なによりも、宇崎竜童さんのこの曲がメチャクチャかっこいいので、時代劇のくくりでいいよね!  

 ④ 大岡越前江戸を斬るメドレー: 水戸黄門と交互に放送されていた名時代劇2作。水戸黄門の陰に隠れがちだが、大岡忠助と遠山金四郎の、二人の名奉行をそれぞれ扱っている。主演はそれぞれ、加藤剛さん&西郷輝彦さん。

 ⑤ 暴れん坊将軍: 名優であり、「マツケンサンバⅡ」という戦後日本のエンターテインメントの総合的な頂点を世に出した松平健さんの、出世作にして最大のライフワークである、大人気時代劇の、最後の大立ち回りのときのテーマ。 これで、オーディエンスも、喜んで「成敗!」されたこと請け合い!

 

 

と、ここまで来て、

「あれ?あの曲が入ってないよ!」

と、思われる向きもあるとおもいますが、

もちろん、あの曲は、

アンコールですよ、アンコール!

 

 

アンコール! アンコール! アンコール! アンコール!

 

 

指揮者&オケ 再登場! 

 

拍手が大きくなって、 オケ着席。

 

 

そして、

 

 

アンコール曲は、

 

 

 

アンコール曲:

 ① 大江戸捜査網: そう、時代劇のゴレンジャー、大江戸捜査網の、あのメインテーマを忘れてなるものか! 最後の大立ち回りの時にかかる、オッドミーターがスパイシーな賑々(にぎにぎ)しいオープニングテーマからはじまって、♬チャラララッチャ~~~~!の、後半のテーマ曲の最後まで、フルバージョンで演奏をお願いしたい。 大冗談ではなく、大真面目で演奏するに値する、いや、大真面目も大真面目! 日本が誇る、時代劇の名曲です。

 

これでもう、客席は大盛り上がりのスタンディングオベーションの嵐でしょう。 そんなオーディエンスに、「あと一曲しかアンコールやりませんよ」というメッセージをやんわりと送りつつ演奏するなら、次の曲でシめたい:

 

 

 

 

 ② ジプシーキングス「インスピレイション」: この曲については、もう何も説明せずともよかろう! 

 

以上です。 

権利の問題が複雑そうですが、やってほしい。 

実現不可能でも、脳内で公演するのは自由だもんね。

 

tokyotoad

「上を向いて歩こう」と 、「♭6」な日本人

 

アダム・ニーリーさんの動画に、J-popに関するこんな動画がありました:

 www.youtube.com

 

動画の中で、J-popを演奏し、また、J-popにおけるジャズの影響やJ-popならではの特徴を語っているパトリックさんは、日本の音楽の特徴をつかみましたね。 

 

ところで、もう10年以上前になると思いますが、NHKスペシャルだったかな?で、坂本九さんの大ヒット曲「上を向いて歩こう」(作曲: 中村八大、作詞: 永六輔) に関する番組がありました。 その中で、アメリカ人のギタリストが、この曲のBメロについて:

「ファ ファ ファ ソ ラ~  ファ ラ  ソ ~ ソ ミ ソ~~~」のあとに、

「ファ ファ ファ ソ ♭ラ~ ファ ♭ラ...」となるところが、思いもよらない展開でスゴイ!

みたいなことを言っていたのを、覚えています。

 

そうなんですね、このBメロ、

「ファ ファ ファ ソ ラ~  ファ ラ  ソ ~ ソ ミ ソ~~~」ときて、そのあと、もし、「ファ ファ ファ ソ ♮ラ~  ファ ♮ラ  ソ ~ ミ ド レ~~~」

って歌ったら、アメリカ、というか、スコットランドの歌っぽく聞こえますよね(移動ドで書いています。原曲のキーはGメイジャーです)。

 

♭ラを使ったところが、非常に日本的だなぁ、と感じます。「♭6」 は、平調子や雲井調子など日本の音階によく使われているからなのか、「上を向いて歩こう」のBメロの部分を私たち日本人が聞いても、違和感がないけど、日本人じゃない人が聞くと、国によっては、意外な展開に聞こえるのかもしれませんね。 逆に、日本人は、もし上記のくだりが♮ラ だったとしたら、「ヒネリがなくてつまらない」と感じるかもしれません。

 

「♭6」には、日本に特有の、「もののあはれ」があるのかもしれません。 また「♭6」以外にも、メロディーラインのそこここに、「もののあはれ」がいろいろな形で、歌謡曲やJ-popに表れているのでしょう。 「もののあはれ」のフィーリングは、ゲーム音楽やJ-popやアニソンを通じて、日本以外の人にも感じられているんだなぁ、と、思いました。 

 

もののあはれ」は、日本人が縄文時代から、負け戦を続けてきたから、うまれた精神性なのかもしれません。 日本は、今も昔も、常時、戦時状態にあります。 それは、アメリカなんかよりももっともっと恐ろしい、自然という、人間が決して勝つことができない相手に、毎年のように踏みつけられる、という、負け戦です。 自然災害が起きれば、テレビ局はすぐさま非常事態の放送に切り替わり、自治体からは、空襲警報よろしく避難警報が発令され、人々は食料を買い込み、危険な場所に住む人たちは避難し、それでも、必ず、自然の驚異にやられてしまいます。 ようやく復興してきた、その矢先に、また、別の種類の自然災害が起きて、容赦なく、やられてしまいます。 こんどはこっち、こんどはあっち、と、日本全国、どこでも、自然の気まぐれで、毎年、やられっぱなしです。 今回は大丈夫だった所も、次はどうなるか、全くわかりません。

 

こんな、「踏んだり蹴ったり」な国土に生きていたら、せめて、涙がこぼれないように、上を向いて、少なくとも、無理やりでも笑顔になって、やっていくしかないじゃありませんか!

