古いブログに書いた記事です:
===20180217===
前回の記事で、1970年代に小学校で大流行した「レインボーマン」の替え歌の解明を試みましたが、
(前回の記事はこちら ↓ )
レインボーマンの替え歌にみる、子どもの音楽&即興能力【その①】 - おんがくの彼岸(ひがん)
論点が多くなって記事の趣旨がブレると思って書かなかったことを今回書こうと思います。
(子どもの替え歌を分析するのは本来は野暮の極みですが、それを承知で最後までやります)
結論からいいますと、この「レインボーマン」の替え歌は、日本の伝統音楽をしっかりと受け継いだ、まさに日本オリジナルの曲であります。
今一度、「レインボーマン」の替え歌の歌詞とメロディーを以下に紹介します:
「レインボーマン」の替え歌:
〽インドの山奥でんでんでんろく豆うまいまメダカの学校は川のな帰ってきたぞ帰ってきたゾウさんゾウさんお鼻が長いのねぇムーミン、こっち向いてるてる坊主てる坊主あした天気にしておくレイーンボーマン!
ホームキーをCメイジャーとして、この①~⑧に音をつけると:
①インドの山奥(で) C AA GG AA (C) 【ハ長調】
➁でんでんでんろく豆うまいま(め) C C CCCAG AAGA (C) 【ハ長調】
③メダカの学校は川のな(か) C D E E D DC D E G A A (G) 【ハ長調】
④帰ってきたぞ帰ってきた(ぞ) GB DDDDD AC EEEE(E) 【ト長調】
⑤ゾウさんゾウさんお鼻が長いの(ね) E C# B E C# B E F# G# B G#G#F#E (F#) 【ホ長調】
⑥ねぇムーミン、こっち向い(て) F# E C# E、 F# E C# (E) 【イ長調】
⑦てるてる坊主てる坊主あした天気にしておく(れ) AAAA A G AAAG E D EE AAGG AAAA(A) 【イ短調】
⑧レイーンボーマン! CC A C A C 【ハ長調】
となります。転調などについては前回書きましたので割愛しまして、このメロディーを「移動ド」でなぞっていくと、
「ファ」が1回しか出てきません(④のCのみ)。
また、「シ」に至っては、1回も出てきません。
つまり、この替え歌は、「ドレミファソラシド」の第4音と第7音「ファとシ」が不在の、日本音楽の伝統「ヨナ抜き」のメロディーになっています。
③メダカの学校、⑤ゾウさん、⑦てるてる坊主は、日本の音階で作られています。また、
➁でん六豆のCMソングは、日本人の耳に馴染みやすくしたんでしょう、シンプルかつキャッチーなコピーにヨナ抜きメロディーを採用しています。
アニメやヒーローものの歌3つについては、歌の全体をみると「ファ」と「シ」が使われています。
(①&⑧レインボーマン、④帰ってきたウルトラマン、⑥ムーミン です)
が、歌そのものの歌い出しのフレーズには「ファとシ」がつかわれていません(替え歌で使われている「④新マン」はサビの部分)。
どうして「レインボーマン」の替え歌が見事なまでに「ヨナ抜き」なのか?「八時だよ!全員集合」の「えんや~こ~らや」を振り付けをマネして歌っているうちにしみ込んだのかはわかりませんが、日本の歌謡曲や特撮ヒーロー主題歌やアニメソングや童謡の歌い出しに、「ヨナ抜き」が多いのかもしれません。結果的に日本固有のメロディーの替え歌になっています。
これが、民族の音です。同じように、1980年代にヒットしたBig Countryの「In a Big Country」も、誰が聞いてもスコットランド出身のバンドであることが想像できてしまいます。自分たちの名刺代わりになる、力強い民族の音です。
Big Country - 'In a Big Country" (VEVO)
また、拍子についてですが、⑤のゾウさんのところで3拍子になりますが、全体的には4拍子です。ところが、歌のつなぎ目で拍子が変則的に変化しています:
➁でんでんでんろく豆うまいま
③めーだーかーーのがっこーは、かーわーのーーな
④かええってきたぞー、かええってきた
⑤ぞーおさん、ぞーおさん、おーーはながながいの
⑥ねぇムーミン、こっちむい
⑦てるてる坊主てる坊主、あーしたてんきにしておく
⑧レイーンボーマン!
