私が身体ほぐしを始めてから、今年の8月で丸7年が経過しました。
そして、現時点の結論というか実感は、
「継続は力なり。そして継続した力には加速度がついていく」
です。
ちなみに、
「物事には加速度がついていく」というのは、中学生以来の私の人生訓です。
しかしながら、継続して加速度をつけていくためには、
「それを継続できる地盤・環境の確立と維持が不可欠である」
ということも、実感しています。
私が身体ほぐしを7年も続けていられるのは、
7年前に、身体ほぐしを続けるための地盤・環境が整って、
それ以降も、その地盤・環境を維持できる境遇に身を置けているからです。
私は、子供の頃におカネが足りないことで嫌な思いや恥ずかしい思いをすることが多かったので、
とにもかくにも日々の生活でおカネに困らない境遇を確立するために、半生を生きてきました。
その目途が立って、日々の生活に少しゆとりが出てきた頃に、初めて、自分の心身の健康に目を向ける心の余裕が生まれました。
そして、身体ほぐしを始めるとともに、今まで心の中に溜めていたいろいろなことを発散し始めるようになると、少しずつ、肩こりや左の股関節や膝の痛みがやわらいできて、それに伴って、少しずつピアノが弾きやすくなってきました。
東洋占いの高尾義政氏が「しゃがむ」という言葉で表現していたそうですが、人間は、運が開けるまで「機が熟すまで、しゃがんで力を蓄える」期間が必要とのことです。 私の半生は、これに当てはまっています。
明治~昭和戦後にかけて、極貧の少年時代の不屈の努力により、一時日本一の大富豪に成った本多静六氏は、「貧乏は、病気のはしかと同じで、なるべく若い頃にかかっておくのがよい」と書いています。 私の半生は、これに当てはまっています。
本多静六氏より前の時代には、
飢饉に見舞われた江戸後期~幕末に日本の諸藩の財政の立て直しに尽力した、二宮金次郎こと二宮尊徳や、
江戸前期の元禄バブル期の商人の盛衰を記録した『日本永代蔵』を著した井原西鶴や、
彼らにとって古典の名著である、吉田兼好『徒然草』の鎌倉時代や、
このブログの題名に借りた『方丈記』の鴨長明(平安時代末期)がいますが、
先人たちの著作を読むうちに、この世の事象は、昔から令和の現代まで、少しも変わっていないことを、私は知りました。
音楽や芸能芸術は、昔から、お金を浪費する活動です。そして、それに従事する人たちの身分は、それに相応する身分です。これは洋の東西を問いません。
たまたま日本は、明治維新以後、「西洋の文化は日本文化より優れて上級のものである」という考えと、西洋文化に直に触れるためには大変な財力が必要であるため、西洋文化をたしなめる人たちは大金持ちとその子女である、という「社会階層と、実態の生業の階層との「ボタンの掛け違い」が発生してしまったことが、現代の日本社会に「呪い」となって影を落としていますが、西洋の音楽家や楽器演奏家は、日本の白拍子や芸者・幇間や門付きと同じであることを認識すれば、堅気の慎ましいご家庭が、大切に育てたお嬢さんを、一般社会ではとても歩けないような肩や背中や胸元をあらわにした仕事着を着て、どこのだれだかわからないような人様からの放り銭をポツポツ拾うような生業にするようなことはないのだろうな、と思います。 さもなければ、正真正銘の本業の人たちに失礼になるので、堅気は「音楽家ごっこ」「お姫様ごっこ」「ピアニストごっこ」を直ちにやめて、永久就職先を探すか、すくなくとも20代のうちに堅気の職業に転換しないと、中高年になってから「はしか(貧乏)」に罹患する可能性が高まるのではないかと想像します。 齢をとってからの「はしか(貧乏)」は、骨身に染みることでしょう。
一方、自分の芸術の崇高な目的のために一生散財し続けても大丈夫なセーフティーネットを持っている人たちは、どんどんおカネを芸術活動に使うことで富を社会階層の上から下へ移動させて、たくさんの芸術業界者を支援するお役目を与えられているのでしょう。 ただ、「貧すれば鈍する」といいますが、本当にそう実感しています。 どんなに富貴な出自でも、自分の代で生半可な気持ちで道楽職業に就くと、あっという間に身代は泡のように消えていく。 その後に、いつまでも出自を自慢していても実は物乞いタカリの生業に転落してしまった人たちが少なからずいるのではないか? 「貧すれば鈍する」が極まると、布団をかけた人間の干物を指さして「おじいちゃんはまだ生きている!」と真顔で言えるようになる。 人間はお金のために、死んだ祖父の年金を自分がもらい続けるために、やろうと思えば何でもできる。 人間に備わった、その無限の可能性を、どうして真っ当な方向に使わなかったのか? おカネを稼げるのは、体力のある若い頃だけです。 齢をとればとるほど、おカネを稼ぐのは難しくなってきます。 また、世の中には、虎の子の貯金を狙って、美味しいエサがぶら下がった釣り針が辺り一面におびただしく仕掛けられています。 心が弱くて自信の無いカモたちに向かって、彼らを焦らせたり、脅したり、なだめたり、すかしたり、舞上がらせたり、いい気持にさせたり、優越感に浸らせたり、夢を追い続けさせるような、美味しいエサに隠れた釣り針が、そこかしこに仕掛けられています。