 

そんな気持ちが、日本の歌に、J-popに、メロディーとなって、発散されているんだと思います。 穏やかで人なつっこい笑顔の下に隠れている、日本人の魂の叫びなんです。 だからこそ、それが、日本の歌の強烈な個性となって、日本人以外の人を引きつけているのです。

 

日本人の魂の叫びが、控えめながらはっきりと現れているのが、「♭6」ではないかと、私は勘ぐっています。 

というのは、西洋の古いマイナー音階は、ドリアン主流だったのではないかと思うからです。 だから、西洋のマイナーは「♮6」な、明るめのマイナー。 メロディックマイナーも、上りは「♮6」。 その証拠に、バッハのコラール集では、マイナーキーのキーシグナチャーが、ドリアンベースになっているものが多い。 

これに対して、日本古来のマイナーは「♭6」なので、エオリアンやフリジアンや、中東っぽいハーモニックマイナーのほうが、耳に馴染んでいる気がします(ハーモニックマイナーについては、ええ、そうですよ、中央アジア西アジア小アジアのDNAが日本人に入っていないはずがないでしょう? じゃなきゃ、久保田早紀さんの超絶名曲「異邦人」があんなにヒットするわけないんだから! ←ちなみに、当時、久保田早紀さんやクリスタルキングを「一発屋」呼ばわりしていた人が多かったけど、あれほど強大な一発を放(はな)ったという、もうただそれだけで、十分すぎてお釣りがくるのではないでしょうか。どちらの曲も、日本の音楽史に刻まれる、20世紀の名曲中の名曲ですよ)。

 

ところで、以前の記事にも書きましたが、私が子どもだった1970年代、日本の歌謡曲やポップスや演歌や民謡を劣ったものと見下す、クラシック音楽崇拝者や洋楽盲信者たちがたくさんいました。 私は、子どもながらに、「どうして、自分の国の音楽をバカにするんだろう?」と、不思議でなりませんでした(アッコちゃんや、細野さん(& YMO)や、日本市場で売れる歌を一生懸命作っていたプロ中のプロの人たちは、別です!)。 かつてのクラシック音楽崇拝者や洋楽盲信者のみなさん、21世紀になって、世界の若者たちが、日本の音楽をこぞって聴いて演奏する世の中になりましたが、いまさら宗旨替えは、カッコ悪いですよ(山下達郎竹内まりやなどの「シティ・ポップ」にも火がつきましたよ)。

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明治維新以降、西洋の「優れた」音楽を必死に勉強して、義務教育で強制的に教え込んで、西洋さんに認めてもらいたくてもらいたくて、讃美歌も歌ったことないのにバッハのコラールに代表される西洋和声と対位法を一生懸命勉強して、悲壮な思いでマネにマネして作った、高尚な音楽。 ところが、西洋をはじめ世界が飛びついた日本の音楽は、YMOゲーム音楽とアニソンとJ-popでした(じきに演歌もクるよ)! 

もちろん、これら日本固有の音楽は、日本の伝統音楽と西洋音楽の化学反応ですが、日本の下々(しもじも)の人々、つまり日本の一般大衆向けに作られた音楽が、日本が最も誇るべき日本の代表的な音楽になりました。

数ある「スーパーマリオブラザーズ」(作曲: 近藤浩治氏) のオーケストラ演奏のひとつ(アメリカっぽい楽器編成&アレンジ&演出):

www.youtube.com

 

ちなみに、以前、小学生の頃に学校で流行った「レインボーマン」の替え歌について書きましたが、小泉文夫先生が、子どもの遊び歌に関する立派な論文を多数書かれていたんですね。 何も知らなかった、文化のない自分にビックリ、というか庶民の身ですから文化もヘッタクレもなくて当然ですが、直観ながら私も同じことを感じていたので嬉しい!

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ハ調ですべての黒鍵が出てくる簡単な歌

 

以前、こんな記事を書きました:

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その後、「ハ調ですべての黒鍵が出てくる簡単な歌」を探している誰かが、このサイトにアクセスしてくださったようです。 

 

で、「ハ調ですべての黒鍵が出てくる簡単な歌」は見つかりましたか? 「簡単な歌」を探しているようなので、上記の記事からインスパイアされたけど、「ネコふんじゃった」と「ドレミの歌」をつかうと、モロパクリになるから、なんとか別の歌を探して、上の記事と同じ内容を子どもの生徒さんに教えようとしている先生かな?

 

見つけるの、難しくありませんか? 「簡単な歌」ってところがネックですよね。 そもそも、だれもが知っている、メジャーな歌の名曲は、だれもが簡単に歌えるように、シンプルかつ強力なメロディーに作られているからね。

 

ところで、どうして、見つけるのが難しいんでしょうかね? 理由を考えてみると、いままで気にもとめなかったことがいろいろ見えてきて、面白いかもしれませんよ。

 

話はもどって、私がパッと思い浮かぶ、そういった曲は、歌ではありませんが、

栗コーダーカルテッド(近藤研二さん作)の「おじいさんの11ケ月」が、ハ調で、1個の黒鍵以外すべての黒鍵がメロディーにでてきますね。 メロディーにでてこない黒鍵1個は、イントロ部分にでてきます。   もうひとつは、

②オリジナルキーはちがいますが、「ラジオ体操第1」の曲も、1個の「黒鍵」以外のすべての「黒鍵」が出てきますね、ハ調にすれば。 

というか、あれらの音を「黒鍵」と呼んじゃうと、すでに、ハ調以外では不都合がでてきてしまうわけです。

ところで、①②ともに、メロディーにでてこない「黒鍵」は、あれですね。 作曲家のみなさんは、メイジャーキーのときは避けるようにしているのかもしれません。

(2019年9月16日に追記:ピタゴラスイッチの番組内で使われているらしい曲(by栗コーダーカルテッド(栗原正己さん))に、ハ調ですべての黒鍵がでてくる短い曲がありました。小組曲に編さんされた曲の中に含まれていました。私はふだんテレビを見ませんが、小さなお子さんがいるお母さんなら、すぐにピンとくる曲かもしれませんね。2019年10月8日に追記:近藤研二さんの「ベアーズシネマ」もハ調ではじまってすべての黒鍵が出てきますね。現/元 栗コーダーカルテッドの人たちの曲は、奇をてらわずシンプルに聞こえるが、複雑性があり、それらが整然と構成された、優れた曲が多いですね(優しい曲、イコール、優れた曲なんだよね))

