ピアノ方丈記

音楽の彼岸にて【指の健康寿命を気遣いながら!】シニアのピアノ一人遊びの日々

クラシックピアノは天動説、ジャズピアノは地動説 (その他雑感)

 

以下の記事:

クラシックピアノは天動説、ジャズピアノは地動説。 - ピアノ方丈記

クラシックピアノは天動説、ジャズピアノは地動説 (その②) - ピアノ方丈記

クラシックピアノは天動説、ジャズピアノは地動説 (その②の続き) - ピアノ方丈記

クラシックピアノは天動説、ジャズピアノは地動説 (その③) - ピアノ方丈記

クラシックピアノは天動説、ジャズピアノは地動説 (その④) - ピアノ方丈記

クラシックピアノは天動説、ジャズピアノは地動説 (その④のつづき) - ピアノ方丈記

クラシックピアノは天動説、ジャズピアノは地動説 (その⑤) - ピアノ方丈記

クラシックピアノは天動説、ジャズピアノは地動説 (⑤の続き、ほか) - ピアノ方丈記

の続き。

 

これまでの一連の記事で、

ピアノに限らず「クラシック音楽は天動説」「ジャズなど20世紀以降の音楽は地動説」と私が思う理由は:

 

①「クラシックは固定ド(=絶対音感)の宇宙」vs「ジャズなど20世紀以降の音楽は移動ド(=相対音感)の宇宙

②「クラシックは I→IV→V→I の宇宙」vs「ジャズなど20世紀以降の音楽は II→V の宇宙だから。

③「クラシックピアノは、楽譜絶対主義vs「ジャズは、即興演奏絶対主義だから。 

④「クラシックは、ド-レ-ミ-ファ-ソ-ラ-シ-ド(1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8) の宇宙」vs「ジャズなど20世紀以降の音楽は、1, b9, 2, #9, 3, 4, #11, 5, b13, 6, b7, 7, 8 の宇宙だから。

⑤「クラシックピアノは、アコースティックグランドピアノ絶対中心主義なのであーる!vs「ジャズピアノは、ピアノの種類よりもさぁ、即興で何か弾けないと、なんにも始まらないんですけど...。

 

について書いてきました。

 

ここからは、①~⑤に関して、私がそぞろ思っていることを、徒然なるままに書き散らしていきます: 

 

私は子どもの頃(戦後昭和の高度成長期あたりですかね?)に、ピアノを習わせてもらいました。 

当時のピアノのお稽古ですから、当然クラシックピアノです。 

しかも、3歳ぐらいから習わせてもらっていたそうです。 

ところがですね、中学卒業までピアノを習わせてもらったにもかかわらず、テレビやラジオから流れてくる音楽が聞き取れなかったんですよ。 

「それはお前の耳が悪いんだろう!」

と言う向きもあるかもしれませんが、私は生まれてこのかた、目よりも耳で音楽を認識してきました。 こんな変わり者ですから、「自分はアスペルガーなのではないか?」と思って、50代の中頃に総合病院で本格的なIQテストを受けた結果、検査員さんから「あなたは聴覚認識が非常に発達していますね」と言われました(ちなみに、アスペルガーとは診断されませんでした)。 小学校の頃はテレビまんがや歌謡曲を聞きよう聞きマネで、シャープやフラットが少ないキーに勝手に移調してピアノで弾きまくっていました。  だから、ピアノのお稽古で聴音・移調・即興演奏・変奏を初めて教わった時に、すでにそれらが得意だったので、先生にわざわざ教えてもらう必要がありませんでした。 その反対に、目で音楽を認識することが苦手で、初見演奏はノロノロ、楽譜を見て間違いなく弾く行為がカラキシだめで、先生からは「作曲するな!」といつも注意されてばかりでした。

 