幸いにも私は、子供の頃からおカネが無いことで苦労してきたので、それらの釣り針に引っかかることは経済的な死を意味することを身に染みて感じていたため、なるべくひっかからないようにしてきました。 だから、シニアと呼ばれる年齢になってから、体ほぐしを始めて今も継続できていられる、ささやかながらも足りている環境を得られたのだろうと思います。
日本史に名を残す、上述の偉大な先人たちの叡智に加えて、現代の同時代人たちの言葉にも耳を傾けつづけています。 バブル時代の名著『金魂巻』は、出版当時から今に至るまで私の座右の書です。 この世の中途半端な考えを笑いながらロジカルに一刀両断する勝間和代さんは面白い(でも精神的に大変苦しい生業だと推察します)。 それから、ネットのインフルエンサーや「なんとか塾」や「なんとか大学」や「なんとかサロン」の教祖たちが決して言わないけれど絶対に参考にしているに違いない斎藤一人氏の著作を、「自分はピアノが下手だから」と何年もピアノレッスンに通ってはますます自信を失っているばかりの人は何冊か読むと、目を覆っているウロコのようなものが剥がれ落ちるかもしれません。 私は斎藤一人氏の会社の商品を買ったことはありませんが、氏の著作は何冊か買って持っています。 昨今の著名なインフルエンサー教祖たちの「なんとか塾」や「なんとか大学」や「なんとかオンラインサロン」の下敷きは、斎藤一人氏の事業モデルではなかろうか?と思われてなりません。
「目からウロコが落ちる」という表現は、キリスト教の新約聖書の、だれかの福音書に描かれている、(世間からの嫌われ者の)税金取立て人のザーカイ(だったかな?)が、ナザレのイエスに出逢ったときの心境の変化を示す表現ですが、この「目からウロコが落ちる」のを、私は身体ほぐしを始めて7年が経過するあたりで、ピアノを弾いている最中に経験し始めました。
私の場合は、ピアノの演奏中に、椅子に座る姿勢が決まると、目の前にかかっていた霧のような感覚がパッと晴れて、目玉が大きく広がって鍵盤がよく見えるようになり、背骨に沿って気の通りが良くなって、手の指が広がって面白いように100発100中で鍵盤を駆けめぐるようになり、頭の中は晴れやか爽快になるのです。 この感覚を得られない時は、どんなに指練習を必死で悲愴に真剣に努力しても絶対に無駄!ということも実感しています。
ちなみに、この感覚は、ピアノを習っている頃には一度も体験したことのない感覚です。つまり、ピアノのレッスンにおカネを払うことなく、私が何年も自分で試行錯誤するうちに訪れるようになった感覚です。
そして、この感覚を得るために必要だと私が実感していることは、
「とにかく自分をいじめないこと!」
「絶対に自分を卑下しないこと!」
「絶対に自分を下手だと思わないこと!」です。
つまり、
「絶対に自分で自分の可能性を潰さないこと!」です。
なぜかというと、
自分の心を委縮させてしまうと、背筋が曲がって姿勢が悪くなってしまうからです!
背筋が曲がって姿勢が悪くなってしまうと、もう何をどうやっても、あのようには弾けないのです。
つまり、自分の可能性を信じて、自分に自信を持って弾くことが、ピアノ演奏の上達のキモだと私は確信するに至りました。
「根拠のない自信を持つことが大切だ」と、林真理子氏をはじめ沢山の成功者たちが口をそろえて言います。 根拠のない自信を持って試行錯誤しながら続けているうちに、自信の根拠が出来てくるからです。
これを、反対側から見ると、もし私がピアノ教師で、ピアノレッスンのビジネスで安定的におカネを稼ぎたかったら、これを逆手にとことん利用し尽くして、生徒を脅し落胆させ焦らせて、生徒が持っている根拠のない自信の芽を摘み続けて、生徒の姿勢を悪いままにしようとするでしょう。
つまり、あの手この手を使って、
「絶対に生徒に自信を持たせない」
「生徒の自信を奪い続ける」
生徒が永遠に『自分はピアノが下手なんだ、だから永遠にピアノを習わなければいけないんだ』と生徒に思わせるでしょう。
生徒をお客様扱い?とんでもない! 自分のビジネスが続くためには、生徒に自信を持たせてはいけないのです!
