前回の記事(下記 ↓ )の続きです:
「エリート」は、
ドリームキラーがいない環境で、生まれ育った人です。
「お前にはできない」「お前は劣っている」などの、
ネガティブな言霊を浴びることがなかったので、
自分をくじかれることがなかったので、
自分を否定されることがなかったので、
まっすぐ、のびのびと、スクスク育った人たちです。
だから、初めて行く場所でも、物怖じしないし、
誰かに劣等感を持つことも、
その裏返しで、誰かに対して威張ることも、
何かを畏れたりすることも、ありません。
彼ら「エリート」は、
自分の人生の主導権を、自分が握っている。
そういう人たちなのです。
前回の記事で、
「エリート」の演奏っていうのは、生まれ育ちからして、もともと「エリート」な人たちが、技の巧拙といった一般ピープルのレベルを超越した次元で演奏するものなんでしょ?
という感じになってしまいましたが、
私は、
「エリート」とは、生まれ育ちとは関係ない、
心の問題である。
と、確信しています。
以下が、私が目撃した、心のエリートたちです:
「心のエリート」①
あるピアノ会で、非常に著名な日本人の作曲家/ミュージシャンのピアノ譜を、譜面に書いてある拍子やリズムにとらわれずに、アンビエント音楽的に弾く人がいました。
「ピアノの演奏に自信あり」みたいな人たちは、「なんだよ、この演奏は? 拍子もリズムもめちゃくちゃじゃないか。 演奏技術の無さをごまかすように弾いているんじゃないの?」みたいな、うんざりした様子で聞いていました。
私も一瞬そう思ったのですが、
「まてよ...」
と思い始めたのです。
というのは、その人は、拍子やリズムではなく、
その作曲家のハーモニーが大好きで、そのハーモニーに心酔して弾いているのだ、
ということが、演奏から感じられてきたからです。
拍子やリズムどおりに弾かずに、アンビエント的に弾くことで、
その作曲家のハーモニーが、より際立って感じられることがある。
(ストリートピアノで活(い)きる弾き方といえます)
逆に、譜面に書いてある拍子やリズムどおりに、
間違えないように、完璧な演奏技術で弾こうとするあまり、
ただ「弾かされている」だけの、
幼稚なチーチーパッパに聞こえることが、大いにある。
(ストリートピアノを「どこでもかまわず発表会!」にしてしまう弾き方です)
その人の弾き方は、ピアノのレッスン的には、アウトでしょう。
だって、楽譜の拍子やリズムを無視して、アンビエントミュージックみたいに弾いているんですから。
しかし同時に、
譜面どおりに間違えないで、指使いやペダリングを含めて、
指導されたとおりの完璧な演奏技術を寸分のミスもなく適用して弾く演奏は、
単なる曲芸ではないのか?