と、このハイライト表記の部分は、西洋の楽譜の表記法では2拍ないしは1拍のコマ切れ小節になります(5拍子ととれる箇所もある)。
これは、「炭坑節」など盆踊り大会で流れる歌のリズムです。
「炭坑節」を西洋の楽譜表記で起こすと、拍子が目まぐるしく変化し、複雑な楽譜になってしまいます。
寄席の噺家さんの出囃子にも、きっちりした4拍子で拍子をとると途中で迷子になってしまう曲が多いことからも、日本の伝統的な拍子感覚が西洋のそれよりも複雑であることがわかります(迷子になってしまうということは、明治以降の西洋音楽教育によって、日本人のリズム感が退化してしまったことを意味する)。
そんな伝統的な拍子感覚を意識もせずに、子どもたちは「レインボーマン」の替え歌をこともなげに歌っていました。
しかし、このような拍子感覚は、ピアノで「正しい」音楽を教わると出てこない発想です。なぜなら、ピアノで教わる「正しい」音楽では、曲の拍子が途中で目まぐるしく変化することはないからです(そうなるのは「正しい」西洋音楽が行き詰まって東洋の音楽に突破口を求めた「現代音楽」になってから(っていってももう前世紀の音楽なんだよね))。
また、「①インドの山奥」「➁でんでんでんろく豆うまいま」と、「➁でんろく豆」につなげたところも秀逸です。なぜなら、①と➁で使われている音はどちらも「ド、ラ、ソ」であり、同じ音で流れをキープしリズムの変化だけにとどめて曲の冒頭の展開に一体感を持たせ、③のメダカの学校で、同じキーながらメロディーの幅を伸びやかに広げていくからです。
ところで、子どもたちはどうして「レインボーマン」の主題歌を替え歌の骨格(①と⑧)に使ったのでしょう?
それは、レインボーマンが、当時の特撮ヒーローものとしては異色の内容だった衝撃に加えて、なんといっても「〽インドの山奥で修行して」と歌い出すテーマソングが強烈だったからではないでしょうか。ヨーロッパによう植民地化を防ぐためとはいえ、明治以降なんでも西洋文化を崇拝し、敗戦をあじわい、西洋コンプレックスにまみれて追い付け追い越せと日本中ががむしゃらだったあの頃、アジア文化のルーツであるインドを主人公が我が師と仰ぐ姿を見ることによって、自己否定した東洋のプライドを代弁してもらいたい深層心理が働いたのかもしれません。また当時は日本に第一次ヨガブームが到来したころだったと思います。
そして、この「レインボーマン」の主題歌のメロディーも、大部分が「ヨナ抜き」になっています。しかしながら、Bメロの「〽空にかけたる虹の夢、今さら後へは引けないぞ」の部分だけ意図したかのように「ファとシ」が使われており、しかも:
〽そらーに、、かけ、、たる、、、にーじーのーゆーめーええええー....
〽CCC、、CB、、BB、、、AAAB F GFGA....
と、「夢」のところで「ファとシ」が隣接して使われていて、ドミナント7のコードでもないのにトライトーンに落下するという、異色の展開になっています。
でもこれは、アジア的には何ということもありません。日本でこの「ファとシ」がはいっている音階といえば、沖縄音階です。インドネシアのガムランのPelogスケールにも同じ音階があり、はるか西の彼方にある文化先進地インド(西方浄土と重ねられた)への憧れの奥底で、日本人の源流の偉大なルートである「海上の道」のDNAが深層心理の淵でさざ波だつようです。
「レインボーマン」の替え歌が、当時の小学生に爆発的に流行ったのは、「レインボーマン」の主題歌が、日本人の固有の音楽を反映し、アジア的な歌詞とメロディーが子どもたちの心を揺り動かしたからかもしれません。私たちは、「正しい」音楽としての西洋音楽を教え込まれる一方で、自分たちの文化のメロディーやリズム感をしっかり受けついて歌っていました。これは、小島美子氏が研究されている、子どものわらべ歌や歌謡曲、J-POPにみられる日本固有の音楽表現に符合するものです。
そして、当時の日本の子どもたちが西洋音楽に全く聞く耳を持たなかったというわけでもありません。音楽鑑賞の時間、クラスが一瞬だけ耳を傾けたのは、バッハ作「トッカータとフーガ ニ短調」の冒頭部分でした。なぜなら、当時の子供たちの多くが、テレビを通じてこの曲を始終耳にしていたからです。そのテレビ番組が、まさしく「レインボーマン」でした。悪の首領である死ね死ね団の総帥が、ミッション遂行に失敗した団員を懲戒処刑するシーンで使われていたのが、この曲でした。総帥がアタッシュケースを開けてつまみスイッチをひねると、しくじった団員が抹殺・消滅してしまうという、衝撃的な映像のバックに流れていた「トッカータとフーガ ニ短調」によって、子どもたちは人の世の冷酷さと、生と死の厳粛さを感じていたのです(すくなくとも私はそうだった)。
日本固有の音楽が、戦後の気鋭の作曲家たちによって、20世紀の最先端の西洋音楽とブレンドされて、歌謡曲やニューミュージックやJ-POPといった大衆音楽になり、そのひとつであるアニメソングが、日本製アニメとともに海を超え、世界のアニメ好きの若者たちが演奏する、その動画がYouTubeにアップされていきます。また、J-POPに魅せられた日本人以外の音楽家たちによって、平調子(ひらぢょうし)のスケールが紹介され、メタルギタリストたちが練習し始めたり、世界のどこかにいる人たちが平調子スケールでつくった自作曲をいろいろな楽器で披露する動画がどんどんアップされています。
「レインボーマン」の替え歌を分析するような野暮なことをしたのは、これらの記事をアップした時点では私だけのようですが、これは、クラシック音楽の本家でもない日本の音楽教育やピアノ教育に根強くはびこっているクラシック音楽至上主義やピアノ(とくに生ピアノ)至上主義に対するアンチテーゼの例証としてやったことです。
もとの記事:
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