ピアノ方丈記

音楽の彼岸にて【指の健康寿命を気遣いながら!】シニアのピアノ一人遊びの日々

クラシックピアノは天動説、ジャズピアノは地動説。(その①)

 

2023年11月14日から、以下の記事:

クラシックピアノからジャズピアノへの転向は難しいか? - ピアノ方丈記

に、下記の内容を追記しはじめましたが、それ自体が長文になってきたので、

別の記事として、この記事に書いていきます: 

 

===以下、その部分です===

 

上記の「クラシックは天動説で、ジャズは地動説だ」について、自分のピアノの先生に「どう思いますか?」と聞いてみるといい。 もし自分がジャズピアノを習いたい場合は、「ジャズは地動説だ」と言われてポカ~ンとするようなピアノ教師には、ジャズピアノを習わない方がいいと、私は考えている。 理由は? それをここで書いちゃうと、このブログ記事の内容を安易にパクられるかもしれないと思ったけど、私の個人的な考えなのだから、以下に書いていく。

 

ちまたで教えられているクラシックピアノが天動説で、ジャズピアノを含めたジャズ音楽が地動説であるという、両者が全く異なる宇宙観を有することを、最も顕著に示す現象がある。 それは、幼稚園~小中高とクラシックピアノしか習っていなかった学生が、大学入学と同時に大学のジャズ研の門を叩いたものの瞬く間に辞めてしまってロックやポップスのバンドサークルに入っていくという現象だ。 私がそうだったから、そう思う。 どーして、子供の頃からピアノを習い続けてショパンもリストも弾ける人(わたしは弾け/かないけどさっ(・∀・)b)が、ジャズ研に馴染めないんだろう?って思わない? でも、実際、そうなんだよね。 子どもの頃からピアノを10年以上も習ってきたのに、ジャズ研に居場所を見つけられないというのは、クラシックピアノとジャズピアノがそれぞれ全く別世界であることを物語っている。 あたかも、天動説の宇宙観vs地動説の宇宙観みたいなね。 

それから、18歳ぐらいになって、全く別世界のものを始めようとしても、もう遅すぎるんだよね。 外国語もそうでしょ? 人間ね、18歳までにできなかったことは、18歳以降も、あまりできるようにならないという展望がある。 どうしてって? 18歳までそのことを鬼のように熱中してやってきた人たちには、到底かなわないからです。 

そして、人間は、18歳を過ぎると、「親や社会に守られて学ぶ」フェーズから、「今まで学んだことを使って社会で働いて、自分の価値を社会に貢献して、その見返りとしてお金を受け取る」というフェーズへ移行していくので、呑気に学んでいるヒマなんてなくなるからです。

働きながらかろうじて学べるヒマがあるのは、脳がまだ柔軟で体力も有る20代の間だけだと思った方がいい。でも、20代で学べたとしても、20歳になるまでにそれを鬼のようにやってきた人たちと同じ先頭集団に追いつける可能性は、非常に低い。 

 

同じように、ちまたのクラシックピアノ教師がジャズ音楽に難儀するのは、音大を卒業するまでジャズなんてやろうとしたことすらなかったからなんです。 「クラシックピアノ(というかクラシック音楽)は、幼い子どもの頃からレッスンに通って習わなければ無理!」という言葉は、そっくりそのまま、「ジャズピアノ(というかジャズ音楽)は、幼い子どもの頃とはいわないまでも、少なくとも中学生ぐらいから、ディグって夢中でジャズボキャブラリーを覚えて寝食を忘れるほど弾いていなければ無理!」なのです。 理由は、クラシックもジャズも、機械的なピアノの弾き方よりも、文化的な基盤が、つまり、音楽語の「方言」が、「育ち」が、生まれ育った「お里(さと)」が、弾く人の音楽表現に否応なく出てしまうからです。 同じ種類の楽器でも、音楽が違えば、ぜんぜん別物。 清元(きよもと)の三味線の師匠がさ、津軽三味線の教室に3か月かそこら通っただけで、「津軽三味線も教えますよ!」なんて言うわけが絶対にないでしょ? そんなこと、とても恐ろしくて言えないでしょう? 芸事っていうものは、かくも人生の大半を削る、一生を賭して追求するものでしょ? それがさぁ、クラシックピアノ教師は、わかんないみたいなんだよね。 つまり、芸事の本質をぜんぜん理解することなく、ピアノ教師になっちゃった、というか、なれちゃったんだよね。 西洋クラシック音楽が「借り物の文化」だからなんだろうけど、経済的にもそういうシステムになっているんだよね。 でも、そういうシステムを作ったから、ヤマハやカワイといった日本の楽器メーカーが世界的なブランドになれる原資が集められたのだろうから、全体的には日本にとって良かったと思う。

 