そのうちに、私は、「ピアノのお稽古でやらされる曲はダサい曲ばかりなのに、テレビから流れてくる音楽は、どうしてカッコイイ曲ばかりなんだろう?」と、子どもながらも漠然と思うようになりました。 また、「帰ってきたウルトラマン」の劇中に、通称「ワンダバ」と呼ばれる劇伴音楽がありますが、それを聴いて再現演奏することが、子どもの頃の私には全くできませんでした。 オフコースの「潮の香り」やEWFの「After the Love Has Gone」もぜんぜん聴き取れませんでした。 坂本龍一の音楽には、曲のどこかで必ず、「どうだ!お前ら素人はついていけないだろう!」と言わんばかりの、絶対に聞き取れない箇所が出てくるのでした。 そんな私にトドメを刺したのは、カシオペアの音楽で、「ASAYAKE」は、 '三度堆積の三和音レベル(笑)' で何とかついていけましたが(ってそれじゃぁ全然ついていけてないでしょ!(笑))、他の曲はただ茫然と聞いているしかありませんでした。 思い起こせば、もっと昔、自分が幼稚園児だったころに、テレビから流れてきてマネして歌っていたテレビまんが主題歌や歌謡曲の、メロディーは聞き取れても、コードはわかったようなわからないような、あやふやな感じでした(今聴いてみると、20世紀の和声が使われている部分は当時わからなかったはずです)。

 

ピアノを10年以上も習わせてもらっているのに、いったいどうして、ピアノの先生が軽蔑するテレビ音楽や大衆音楽の曲が聞き取れないんだろう?と、不思議に思っていましたが、当時から自分でも何となく、その理由がわかっていました。 それは、ピアノのお稽古で、ピアノの先生が軽蔑するテレビ音楽や大衆音楽の曲を教わることが、一度も無かったからです。  

たとえば、先ほどの「帰ってきたウルトラマン」の劇伴の通称「ワンダバ」と、オフコースの「潮の香り」と、EWFの「After the Love Has Gone」に共通する要素って、何だと思います? 

そうです、ツーファイブ(IIまたはii - V)の連続です。 ツーファイブの連続によって、キーがどんどん変わっていくコード進行です。 

このようなコード進行は、I-IV-V-I のクラシックピアノでは殆ど見られませんから、クラシックピアノのレッスンで経験することが、まず無いのです。 

だから、想像がつかなくて、聞き取れないんです。

もうひとつの共通する特徴は、3曲とも、クラシックピアノから格段に進化した和音がふんだんに盛り込まれている点です。「だんご三兄弟」のような「三度堆積の三和音」=「ツェルニー和声(笑)」漬けのクラシックピアノの音楽しか知らない人にとっては、四次元の和声の音楽です。

だから、どんなに必死に聴いても、聞き取れなかった筈です。 

ピアノのお稽古をとおして絶対音感が有ったにもかかわらず、理解できないんです。 

そんな絶対音感なんて、まったく使えないじゃないか! それを自慢することの愚かさよ!と、今、私は強烈に思っています。 

これを読んでいる、ピアノのレッスンに通われている方、あなたのピアノの先生が振りかざしている聴音の教則本を、先生の手から取り上げて、その代わりに、これらの曲を、いきなりですよ!いきなり先生に聞かせて、先生にこれらの曲の聴音をしてもらってください。 そうすれば、あなたのピアノの先生の、本当の音楽の実力がわかります。 ポイントは、先生がこれらの曲の予習をしたり「勉強会」で先生同士で教え合う暇が無いように、いきなり聞かせて聴音させなければなりません。 あなたの先生の本当の音楽力が、否応なく明らかになります。(でもね、このブログは、自称ピアノのプロの皆さんもご覧になっているみたいですから、すでに予習されてしまうことも考えられます。だから、一般的にはマイナーなジャズの曲でも持って行って先生に聴音させてみると、興味深いと思いますよ)

また、

このような、進化した和声によるツーファイブの連続進行を、耳で聴いただけで脳で理解&把握するためには、すべてのキーのすべての音階(とオルタード音)を把握していなければ無理です。

ロ長調は難しい」とか「嬰へ長調はこんなにシャープがあって、とっても難しいんですよ!」なんて平気で「難しい」を連発するようなピアノの先生には、到底無理なレベルの音楽です。 「嬰へ長調変ロ短調も簡単だよ」って言って、「簡単だから君もできるよ」って言ってあげなきゃ、生徒が怯えるだけじゃありませんか。

 

いや、実は、

生徒を脅して萎縮させるのが、'裏目的'なのではありませんか? 生徒を委縮させることで、生徒の可能性の芽を潰せば、自分に音楽の実力が無くても、先生稼業を続けていられますからね。って、想像したくなるもんです。 

実は、ピアノの先生自身が、彼らのピアノの先生に、そうされてきたからなんじゃありませんか?

