おんがくの彼岸(ひがん)

「出すぎた杭」の大人ピアノならではの自由と醍醐味(だいごみ)を楽しむtokyotoadのブログ

独学ピアノに必要だと思ったこと

 

以下は、20210804にアメブロに書いた記事:

 

独学ピアノでは、なるべくたくさんの先達の人たちの教えや経験談を読み聞きして、全体像を把握しようとすることが、とても有益だ、と思います。

 

いや独学ピアノじゃなくても、レッスンを受けていても、幅広い情報ソースから情報を得て、音楽や楽器演奏の全体像をつかもうとすれば、自分の立ち位置や目標を確認&修正することができる、と思います。

 

先達の人たちの教えは、音楽理論の本やインタビュー記事や伝記やメソッド本などに書いてあります。 

それらを読めば読むほど、みんなだいたい同じことを言っているんだなぁ、ということがわかってきます。 

とりあえずはそのあたりを目指すといいんだなぁと、思えます。

 

今は理解できなくても、とりあえず読んでおくと、後々、あぁこのことを言っていたのか!とわかったりします。

そして、量を読んだり聴いたりしているうちに、どの先達さんたちが信じるに足る人たちか、どの先達さんたちが薄っぺらか、ということも、うすらうすらわかってきます。

 

私は、そのようにして、私にとって信用のおけるある先達さんの動画サイトの内容を中核に据えて、それに向かって、なるべく手っ取り早くない、効率の悪い遠回りの方法で、積み上げていこう、と始めたのが、3~4年ぐらい前です。

 

効率が悪く遠回りの方法で積み上げていく方が、時間が経つにつれて徐々に加速度がついて、結果的には最も遠くへ行けるだろう、と、今までの人生経験で感じていたからです。

 

私の人生は、コツコツ遠回りして積み上げるような余裕はありませんでした。 

人生いつも、ドロ縄方式。 ほっ立て小屋でも何でもいいからとりあえずこしらえて、世の中で何とかなる最小の規模を作って、中身はスカスカでも、そんなことは微塵も外には見せずにやっていかないと、どうにもならないと思いましたし、実際そうしなければ、今いる場所には到達しなかったでしょう。 

ハリボテでもいいから、できるだけ進んで、進みながら突貫工事で補強していく方法でした。 

でも、この方法は精神的にキツかった。 

ハリボテの見掛け倒しであることを、自分がいちばん良くわかっているから。 

そして、見掛け倒しじゃなくなるようにという強迫観念がいつも心にのしかっている状態で、補強していたから。 

いつも負け戦を戦っているような気持ちで仕事をし、生きてきました。 

時間をかけてしっかりと基礎を作ってその上に立派な店を建てて、ある程度の積み上げがあってスタートできる人たちを横目で見ながら、うらやましいなぁ、でも、私にはそのラグジュアリーは無いな、と思って生きてきました。 

そして身体を壊しかけたところで、死んだら何にもならないと思って、人生を前向きに明らめた。 

 

だから、今度ばかりは、あまり急がずに、コツコツ遠回りという、ぜいたくなやり方をしたかったのです。 

また、自分のアンテナを信頼していたので、ヘタに先生に習って自分のアンテナが振り回されることを避けました(ピアノ再開当初は習っていましたが、そのうちに習うことの悪い影響を感じ始めたので、やめました)。

 

独学で良いことは、先達さんを複数かかえて、とっかえひっかえすることができることです。 

いろいろな人が、ちょっとずつ違ったやり方を提唱しています。 

その選択肢を自分でコントロールできるのが、独学の良いところです。

 

「先生に習わないと変なクセがつく」といわれますが、そう言う人たちの多くが、先生です。 

独学されたらたまらない立場の人たちです。 

また、当の先生方には変なクセがないのか?という疑問もあります。 

ひどい姿勢やヘンテコな手の動きで弾いているクラシックピアノの先生方やピアノ科の音大生たちの動画が、ワンサカひっかかってくるようなご時世になると、その思いがさらに強くなります。 

 

私が子どもの頃に習った、生徒さんたちを音大に多数送り込んでいた先生は、典型的な「先生弾き」でした。 というよりも、そもそも自分でピアノを弾いて手本をみせることが無かった。 手本を見せる場合は、1~2小節程度、末端の手の動きや指使いを見せるだけ。