という、
ピアノの先生たちが当然視して、もはや考えることもなくなっている(思考停止状態に陥っている)
根源的な問題の根元をひっくりかえすような問題提起を、
その人の演奏はしている、と思いました。
「メトロノームをつかって、拍子に忠実に弾く練習をしましょうね」
って先生が言ったとしても、
「いえいえ、私は、拍子よりもリズムよりも、このアーティストのハーモニーが大好きで、それをフィーチャーしたくて、あえて拍子やリズムを無視して、アンビエント的にアレンジして弾いているのですよ」
ってその人が言ったら、それでおしまいです。
芸術表現とは、そういうものです。
その人は、確固たる自分の美意識を主体的に持っていて、その美の主体を自分で表現しているのですから。 誰からも文句を言われる筋合いはありません。
主体である表現者が、自分が持っている知見や技術を心のままに応用して、自分の世界観を表現したもの。
それが、芸術表現です。
そういうことに思考が至らずに、その人の演奏を、単なる演奏技術の巧拙でジャッジする人は、芸術の本質を理解していない人です。
そういう人たちが、他人に物を教える立場になると、調教師になってしまうわけです(そして、そういう人たちに限って、自らのレゾンデートルの拠り所としている、その演奏技術が劣っていたからこそ、あるいは、演奏技術だけしか持っていなかったからこそ、プロの演奏家(芸人)として成功できずに、教師の職業に甘んじている人たちだと思われます。)。
「心のエリート」②
①の例よりも、もっと、というか、最も極端な例です。
ある素人イベントで、朗読を披露した人がいました。 彼女は、グランドピアノの前に座って、ピアノでポロリンポロリンと効果音を入れながら、自作のストーリーを朗読しました。
そのピアノがとても良かった。
ホールトーンをつかったり、非伝統的なインターバルのコードを弾いたりしながら、
ピアノをパーカッションのように使って、絶妙な効果音を入れながら、朗読をする。
なおかつ、音が、やわらかくて、楽しい音なのです。
ストーリーの世界観が広がる、素晴らしいパフォーマンスでした。
彼女の出番が終わると、私は、
「現代音楽が好きなんですか?」
と彼女に聞きました。 そしたら、 彼女は、
「現代音楽? 知りません。 私、ピアノを弾いたこともないんですよ」
と言うではありませんか!
びっくり、というか、
逆に、納得、大納得でした。
彼女は、実は、朗読の合いの手を入れる小さな打楽器を、家に忘れてきてしまったので、
急きょ、ステージにあったグランドピアノを使ってみたそうです。
彼女は、グランドピアノを、カスタネット代わりにしただけなのです。
(ここで「よりによってグランドピアノをカスタネット扱いするなんて!」と憤慨したり、「素人はこれだからなぁ」と薄笑いを浮かべたりした人は、楽器の哀れな奴隷になり下がってしまっていますから、人間性の回復のために彼女の爪の垢でも煎じて飲むのがよいかと思います。)
彼女は、グランドピアノに対する気負いが全くゼロ。
だからこそ、のびのびと弾いたのです。
だからこそ、良い音がしたのです。
もし、気負いでガッチガチになっていたら、
ガッチガチの音が出たことでしょう。
また、考えてみれば、ホールトーンスケールは、
ひとまとまりの白鍵3つと、ひとまとまりの黒鍵3つを弾けば、
ホールトーンスケールになりますから、
鍵盤楽器を弾かない人の方が、余計な先入知識が邪魔しないので、鍵盤を一目見るだけで、視覚的に本能的に把握できるかもしれない。
現代音楽で多用される非伝統的なインターバルを使ったコードにしても、
伝統的な西洋音楽の和声を知らなければ、その呪縛の影響下にないわけで、
音楽理論のドグマに縛られることなく、自由自在に鍵盤を叩けるわけです。
これも、音楽教育の根元を揺さぶるものです。
教条的な呪縛から解放されようと20世紀の作曲家たちは、ついに、4分33秒のあいだ「楽器を演奏しない演奏」にまで行き着いてしまった。
「楽器を演奏しない演奏」の作品は、ピアノ演奏の訓練を受けていない人でも、音楽理論を知らなくても、手が自由に動かせなくても、手が無くても、演奏することができる。
だって、楽器に触れないんだから。
究極の、演奏形態です。
プロは、音楽の知識と、楽器操作法を駆使して、人前で演奏することで、お金を稼いでいるのですから。
でも、一方で、忘れてはならないのは、
楽器や歌唱といった音楽の専門教育を受けていない、世界的に知名度の高い音楽家たちが、数多くいることです。
音楽の専門教育を受けた専門家たちのなかは、演奏技術や作曲技術に秀でているだけの人もいて、逆に、専門教育を受けていない著名な音楽家(音楽の総合職)に雇われて指示を受ける身分に甘んじている、「音楽の一般職」になっている人も多いのではないか、と勘ぐります。