 

ところで、目まぐるしいツーファイブの連続で、一曲の中でキーがどんどん変わっていく、非常に複雑なオフコースの「潮の香り」を作曲した鈴木康博さんは、音大出身ではありません。 鈴木康博さんは、東工大出身です。 どうして、音大出ではない人が、あんなに複雑な曲を作曲できるのかな? そして、世のピアノの先生方は、オフコースに関して、小田和正さん作曲の曲は(既成の楽譜を再現演奏する)演奏動画は沢山あげていらっしゃいますが、鈴木康博さん作曲の「潮の香り」には、ピタっと手を出しませんね。 どうして? ピアノの先生には難しすぎるのかな?なんて、思ってしまいます。 しかも、鈴木康博さんはギタリストです。 あれ~? ピアノの先生方はいつだって、「ピアノは楽器の中でいちばん偉い!」と言わんばかりの物言いですよね? なのに、ピアノの先生方が(内心)見下しているギターを演奏する人が、ピアノの先生方が手を出さない(本当のところは手を出ない)難曲を作曲なさっている。 不思議ですね~。 もっとも、鈴木康博さんは東工大出身ですからね。 東工大出身のジャズ系ピアニストさんが何人かいらっしゃいますが、まあ、そういうことなんだろうなーと、思っています。

 

音楽産業には、音大出身ではないピアニストがたくさん活躍していて、むしろ、音楽産業の頂点にいるピアニスト/ケンバニストの多くが、非音大出身者や、音大出身の「異端者」なのは、いったい全体どうしてなんでしょう? ちなみに、歌謡曲やポップスは、もっとも難しい音楽ジャンルだと思いますよ。 だって、音楽産業が儲けるために、あらゆるジャンルの最新の音楽要素を融合させて、音楽の叡智を終結して、移り気な大衆の心に刺さる大ヒット曲を制作するんですから、大変なクリエイション(創造)だと思いますよ。

「金儲けのための音楽なんぞは下劣極まりない!」

と思ったあなたは、偽善者ですね。 

だってさ、金儲けにならない類の音楽を生涯追求しているあなたは、

いったいどうやって生き延びられているんですか? 

人間は、生きるためにはお金が必要ですよ。

あなたが生きるためのお金は、いったいどこから湧いてくるんですか?

あなたが生きるためのお金の出どころが、あなたの真の職業ですよ。

家事手伝い?パラサイトシングル?専業主婦/夫?大家さん?地主さん?資産家? それとも、生徒に高額なピアノを「勧めて」キックバックをもらったり、高額な謝礼を要求するなど、ピアノ教師稼業には、妙味のある仕掛けでもあるんでしょうか? 

もっとも、

楽家/ミュージシャンに限らず、芸能家は、ファンという名の支援者(パトロン、旦那)の世話になるものですが、それはそれとして、音楽業界(営利ビジネス)から演奏や作編曲や音楽監督業の仕事を請け負っている人が、本物のプロの音楽家/ミュージシャンですよ。 

 

でも不思議ですね。 2歳3歳からずーっとクラシックピアノを習わせてもらって、音大まで出させてもらった人たちが、毎年何百人も生産されているのに、その人たちは、いったいぜんたい、どこへ消えてしまうのでしょう? 

