ピアノ方丈記

音楽の彼岸にて【指の健康寿命を気遣いながら!】シニアのピアノ一人遊びの日々

バッハのコラール on YouTube

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自粛期間中に一日1個アップしていたバッハのコラールメロディー(69曲)のお百度詣りが終わりました。

 

さすがYouTube、グローバルだけあって、それなりにいろいろありました。

 

まずは、044番をアップした瞬間に、著作権申請の申し立てを受けたことです。 1750年に没したJ.S.バッハの作品を、しかも私が打ち込んだ楽譜を自動演奏したものに著作権を申請する輩が、世界にはいる、しかも、こっちがアップした瞬間に申し立てるという、アルゴリズムボットがウヨウヨして、動画に勝手に広告を入れ込んでくる、ということを知りました。 

もちろん、YouTubeに対して異議の申し立てをしましたよ。 異議申し立てをしてから、どうなるかな~と静観していたら、期限の1か月がたったところで、著作権の申請は取り下げられ、広告も消えたようです(当たり前だろ! いや、もしかすると、カモにできそうな動画にとりあえず著作権申し立て&広告を勝手に入れ込んで、動画主がビビってそのままにすれば、ずっと広告収入が入ってくる、あるいは、少なくとも動画主が異議申し立てをしてから1か月の間は広告収入が入ってくる、という魂胆でやっているのでしょうか?)。

 

また、私が入力した楽譜に関して「どこで手に入るのか?」と聞いてきたどこかの誰かがいました。 市販の楽譜を教えてあげても、「メールで送ってもらえることは可能か?」みたいなことを書いてきました。 無視してもよかったんですが、トルコ系の名前みたいだったので、むげにはできない、と思い(トルコは、いままで日本を何度も助けてくれたことがあります)、かといってそう簡単にタダではあげたくなかったので、フランス系のフリー楽譜サイトに001の楽譜だけアップして、ゆっくりになるけど順次アップしていくよと伝えたのですが、以来うんともすんとも言ってきません(ふつうは「わかりました、ありがとう」ぐらい返事書いてくるでしょ? 私が作った楽譜を手に入れて一体どうするつもりだったんでしょうかね?)。 002以降については、お礼のメールなりなんなりが帰ってきたら、アップしようかどうか考えます。 ええ、私は誠意は尽くしましたよ。(← 20200605: 感謝の返事がきたので、この部分は消しました)  日本人は、真面目で誠実ですが、真面目で誠実ゆえに、実は厳しいんですよ。 日本の国と日本人は、落語に出てくる「与太郎キャラ」。 「天然のドジごしらえ」なんですが、究極的にはドジではありません。 まあ、日本人にいろいろいるので、トルコ系の人にもいろいろいるってことです。(← 20200605: 感謝の返事がきたので、この部分は消しました) 

 

それにしても、YouTubeは、日本人にとっては、すごいツールですね。

昨今、日本人の著名人たちがYouTubeで、右なり左なり中道なりの持論をガンガンアップしていますが、それが平気でできるのは、YouTubeが日本にとって治外法権だからですね。 そのコインの反対側が、私が経験したようなことですね。 自由な世界は、理論なり言語なりでそれなりに武装して参加しないと、カモろうとする輩がウヨウヨしている。

 