 ↑ ただし、これらの曲を、レッスンなど営利目的で使用する場合は、よほど昔の曲でない限りは著作権の問題が発生するはずです(↓ 以下の曲も同様)。 

 

あの「黒鍵」をふくめて、すべての「黒鍵」がでてくる曲で、ぱっと思いつくのは:

ウルトラQのオープニングテーマですね。ハ調(C Ionian)に移調すれば。  もうひとつは、

リムスキー・コルサコフの「熊んバチは飛ぶ」。確認していないけど、もとのキーでも、あるいは、ハ調(C Ionian)に移調しても、ぜったいに、「黒鍵」どころか「白鍵」ふくめて、すべてのキーをつかってるでしょう(ということは、どんなキーでも12音全部をつかっているだろう)。 

 

つまり、そうゆうことですね。

 

もっとも、どんな曲でも、曲自体が長くなればなるほど、12の音が全部でてくる可能性が高まりますね。

 

そして、「白鍵」「黒鍵」と考えてしまった時点で、ほんとうにハ調以外ではまったく使いものにならなくなってしまうんだよね。 これが、呪いです。 さいしょのさいしょで、つまづいてしまう、害悪のおおもとだと思います。 呪いは、ほんとうに、強力です。

 

大人になってから、その呪いを祓おうと、もがいているときに書いたのが、冒頭にもリンクした、この記事なのです:

tokyotoad1.hatenablog.com

 

大人のピアノの理想の「お手伝いさん」とは?

 

半世紀以上生きてきた者として、大人のピアノの理想の「お手伝いさん」には、以下があると思います (大人のピアノには、基本的に、上から教えるような「先生」は不要だと思います。 大人なので。 大人が欲しいのは、ピアノの趣味の道を下からサポートしてくれる、「お手伝いさん」です):

 

① 動画、ホームページ:

最新の情報が膨大にあるうえに、追加費用がかからない。 

ピアノを初めて弾く人のための動画から、奏法、音楽理論、練習曲の演奏動画、アナリシス(楽曲分析)、音楽の歴史、音響学、著名ピアニストの演奏動画など、世界中で日々、どこかの誰かがアップしていて、たいがい、自分が見たい内容の動画が見つかる。 もちろん、ジャズ、ポップス、クラシックと、あらゆるジャンルの動画がある。 

それらの動画を半年も見続ければ、音楽というフィールドの全体像がなんとなくわかってくる。 いまは英語の動画でも字幕がついたりするので、とても便利だ。 

見るコツは、いろいろな楽器のプロの動画を、見ることだと思います。 楽器は違っても、西洋音楽の理論はひとつだし、ギタリスト、ベーシストやサックス奏者の動画に、わかりやすいものが、けっこうあります(ジャズやポップスは、音楽理論ありきなので、上手にかみくだいて教えてくれる印象がある。もちろん、ピアニストや作曲家や音楽理論家の動画にも、わかりやすい動画がある)。  ピアニストが割と不得意と思われるリズム感については、ドラマーはもちろん、ギタリストなどの動画にも良い内容があると思います。 

理論(音楽文法)については、音大のホームページや、独学者のためのお助け情報サイトに、基本的な内容が載っているし、各キーのスケールを音つきで紹介しているサイトも、たくさんあります。 

それらを見ながら、電子キーボードで見よう見まねで弾いているだけで、けっこう力がつくと思います。 音楽の文法をマスターするのに、高額なアコースティックピアノは、全く必要ありません。 安い電子キーボードが一台あって、やることをやって、考えることを考えて、ずっと続けていれば、だんだんわかってくると思います。

 

② プロの演奏家兼作曲家:

演奏活動で生計を立てているプロの演奏家によるレッスンは、ちまたの水準に比べてかなり高額になると思いますが、お金に余裕があれば、受ける価値があると思います。 

なぜなら、演奏活動で生計を立てているプロの演奏家は、それにケツをまくっているので、世間様からお金を払ってもらえるような仕事ができているからです。 

「自称プロ」、つまり、「本業は扶養家族」という人は、その仕事ではない本業のほうにケツをまくっているので、どうしても、本業ではない仕事のほうには甘えが出ます。 もし、自分が、本業で、ケツをまくって仕事をしているのなら、やっぱり、ケツをまくって仕事をしている人にお金を払いたいじゃありませんか。  (会社勤務と兼業して演奏活動で結果を出している人もいると思いますが、そういう人は、他人に教える時間はないんじゃないかと想像します) 

ただし、先にも書いたように、こういう、ちゃんとしたプロのレッスン料は、高額です(私は、金銭的に続かなかったので、レッスン1回受けてやめました)。 その上、彼らのライブの常連客になったりCDを購入したりと、実質的には、彼らのファン(=旦那(だんな))になることが必要かもしれません。 

という意味では、大人の趣味の究極、パトロン活動(旦那(だんな)業)をする覚悟がいるかもしれません。 それができれば、究極の素人芸、つまり、旦那芸です。  

 

③ ピアノの先生の先生:

ピアノの先生を教えているプロの演奏家や、大学の教授などです(②の人の中にもいます)。 金銭的に余裕があるなら、「ピアノの先生の先生」から直接習うほうが、芸事のおおもとのコンテンツを直接得られるので、喜捨するお金の価値が希薄化しません。 

「先生の先生」は、「音楽教育業界」という、シュリンクし続けるパイのなかで繰り広げられるカニバライゼーションの、喰う方の人です。 やっぱり、喰われる方の人より、喰う方の人に習いたい。 

かつて、クラシックの或るジャンルがとても好きなアマチュアで、ピアノの先生やプロの演奏家を教えている大学の先生に習っている人のお話を聞きました。 その人のピアノの演奏は、たどたどしかったけど、お話ししてみると、大学の先生に習おうと思う人ですから、音楽に対する造詣が深い。 そのジャンルの知識が豊富だし、クラシック音楽の歴史やピアニストにメチャクチャ詳しい! 大人の趣味として、これこそ王道だと思いました。 

よく、「大人向けのピアノ教授法の講習を受けました」なんていう先生がいますが、大人が教わりたいのは「教授法」ではなくて、音楽という、コンテンツです。 

また、ぶっちゃけ、「ピアノ教授法の講習」の真の受益者は、講習の主催者ではないかと思います。 やっぱり、こちらとしては、喰う方に習うほうが、自分の限り有るお金が、生き金(いきがね)になると思います。 