私は、「音大出身」という肩書きは、「大学の落研出身」と変わらないと思っています。 そもそも、どんな種類の大学や高等教育機関でも、「卒業しました」だけでは、実社会でぜんぜん通用しないのが、世の中の道理です。 「卒業証書」は、実社会に参加するための切符に過ぎないわけで、実社会に飛び込んで、人様の下で働き始めてから、本当の職業修行が始まるわけです。 そして、本当の職業修行とは、「その職業で働いてお金を稼ぎながらスキルを身に着ける」ことです。 決して、「自分でお金を払って」いる間や、いわんや「親にお金を払ってもらって」いる間は、実社会で通用するスキルは絶対に身に付かないんです。 世の中とは、そういうものです。  

「大学の落研出身」と書いたのは、大学の落研出身者が、プロの落語家になろうと師匠に弟子入りする場合、落研仕込みの落語のクセが、真のプロの落語修行のハンデになってしまうからです。 音大を出たのにプロの音楽業界でカスりもしないのは、音大卒業までの間に、ヘンな癖がついてしまっていて、実際のプロの音楽業界でハンデになるからではないでしょうか? だから、プロの仕事ができないのではないでしょうか? ヘンな癖がついてしまっている上に、気の利いたアレンジやアドリブをその場で弾くこともできず、雇い主の歌手の「キーを半音上げて」のリクエストに即座に応えることもできないのに、プライドだけは高い...では、仕事が来ないに決まっています。 だから、子ども相手に、200年も前の著作権切れの、実質的な価値がゼロの音楽の、手垢のつきまくった楽譜を振りかざして教えることしか、しかも、大人に対して歯向かう術(すべ)を持たない、社会的に弱い立場である子どもを威嚇しながら教えることしか、できないんじゃありませんか!?  

 

でも、そういうやり方が、19世紀のヨーロッパにおいて新興中産階級に向けたピアノのお稽古ビジネスが発生して以来、今現在まで存続しているのには、理由があるはずです。 だれかの利益になるから、このような方法がずーっととられ続けているのだと思います。 ピアノのお稽古の手法は、どこをとっても、生徒の上達をできるだけ遅らせる手法ばかりに見えます。 

たとえば: 

① 楽譜どおりに間違いなく弾かなければダメ出し減点 = 生徒に恐怖を植え付け、先生の前で萎縮・緊張させて、生徒の本来の演奏ができないようにさせて、更なるダメ出しの負の連鎖に生徒を陥れる 

② 先生にマル(合格)をもらえるまで、絶対に次の曲に進めない = 教師への心理的な隷属を確立する 

③ 現代では全く使えない「三度堆積の三和音=ツェルニー和声(笑)」による洗脳。 ツェルニーをね、50練習曲まで強要しながらですね、バイエル⇒ブルグミュラーツェルニー⇒バッハ⇒古典派⇒ロマン派...に、10年以上も費やしているうちに、すっかり耳が200年前の聴覚にかたまってしまって、現代の音楽の仕事でぜんぜんつかえない = 生徒の音楽的な成長を著しく阻害する!

④ 「ピアノの発表会」という仕掛けによって、一音も間違えずに完璧に弾くことを要求し、発表会で弾く曲ばかりを機械的に完璧に再現演奏することばかりを数か月間も強要する = 生徒の音楽的多様性を広げて音楽の総合力を養うことを阻害する仕掛けが、発表会。 

⑤ 下手な生徒は、ピアノの発表会に出してもらえない = 恐怖による人心統制。

⑥ ピアノ教師が、音大入学への「門番」になっている = ピアノ教師への絶対的な服従。 

⑦「楽譜依存症」という難病 = 楽譜がないと教えられないピアノ教師に教え込まれた生徒は、「楽譜がないと弾けない人」になってしまう。 楽譜が無いと弾けないのは、音楽の実力が無い証(あかし)。 

⑧ 「クラシック音楽がいちばん難しい音楽であーる!」という誤った刷り込みの大弊害 = 「自分は最も難しい音楽(の楽譜)を弾けるのだから、他のジャンルの音楽など勉強する必要ナシ!」という、見当違いの選民思想を刷り込まれた生徒は、クラシック音楽から大幅に進化した20世紀の音楽に挑戦する動機を完全に持たなくなり、「裸の王様(笑)」になってしまう。