生徒が自信をつけても先生が喜んでいられるうちはいいですよ。でも、自信をつけた生徒が自分よりも上手くなってしまったら? 自信をつけた生徒が「次はこの曲をやります」と、自分がとても弾けないような曲を持って来たら? そのとき、ピアノ教師の権威は失墜し、ピアノレッスン業は破綻します。
でも、たとえそうなってしまったとしても、実際の演奏スキルがもともと乏しい/加齢で劣化してしまったピアノ教師には、まだ打つ手があります。 上り坂を駆け上ってくる生徒たちの演奏を雲の上から審査する立場を作ったり、生徒たちが入りたくてしょうがない音楽高等教育機関の入り口の門番の立場を確保すれば、自分の実演が下手クソでも、自分の権威は保たれます。
私がこのように思う理由は、私が子どもの頃に習ったピアノの先生がそうだったからです。 生徒が何とかかき集めてレッスンに持って行った根拠のない自信に即座に水をかけてかき消すのが大変上手な先生だったからです。 発表会では、巻き肩で自信(自分の芯)の無い音を出しながら、何かにおびえるように悲愴にピアノを弾く「上手な生徒」の演奏が続く。 生徒の前でピアノを弾くことが殆どない、生徒に口頭で批判指導するばかりの、そのピアノの先生の商業的な成功を見て、私はそう思っています。
「ピアノ教師をそのように見るなんてヒドイ!」と憤慨するピアノの先生の本当の職業は、ピアノの先生ではないと私は想像します。 だって、どんな職業でも、お金を稼ぐことが目的ですからね。「子どもたちに音楽の楽しさを伝えたい!」と崇高な理念を掲げて、安月謝・安月収・安すぎる年収でだれかの扶養控除の枠内で日々努力されているピアノの先生は、実際は、養ってくれている扶養者が行う慈善活動のチャネルに過ぎないのではないでしょうか。
一方で、「自分はピアノが下手だから」「ピアノを先生に習わないとダメだ」とマントラのように自分に言い聞かせている人たちは、おおかた、「自分は仕事ができないから」「自分はこの資格が無いからダメなんだ」と思っている人たちなのではないでしょうか。 そして、「世間では「副業!副業!」と言っているから、本業がサエない自分は副業に精を出さなければ!」と、そっちの方向にフラフラ行っても、物事は良くなるどころか、どんどん悪くなる一方なのではないか?
というのは、私が若い頃から、このテのことはよく言われていたことで、当の私がそういう世間の風潮にハマって、仕事的に苦労したからです。
1980年代の「アルバイター」や「フリーター」は、「ニート」になりました。 1990年前後から誉めそやされた「派遣社員」は、やがて「年越し派遣村」の炊き出しの列に並ぶようになりました。 だから、2000年代に入ってからの「ノマドワーカー」は、通販の各地のデポで商品を梱包して国内を放浪して生活する、本当のノマドになってしまったのではないか? 「FIRE」に軽はずみに憧れていると、社会からfireされてしまうのではないか?
そして、メディアが誉めそやす ’新しくて先進的な働き方’ を追い求める人たちがいる一方で、そういう人たちが「社畜」と嘲笑する、物言わぬ沢山の人たちは、今日も毎日仕事に励んで、この国の経済を支えて盛り立てている。 そして、サラリーマンとして成功した、世の企業の社長や幹部たちは、副業をしながらその地位に昇りつめたのだろうか?
残念ながら、この世は、人があまりやりたくない仕事や、人があまり住みたくない所があり、それでも、誰かにその仕事をやってもらわないと、誰かにそこに住んでもらわないと、この世は成り立っていかないようにできているのでは? そのために、ある一定数のそういう人たちを生産し続ける必要があるのでは? そのためのいちばん手っ取り早い方法は、人間が実業界で価値の有るスキルを身につける10代~20代に、スキルの習得を阻害する仕掛けを仕組んでおけば、ある一定数の人たちが、実業界で実の有る働きができるためのスキルを得るにはもはや手遅れの年齢になってしまう。 そのためのメカニズムに強制的に入れ込むのは奴隷制度になってしまうから、彼らが自ら進んで希望して喜んで入ってくれるメカニズムが都合が良いだろう、みたいな? 彼らが好きで喜んでそれを選んでそうなったのだから、彼らが不平不満を言うはずがないし、実際に見てごらん、彼らは今の立場や境遇で幸せそうにしているではないか!みたいな? 世の中、家の玄関を出たとたんに、そのような「一時的な快楽の追求や自己実現の夢想を利用した社会淘汰の仕掛け」が待っているのでは? 家の中にいても、スマホやパソコンの中から手招きをしているのでは?
いま目が覚めました。どうやら私は、ほんの少しの間、悪い夢を見ていたようです。悪い夢はすぐに忘れましょう。
話を戻すと、
つまるところ、人生において、仕事でも何でも、ピアノでもどんな趣味でも、同じだと思います。 自分に自信を持って、自分の脳と心と体を総動員して、考えて動いて、希望を持って一歩一歩進んでいく、そして、自分の行いの結果に責任を持つ。 つまり自分の人生を他人任せにして怠けるようなことは、しない。 自分の人生なのだから、自分の人生に責任を持つ。 これに尽きると思います。 また一年、まずは自分の健康のために身体ほぐしを続けていこうと思います。
tokyotoad