先日(2024年9月16日)、当ブログが110,000アクセスを超えまして、
アクセスのランドマークを突破した際に毎回書いていることですが、異端の奇人変人の当ブログをお読みになった方々の、反面教師なり、笑い者なり、藁(わら)人形なり、何なりにでもなれていれば、私がこの世のお役に立っているというものです。
このブログを始めてから、もう何年経ったか覚えていません。9年目に突入しているのではないか?と思いますが確認していません(←確認しろよ)。
ただ、このブログを書き続けていることによって、ピアノをぼちぼち再開した2015年あたり?を振り返ると、まあ随分と「ピアノ山」の裾野!を登ってきたなぁ!と、ちょっと感無量です。もちろん、裾野から「ピアノ山」の頂上は、雲に覆われて全く見えません!
50代でピアノを再開した私の「ピアノ山」の登り方は、一貫して、「子どもの頃に習ったピアノ教室の手法と、ことごとく真逆の方法を採る!」というものです。 なぜなら、子どもの頃のピアノレッスンで、私が本当にうまくなりたかったことを教わることが、無かったからです。
私の子どもの頃からの夢は、「自分の好きなように、思いどおりに、自分の気持ちをピアノで表現する」というものです。
これについてちゃんと教えてくれる先生はほとんど居ません。 居たとしても、月謝が法外に高額です。 だって、そういう本物の先生は、音楽産業(=音楽の演奏や作編曲によっておカネをちゃんと稼げる産業!)の中で多忙を極める一流のピアニストだから。
そして、私が追い求める夢は、最も簡単であると同時に最も難しい夢だからです。
自分の好きなようにピアノを弾くことは、ピアノに触れたことがない人でも立派にできることを、私は、とある朗読愛好家さんのパフォーマンスで思い知りました。 その人は、グランドピアノをポロンポロンと現代音楽のように鳴らしながら朗読パフォーマンスをしましたが、後で聴いたら、「ピアノ経験が皆無」だったのです。 その時に、私は、ピアノレッスンによる確立されたフォーマットに対する疑念を、いっそう強くしたのです。
何でも「道」と名の付くものは、メビウスの輪です。「熱帯魚飼育は、グッピーに始まってグッピーに終わる」と同じなのです。 西洋音楽を、古典派⇒ロマン派⇒印象派⇒無調やシリアル音楽⇒・・・とたどる、いばらの道の苦行が行き着く頂点の世界は、音楽リテラシーの低い私のような者にとっては、素人芸とほぼ変わらないものに聞こえるかもしれないのです。 もちろん、険しすぎる山の頂点に立ったうえで、フリージャズのプロはフリージャズを演奏しているのだと私は思います。 枠組みをしっかり把握していなければ、枠組みから逸脱したフリーな世界を表現できないからです(二元論的な西洋文化の一端である西洋クラシック音楽の専門家であれば、そんなことぐらい当然知っているはずですから、フリージャズを「好き勝手に弾いているだけの音楽」と嘲笑しないはずです)。 フリージャズ人の中には、クラシック音楽の土台をすっ飛ばして、パラシュートで8合目ぐらいに降り立って、そこから頂点に登った人たちも多いかもしれないけれど、クラシック人のように3度堆積和音に10年も費やすぐらいなら、いきなり8合目に降り立ってそこから始めたほうが人生の時間コストの無駄が大幅に節約できるというものです。
私ふぜいが偉そうに言うことでもないんですが、私の実感は、世のピアノレッスンのフォーマットは、生徒の上達をいちいち阻害する仕掛けが満載なのではないか!ということです。
というのは、私も子どもの頃にクラシックピアノというか、最近はジャズやポップスの楽譜もレッスンで習えるそうですがって、ここが既に私的には「違うでしょーが!」なのであります。
といいますのは、そもそも、ジャズやポップスの楽譜というところで、既に悲しい敗北が予想できるということであります。 ここで私がいう楽譜とは、いわゆるリードシート(コード譜)ではないよ。 クラシックピアノと同様の二段構えの、一音一休符正確に再現せよ!的な楽譜のことですよ。
この楽譜をガン見しながら間違えないように再現演奏することが、ほとんどのピアノ教師が教えるピアノレッスンの内容です。 どうしてかというと、ほとんどのピアノ教師は、楽譜を間違えないように再現演奏することしか教わってこなかったからです。
小学校の先生は、微積分や統計学や4次関数とか全然知らなくても、子ども相手に算数を教えられるよね?それと同じこと。
楽譜を間違えないように再現演奏することを教えるのって、簡単なんですよ。小学校の先生がアンチョコで予習してから教室で教えるよりも、もっと簡単だよ。 だって、アンチョコを隠さないで正々堂々とアンチョコを見ながら生徒に「ここはフォルテで!」とか「ここの指番号は3でしょ!」とかね。しかも、バイエルとかツェルニーとか、手あかのつきまくった、200年も昔の単純な和声の練習曲を、どんな生徒にもいっしょくたに教えればいいんだものね。
このやり方で習えば習うほど、私が目指す、心のままに自由にピアノで表現することが、どんどんどんどんできなくなるんですよ。
その証拠に、ほとんどのピアノの先生が、即興演奏によるピアノ表現が全くできないか、使い古されたパーツを機械的に差しはさんだだけのギクシャクとして没個性的な即興演奏しかできないでしょ?
