以下の記事:
クラシックピアノは天動説、ジャズピアノは地動説。 - ピアノ方丈記
クラシックピアノは天動説、ジャズピアノは地動説 (その②) - ピアノ方丈記
クラシックピアノは天動説、ジャズピアノは地動説 (その②の続き) - ピアノ方丈記
の続き。
これまでの一連の記事で、
ピアノに限らず「クラシック音楽は天動説」「ジャズなど20世紀以降の音楽は地動説」と私が思う理由は:
①「クラシックは固定ド(=絶対音感)の宇宙」vs「ジャズなど20世紀以降の音楽は移動ド(=相対音感)の宇宙」
②「クラシックは I→IV→V→I の宇宙」vs「ジャズなど20世紀以降の音楽は II→V の宇宙」だから。
について書いた。
今回は:
③「クラシックピアノは、楽譜絶対主義」vs「ジャズは、即興演奏絶対主義」だから。
言い換えると:
クラシックピアノ=楽譜絶対主義=視覚情報がエラい音楽
ジャズ=即興演奏絶対主義=聴覚情報がエラい音楽
ところで、音楽って、目で見る芸術だっけ?
そういう側面もあるね。 でなければ、
クラシックピアニストが大げさな動きでピアノを弾いたり、
女性ピアニストが、(本人はお姫様のつもりなんだろうが実際は)「夜の蝶」の恰好でピアノを弾くもんね。
つまり、見世物的な面が非常に大きいのが、実はクラシックピアノなんだよね。
たとえば、寄席に行くとわかるだろうけど、
寄席に出演する落語家って、基本的に地味な着物で髪型も超保守的だ。
新作落語を高座にかける噺家は、新作派の矜持を打ち出すために、着物の色や髪型を派手にしがちだけど、
古典落語の噺家は、ほぼ例外なく、非常に保守的な服装と髪型で高座に上がる。
理由は、彼らは、話芸だけで勝負しているから。 お客さんが話に、つまり聴覚情報に集中できるように、服装や髪型といった視覚的な情報を極力排除して、話芸だけを披露しているんです。
近年増えてきた女性の噺家さんも、地味づくり。 だいたい、前座時代は、男女関係なく、ノーメーク&短髪だからね。男女差ナシ!
これに対して、
奇術などの色物の芸人さんは、基本、衣装が派手だね。あるいは、
太神楽といった曲芸の芸人さんは、紋付袴の姿が多いかな。つまり「ハレ」の服装だね。それに、披露する芸が、皿回しなどの、ハラハラドキドキの、曲芸だもんね。
「ハレ」の装いの芸人さんたちは、「話芸」を披露する噺家さんたちの出演の合間に、「見世物芸」を観客に披露して、観客の耳をしばし休めさせる意味合いもあるだろう。
つまり、平日なのに究極の正装をしたり、平日の昼間に電車やバス(公共交通機関)に乗ると目立ってしかたがないような格好をして不特定多数の人の前で芸を披露するのは、「見世物芸」だ。
ジャズはどうだろうね?
男性は、ジャズ全盛期は、会社員と同じスーツ姿。現代は、良くてスーツ、ちょっとマシでジャケット着用。ふつうは、襟付きシャツ、ポロシャツ、Tシャツの人もいるね。靴は、今どきは、スニーカーも多いね。 もちろん、ファッションとしてスニーカーを履いたり、時には和服姿に雪駄履きの人もいるけれどね。
女性は、男性よりも派手目な服装をするけど、女性のクラシックピアニスト(銀座のホステス)みたいな服装でステージには立たない。
どうして?
ジャズを聴くお客さんは、基本、音楽(聴覚情報)だけを楽しもうとしているからじゃないかな。
「今日は、あのスタンダードナンバーを、どう料理してくれるのか?」
「今日のメンバーで、どんな化学反応を起こしてくれるのか?」
「今日は、どんなアドリブ演奏で、こちらを唸らせてくれるのかな?」
を楽しみに、ライブハウスに足を運ぶんじゃないかな。
そんな環境なのに、いきなり「アゲハ」みたいな恰好でステージに立ったら、それこそ、お客さんの目を奪って耳を聞こえないようにする「目くらまし戦法!」いやちがう「耳くらまし戦法!」とは、姑息な手段を使いやがって!って思われちゃうかも。 もちろん、実力名声ともに確立した人が「自分はミュージシャン。しょせん見世物です」のエンターテイナー魂の矜持として、派手な格好やメイクをする場合もあるだろうけどね。
このように、服装や髪型にも、
クラシックピアノ=楽譜絶対主義=視覚情報がエラい音楽
ジャズ=即興演奏絶対主義=聴覚情報がエラい音楽
が、表れているね。
そして、
クラシックピアノ=楽譜絶対主義=視覚情報がエラい音楽
だからこそ、
初見演奏は得意なのに、聴音や移調が苦手なピアニストやピアノの先生が、たくさん作られてしまっているんだよね。
音楽は、耳で聴く、聴覚情報なのに、
耳が悪い「音楽家」が、たくさんいる。
どうして
おかしいと思わない?