私は、個人的には、「先生弾き」のパフォーマンスには花が無いと思っているので、もっぱら一流のプロのピアニスト/キーボーディストの動画やオンラインライブを参考にしています。 一流のプロの演奏は別世界のように違います。

 

一流のプロを参考にすることについて「あなたには100年早いわよ」と言われたら、「100年後はおろか明日にだって私はこの世にいないかもしれないからね」と答えます。 

この世にいるあいだに一流の人たちのコンテンツから学ぶほうが、人生に未練が残らないからです。 

うまく弾けなくたって誰に迷惑をかけるものでもありません。 

バイエル⇒ブルグミュラー⇒...みたいに大昔から変わらないカリキュラムに沿った直線的なレッスンで楽なのは、先生たちです。 

「この曲をやってみたい」と生徒が持ってきた曲が指導カリキュラムに無い曲であった場合、先生は、レッスン時間以外の時間を費やして予習しなければなりません。 

 

でも本当は、生徒がどんな曲を持ってきても余裕で教えられる先生が、本当の先生ではないでしょうか。 

だから、本当の先生は、本当に少ない。  

本当の先生にめぐり遭うまで探し続ける時間コストと金銭コストの余裕は私にはないなぁ、と思ったので、細々と独学をしています。 

 

tokyotoad=おんがくを楽しむピアニスト

 

独学ピアノに必要だと思ったこと | おんがくの細道

 

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このブログ「おんがくの彼岸(ひがん)」は、私 tokyotoad が、中学卒業時に家の経済的な事情で諦めた「自分の思いのままに自由自在に音楽を表現する」という夢の追求を、35年ぶりに再開して、独学で試行錯誤をつづけて、なんとかそのスタート地点に立つまでの過程で考えたことや感じたことを記録したものです。

「おんがくの彼岸(ひがん)」というタイトルは、「人間が叡智を結集して追求したその果てに有る、どのジャンルにも属さないと同時に、あらゆるジャンルでもある、最も進化した究極の音楽が鳴っている場所」、という意味でつけました。 そして、最も進化した究極の音楽が鳴っているその場所には、無音静寂の中に自然界の音(ホワイトノイズ)だけが鳴っているのではないか?と感じます(ジョン・ケイジはそれを表現しようとしたのではなかろうか?)。 西洋クラシック音楽を含めた民族音楽から20世紀の音楽やノイズなどの実験音楽まで、地上のあらゆるジャンルの音楽を一度にすべて鳴らしたら、すべての音の波長が互いにオフセットされるのではないか? 人間が鳴らした音がすべてキャンセルされて無音静寂になったところに、波の音や風の音や虫や鳥や動物の鳴き声が混ざり合いキャンセルされた、花鳥風月のホワイトノイズだけが響いている。 そのとき、前頭葉の理論や方法論で塗り固められた音楽から解き放たれた人間は、自分の身の中のひとつひとつの細胞の原子の振動が起こす生命の波長に、静かに耳を傾けて、自分の存在の原点であり、自分にとって最も大切な音楽である、命の響きを、全身全霊で感じる。 そして、その衝動を感じるままに声をあげ、手を叩き、地面を踏み鳴らし、全身を楽器にして踊る。 そばに落ちていた木の棒を拾い上げて傍らの岩を叩き、ここに、新たな音楽の彼岸(無音静寂)への人間の旅が始まる。

tokyotoadのtoadはガマガエル(ヒキガエル)のことです。昔から東京の都心や郊外に住んでいる、動作がのろくてぎこちない、不器用で地味な動物ですが、ひとたび大きく成長すると、冷やかしにかみついたネコが目を回すほどの、変な毒というかガマの油を皮膚に持っているみたいです。

 

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↑ 不本意にもこんな野暮なことを書かなければならないのは、過去にちまたのピアノの先生方に、この記事の内容をパクったブログ記事を挙げられたことが何度かあったからです。 トホホ...。ピアノの先生さんたちよ、ちったぁ「品格」ってぇもんをお持ちなさいよ...。

 

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