⑨ 「親に大金を払ってもらった後に、払ってもらった大金を零細な仕事で細々と回収していく」という赤字ビジネスモデル。 何百万円~一千万円以上するアコースティックグランドピアノを買ってもらった後に、演奏稼業やピアノ教師業をして、資金を回収していくが、その間は、ビジネスとして利益が出ない赤字の期間。 ピアノ教師業の年間売上って、いったいどれくらいなんですかね? その売上から、教室設営の初期投資やピアノの減価償却費用や調律代や衣装代や会場レンタル料等の経費を差し引くと、年間の利益はどれくらいになります? そこから、食費などの生きるための費用を差し引くと、一年にどれくらい貯金できます? 「老後2000年問題」なんて言われていますけど、自営稼業の雀の涙ほどの国民年金だけでは生きていけませんから、ある程度の貯金は必要と思いますが、貯金できてますか? それとも、親のスネかじりですか? 

 

でも、いいんです。 そういう人たちの親御さんがいないと、世間が困るんです。 そういう人たちの親御さんは、経済における富の移管装置の役割をしています。 「我が子をピアニストに!」と夢見てアコースティックグランドピアノを何台も買い替えてあげる親御さんの資産が、日本の楽器メーカーに流れているのです。 日本の楽器メーカーが儲かれば、新製品の研究開発に資金を投資できて、シンセサイザーやステージピアノを開発して、それが世界中で売れるわけです。 そうすれば、日本の楽器メーカーの企業業績が上がるので、株価が上がり、株主は喜び、日経平均も上がって、ETFやインデックス投信の保有者たちも喜びます。 ありがとう!  

もっとも、我が子を音楽家にしようなんていう親御さんは、自分が保有する資産の運用益だけで、その費用をまかなえるに違いありませんから、私のような庶民がとやかく心配することではありませんよね。 

 

中高年からピアノを始めたい方は、ピアノレッスンに付き物の「恐怖による搾取のサイクル」にハマらないようにすることが、健全なピアノライフの鍵だと、個人的に思います。 

「音大卒のクラシックピアノ教師」に対して、憧れや劣等感を抱く方もあるかもしれませんが、実は、彼らへの憧れや劣等感とは、彼らの親の経済力に対する劣等感であって、彼ら自身のピアノや音楽の真の実力に対する劣等感ではないはずです。 そして、彼らは大抵、彼らの実力ではなく、彼らの親の経済力への劣等感に乗じて、搾取しようとするのです。 彼ら自身がそう思っていなくても、事実そうです。 だから、彼らの言動に、何ともいえない上から目線の尊大な態度がにじみ出るのです。 

彼らは子ども時代にピアノなり音楽なりを、親のお金で習っています。 ですから、大人が日々やらなければならないゴミ出しや炊事洗濯や生きる糧を稼ぐフルタイムの仕事や食べ物の買い物や近所づきあいや自分や子どもの病気の看病などを全くやる必要なく、しかも頭と身体が柔軟な子ども時代に、親のお金で習わせてもらっていたわけです。 ですから、彼らが宣(のたま)うことは、親から独立して所帯を持ち、日々の大人の務めを遂行しながら隙間時間に何とかピアノを弾きたいと思う中高年にとっては、参考にもなりません。 

ですから、自分と同じように、中高年になってから初めてピアノを始めた人たちの背中が、最も参考になるのではないか!と思います。 子どもの頃にピアノを習わせてもらった人にとっても、伝統的なピアノ教育の洗脳を受けずに大人になった人の視点は大変貴重なものです。 目から「ツェルニー和声(大爆笑!)」のウロコをボロボロと落としてくれる、たいへん有難い内容が多くて、私は救われました。 

子ども時代のピアノのお稽古で役立つのは、せいぜい「楽譜が読めること」ぐらいです。 「正しい奏法」なんて、信用に足るものかどうかなんて、わかりません。 そもそも、効率的に弾ける姿勢で弾けている先生は少ないと思いますし、彼らの「正しい演奏動作」は端から見ると非効率で滑稽なものです(なんですか?あの、これみよがしに腕を回旋させて、いかにも「私は上手いでしょ!?」と言わんばかりの、物理学の裏付けもヘッタクレも無い大仰な動きは(爆笑)! 超一流のピアニストさんは、あんな滑稽な動きで弾いていないよ(苦笑)!)。 