その芸事のおおもとから習う「一次カスタマー(顧客)」になるか、それとも、その芸事のおおもとから習った「一次カスタマー(顧客)」から習う「二次カスタマー(顧客)」になるか、です。

 

④ プロの演奏家のライブやコンサートに行く

 ②や③の人たちに習うのが金銭的に難しければ、ちゃんとしたプロのライブやコンサートに行って、彼らの実際の演奏を観察すると、とても有益だと思います。 イメージトレーニングになるからです。 (しかし、ちまたには、「自称プロ」がはびこっているので、それらは避けるが勝ちです)

ちゃんとしたプロの演奏家の体格・体形や、演奏フォームや、奏でる音、ステージ上のプレゼンテーション、音楽の世界観が、ひとりひとり、いかに違うことか! それらを観察すると、脳内に情報が蓄積されて、自分なりの「理想の演奏」のイメージを作り上げようと、脳が活性化します。 

プロのサッカー選手は、自分が調子が良い時の録画や、目標とする超一流選手の動画を見て、イメージトレーニングをするそうです。 プロだけではありません。 あれだけプロリーグを見ている小柳ルミ子さんが、もしサッカーをしたら、ぜんぜん見ていない同年代の女性よりも、ずっとサッカーができると思います(小柳ルミ子さんは、芸能界を何十年と生き残って来た、海千山千の人ですから、なおさらです)。 素人の楽器演奏だって同じことです。  

 

個人的には、①(動画やサイト)で情報収集して、興味のある本や楽譜を買って、自分の目的にあった練習方法を工夫しながら、細々と練習を続ける一方で、ちゃんとしたプロのライブやコンサートを聴きに行っています。 何十年、ケツをまくって仕事をしてきました。 ベテラン社会人のみなさんも、そうでしょう? だから、できるだけ、ステージ上で、ケツをまくって頑張っている、プロの演奏家のライブやコンサートに行こうと思います。

 

⑤ 身体操作のプロ

 大人が、とくに、クラシックの大曲を、良い音で弾きたいと思うなら、まずは、日常生活における姿勢と体の動かし方から始めた方がよいと思います。

なぜなら、ピアノのレッスンで、技術的な細かいことを指導されても、当の自分の身体が動かなければ、何度練習しても、ずっとダメ出しされてばかりになるからです(私の経験ではそうでした)。

同じことを、毎回、毎回、延々とダメ出しされているうちに、「自分は下手だ」という呪縛に縛られていって、委縮して、この世の地獄になってしまうからです。

じつは、運動能力的にできない、大きな原因に、身体の歪みがあると、自分の経験から、思います。とくに、身体の左右の歪みによって、ピアノを弾くと、どっちかの肩や首の後ろが凝るとか、左手の動きが悪い、とか、いろいろなことの原因になっていると感じます。

その、肝心かなめの原因を解決しないまま、どんなに悲壮に練習しても、あんまりうまくならず、相変わらず先生からダメ出しされ続けて、自信を完全に喪失した「できない人」に固定されてしまうと思います。

逆に、最初から、肝心かなめの動きができていれば、先生からのダメ出しが極端に少なくなるので、「できる」マインドセットで物事が回り始めるので、メンタルな好循環で上昇していけます。 キリスト様は、これを「天国」と呼んだのだと思います。 キリスト様によると、「天国は、あなたがたの心の中にある」そうですよ。

では、いかに、自分の心に「この世の天国」を実現するか? そのためには、身体操作の本質をわかっている人たちの本やDVDを読んだり、身体操作のレッスンに通ってみたり、人体や脳に関する本を読んだりして、自分の身体といっしょに試行錯誤しながら、自然な姿勢と動きを少しずつ会得して、小さな「できる」を、積み重ねて、少しずつ好循環を作っていくことが必要だと思います。 

身体操作は、ピアノやバレエといった、個別の芸の専門家が、実は知らない分野である、という印象を受けます。 じゃなければ、「演奏家のための●●テクニックとか●●メソッド」なんていう商品が濫立するはずがないからです(= プロだって悩んでいるんだ)。  

もし、誰かに習うなら、いろいろな武道や芸能や身体操作法やヨガなどを自ら試し、統合して、独自のメソッドを作り上げている、当のご本人に習いたいと思います(ここでも、喰われる方の人から習うよりも、喰う方の人から習いたい)。

ほとんどの中高年は、長年の日々の労働によって、身体が歪み、硬直していると思います。 とくに、股関節が固かったり、股関節につまり感がある人は、趣味より前に、自分のサバイバルのために、何とかしたほうがいいと思います。 命と健康があっての、仕事や趣味です。

楽器演奏については、体格に恵まれている人(背が高い、ガッチリ体形など)は、身体の大きさと筋肉の量で、歪みをある程度カバーできるかもしれませんが、小柄で痩せた人は、身体の資源が乏しいので、小手先の動きばかりを教えられて、どんなに練習しても、うまくいかなくて、「できない」「できない」と言われ続けて、その有害な言霊(呪い)を受けてしまって、現世にいながら「できない無間地獄」の亡者というか、餓鬼(ガキ)になってしまうと思うからです。 

 

大人は、餓鬼(ガキ)ではありません。

 

私は、餓鬼(ガキ)になりたくなかったし、プロのレッスンに支払う高額なお金がないので、コンサートやライブに足を運んで、本物のプロの演奏を滋養にしながら、家で独学しています。 自分が好きでやることです。 たとえ下手であっても、間違っても、仕事ではないのですから、痛くもかゆくもありません。 だから、自分がそれを統括します。

これに対して、餓鬼(ガキ)は、自分の中心がカラッポ。 何をやっても、自信がありません。 永遠に、自分で自分の心を満たすことができないので、心の飢餓状態を、人から受けた評価で満たそうとします。 自分の中に判断の基準が欠落しているので、人の言葉が宝珠なのか、汚物なのかも、判断できずに、なんでも、むさぼり喰う。 だけど、自分に主体がないから、当然、満たされない。 