それからね、ピアノの先生が「楽譜が無ければ教えられないわ!」って堂々と言うのもね、やめといたほうがいいと思うんだよね。 だってさ、あなたが日本人だったら、「書いたものを読み上げなければ日本語を話せません!」なんて堂々と言わないでしょ? よくさ、「英語の文章は読めるんだけど、英語を聞いたり話したりするのは苦手なんだよね」なんて言うTOEIC800点台の人っているでしょ? その人は、実質的には「私は英語ができません!」って言っているんです。 だってさ、日本人だったら、日本語を聞く・話す・読む・書くが何不自由なくできて当たり前でしょ? 英語でそれができないんだったら、それは英語ができないことでしょ? だから、「楽譜が無ければ弾けないand教えられない」とか「移調が苦手」とか「聴音が苦手」とか「アドリブ演奏を勉強している」とかって、生徒さんにあまり得意げに言わない方がいいと思う。 そう言うピアノ教師は「私は音楽ができません!」って堂々と言っていることになるから。 それから、「勉強する」っていう言葉だけどさ、日本人のあなたは、生まれてこのかた日本語を勉強したことある? 小学校の国語の授業で正式に勉強するまえに、既に親きょうだいや幼なじみの友だち相手に、お子さま言葉であっても何不自由なくペラペラと話していたでしょ? だから、「勉強中」イコール「できません」ってことなんだよ。 勉強しているようじゃ、一般社会では全然通用しないんだよ、ダメなんだよ。ということが、私が還暦までの社会経験を通して実感したことです。

(だから、社会人になって30歳を超えたら「〇〇を勉強しています」ってあまり声高に言わないほうが自分のためだと、私は思う。私は人知れずコッソリ学校に通ったり家で勉強したりして、仕事に必要なスキルを身に着けていったからね。社会は、30代にもなって「〇〇を勉強中の人」よりも、「〇〇ができる人」にお金を払いたいものだから。←これは、企業の正社員で働く人には当てはまらないかもね。企業の正社員は企業内研修や企業の学費補助などを通して企業に育成してもらえるだろうから。そのかわり、企業にお金を出してもらってスキルやMBAや何やらを得た正社員さんは、企業があなたのために支払ってくれた金額以上の価値を企業に貢献してから退職するのが、人としての道ですよ。) 

 

ピアノに限らず「クラシック音楽は天動説」「ジャズなど20世紀以降の音楽は地動説」と私が思う理由は:

 

①「クラシックは固定ド(=絶対音感)の宇宙」vs「ジャズなど20世紀以降の音楽は移動ド(=相対音感)の宇宙だから:

と、私は、ジャズやフュージョンの本を読んだり耳コピしてマネようと弾いているうちに、ようやく悟りました。 

「天動説」って、「この宇宙は、我々が居るこの大地が中心で、我々の周りを星々がまわっているのだ!」っていう考え方でしょ? これに対して「地動説」とは、「地球を含めて惑星たちは、太陽の周りをまわっている」宇宙観でしょ。 「固定ド=C」という、トニックという地面が動かないクラシック音楽 vs トニックの「ド」がGbにもEにもFにもなる移動ドの宇宙がジャズの世界だ。 だから、クラシックピアノ人は「ド」というと「C」、とくに「C4」を自動的に想像するのに対して、ジャズピアノ人が「ド」と聞いても「何のキーのド?」となるわけです。 ジャズピアノ人にとって「ド」は動くもの。つまり、ジャズは地動説なんです。 

西洋音楽の楽譜が、ハ長調がいちばんわかりやすく書かれる仕組みになっているのも、「固定ド=C」のという揺るぎない不動の地面のせいだと、私は思います。 だから、不動の地面(C)から最も遠い場所にあらせられるF#(Gb)とその平行調が、「最も難しい調」にされてしまうのです。「天(#4)のほうが動け!」っていうことです(だから、「ネコふんじゃった」は、最も難解な天上界の音楽になってしまうのですね)。

西洋音楽史を全く知らないんだけど、「固定ドの世界」から「移動ドの世界」への進化をトリガーしたのが、「純正律」から「平均律」への移行だったのではないだろうか?と、私は何となく想像しています。 「地球上のあらゆる事象が進化するときに、何らかの突拍子もない、ぶっ飛んだ変化が進化を爆発的に促進させる」というのは、この世の常みたいだからです。 たとえば、蒸気機関が発明されたとたんに、それまでの手工業から大規模な工場生産へと、生産性が飛躍的に向上したし、人力や馬力の自転車や馬車から、蒸気機関車や蒸気自動車に変わって、人間の移動速度が劇的に早くなった。 電気やパソコンによって、人間の生活が劇的に便利になったことも然りだ。 