これに対して、音楽の専門教育を受けていない音楽家の中に、芸術の進化の最前線を攻めている、アーティスト(芸術家)が見られます。
彼らの武器は、「音楽の専門教育を受けていないこと」なのかもしれません。
音楽の専門教育を受けた人は、往々にして、
そうでない人を、芸術的に無能な者のように見ますが、
実は、そうでない人たちは、音楽の専門教育を受けていないだけで、
芸術的に無能ではありません。
自分の専門分野である電気工学や物理学や数学や生物学や建築学やコンピューター工学などを、
独学した音楽に加えて作曲したり、新たな楽器を作り出したり、あるいは、
コミュニケーション力や統率力によって集団を動かして大規模なパフォーマンスをプロデュースしたりと、
音楽の専門家の固定的なマインドセットの外側から
後頭部をかち割るような作品を繰り出してくる。
彼らは、「出すぎた杭」であり、今現在は、彼らのアートは一般には受け入れられないものも多いかもしれませんが、
後の世で「芸術家」として名前を刻むのは、彼らのほうだと思います。
逆に、デッサン力や、譜面どおりに演奏する技術は、
過去の名作品を再現する技術ですから、
損傷した絵画の復元作業や、記録媒体が無かった時代の作曲家の演奏を譜面に従って再現するための、事務的な技術なのですが、
それを、「芸術的な能力」と誤解している人が多すぎる。
芸術的な能力とは、芸術をゼロから創造する能力です。
誰かが創造した芸術作品を再現する能力は、技術であって、芸術的な能力ではありません。
最近ネットのビジネス記事で読みましたが、
日本の有名な音大を卒業した、ある指揮者が、若いころアメリカに留学していた時、
バーンスタインが、
「N響はひどい。 何せ、指揮者がN響のメンバーである楽器演奏者に対して「ここのこの音は、このように出していただけませんでしょうか?」と、いちいちお伺いを立てなければならないのだからな」
と話して、生徒たちの前でN響(つまりは日本のクラシック音楽界)を笑いものにしたことに、ひどく傷ついたと、書いていましたが、
作品の演奏を統括する指揮者が、どうして演奏者にそれほどまでに気を使わなければならないのか?
って思います。
日本では、作曲家や指揮者よりも、
一介の楽器演奏者のほうが地位が高く扱われている。
という印象を、こんな私の乏しい経験からも感じていたので、
バーンスタインの言うことは、しごくごもっともだと感じます。
私が聞いた話ですが、
ある楽器メーカーが主催する子ども用ピアノ曲の作曲コンクールでは、
最近は、DTMで作曲する作曲家も多いので、
生身の人間では演奏が難しい曲を応募してくることがあるそうです。
それを、コンクールで、実際の子どもが弾いて、曲を披露するそうですが、
その、一介の子どもが、
「自分が弾いた曲は、パソコンで作曲する作曲家の作品だったから、弾きにくいんですよねぇ。今度作るときは、演奏者が弾きやすいような曲をお願いしますよ。」
みたいなことを、上から目線でいっちょまえに言うそうですが、
であれば、作曲家は、今度からは、そんなこまっしゃくれたガキに弾かせることなく、ピアノロイド、ていうんですかね?に演奏させればいいだけのことです。
小林幸子が、ボーカロイド用に作られた歌を歌う仕事を受けたとき、
息継ぎのタイミングがほとんど無い、その曲を、
プロの歌手として、何とか歌おうと、数十小節息継ぎがないパートを必死に練習して、本番で見事に歌い切った、
という記事を読んだとき、
さすが、小林幸子は、プロの歌手だ。
と思いました。
これが、正真正銘のプロです。
そればかりか、小林幸子は、巨大装置のような衣装を製作してステージを演出したり、
ネットへ進出するなど、歌手である自分を果敢にプロデュースしていますから、
小林幸子は、プロのアーティスト(芸術家)です。
それに引き換え、先ほどの薄気味悪い子どもを常日ごろ指導する、ピアノの先生の顔が見てみたいものです。
話はそれましたが、
芸術は、「出すぎた杭」からしか、生まれません。
これは、素人・プロの垣根を超えて、そうです。
「出すぎた杭」は「心のエリート」です。
決して楽器の僕(しもべ)になることなく、
楽器奏法の教条的なムチに怯えるサーカスの子熊でもない。
確固たる美意識を自分の中に持ち、
目の前の楽器を自分流に使いこなす。
自分の美意識の主人。
利権構造や恐怖のモチベーション*の嵐が渦巻くピアノ教育業界という小さな箱の、はるか上空に涼やかに輝く、星です。
(*「恐怖のモチベーション」という言葉は、バジル・クリッツァーさんが、世のピアノ教師について語った文章から引用しました)
では、どうすれば、
「出すぎた杭」=「エリート」になれるか?