むしろ、子ども時代のピアノのお稽古で得るものは、「三度堆積の三和音」=「ツェルニー和声(爆笑!)」に基づくキッツ~いクラシックピアノ訛り、現代の音楽には通用しないお粗末な絶対音感と、そのお粗末な絶対音感を平気で自慢する高慢チキな態度、クラシックから大幅に進化して高度に洗練された現代の音楽を平気で見下せる無知蒙昧な尊大さ、絶対音感の大弊害(による、絶望的な相対音感の無さ!)、シャープやフラットが多いキーに対する恐怖心。それに加えて、ピアノ教師的なダメ出しを自分にし続けるメンタル的な超悪癖です。 

実は、ピアノ教師によるピアノレッスンは、ピアニストを作るものではなく、ピアノ教師を作るものなのです。 だから、ピアノレッスンを長い間受け続けると、重箱の隅をつつくように他人の演奏を厳しく批判審査するばかりか、自分で自分を厳しく批判審査するようになってしまって、自分で自分を威嚇し、脅し、自分の魂に鞭打つようになってしまうのです。 それは、神に逆らい天にツバする、悪魔の所業です。 ナザレのイエスさんは、「天国は、皆さんの心の中にありますよ」と言っています。 あなたの心の中に、ピアノの天国が、有りますか?

 

子どもの頃から何十年もレッスンに通い続けて、いまだにロマン派あたりをうろついている人や、大人になってからピアノを再開してずーっとレッスンに通い続けて「いまだに上達しない」と落ち込んでいる人たちがいますが、私は、「これは、何かの方法が間違っているんだ」と思っています。 彼らは、「ピアノ教育」という名の暗い小箱の中に自分自身を閉じ込めて、狭い暗闇の中で、あっちにぶつかりこっちにぶつかり、ぐるぐる回っているようにも見えます。 たぶん、彼らは、小さな地獄の中に自分を閉じ込めてグルグル回っているほうが居心地が良いから、外の光の世界を見るのを拒み続けているのではないかと、私は思います。 そして、彼らの先生自身も、幼少のみぎりから、「ピアノ教育」という小さな地獄の中でぐるぐる回り続けているのではないかと、私は思います。 天は、自ら助けるものを助ける。 彼らと彼らの先生を、そっとしておいてあげるのが、優しさなんだろうな、と私は思います。  

 

音楽とは、音の周波数を組み合わせることであり、基本的には半音刻みの音程を聴覚と脳ですべて把握して、それらの音程の「心理的な意味」を理解&利用して、聞く人に様々な感情を起こさせるという芸事です。 はっきり言って、それが脳内でできれば、楽譜なんて必要の無い芸事です。 

だから、すべてのキーにおいて、半音刻みの音階を把握し、それぞれの音程の響きと意味を把握していれば、楽譜と睨めっこして何年も何十年も同じところをグルグル回っているようなことにはならないと、私は思います。 楽譜を読めるようになることなんて、「この曲を弾きたい!」と思って夢中で楽しく楽譜を見ながら続けていれば、やがて慣れます。 「正しい演奏姿勢」のためには、超一流のプロから自称プロまで、おびただしい演奏動画を観察することが、最も参考になります。 

実は、ピアノに限らず、音楽のキモは、「すべてのキーにおいて、半音刻みの音階を完璧に把握し、それぞれの音程の響きと意味を把握する」ことなのですが、そうなるまでに、かなりの時間を要します。 日本人が、社会人の日本語を何不自由なく理解できるようになるまでと同じぐらいの年月が、必要なのです。 