で、音楽に関しては、「平均律」をベースにチューニングできるようになったことで、ひとつの曲の中で自由にキーを変える(転調する)ことができるようになって、音楽の可能性が飛躍的に広がっていったんだと思う。 まず作曲家たちは、大元のキーから、ドミナントサブドミナントやパラレルやレラティブといった、元のキーとの関係が強い他のキーへの転調を試みはじめた。 でも、新しい進化はすぐに陳腐化してしまうから、やがてモーダルインターチェンジを試みるようになった。 でも、新しい進化はすぐに陳腐化してしまうから、作曲家たちは、西洋クラシック音楽の基盤である「機能和声」という音楽の監獄を壊し始めた。 そのころになると、彼らにとって常に神秘の世界であり続ける東洋のインドの音楽のリズムや旋律を取り入れ始めた。 さらにその後は、「間(ま)の日本文化」が知られるところとなって、音楽のハーモニーにも「日本文化の間(ま)」を取り入れるようになっていった、つまり、「音楽的な '何か' を固定して音楽をガンジガラメにしてしまう音」をあえて鳴らさないことによって、曖昧微妙な幽玄の音楽世界を表現しようとし始めたと、私は想像する。 そのころになると、一曲の中でキーを同時に2つ使うことが試されるようになり、そのうちに、「なんでキーに縛られてるの?キーがあると窮屈!」と感じる作曲家たちによって、とうとうキーそのものを感じさせないような音楽が作られ始めた。 西洋音楽史を通して、「ド=C」の概念がどんどん崩れていったのだ。 これが、つまりは「絶対音感から相対音感への移行」こそが音楽の進化である!と私は思ったので、絶対音感を持っていることをことさらに自慢して、相対音感しか持っていない人たちを見下す行為は、シーラカンスが鮪(マグロ)に喧嘩を売っているようなものだなぁ、と感じるようになったのです。 なぜなら、20世紀以降の音楽では、相対音感を持っていると、とても便利!と私は実感したからです。 そして、クラシックピアノ教師がジャズピアノをかじってみたくても全く歯が立たない理由のひとつが、クラシックピアノ教育が固定ド(絶対音感)の基盤の上に成り立っているために、クラシックピアノ教師は「固定ド(絶対音感)」という名の古代の鎖につながれていて、20世紀以降の音楽の大海原を自由に回遊することができないからだと、私は思うからです。

絶対音感があることをことさらに自慢して、相対音感しか持っていない人を見下す行為」は、小さい頃からクラシックピアノを習っていた人に非常によく見られる傾向であると、私は感じています。 子どもの頃の私がそうだったからです。 そして、こういうところも、クラシックピアノは天動説だな~!って思う。「われわれが居るクラシック音楽が世界の中心なのであーる!他の音楽は我々の周りをまわっている矮小なジャンルに過ぎないのであーる!」とか、「我々が演奏するピアノが楽器世界の中心であーる!他の楽器は、我々より小規模の劣った楽器なのであーる!」って、クラシックピアノ人は内心思っているでしょ?

 

続くかな?続くだろうね。 

 

と書いたが、はやくも20231117に以下を加筆: 

私が人生で初めて「絶対音感vs相対音感」を意識したのは、小学校(昭和40年代(1966‐1975))の音楽の授業でした。 音楽の授業で、ある歌のメロディーを「ドレミ読み」で歌わされたときに、幼稚園に入る前からピアノを習わせてもらっていた私はぜんぜん歌えなかったのだ! 理由は、その歌がハ長調ではなかったからです! 多分ヘ長調とかト長調の歌だったと思うが、たとえば、ヘ長調の歌は、移動ドで「F-G-A」のメロディーを「ドレミ」と歌うところを、私は「ファソラ」と歌ってしまうのだ! ピアノを幼少期から習わせてもらったおかげで、まったく「移動ド」で歌うことができなくなっていたのだ! これに対して、ピアノを習ったことの無いクラスメートたちは、当然のように移動ドでメロディーを歌えるのだ! その時私は、子どもながらに「ああ、この子たちは、ピアノを習っていないから、こういうことができるんだな」と、内心優越感に浸ったのだ。 今、還暦を迎える年になってから、私は小学校時代の私に言う!「ちがうよ!勘違いするな、小学校時代の自分!その、まったくもって見当違いの醜悪きわまりない優越感によって、あんたは、大変なハンデを負うことになるんだから!」 

ところが、大変なハンデを負ってしまったことは、表向きにはぜんぜんわからない、というか、その大変なハンデによって、小学校の音楽の成績はいつも5(最高得点)だったのだ。 それは、ピアノを習ったことによって楽譜が読めたということと、小学校の音楽の授業で習う内容はピアノ教室で習得済みだったことに尽きると思う(今は小学校の音楽の授業で和楽器も習うそうだが、日本人として大変に健全な良いことだと私は思う。私が小学校のころは、音楽イコール西洋クラシック音楽というヒドイ有様だったから)。 ところが、世の中がフォーク全盛の頃に中学に入って、ピアノレッスンによって得た私の絶対音感は、フォークギターを弾く際に絶望的なハンデとなることを、私は身をもって知ったのだ。 そう、ギターで使うカポのことだ! 

 つづく。

 

つづきを書きました:

 

元の記事:

tokyotoad1.hatenablog.com