「日本&日本人=与太郎キャラ」については、最近、「対応策をハズしまくった日本がコロナの第一波を封じ込めた摩訶不思議」みたいな報道が海外でなされているみたいですが、日本の事例から海外が学べることはないと思います。 なぜかって、日本は、おそらく縄文時代のころから、いつの時代も、上でドジやっているように見えるのはパペットのようなもので、実際は下々の集団的無意識が司っているからです(意識していたとしても、肝心なことについては決して言葉で明記されたり表現されたりすることはありません)。 この集団的無意識が形になって社会の表面に現れたものが、他人への気配りや、他人に迷惑をかけない行動や、責任感や、日々の責任ある行動の積み重ねの結果として築いた信用を重視する価値観や、清潔意識や、ハイコンテクストな文化などです(日本社会において、権利&責任を有する分別有る全うな大人はこれらへのリテラシーがあるはずで、これらへのリテラシーが無くても笑って許される存在は、子どもと赤ちゃんと動物、それから、日本に物理的にいながら日本語がわからないので日本の社会のコンテクストとは全く無関係に行動する少数の(/であるべき)部外者です(=日本社会の中で分別ある全うな大人としてカウントされない存在だから、周りから笑って許されているんです。どんなに頭が良くたって、偉くたって、お金持ちだって、子どもや赤ちゃんや動物といっしょなんですよ(よその土地でその土地の言葉(や方言)を話せない日本人も同じです)。もっとも、そんな部外者が増えれば、社会が混乱して、マジョリティはもう笑っているどころではありません。どこの国や土地でも、ローカルのコンテクストへの理解が無い者たちがマジョリティになってしまったら、その国/土地はもうその国/土地ではなくなってしまいます))。 そして、日本の集団的無意識は、日本の地理的・地質的・風土的な特徴があってはじめて、何万年もかかって醸成されてきた、日本固有のものなので、外国がすぐにパクれるようなハンディ(お手軽)なものではありません(農耕民族で集団主義の日本人やアジア人が、牧畜民族で個人主義の西洋クラシック音楽の真髄を永遠にパクれないのと同じことです)。 ですから、この集団的無意識へのリテラシー*が無い人たちが、再び観光などで日本にドドーっ押し寄せると、集団的無意識によって守られている安全や衛生や医療や清潔な環境は、大きく損なわることになるでしょう(いや既にそうなっていたでしょ?)。 これから、この集団的無意識が、コロナを「錦の御旗」的なツールとしてフルレバレッジ活用していくのか、いないのか。 日本列島で何万年も生きながらえてきた日本人(混血によって風貌が変わり続ける究極の混血人種)が幾久しく受け継ぎ進化させてきた集団的無意識が、「神」と呼ばれるものなのでしょう。(日本人が外資も含めた国内観光産業の景気の調節弁に安易に使われることを、「神」はどう思い、判断するのか。土地の神様は、いつも手を合わせてくれてお社や周りの環境を塵ひとつなくきれいに保つ努力を昔も今もこれからも日々続けてくれる地元の人たちだけに、そのご利益を与えるのです。言い換えれば、さすが京都の祇園のシステム(一見さんお断りの紹介ベース)は最強だ。 もひとつ言えば、今回の禍(わざわい)は、人間にとっての癌みたいなものです。よく癌を患った人が完全菜食主義になるのは、癌を兵糧攻めにして殲滅させるためだと思います。癌細胞だけでなく、自分の細胞も兵糧攻めにするわけで、自分と癌のどちらが生き残るか、というサバイバル戦であり、異質の癌に栄養を与えないことによって、自分の細胞も相当痛手を負うけれど、癌が滅びた暁には、自分の細胞の集積体である自分は生き残れる。「身体の一部として、身体と運命を共にする覚悟で、身体を健やかに存続させるために働き機能していているものたち」と、「身体に寄生して栄養だけ吸い取るばかりで、身体の寿命や健康のことなんてこれっぽっちも考えていないものたち」を選別するプロセスなのかもしれません)。

 

* 日本の集団的無意識へのリテラシーの有無は、当然ながら、日本語のレベルと相関関係があります。 日本にいながら日本語が話せない人は、このリテラシーがありません。 私は英語圏の国に住んでいたときに、「英語圏の国で公用語の英語でコミュニケーションできないことは、視聴覚障がい者や赤ちゃんと同じなのだ」と思いました。 

人間ならまだよいのですが、言葉が通じないうえに、「郷に入っては郷に従え」というローマ時代から言われている人間としてのわきまえが欠如した、二足歩行の動物もいます。 こういった二足歩行の動物の数が増えると、社会は崩壊します。 