ところが、ピアノのレッスンでは、そんなことは見向きもされないでしょう? 当然です。 そんなに長い年月が必要な芸事であることがわかったら、誰も習おうとしないでしょう? だから、「塗り絵」のようになぞって弾ける楽譜でお稽古するのです。 音楽のことがわからなくても、楽譜どおりに弾けば、演奏している体(てい)になりますし、「塗り絵」しかできない「先生」でも「教える」ことができるからです。 もちろん、音楽の大元の実力がぜんぜん無いのに、楽譜どおりに機械的に弾こうとするから、いつまでたっても間違えるし、いつまでたっても暗譜できないし、わけもわからずに丸暗記して暗譜した曲なんて、すぐに忘れてしまうのです。 「先生」のほうは、音楽の大元の実力が無いから、自分が子どものころから練習しつづけた「レパートリー」の楽譜しか教えられなくて、それ以外の曲は、あらかじめ「予習」が必要なんです。 予習をしなければ教えられないような「先生」は、いまだに生徒だ。

 

絵画の世界では、「塗り絵」しかできない人は、プロの画家にはなれません。 

音楽の世界でも「塗り絵演奏」しかできない人は、プロの音楽家にはなれません。

どんな職業でも「塗り絵仕事」しかできないうちは、プロの職業人にはなれません。 

 

本当の音楽の実力が有る人は、「ああ、あの曲?うろ覚えになっちゃったけど、こんなかんじでしょ?」っと、思い出し即興演奏できるはずです。そして、その人の思い出し即興演奏の、和声的な洗練度合いが、その人の音楽の洗練度合いです。「だんご三兄弟」のような「三度堆積の三和音 = ツェルニー和声(大爆笑!)」とダイアトニックスケールしか頭の中に無い人は、どんな曲を思い出し演奏しても、そういう音楽になります。 「ストリートピアノでJポップの〇〇を弾いてみた!」動画をピアノの「先生」やピアノ好きさんたちがあげていますが、ほぼ例外なく「ツェルニー和声(大爆笑!)」+ダイアトニックスケールという、クラシックピアノ訛りがキッツ~い演奏を披露しておられます。 それが、かれらの音楽の洗練度合いです。 一方、いわゆる「二階部分」を完全に把握していて、あらゆるキーでそれを瞬時に演奏できて、しかも、クロマチックスケールに基づいた20世紀の和声をマスターしている人は、音楽的に非常に洗練された「思い出し演奏」をしますが、そういう人は、間違いなくジャズピアノ人さんです。 その人の即興演奏に、その人の音楽語のボキャブラリー水準があからさまに出てしまう。 ただそれだけのことです。 

ピアノ教師の実力は、彼らの即興演奏です。 子どもの頃私が習ったピアノの先生は、即興演奏はおろか、ろくなアレンジはおろか、楽譜を弾いてお手本を示してくれることすらできませんでした。 私は、ピアノの先生から、「200年前の化石音楽の塗り絵」と、「人や自分の演奏を厳しく批判して、なかなかマル(合格)をあげない」自分の魂を痛めつける方法を教わりました。

 

楽器は、その人間脳のアウトプットのツールに過ぎず、楽器の演奏は、ヒトであればできるはずです。だって、楽器は、ヒトが作ったものだから。 指をつかって演奏しますから、指が長くて広範囲に届く人の方が、一度にたくさんの音を出せるので有利ですが、それだけにとどまらないものがあります←と言えるのは、即興演奏や作曲行為です。 片手でオクターブ届くかとどかない60代の人が、35歳で現役ピアニストを引退したリストの曲を楽譜どおりに弾きたい場合は、死に物狂いで何時間も何年間も練習しても、そもそも物理的に届かないうえに、老体に鞭打って無理をして、へバーデン結節にでも何でも患って、老後の生活に支障がでるかもしれません。 でも、それが、その人の納得ずくの人生です。  

 

このように、今までの生涯で心に溜まっていたことを書き出すことによって、ピアノを演奏する姿勢が劇的に良くなって、自分が思うように鍵盤を弾けるようになったことは、最初は驚きでしたが、今は当然のことと思います。 ピアノ演奏はメンタルが決定すると、私は確信しています。

 

 

元の記事:

tokyotoad1.hatenablog.com