去年のいまごろは、The Real Book からコーダルな曲を片っ端から弾いていた。 私の実力からしてモウダルな曲は門前払い!トホホ... orz...なので、とりあえずコーダルな曲だけ!それでも200曲ぐらいあるんだよね。 ここが、クラシックピアノのお稽古と絶望的に違う側面の、ほんの一部だ。
あれから一年たって、ボキャブラリーも増えてきているから、今は、子どもの頃から今までに感動した日本の楽曲を中心に弾きまくっている。 そして、来年は、もっとリッチなボキャブラリーとハーモナイゼイションで弾けるようになっているに違いない。
子どもの頃に習っていたクラシックピアノの練習方法とことごとく真逆のアプローチをとることが、私にとって本当の音楽の追求の王道だ。 私がやりたいことは、全うな音楽ルールに沿って、豊かな音楽ボキャブラリーを使って、自作曲でも歌謡曲でもジャズでも自分が弾きたい曲を自分の心のままに即興演奏することだ。 そのためには、クラシックピアノのお稽古のアプローチでは何度生れ変わっても無理だろう。
何年か前に半年だけ習った、作曲家の先生の言葉が、身に染みてわかるようになってきたよ。 やっぱりね、作曲で見世を張っているベテランは言うことが違う。 音楽を作り出せる作曲家は、音楽を多面的に自分のものにしているからね。 作曲を教えることもしていて、毎年名だたる音大にお弟子さんを送り込んでいる人だが、私にも、ほんとうに得難い金言を言ってくれた。
そうなんだよ、「お稽古」とか「レッスン」とか「練習」とか「訓練」以前の話なんだよ!
そのことが、最近、身に染みてよくわかる。もうね、自分で自分にムチを振って脅して調教しちゃ、ダメなんだ。 ましてや、月謝払ってピアノ教師にムチ打たれたいと思うなんてSMプレイだよ(それが好きな人もいるとはおもうけどね、でも私はゴメンだね)。
「お稽古」や「レッスン」で「教えてもらっている」とか「練習しています」じゃ、ないんだよね。 私が「この人はスゴイ!本物だ!」と思う超一流ミュージシャンも、そうじゃないんだよね。 そういう超一流の人たちって、子どもの頃から「お子様ランチ」の低次元で生きていなかったから、超一流になったんだ。
カネ払って教わっているうちは子どもの領分つまりトーシロの領分なんだ。
カネをもらって仕事しはじめてからが、プロの領分つまり大人の領分だ。 学費を払っ(てもらっ)て教わったことをすぐに人に教えられるわけないでしょ? 自分のスキルを遂行することでカネをもらいながら死にもの狂いで仕事をやって、時にはしくじって辛酸をなめながら、毎日毎日自分を120%出し切って、徐々に世間様から認められる結果を一つ一つ積み上げながら成果を出して実力をつけていき、じゅうぶんな実績を確立してビジネス業界から信用を得ていく七転八倒の苦しさよ。 私も、音楽業界じゃないけど、一般企業でそういうことをしてきたから、痛いほどわかる。
これに対して、
大人の趣味道楽つまり風流の道の場合は、カネ払って芸術家の旦那業をするってこと。
支払ったカネはご報謝ご喜捨。つまりお布施。見返りを求めるようじゃ野暮天。野暮の極みだ。
この頃はね、子どもの頃にもどったように、夢中でピアノを弾いています。 子どもの頃と同じように、耳から入ってきた「これは名曲だ!」と思った音楽を、ピアノやキーボードで再現アレンジ即興演奏する日々。 耳コピを、もはやコードを紙に書きとめることすらしない、というか、もう面倒臭くて書くこともできない。 だから、動画や図書館でCDを借りてきて何回も何回も聴いてメロディーとコードとベースラインとアレンジを覚える。 もうね、譜面でもコードでも、紙に書き留めることすら面倒。 紙とペンを使うぐらいなら、直接脳に書き込むよ。 もっとも、テンションノートが聴きとれるようになってきたからできるようになった。 だから、自分がまだ完全に獲得できていないジャズ・フュージョン・現代音楽そして歌謡曲やポップスに使われる最先端のボキャブラリーについては五線紙に書き留めたりコードを紙に記録したり市販の楽譜を使ったりして獲得していかないとね。 でもそのプロセスが楽しくて仕方がない! 子どもの頃に10年以上も習ったピアノのお稽古で培ったボキャブラリーの貧しさに比べたら、50歳からの独学で何万光年も進んだことは感動しかない! だからこの調子で続けていれば、来年、再来年と、どんどん音楽ができるようになるに違いないんだ!