エリートとは、
自分が自分の心の主(あるじ)である人。
心が、誰の奴隷にも家畜にもなっていない人です。
橘玲氏の著書に、
アフリカ人とヨーロッパ人とアジア人について誰かが語った文章の引用があったと思います。
引用の内容は:
ヨーロッパ人とアジア人は、自らを家畜化したが、
アフリカ人は、そうなっていない。
それはあたかも、
ヨーロッパ人が自らをダックスフンドに品種改良し、
アジア人が自らをチワワに品種改良したのに対して、
アフリカ人は、犬の原種のまま。 つまり、
オオカミのままでいるのだ。
これは、「アフリカ人は、ヨーロッパ人やアジア人よりも原始的である(から劣っている)」という見方があるようだが、自らをダックスフンドやチワワに改良してしまったヨーロッパ人やアジア人たちよ、いまだにオオカミのままでい続けるアフリカ人に照らして、自らを一体どう思うのか?」
という内容だったと思います。
ご主人様から仕込まれた芸を、夢中で間違いなくやれば、
ご主人様に褒めてもらったり、ご褒美にお菓子をもらって、
尻尾を振りまくって大喜びする、
ダックスフンドやチワワは、
オオカミを前にすると、
キャンと鳴くことすらできなくなる。
ただ、背筋を丸めて、尻尾を後ろ脚の間に隠して、
オオカミの前にひれ伏して、畏れかしこまって見上げるだけ。
かたや、オオカミは、
ダックスフンドやチワワを見ても、
彼らのご主人様を見ても、
「何だあれは?」
ぐらいにしか思わない。
エリートと一般ピープルも、同じです。
一般ピープルが、自らのマインドを奴隷化&家畜化して、それに気づかないまま、劣等感由来の修羅場(バトルフィールド)で人生を送っている、その一方で、
エリートは、自らの主導権を自らが握る、心の主(あるじ)のままでい続けているので、
修羅の世界(バトルフィールド)とは無縁の、別の次元の世界で、超然と生きているのです。
ダックスフンドやチワワよりも、
オオカミのほうが断然いい。
私は、すくなくとも、奴隷の心よりも、
主人の心で、人生を送りたい。
心が奴隷の人は、
心の主導権を他人に明け渡してしまった人です。
判断の主体が自分に無い人です。
ちまたの一般ピープルは、なにかにつけて
「お前はダメだ」「お前は劣っている」という、
ドリームキラーたちからのネガティブな言霊を、真に受けてしまうので、
劣等感を持ったり、
その裏返しの優越感を持ったり、
仕事はおろか、
趣味でも何でもかんでも、バトルにしてしまうわけです。
人生を、修羅場(バトルフィールド)にしてしまっているわけです。
これは、
自分の主導権を、自分が握っていないことの、表れです。
修羅場(バトルフィールド)から上にぬけるためには、まず、
① ネガティブな言霊の発生源(ドリームキラー)を断ち切って、
② 自分が信じる最高級の、本物に囲まれて暮らすこと
だと思います。
これによって、
自分を信じる、自信が生まれ、育ち、
自分でも気がつかないうちに、
自分の主導権を、取り戻している
という状態になる。
心からのエリート になる。
一般ピープルの私も、
① ネガティブな言霊の発生源を断ち切って、
② 自分が信じる最高級の、本物に囲まれて暮らすこと
は、できると思います。
エリートとは、氏や出自や経済力の問題ではない。
エリートとは、心の問題である。
エリートとは、自分が、自分の心の主でいる人のことである。
だから、だれでも、
「心のエリート」になることができる。
それを目指すことで、
運命の車輪が、少しずつ前に回り始める。
これが、イエス・キリストがいうところの:
「天国は、あなた方の心の中にある」
であり、
お釈迦さまがいうところの:
「天上天下唯我独尊」(この宇宙のなかで、自分だけが自分の心の主である)
です。
心の問題だから、一事が万事。
私は、半世紀を生きて、ピアノを再開しようと思った時に、
躊躇しました。
たぶん、自分がいちばんイヤな部分、
今まで、ずっと後回しにしていたことに、
直面しなければならなくなるだろう、と
思ったからです。
そして、実際に、そうなりました。
一事が万事。
たかが趣味、されど趣味。
趣味は、自分のメインの活動である仕事や、人生や、心身の健康を映す鏡です。
ピアノの先生のダメ出しに一喜一憂する人は、
自分のステージの中心に、自分ではなくて、ピアノの先生を置いてしまって、
ご丁寧にも、ピアノの先生にキラキラしたドレスを着せてあげてスポットライトまで浴びせてあげて、
自分は地味な身なりで裏方になってしまっている人。
挙句の果てに、自分が、夢を諦めて汗水たらして働いて稼いだお金を、
アカの他人の夢を輝かせるために、いたずらにつぎ込んでしまっている人。
でも、そういう人は、趣味だけでなく、人生の生活全般にかけて、
自分のステージから自ら降りちゃってる人です。
それは、世界の三大宗教から見て(イスラム教でも、きっとそうだと思います)、
自ら人間を辞めちゃってる人(餓鬼/ガキ)です。
人間としてこの世に生まれたからには、
人間として生きる。
自分の人生のステージで、きらびやかな衣装を着て、
スポットライトを浴びるのは、この私だ!
誰でもない、私が、私の人生のステージのスターになるのだ!
星とは、俗世の比較を超越した存在である。
修羅場に飛び交う声に振り回されることなく、
確固たる自分の美意識を持って、
オオカミのように超然と、表現の道を歩いていく人。
それが、プロ・アマ問わず、
芸術家です。
経済的&物理的な環境を整えながら、
自分の人生のステージに、ただひとつ輝く、
星になろうと思います。
===============
以下は、書き散らしたものですが、記録のためにアップします:
日本の芸術神、岡本太郎氏は、芸術と芸能を区別していました。
芸能では、伝統的な手法をそのまま、自己流にアレンジすることなく、再現することが最優先されます。
それを、プロとして何十年も行ってはじめて、ほんの一握りの一流のプロのうちの、そのまたほんの数人だけが、芸鬼となって積み重ねた自分流のアレンジを、ほんの少しだけ、それまでの伝統に加えることができれば、その人の人生は大成功。 というのが、伝統芸能です。
素人は、気楽なものです。 実は「芸能」の裾野にも届かない、技能の裾野をウロウロしているにもかかわらず、自分がやっていることを「芸術」だと思っている素人が多い。 とくに、自分はプロはだしの芸術愛好家だと思っている人に限って、芸能を見下す。 そういう人の、プロ気取りの技能の披露は、鼻につくので、すぐにわかります。
言われた通りに緊張して弾くのは、ふだんは教条のドグマの鎖を足につながれて、ムチを恐れて人前で玉乗りを披露するサーカスの動物と変わりません。 動物の芸ですから、芸能にすらなっていないので、技能です。
世の中についてよく言われるのが、会社でも組織でも業界でも、
「上位20%の人たちが、他の80%の人たちを牽引して養っている」と言われます。
ある著名な米国企業では、
「①成績トップ10%を幹部候補社員として特別に育成し、②真ん中の80%の社員は①の指示で動く普通の社員としてキープし、③最下位の10%の社員には会社を辞めてもらう」
という人事をしているそうです(西暦2000前後のケーススタディなので、今は違うかもしれませんが)。
実際には、組織でも業界でも、
トップ10%に入れて、ようやく世間様から何とかその道の一人前と認めてもらえる。