だから、いつも、自分と他人を比較して、勝手に自分で優劣を判定して、一喜一憂してばかり。 「立場が上の人」と自分が思いこんでいる存在から褒められれば、とたんに舞い上がるし、逆に、ダメ出しされると、落ち込んだり、逆切れしたりする。 心の土台が、脆(もろ)すぎるのだ。  

趣味も、仕事も、人生何をやっても、いつも不安で、焦燥感に悩まされている、劣等感のかたまり。 それを、「趣味なんて」とか「仕事なんて」とか、自虐的に言って、ごまかしているけど、心の中は、たぶん、地獄。 これらの言葉は、自己評価の低さを表している。 とどのつまりは、「自分なんて、ダメな人間だ」と言っているのだ。 自虐は、自己否定。 最初から、自分を否定しているから、何をやっても、うまくいくはずがない。 自分で自分に呪いをかける人生は、本当にかわいそう。 

永遠に満たされることが、ないのだ。 自分の中心が、いつまでもカラッポだから。 主体性が欠如しているから。 主体的に考えていないから。 

この世の地獄から自分を救うのは、自分しかいない。 そのためには、まず、餓鬼(ガキ)道から自分を救い出して、大人になることだ。

私は、生きているうちに大人になりたいと思っています。 

 

日本の20年くらい先を歩いているのが、アメリカです。 フォードなどの自動車企業の、工場労働者たちが、第二次大戦で戦勝国となった勢いもあったのでしょう、「ミドルクラス」というボリュームゾーンに成り上がりました。 経済的な余裕を背景に、日本より一足先に、音楽などの芸術を楽しむ庶民の大人が爆発的に増えたようです。 アマチュアのチェロ奏者 John Holt さんが1978年に出版した本の中の言葉です: 

The teacher I need must accept that he or she is my partner and helper and not my boss, that in the journey of musical exploration and adventure, I am the captain.   Expert guides and pilots I can use, no coubt about it.   But it is my expedition: I gain the most if it succeeds and lose the most if it fails, and I must remain in charge.

(出典:John Holt Never Too Late (1978)   アマチュアのチェロ奏者のHoltさんが書いた、含蓄にあふれた名著です。 アマチュア音楽好きなら、一読をお勧めします(私は日本語版を読みました)。 上記の引用文は、William Westney The Perfect Wrong Note にも載っています。 The Perfect Wrong Note の日本語版は『ミスタッチを恐れるな』です。 しかしながら、英語の原書のタイトルは、そんな意味ではありません。 日本語に翻訳すると、どうして高圧的な大上段の命令口調のタイトルになるのか、私はぜんぜん理解できなかったので、私は、英語の原書を読みました。)

 

参考記事:

tokyotoad1.hatenablog.com

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夏バテの耳にやさしい、なごめる 日本のおんがく

 

8月にはいって、暑さからの脱水症状からなのか、ずっと不調。 が、そんなときに、食べて救われたのが、ふっくらあったかいご飯と、お味噌汁。 胃壁にスーッと、しみ入っていきました。

 

それらで救われていくうちに、耳も癒されたい! と、作り始めた、コゥズィ~でカムフィ~(comfy(←comfortable))な日本のおんがくの再生リストが、どんどん膨れ上がって、もう数時間の長さに。 

 

「クラシックピアノのメタル弾き」にエクスポーズされすぎて、耳がバテ気味の人もホッとすること請け合いの、耳にやさしい、極私的な癒し&なごみミュージシャンのリストです:

 

① 松任谷由実: 押しも押されもせぬ、日本のおんがくの絶対的代表であり、今のミレニアム中に、必ず日本の伝統文化の歴史上の主要人物に名を連ねることが確実な、松任谷由実(由実さん作詞作曲歌唱&正隆さん編曲プロデュースの夫婦ユニット)。 無数の大ヒット曲がまぶしすぎて、「なごめるのか?」と思う向きもあるかもしれないが、すべてのアルバム一枚一枚に、かならず、至高のなごみチューンが含まれている! 正隆さんの、がっつかない、でも、すべてがそろっている、育ちの良さを感じさせるアレンジが、癒し感に貢献している。 アルバム単位でなごみ感を感じられるのは:MISSLIM、14番目の月、 OLIVE、悲しいほどお天気、 昨晩お会いしましょう、VOYAGERなど。 アナログ録音の時代の音源は、アーバンなサウンドも、ほっこり暖かくて耳にやさしい。 

 

② 大貫妙子: J-popの「なごみの女王」といえば、この人! オツなコード進行&やさしく穏やかな歌声で、1970年代以来、ずっと日本を癒し続けている。 さすが第一人者、編曲やプロデュース、サポートミュージシャンに、歴代の日本のおんがくを代表する人たちが名を連ねていて、圧倒的な安心感。 大船(おおぶね)に乗った気分で聴ける。 アルバム:GreySkies、クリシェアヴァンチュール、プリッシマ、Pure Acoustic 2018 など多数。

 

③ 矢野顕子: ブッとび感&YMO時代の教授プロデュースのイメージがあるが、ピアノ弾き語りのアルバムや、YMOメンバーはじめ現在の大御所たちがバックアップする1970年代のアルバムに、アナログ的なごみ感がある。 数々の名曲のアッコちゃん流アレンジも秀逸! アルバム:ト・キ・メ・キ、SUPER FOLK SONG など。 

 

④ さだまさし:  オフコース(⑤)とともに、ギラギライケイケのバブル時代に世間から「暗い」と迫害を受けたアーティストといえば、さだまさしだ。 しかし、歌詞の高い叙情性と、優しく美しい音楽は、ユーミン(①)とともに、未来の日本の伝統文化に名を刻まれるに違いない。 タモリ倶楽部で、「江東区から頼まれてもいないのに勝手に江東区の区歌を作ってしまう企画」のときに、あの音楽巧者のレキシ氏が大絶賛したのが、さださんが作曲した豊島区の区歌だ。 区歌をいちばん頻繁に歌うのは誰か?といった、お客さん目線に立った曲作りは、さすがプロ! 従来の区歌特有の古臭さにキッチリ別れを告げて、80年代フォーク&ニューミュージック風に進化させていて、しかも健全で美しく誰でも歌いやすいメロディー、その上に「さだまさし」感もちゃんと出ている、完璧な作り! 私が自治体の担当者だったら、ぜったいに、さださんと仕事をする!  話は大きくそれたが、21世紀の今だからこそ、よりいっそう、心に染み入ってくるのが、さださんのサウンドだ。  アルバム: 風見鶏、私花集、夢供養 など。