どうしてそうなってしまうかというと、主流のピアノ教育システムが、音楽をナメているからなんですよ。 音楽をナメていなかったら、音楽オンチのピアノ教師を大量生産することなんてしないでしょ?
そして、真の意味での音楽巧者は、ヘタにピアノ教育を受ける禍(わざわい)から幸いにも縁遠く育ったことで、真の意味のネイティブ音楽語スピーカーに成った、いわゆる音楽産業の頂点で連日連夜引っ張りだこの演奏家たちです。
音楽って、楽譜を間違えずに再現演奏することじゃ、ないんだよ。
音楽って、西洋音楽だったら、「12音の全てにおいて、2つ以上の音の間の幅(つまり音程)を把握し、それらが意味するところを把握して、それらを音楽文法に基づいて自在に組み合わせて音による表現を実現する」ことです。 楽譜を見て間違いなく弾くのは、音楽以前の「塗り絵」です。
「塗り絵」程度だから、「ミスタッチしないように!」なんて緊張してミスタッチするんです。 ミスタッチする理由は、楽譜どおりに弾けないからではなくて、音楽というものの根幹を知らないのに弾こうとするからです。 だから、ほぼすべてのピアノの生徒は、ミスタッチすることを恐れて血眼で楽譜を見ながら狂ったように練習した挙句に、発表会で予定調和のようにミスタッチをやらかすのです。 つまり、ミスタッチをしないための音楽力が、圧倒的に足りていないのです。
「いいえ!楽譜の再現演奏を10年、15年と続けていって初めて、即興演奏のような高度な音楽表現が可能になるのです!」というのはウソだ!
じつは全く逆で、ピアノのレッスンを10年や15年続けて古典派⇒ロマン派⇒印象派を経て、ようやくやらせてもらえるかもらえないかの非古典的和声の作品は、20世紀の音楽からやってったほうが、ぜんぜん近道なんだと私は実感しています。 クラシックピアノ人たちが途方に暮れるような非クラシックの音楽は、私が現在居る場所からやってくと、いとも簡単なんだと、私は実感しています。
バイエル⇒ブルグミュラー⇒ソナチネ⇒... みたいにやっていくと、まるで宇宙人の音楽みたいに、取り付く島もない音楽になってしまうんですよ、クラシックピアノ人にとっては。
その際に、クラシックピアノ人にとっての大きな足かせになるのが、絶対音感だけ!の音感です。
私を音楽的に自由に開放してくれたのは、加齢によって絶対音感がズレたことによって相対音感が育ったからです。
ところが、「楽譜を見てその通りに再現演奏する」ピアノ教育は、絶対音感が育つばかりで、相対音感が育たないんです。 だから、音大のクラシックピアノ科卒だと、ジャズピアノや洗練された和声の即興演奏に、絶望的に苦戦することになるんです。
なんて言うのかなぁ、私が難しいと思っていたことは、向こう側から見ると何のことはない、とっても簡単なことだったんです。
それを実感して、呆れかえっている一方で、現行のピアノレッスンシステムは、日本のピアノメーカーにとってアコースティックグランドピアノの販売台数の安定化のために経済的に必要だとも、私は強く思っています。 日本人として、日本のピアノメーカーの益々の繁栄を願っています。
tokyotoad(とうきょうガマガエル)