近年、改装したばかりの大手町駅東西線と千代田線の乗り換え地点にあるごみ箱が、夜にどんな阿鼻叫喚な様になっていたか。 よりによって、大手町ですよ、日本の顔ですよ。 大手町駅から地上に出ると、一体何がありますか? どういう会社が集まっていて、どういう人たちが働いていますか? そして、大手門(表門)を構えるお城には、かつて誰が住んでいましたか? そして今はその場所に、一体、誰が住んでいますか? 地下通路が改装される前の古い床は、鏡のようにピカピカでしたよ。 つまり、ハコ(ハード)をいくら新しくしたって、コンテクスト(ソフト)に無知な者/理解しようともしない者たちが増えると、あっと言う間に床はこぼれた飲料やファストフードのシミで汚れて、不潔にやさぐれてしまうのです。 設備をピカピカに磨き上げる東京メトロの清掃スタッフの人たちのキャパをはるかに超えるゴミの量と汚れ。 清掃崩壊。それも、「日本の顔」の場所で。 清掃スタッフの皆さんに同情しますよ。 

その国の公用語を話せても二足歩行の動物になり下がっている輩もいます。 疫病を避けるかのように大急ぎで引っ越し(疎開帰省)したらしい一人暮らしが使っていたと思われる家具などの粗大ごみが、リサイクルのシールが貼られずに道路わきにいくつも放置されている - その後始末をするのは、いったい誰でしょうか? その地域に長く住んでいて、毎朝玄関先や道路を掃除している、真の住民たちです。 浅草にも渋谷にも原宿にも表参道にも六本木にも東京のどこかしこにも、大空襲やバブルの大嵐を生き抜いてその土地に根をはって長く住んでいる住民たちがいます。 

その土地のルールを知らず、その土地の人たちに厄介をかけ尻拭いをさせる、二足歩行の動物のことを、「よそ者(=外人・観光客・田舎者・ムクドリ)」といいます。 そう言われても仕方がないじゃありませんか。 

 

それから、下記の記事で:

リプシー 西欧メディアから、いくつか問い合わせを受けたことがきっかけです。彼らは総じて「日本の新型コロナ対策はなぜ失敗したのか?」を知りたがっていました。しかし、データを見てみると、他国と比較しても日本の新型コロナ対策はうまくいっているように思えたのです。

引用元:「コロナ成功国のジャパンで、なぜ安倍政権は支持率急落?」海外政治学者が注目する“日本のナゾ” | 文春オンライン

とありますが、これに尽きます。 欧米発祥のメディア(報道機関)は、その成り立ちから基本的に反体制ですが、とりわけ、「日本=劣った・遅れた・悪い」という見方を伝統的にとります。 これを、日本のメディアがヒステリックに取り上げて、「ほら、日本はまた、海外のメディアから笑いものにされた、批判を受けた! 恥ずかしいじゃないか!」と書きたてて、それを読んだおおかたの日本人は、それを真に受けて、「恥ずかしい! 何て日本はダメなんだ!」と恥じ入って、「欧米さんたちから褒められたい!」と悲壮に頑張っちゃうのです。 そろそろやめにしてもいいと思います。 私は仕事でFTを読んでいた頃、「FTの記事の見出しや文体や写真(や写真のコラージュ)は、日刊ゲンダイ夕刊フジに似てる!」と思って読んでいました。 それにくらべて、日経(当時)の文体と写真の格調の高かったことよ(その後日経は必死にFTをマネた結果、今は当時の格調はありません)。 JALとBAの共同運航便に乗ったとき、飛行機を降りる際のビジネスクラスの床の散らかり具合といったら!(エコノミー席から降りるとき、既に空っぽになっているビジネスクラスを通った時の、想像を絶する散らかり様!阿鼻叫喚の床を掃除するスチュワーデス(CA)さんたちのご苦労に心から同情しましたよ)。 当時、イギリスのチャンネル4で、イギリス人・アメリカ人・ドイツ人・日本人のグループを、それぞれ別々に、トルコのリゾートホテルに泊まらせて、行動や国民性を観察する、というテレビ番組を見ましたが、トルコのホテルの従業員が「日本人はホテルの部屋を、誰よりも綺麗に使う」と言っていたのを覚えています(その際に好対照として描かれたのが、イギリス人観光客が去った後の部屋の汚さでした)。 だから私は、もはやどこの誰が泊まったかわからないような国内のホテルや旅館に、今更泊まろうとは思わないんです。 

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