でも、これは私の個人的なやり方だ。 子どもの頃から「お前は変だ」「お前は変わっている」「お前はダメだ」「お前は脳無しだ」と親をはじめ周りの大人たちから言われ続けて、すっかり自信の無い人生を送ってきて、数年前に「自分はアタマがおかしいのではないか?」と総合病院でIQテストを受けたことが私の大いなる転機になったのだが、私は、正規の検査士による何時間も要するIQテストの結果、聴覚テストが満点で、視覚テストは人並みだったのだ。 つまり、良すぎる聴覚能力と、人並みの視覚能力の間に、有意な差がある。 そして、「視覚的なパターンをそのとおりに再現することが幾分苦手」とのことなのだ。 つまり、楽譜どおりに再現演奏することが苦手な一方で、耳で聴いた音楽を脳に記憶して再現演奏することがすこぶる得意なことが、正式のIQテストで明らかになったのだ。 どおりで、子どもの頃のピアノのレッスンで落ちこぼれるはずだよ。 だって、ピアノの先生は、「楽譜という視覚情報を見て、その通りに再現する演奏行為」の優劣しか判断できない人だったからね。 なんせ、楽譜がないと何にも、ほんとうに、何にも教えられない先生だったんだ。 「えー?どうしてちょっと聴いてすぐにわかんないのかなー?」って私は思っていたけど、聴覚が人並みのピアノというか音楽の先生だったわけだ。 ピアノの先生は聴覚の優秀とは無関係になれることが、これでわかったのだよ。 音楽って、耳で聴くものなのにね、一体全体いつから、音楽は目で読むものになったのだろうか?...って考えてしまうこと自体、私は、クラシック音楽で芽が出るハズが無かったのだ。 でもね、芽が出なくてよかったよ!ほんとうに命拾いしたと、今振り返っても背筋が凍り付くよ! ヘタに芽が出ていたら、庶民の親に無理させて国産ピアノを何台も買い替えさせた挙句に、年収いくら稼げるの?な子ども相手のシミったれたピアノの先生⇒お見合い結婚⇒実質専業主婦⇒実質親の介護ヘルパーへの道をまい進していただろうからね。 そのような人生ルートを取る「ラグジュアリー」を子どもの頃に持てなかったことが結果的に大きく幸いして、今、この歳になって、心の底から、音楽を楽しめる環境を得ている。 それは、いまのところ、生活基盤に差し迫った不安が無いからだ。 そして、とても良い楽器で音楽を楽しめている(音大⇒ピアノの先生になってたら、親の資金がとっくの昔に底をついていたし、ピアノ教師ぐらいにしかなれなかったであろう自分の稼ぐ年収も低すぎて貯金もできなかっただろうから、到底手に入らなかったと確信している。ちなみに、今のピアノは私が社会人になって親から独立して働いて貯めた貯金で買った)。 それもこれも、一般企業社会で地道な社会人生活を地道に続けて、地道に働いて、地道に人生を歩んできたからだ。 「持って生まれてこなかった」一介の庶民にとっては、子どもの頃から一生懸命勉強して少しでも良い名前の大学を卒業して一般企業で地道に一生懸命に全うに働いて少しでも上に出世することが、生活の安定への最短ルートだと思うし、21世紀の今もそれは変わらないと思う。 世間の煽り文句に煽られてはいけないと、正社員・派遣・直接請負・契約社員どで働いた自らの経験から思う。 副業は、あぶれた者が糊口(ここう)をしのぐ手段だと思う。 私が若い頃には「フリーター」、そのあとは自由に働けるという触れ込みの「派遣社員」そして「ノマド」そして「副業」「アフィリエイト」「好きなことで生きていく」と、言葉を変えて宣伝される、若者にとって耳障りのいい言葉の末に在るのは「年越し派遣村で配給の食事を待つ長い列」や、いわゆるドヤ街から「孫請けひ孫受けの業者」に連れられてバスでどこぞやの作業現場で場合によっては命をすり減らすような仕事をやらされる将来であることは、今も昔も変わらないのではなかろうか。 そういう人たちがいないと、世間は困るから、まだ右も左もわからない、純粋で夢みがちな若者の耳に甘い言葉をささやいて、彼らの足を引っ張り下ろそうとしているのではないか。 逆に、子どもの頃から勉強勉強そのまた勉強することは、子どもながらに、楽しい子ども時代を諦めて棄てることだ。子どもでありながら、子どもであることを諦めることだ。 