理由は、
クラシックピアノのお稽古を長年受けてピアニストになった彼らは、
聴覚情報をほとんど鍛えられることなく、
楽譜再生マシーンとなるべく、鍛えられてしまったからだ。
しかも、耳が悪いうえに、作曲や編曲ができない。
「楽譜再生マシーンに、作曲能力や編曲能力は不要だ!」
ということだ。
ところが、本来の、クラシックの鍵盤音楽では、
バロック時代は鍵盤奏者が弦楽器にあわせてコードを充てていたし、
「なんとか即興曲」や「ファンタジア」という名前の曲は、
作曲家の即興演奏を譜面に書き起こしたものだ(という動画を視たよ)。
ピアノ協奏曲の「カデンツァ」部分は、もともと、ピアニストが即興演奏を披露するパートだった。
現代のピアニストたちは、作曲家ではなくなってしまった。
「楽譜を再生するマシーンに、作曲能力や編曲能力は不要だ!」
だから、
「ピアニスト」というだけでは、芸術家とはいえない。
「ピアニスト」で良い作品を作る人は、「作曲家」と呼ばれて、芸術家に「出世する」からね。
作曲も編曲も即興演奏もできない「ピアニスト」は、
楽譜再生マシーン&曲芸師(=見世物、ときには、ピアノが弾けるピエロやキャバ嬢)なのだ。
このように書くと激怒するピアニストさんたちがいるかもしれないけれど、
「芸」がつく稼業は、本来、「異形の者たち」の生業なんです、昔から。
スピルバーグ監督の映画「AI」を、以前、テレビで視た時に、「あ!」と思ったのです。
「AI」の少年が、一般社会に居場所を見つけられずに、放浪する、みたいなあらすじだったと思うけど、
「AI」君は、社会に居場所を見つけられないまま彷徨ううちに、巡業サーカス団の幕営地に迷い込む。そこは、サーカスの大テントの裏に、小さな見世物小屋が立ち並ぶ、薄暗い界隈があったと、私は記憶している。 そこで私は「あ!」と思ったのだ。 ギーゼキング演奏のドビュッシーピアノ曲全集のCDに入っている「ミンストレル」という曲についての、CD付属解説書の文章が、思い浮かんだのだ! そのときに、「AI」君が、どのような人々を象徴しているかが、わかったような気がした。
巡業サーカスの幕営地は、定住地を持たない、一般社会に様々な理由で受け入れられなかったり、馴染むことができない、「異形の者たち」が、「見世物興行」を行って日銭を稼いで生きている世界なのだ。これを「芸能界」という。
ヨーロッパの巡業サーカスの幕営地の向こうを張るのが、江戸時代の江戸は両国だ。 現在の相撲の両国国技館の付近、墨田川沿いの火よけ地に、芝居小屋や見世物小屋が立ち並んでいた。 江戸城の天守閣も焼け落ちた明暦の大火(1600年代中期)の後、火災の延焼を防ぐために、墨田川沿いに、基礎のあるちゃんとした建築物を建ててはいけない「火よけ地」が作られた。 「火よけ地」なので、移設可能な仮設小屋しか建設が許されなくなった。 そこに、芝居小屋や見世物小屋がひしめき合う界隈、つまり当時の芸能界ができていったのだ。
今の芸能界も、見世物小屋なのだ。 絶世の美女が女優さんになるでしょ? ある有名女優さんは、高校時代に屋外のグラウンドで体育の授業があると、他の高校の男子学生たちがどういうわけかそれを知っていて、彼女の姿を一目見ようと、校庭のフェンスの外側に鈴なりに群がったという。 それほどまでに、世間を惑わしてしまう美女が、一般企業に入れるわけないでしょう? 「美しすぎて、不採用!」ですよ。 彼女には何の落ち度もないんだけれど、唯一の不幸は、一般社会には美しすぎる、異形の風貌で生まれてきてしまったことだ。 彼女はその後、芸能界に入った時点から、特別扱いの(=水着の仕事といった「脱ぐ仕事」をしなくて良い)女優として、いまも活躍している。 彼女のせいではない。 むしろ、そういう異形の美しい姿に彼女を産んでしまった、彼女の両親の因果だろう。
ミュージシャンもそうだと、私は思う。 生まれつき、聴覚能力が異形レベルに高い人たちしか、芸能界の一隅である音楽産業の演奏仕事で生き残っていないような印象が、私はしている。 そういう人たちが共通して語るのは「子ども時代に、テレビから聞こえてきた流行歌を、手近な楽器でマネして演奏していた」というエピソードだ。 歌手では「聞こえたものをマネして歌っていた」という人が多いだろう。 楽譜が存在しない視聴覚情報を、耳で受信し、それを脳内で音程情報に変換して、弾いたり歌ったりしていたのだ。 生まれながらに「異形の聴覚能力」を持つ人たちが、この世に存在する。 そういう人たちがIQテストを受けたら、聴覚認知能力検査で満点近くを叩きだすだろう。 そして、子どもの頃に既に耳コピ演奏が得意な人は、それ相応に知能指数が高いだろう(例:松任谷正隆氏)。