  

⑤ オフコース: バブル時代、隠れキリシタンのような生き方を余儀なくされたのが、さだまさしファンとオフコースファンだった。 だが、21世紀の「枯れた日本」に、オフコースサウンドは、慈雨のように染み入ってゆく。 とりわけ、「さよなら」で全国区になる前のアルバムは、素朴で、癒し感が強い。 小田さんのメロディーと歌声がとかくフィーチャーされるが、鈴木さんのジャズ文法によるアレンジ&コーラスが、じつはとても効いているので、21世紀になって聞いても、洗練されたサウンドとして聴けるんだと思う。 横浜(東京湾沿いの地域)の持つハイカラな港町感と、神奈川県っぽい、のんびり感が漂う「潮の香り」に、癒される。  アルバム:ワインの匂い、SONG IS LOVE、COLLECTION、JUNKTIONなど。

(余談: 神奈川出身のミュージシャン(オフコースサザンオールスターズ、杏里、TUBE、ゆず、いきものがかり、など)と、千葉出身のミュージシャン(X-JAPAN氣志團ジャガーさん、など)を比べると、各県の特徴があって興味深い。 江戸の下町エリアとの距離的な近さからか、田舎もんが背伸びしてセレブって「スカしている」ことを「野暮」と切って捨てる、歌舞(かぶ)いたケレン味と、日本有数の暴れ川「坂東太郎(利根川)」がもたらす豊かで広大な大地と海によって、江戸の台所として巨大な富を蓄えた農業/漁業コミュニティをゆりかごに生み出される、地力(じりき)があるのに、それをひけらかすことを粋(いき)とせず、逆に「キワモノ」のオブラートで包みこむ、真の意味での洗練性がある、実(じつ)のある文化が千葉、という気がする。 対して、文明開化ミナト横浜を有し、はるか古代から東西日本を結ぶ大動脈東海道と、江戸時代の「巡礼」という名の庶民のレジャーバケイションのメジャーなデスティネーション(大山、江の島、鎌倉、金沢八景、箱根、そして富士山へのルートの大半)が多い「武蔵国の南端&相模国」の、お日様と太平洋(相模湾)をいつも南に見て生きる、朗(ほが)らかな開放感と、潮風に抱かれたのんびり感が、神奈川の文化といった感じがある。)

 

 ⑥ 杏里: ギラギライケイケだったバブル時代に、一服の清涼感をもたらしてくれたアルバムといえばこれだ! 時代が感じられる豪華絢爛な編曲の上に、杏里の素直で伸びやかな歌声が爽やかな、宝石箱のようなバラード名曲アルバムが、MEDITATIONだ。

 

⑦ 大江千里: NYで活動する「全盛期のJ-popと、ジャズとの融合」の象徴。 本場の人たちでは決してこうはいかない、なごみ感あふれる、癒される、これこそ日本のおんがく! それを、ジャズの本場で堂々と発信し続けている。 自身の大ヒット曲をアレンジしたピアノソロアルバムは、J-popのスタンダードナンバーが、いかにジャズと親和性が高いかの、雄弁な証明だ。   アルバム:Boys and Girls、COLLECTIVE SCRIBBLE

 

 ⑧ ゴンチチ: 茶目っ気に加えて、和事(わごと)や人形浄瑠璃に通じる、繊細で柔らかな上方文化の余裕が、ラテンギターを媒体にアウトプットされると、こうなるのか。 軽やかな日本のなごみサウンドを生み出し続けるゴンチチは、アコギ愛好家はもちろん、おんがく好きの南十字星だ。

 

⑨ フェビアン・レザ・パネ: 大貫妙子女史(②)のライブ盤を聞いていたら、「ピアノがメチャクチャいい~!んだけど、誰だろう?」と思ったら、この人が弾いていた! 細密精緻でありながら、やさしく、あたたかく、海洋民族の日本人のDNAに静かに共鳴する、「海上の道」の体現者だ。 「クラシックピアノのメタル弾き」で耳にタコができたら、フェビアンさんのピアノを聴いて、さらさらと洗い流そう。 それに、「この、なごみ感、誰かと似ているな~」と思っていたら、NHKテレビ体操でコアな信奉者を集めていた名川太郎さんに、どことなく通じる気がする(つまり、能ある鷹ならではの、優しい音)。 また、曲の構築性の土台が、ふと教授を思い起させる時もあって、気がついたら三人とも同じ大学の同じ学科出身だった。   

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⑩ 栗コーダーカルテッド: 小学校の音楽の授業の縦笛ピーピー練習によって、大きなトラウマを負ってしまっている、戦後の日本の耳に、ほんとうのウッドウィンドの音色を聞かせてくれて、深い傷を癒してくれた。 バロック以前の西洋音楽が日本というフィルターを通して現代によみがえったらこうなりました、という感慨。 子供向け教育番組や各種CMを通して、日本の音楽文化の穏やかでやさしい中心を作り続けている。 楽しく懐かしく美しいオリジナル曲のほかに、アレンジ愛好家にとっては目からウロコのカバー曲の数々に、新鮮な驚き&愉悦と、メンバーのみなさんの水も漏らさぬ高度な音楽性への敬意がこみ上げてくる(とくに、テクノポリス(by YMO)、スリラー(byマイケル・ジャクソン)、犬姫(by渋さ知らズ)のカバーなど。そして「陽気なブースカ(by高梨純)」のカバーはモノスゴイ!)。

 

⑪ 図書館: J-popのひとつの完成を象徴するようなバンド。 リキみがこれっぽっちもなくて、てんこ盛り感もぜんぜんなくて、オラオラ感もマウンティング感もまったく無い、どこまでも自然体で、懐かしい音楽。 オッドミーターづかいに、民謡や盆踊りの源流を感じて、日本の伝統音楽を代々継承してきた人たちたちへの畏敬と感謝の念をも沸いてくる「図書礼賛」や、J-popの歴史が凝縮されたような「最終電車」が極めて秀逸だが、1stアルバムと2ndアルバム、全ての曲がすばらしい。 日本はついに、独自の伝統音楽のベースに、西洋音楽を自家薬籠中の物(じかやくろうちゅうのもの)にして、日本独自の癒し系ポップスを完成させた!  