「なんてヒドイ!残酷な!」と言う向きもあるかもしれないが、果たしてそうだろうか? 歴史を通じて、いつの時代でも、世の社会階層の頂点にいる人たちに、ロクな子ども時代があっただろうか? 物心ついた時から社会階層の頂点になるために周りの大人たちから教育訓練されつづける、とても子ども時代とは言いがたい子ども時代を過ごしたに違いない。 子どもの頃の夢、若い頃の夢。 夢。 夢の世界はカネを喰う。 カネを稼げるのは醒めきった現実の世界だけだ。 若い頃に夢を諦めたということは、老後にその夢をとっておくということなのだ。しかも夢は複利で増えていた!ということを、日々実感していて、驚いていると同時にとても嬉しい! もちろん、若い頃の夢を実現して今現在ちゃんとした音楽産業でお金を稼いでいる一流の演奏ミュージシャンたちがいるが、その人たちは、10,000人に一人いるかいないかの超逸材であるうえに、聴覚と創作力が超人レベルに異常に優れていて、子ども時代から時間を忘れてそれに没頭し続けて十分な頭角を現していたうえに、高校卒業ぐらいで大人のプロの業界に飛び込んで、(人によっては音大や音楽専門学校に通いながらも)プロの業界の底辺から七転八倒してもがき苦しんで鯉の滝登りのように音楽業界の現実の厳し過ぎる階段を一段一段這い上がってきた筋金入りのサヴァイヴァーたちだ。 なぜなら、「楽譜どおりに間違いなく弾けます(自信満々!)」なんていう、大学出てもいまだに「ピアノの発表会スタンス」では、まっとうな大人のプロの音楽業界ではロクに相手にされない、つまり、カネを稼げないからだ。 カネを稼げていないにもかかわらず続けられている類のものは、趣味道楽だ。 ボトムラインの「お尻の」収支が「持ち出し」になる「お仕事」なるものは、風流の道だ。 風流の道とは、やればやるほどカネが減っていく活動のことだ。 だから、仕事とは言えないんだよ。 だいたい、クラシック音楽とよばれるものは著作権切れのパブリックドメインコンテンツだ。つまり、原材料の仕入れ値がゼロ! それに、自分ならではのバリューのあるコンテンツを何も付けずに、単になぞって演奏するだけでカネを稼げるのであればスゲー錬金術だよ! そんなものを単に再現演奏するだけでカネを稼ぐためには、演奏家に「ストーリー性」というか、「ペテンの要素」といったら言い過ぎだが、つまり「夢」の要素を付加しなければ、誰も見向きもしないことは、明白だ。 だから、「どこかの漁師が中年以降ピアノを始めてリストを弾けるようになりましたピアニスト」のほうが商業的な価値が高いわけだ。 当然のことだよ。「どこかの音大卒業」なんて掃いて捨てるほどいる陳腐な存在よりもさ、「元漁師」のほうが、希少価値が圧倒的に高くて、しかもストーリーに夢が有るもん。 そのようなピアニストを「何だけしからん!」と憤慨する向きは、自分のことがわかってないんじゃないのかな? 仕入れ値ゼロの、もうこの世では価値の無い、擦り切れたパブリックドメイン作品をステージの上で気の利いたトークをすることも無くもったいつけながら単に複製演奏するだけで「下々(しもじも)を啓蒙してやる」みたいな、世間様から「お呼び出ない」上から目線の教条的な了見で演奏して、いったいいくら稼げてるのかな? 実質的にレッスンプロの身に甘んじ続けて、子どものションベン臭いお遊戯相手でお茶を濁しているか、エロおやじの愛人欲しい願望やババアの妄想恋愛願望にあやかっているのが実情じゃないの?な人たち、たくさんいるでしょ?知ってるよ。 親を泣かせなさんなよ。 今、この時代の先頭の「稼げる」ジャンルに身を置き、自分で音楽を新たに紡ぎ出して、自作のオリジナルコンテンツ作り出して世間に売る能力が無ければ、でなければ、既成の音楽に自分なりのオリジナルのコンテンツを付加してバリューアップさせて売る能力が無ければ、「お旦(おだん)」に気持ちのいい夢を見させてあげて養ってもらう「お相手仕事」しかないもんね、いや「夢を売るお相手仕事」こそがエンターテイナー(芸人)仕事の真骨頂だ。
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