トップ5%内にいると、仕事がコンスタントにもらえる実力がある(企業では、順当に昇進していく)。
そして、
トップ2%の人達が、名実ともにトップ集団であり、さらに
トップ1%の人が、企業であれば経営陣に入る資格のある人たち、あるいは技芸の世界では勲章や人間国宝の候補になるような人たちです。
その、トップ1%の中の1割、つまり、1,000人に一人が、実際に経営陣や人間国宝になる、
そのうちの1割、つまり、10,000人に一人が、著名な企業経営者や、後世に名を残す芸術の大名人や、スポーツの名選手になる。
この世はそんなかんじだと思います。
100人いれば、その専門のプロとしてなんとか喰っていけるのが10人、あとの90人は、その専門では喰えないので、副業をしたり、商売替えをするようになるはずです(親の扶養に入り続けるのも、結婚して誰かの扶養に入ることも、プロとして経済的にやっていけてないんですから、商売替えです)。
日本の伝統芸能では「守破離」という言葉があります。 会社員であっても芸人であっても、その道のプロは、トップ10%に入ってはじめて、それまで積み上げた技能の蓄積(守)を使って、ようやく自分らしさを打ち出していける(破)実力が付いた状態。 トップ2%に入るとようやく、自分らしさを名人芸として確立して(離)、世間様から名実ともに名人として認められる、というのが、この世だと思います。
「守」とは、プロに必要な技術の習得プロセスのことです。
「破」とは、習得した技術をもとに、プロとして自分らしさ(芸)を磨いていく、芸能の向上プロセスのことです。
「離」とは、プロとして、自分の芸が芸術の域に到達して、それまでの伝統芸術のさらなる進化に貢献できるレベルのことです。だからこそ、勲章や人間国宝の候補になるのです。
これは、プロの世界のはなしです。
素人は、どうしましょうか?
その道の素人である場合は、とくに、大人になってから、趣味をその道のプロと同じプロセスでやると、まず「守」で終わってしまいます。
というか、「守」の最初の段階で、終わってしまうと思います。
というか、その道のプロだって、9割がたが、「守」のプロセスで一生を終わってしまうのです。
「守」のプロセスで一生を終わってしまうプロの演奏家は、演奏家としては喰っていけないと思うので、いきおい、素人に教える先生の道を模索します。
素人に教える先生になることが最初から目的のプロは、もっとレベルが低い。
このような先生たちは、良くて、演奏技術の習得で終わっている、悪くて、プロとしての演奏技術の習得もできていない、というレベルです。
このような先生たちが、教えられるのは、良くて演奏技術だけです。
しかし、演奏技術は、その楽器を支配できるフィジカルがあって初めて可能になるものです。 ピアノといった大型のアコースティック楽器では、一般的な日本人(小柄で軽い人種)であれば、アスリート並みの筋力と体重を維持することで、ようやくプロとしての演奏が可能と思われますが、手が小さければ、どうすることもできません。
しかも、人間による演奏の技術は、老化と、負の相関関係があります。
演奏技術を自分の存在の拠り所にするあまり、自らの足を(というか、ピアノだから手を)拳銃で撃っちゃっているピアノの先生が、とても多いような気がします。
もちろんこれは、 作曲や即興演奏や編曲やリハモなどのクリエイティブな活動には、当てはまりません。 これらのクリエイティブな活動から、芸術の領域が始まります。 そして、芸術を始めるのに、技術や知識は必須ではありません。
芸術活動に必須の絶対要件は、本人のクリエイティビティです。
tokyotoad