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ほかにも個別の曲ベースでたくさんありますが、アルバム単位のものだと、今のところこんな感じです。 誰もが、自分の好みに合った、なごめる音楽のリストを心に持っているもの。 自分だけの癒し系日本のおんがくの再生リストを作って、夏バテしたりヘコんだ時に聞くと、心にじんわり栄養がしみてきます。

 

関連記事:

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J-POP と 日本 と。

 

以前、こんな記事を書きました: tokyotoad1.hatenablog.com

 

そのなかで、「日本語」という「言語障壁」の大きなプラスの価値について、書いたのですが、(関税や、ISOなどのルール制定と同じように、言語も、その国の国富を守るための、有用な障壁であり、欧米はもちろん、各国は堂々と、自国に有益な、様々な障壁を作っている)、

 

「日本語バリアー」に大きな経済的価値があることについて、下記の田中修治氏も語っていたので、リンクを貼り付けます:

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「日本語バリアー」には、経済的な価値はもちろんのこと、それ以前に、途方もない文化的な価値があります。 言葉は、その国の文化と伝統の象徴です。 能も狂言も、文楽も歌舞伎も、J-POPもアニメも、日本語を基盤にした、長い文化の伝統のスープの中から、生まれ、進化発展してきたものです。 だから、自分の国の言葉を、ほかの国の言葉より価値のない劣ったものだと考えた時点で、その国はお先真っ暗です。 自分の国で歌われている流行歌を、自分で嘲笑するような人は、自らの存在基盤を自ら踏みつけている、とても哀れな人です。  言葉は、文化を、コンテンツを生み出す、土台です。 自国のコンテンツに経済的な付加価値をつけて販売して利益をあげたいなら、その文化の土台となっている言葉を、まず第一に大切にするべきです。 日本の文化を安売りしないことです(今は、世界的に見てものすごくプレミアムのある日本の真価が分からない自虐的な人たちが「上」のほうでトホホなことをするもんだから、日本は安売りされすぎで、豊かな国土と文化というプライスレスな国富がダダ漏れ状態!と、英語圏に数年住んだことのある私は思うよ)。

 

上記の対談動画のように、若いリーダーたちの中に、むしろ、若い人たちのほうが、自分と自分の国について健全な自己肯定感を持っているんだ、ということを知って、心強く思いました。

 

若いリーダーたちの多くは30代~40代。 平成の世の中で育ったひとたちです。 良い意味で、昭和の呪縛を知ることがない人たちです。

 

元号が「平成」になったとき、「いい元号になってよかった」と、ほっとした雰囲気が社会を包んだことを、覚えています。

 

平成時代には、いろいろ悪いこともありましたが、いいこともたくさんあったと、振り返ると感じます。 

 

とくに、大きかったのは、逮捕され刑期を終えて再び世に出たホリエモンが、スティグマを負わされることなく、今も活躍できていることでしょう(昭和の時代だったら、無理だったと思う)。 失敗しても、再チャレンジができる世の中になりました。

 

明治維新から昭和の終わりまで採用されていたメカニズムが、瓦解する音が聞こえます。 でも、もっと短いスパンで、20年ぐらいのサイクルで、日本は激変を繰り返してきたんだと、人生ある程度生きてくると、肌で感じます。 いや、日本だけでなく、世界は、20年周期ぐらいで、ガランガランと、激変してきたんだ、そして、これからも激しく激変していくんだなぁ、と、戦慄を感じます。 親の価値観は、子どもには、通用しない。 中高年の価値観が跋扈(ばっこ)するままでは、若い人たちはその若さと才能を存分に伸ばせない。

 

「昔のほうが良かった」と思うことがたくさんあります。ですが、世の中はどんどん進化していて、若い人たちは、頼りなさそうに見えて、実は、とても優秀で、一生懸命に考えて生きていて、進化し続けているんだと、思います。 

 

音楽だってそうです。今やっている高校野球の応援バンドの演奏を、昭和の時代と比べれば、明らかです。 ギター片手に趣味で歌を作って、ちょっとした会で歌う30代のアマチュアの人たちが使いこなしているコードや、コード進行や、リズム感や、スピードをみれば、明らかです。

 

若い人たちが、自分で一生懸命勉強したり、調べたり、考えたり、社会経験を積んだ結果として、自分の思いを歌や文章などで自由に表現したり、いろいろなことを議論し合ったりして、それらに対して、一般社会の普通の人たちの気持ちを無視したコントロールがなされることがない、風通しの良い環境を得られているのは、とても健全なことだと思います。 世界には、そうできない国に生きる若者がたくさんいると思います。

 

でも、「日本は、どうして、うまくいかないんだろう?」と思うことがあるとすれば、それは、「今まで、この国に人生を賭し、無念な思いをして死んでいった人たちに、敬意を払わずリスペクトしてこなかった、その人たちの恨み」が、怨念になっているからかもしれません。

 

人間の尊厳を踏みにじられ、リスペクトをもって扱われずに、無念に死んでいった人たちは、「神」となって「鎮魂」されてきました。 「鎮魂」とは、「その人から祟(たた)られるような、ヒドい抹殺の仕方をしたのに、祟られないように、一見、奉(たてまつ)っているように見せかけて、実は重いもので押さえつけて鎮め封じ込めようとする行為」です。(日本では「神」は「1柱」「2柱」と数えますが、人骨も「1柱」「2柱」と数えます)

 

わが意に反して無念のうちにはく奪された魂を、抑えられ鎮められ封じ込められて、忘れ去られてしまった人たちが、おびただしい数でいることでしょう。 たとえば、東京の土には、数え切れないほどの人間の脂が、染み込んでいます。 東京大空襲で、無数の人たちが、非常に高い温度で焼かれたため、フライパンでベーコンを焼くと脂が溶け出すように、その人たちから溶け出した脂が、東京の大地に染み込んでいます(いまも、その脂を消しても消しても消えない場所があります)。 広島や長崎は言うに及ばず、空爆を受けた、日本中の都市もそうでしょう。 脂じゃなければ、沖縄の「ハンバーガー通り」のような場所もあるでしょう。 東京大空襲では、下町のほかに、山の手でもたくさんの人が焼け死に、あるいは、家の庭に掘った防空壕の中で、蒸し焼きになりました。 今の上野公園の地下にあった防空壕に逃げ込んだ人たちの多くも、亡くなりました(私の祖父も逃げ込みましたが、死なずに済みました。だから、私は、今、ここに、生きています)。 それよりずっと前、明治維新の時には、今の上野公園には、幕府側について戦った彰義隊(しょうぎたい)の人たちの死骸が、「逆賊」だからと、丁重な供養もされず、腐敗するにまかせて、打ち捨てられました。 明治以降、そして戦後、仕方がなかったとはいえ、猛スピードの産業振興によって、各地で公害病や事故災害が発生して、たくさんの人が死んだり、後遺症で苦しんだり、それによる差別などで、人生のバリューが大きく損なわれて、不遇の一生を送りました/今も送っています。 そういう人たちの命の重さを、今生きている多くの人たちは、忘れてしまっています。 先人たちの無念の思いをリスペクトしないどころか、虫けらのように考えたり、死んだら忘れて無かったことにするようでは、この先、何をどうやっても、うまくいかないことでしょう。

 

出生率が低下したのは、一人前の人間として扱ってこなかった女性たちの存在&人生&労働を、都合よく利用するだけで、引き続きリスペクトしてこなかったから、そうなったんでしょう。 派遣社員の人たちを二級市民同様に扱えば、彼らの怨念も、かえってくることでしょう。 天災や人災の被害地域の人たちを、差別するようなことをすれば、それも、将来、かえってくることでしょう。 

 

「●●国はこうなのに、日本はダメだ」とか「日本は世界から遅れている」とか「世界から笑われる日本」みたいな、根拠あるのかどうかもよくわからないような意見が出るのは、この社会で意に反して生きづらい思いをせざるを得なかった、「日本人で負け組となった人たち」や「日本国籍なのにマイノリティに分類された人たち」の恨み節が、因果となって、はね返ってきているんでしょう。

 

因果応報。  恨みや怨念は、べつに、オカルトや超自然的な現象ではありません。 その地に住む人たちが、先祖・先人たちの無念の思いを、心の底に、代々受け継いでいるものです。 恨みや怨念は、大きなトラウマとなっています。 あまりにも傷が深く、重いため、それを軽々しく口にしたり、相手の譲歩を引き出すために騒ぎ立て利用しようと思えるような、そんな軽々しいものではありません。 穏やかな笑顔と丁寧なお辞儀の下に隠した、心の最も深い底に、深々と刻まれ、代々受け継がれていく類のものです。 そんな事情を知らない、どこからかやって来た他の誰かが消そうと思っても、彼らの手が届かない、心の底に、脈々と受け継がれてゆくものです。

 

まずは、人種や出自を問わずに、日本人として生きることを選んだ、日本語を母国語として話す、同じ日本人どうしが、互いに苦労を思いやって、リスペクトし合っていけば、このような怨念は、供養されていくでしょう。 日本の国内でがんばっている日本人をないがしろにして、不便な思いをさせて、我慢をさせている一方で、英語かなんかでペラペラしゃべって外国相手にいい格好をしたって(←実際、カッコ悪いよ)、ちっとも怨念の供養にはならないでしょう(し、そういう薄っぺらい行いは、そもそも、優れた人がやることではありません。という意味では、自分が生きる社会を回してくれている、目立たないけれどいちばん近いところで日々頑張ってる無数の存在である「お陰様(おかげさま)」を尊敬し、その苦労を思いやって感謝する気持ちを持てば、誰でも、等しく、優れた人になれます。「優れている」というのは、家柄や学歴や社会的地位や技能・資格といった表面上の優劣ではなく、その人の「心の優劣」です。「心の優劣」こそが、この世で最も強大な価値です。そして、「お陰様(おかげさま)を尊び敬い、感謝する心」が、日本という国が象徴する、人類の最も崇高な精神価値なのです)。

 

そのためには、まず自分で自分を呪わないことです。「私はダメだ」とか「私は下手だ」とか「どうせ私にはできない」とか、自分を思いやらないばかりか、自分を呪うばかりで、ちっともリスペクトしなければ、自分以外の人をリスペクトできるはずがありません。 

 

「私は、生まれてきた、このまんまで、すばらしいんだ!」と、笑顔で胸を張って、そして、「長い間、ずーっと昔から、この土地で、この国で、一生懸命苦しんで生きて、死んでいった、無数の、無名の人たちが、命を張ってくれたから、私は、いま、ここに、生きていられるんだ」という、先人への感謝を持って、彼らの無念に深く思いをはせる気持ちを忘れずに、自分が接する人たちを思いやって、リスペクトして生きることが、未来の安らかで平らかな幸せに通じる道だと、思います。

 

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報道や意見が、お金(メディアのスポンサーになること)で買えることが、あからさまにわかる時代になりました。 

 

誰がメディアのスポンサーになっているかは、そのメディアの記事の選び方(誰を優先的に記事にしているか)、記事の論調(誰に有利なように、誰に不利になるように書かれているか)や、画像写真(誰や何を選んで、どのように表現しているか)などに、ちょっと注意を払えば、わかることでしょう。

 

その中にあって、自分自身でいろいろ考えて、自分なりの方向性を生きるには、周りの煽りに一喜一憂したり簡単に流されないように、平らかで健全な自己肯定感を持つことが、ますます大切になるでしょう。

 

古い時代から、「相手の命を奪ったり傷つけたりしないで、相手を支配する」方法が、いろいろな分野で模索されてきました。 「相手の自己重要感をそいで、自信を失わせる」ことが、その最たる方法です。 思うつぼにはまらずに、生きていきたいものです。