そういう、異形の聴覚能力を持っている人たちは、「音楽を勉強する」必要が無いんだね。 っていうかね、そもそも、「音楽を勉強しています」って言っていること自体が、音楽の道には進まない方がいいですよ、っていうことなんだと思いますよ。 そもそもね、音楽なんてものは、学校で勉強するようなシロモノではないんですよ。 異形の聴覚能力を持つ子どもはね、聞いただけで、耳コピ演奏できちゃう。 ということは、子どものうちに、複雑に進化した20世紀の音楽を、さいしょのうちは楽譜を見ながら弾いていても、すぐにその音程的な構造が頭にはいっちゃうだろうから、そうなると、聞いただけで複雑な音楽を耳コピ演奏できるようになってしまう。 そして、あとになってから、音楽理論書をひもといたりすると、「あー!このコードって、こういう名前がついていたんだねー!」って、もうそれで、脳内の和声情報と音楽理論がガッチャンコ(一致)して完了! もともと、音楽理論は、音楽の進化の遥か後を追いかけているから、音楽の才能(=異形の聴覚情報&音楽的なオリジナリティ)が無い人が、どんなに音楽理論書と首っ引きで格闘して、丸暗記しても、どんなに聴音や移調を勉強しても、かないっこないんだよ。 そして、聴音や移調が苦手だったら、音楽でおカネを稼ごうなんて思わないほうがいいと、私は思います。 だって、音楽的に凡庸な人がさ、どんなにお金を払ってもらって、どんなに有名な音大を卒業させてもらっても、どんなに留学させてもらっても(留学先の学校は、よっぽどヒドくなければ、受け入れるよ、外貨稼ぎになるから)、先天的に異形の聴覚才能&オリジナリティが備わっている人に、とうてい勝ち目はないからね。 そして、異形の才能に恵まれた人でも、演奏しておカネを稼ぐのは、とても厳しい。 音楽をはじめ、芸術・芸道は、社会の中で「おカネを使う/使わせる」役目だから。
このような、異形の聴覚能力がある人には、音楽理論書もピアノのレッスンも、じつのところ、あまり必要ないんだと思う。 というのは、音楽を作るいちばん最小単位の要素の仕組みをちょっと読んで理解しちゃえば、あとは、音源を聴いて自分で分析したり試行錯誤したりすればいいだけなんだよね。 こういう人たちは、ショパンやリストを聴いただけで耳コピ演奏できちゃうし、「ショパンをショパンたらしめている音楽的な特徴」なんて、誰に教えられていなくても、すぐにわかっちゃうからね。 もちろん、人間だから、耳コピして100%完璧に脳に記憶して一字一句正確に再現演奏することは無理だと思うけど、メロディとコード進行と左手の伴奏パターンぐらいは簡単に耳コピできちゃうから、「だいたいこんな感じでしょ?」って、譜面を見たことも無いのにいいセンで弾けちゃうんだよね。
そして、
楽譜絶対主義者は、楽譜に書かれていない音符を弾くと「間違い!」「ミスタッチ!」と、減点してしまうけど、じつは、あらゆるものの進化は、そんな「間違い!」が、「OK!」として受け入れられ、正当化されていく、過程そのものなんだよね。 だから、ハービーハンコックが、マイルズ・デイビスのバンドのライブ中に、弾いた瞬間に「しまった、間違えた!」と思ってしまったコードが、マイルズから事実上のお墨付きをもらって、おそらく、今や、世界中のジャズピアノ小僧たちが、その部分をわざと、「間違った」ハービーコードで弾き始めていると思うよ。 いままで「間違いであーる!」とされてきた和声が「これもアリ!っていうか、こっちのほうがカッコイイでしょ!」と、受け入れられる過程が、音楽の進化なのだ。
「そんなことはありません! 私たちがクラシックピアノのお稽古でならってきた「ドレミファソラシド」は、永久不変じゃありませんか!」
という声が聞こえてきそうですが、
もうすでにジャズピアノ人は「まだ出てこないのかよ~」とイライラと、シビレを切らしているかとおもう、それを、とうとう書き始めますよ。
それは:
④「クラシックは、ド-レ-ミ-ファ-ソ-ラ-シ-ド(1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8) の宇宙」vs「ジャズなど20世紀以降の音楽は、1, b9, 2, #9, 3, 4, #11, 5, b13, 6, b7, 7, 8 の宇宙」
ということです。
④に続く(はずだ)よ!
ここまで読んでくれた人のなかで、
「それが一体どうだっていうんだ?」
とイライラしている人は、クラシックピアノ向きの人だ。
こんなことをクドクド考えなくたって、
こんなことを全く知らなくたって、つまり、
西洋音楽を組み立てている大元の土台を、何にも理解していなくたって、
大作曲家の楽譜を見てそのとおりに弾けば、クラシックピアノ曲は得意げに弾けちゃうもんね。
子どもの頃の私が、そうだったから。
でもね、私、わかるんだ。
この記事シリーズに、ここまで付きあってくれている人のなかに、
クラシックピアノ人は、もうほとんどいない(=脱落してしまった)ということを。
つづきました:
元の記事: